二人の火竜
「魔の系譜」の糧となる瘴気に満ちた「狭間」は、身の内に妖魔の魂を抱え持つロスタルに味方するらしい。
振り下ろした刃が幾度となく血肉を斬り裂いた手応えを確かに感じたにも関わらず、ロスタルの身体に刻んだ傷口が見る間に塞がっていくのを目にして、シグリドは歯を食いしばり眉をひそめた。
……だからなんだ?
そんなことは初めから百も承知だ。諦めるな。最後まで
たとえそれが、勝ち目のない戦さであろうとも。
平衡感覚を狂わせる「狭間」の浮遊感に戸惑いながらも、シグリドは「谷」で培った野生の
勢い余って聖魔の結界に叩きつけられる寸前、ふわりと柔らかい翼に包まれるような感覚と共に、優しく
当の「
……聖魔め、余計な事を。
ロスタルはこちらを見つめるヤムリカを忌々しそうに睨みつけた。
シグリドが「狭間」の感覚を掴んだ頃には、動くたびに激痛が走る程の刀傷を身体中に負わせていた。
傷口から滴り落ちる血が赤い水滴となって辺りを漂い、真珠色の結界を通り抜け、瘴気の糧となって呑み込まれていくのを横目に、シグリドは体勢を低く保ったままロスタルの刃をすり抜けると、崩れ落ちるように膝をついた。
ヴォーデグラムを支えに何とか立ち上がろうともがく黒髪の火竜に近づきながら、ロスタルが
「もう終わりか? まあ、それだけ血を流していては、息をするのも苦痛に違いないが……」
白い妖魔は喉の奥で押し殺すような唸り声を上げると、漆黒の剣を無情に蹴り倒した。
なすすべもなく、ヴォーデグラムが悲鳴を上げて宙に舞った。支えを失って前に倒れ込みながらも、シグリドは咄嗟に「グラム」と叫ぶ。
途端に、宙を漂っていた剣がしなやかな動きで黒い獣に姿を変え、
ヴォーデグラム。聖魔アプサリスが創り出し、「魔の系譜」を一刀両断にする漆黒の剣……またも聖魔の庇護か。
ちっ、と舌打ちをしたロスタルの瞳が冷たい輝きを増し、縦長の瞳孔がより鮮明に浮かび上がった。己よりもはるかに強い「魔」の存在を感じ取ったグラムが、全身の毛を逆立てて身震いする。それでも主のそばを離れようとはしない妖獣に、ロスタルは感服したかのように目を細めると、シグリドのすぐそばで長剣を構え直した。
「かつて、『
力なく伸ばされたシグリドの左腕に、するりと刃を滑らせると、刺青の火竜の身体を切り裂くように血が滴り落ちた。
「『火竜』を腕に刻むようになったのは、スェヴェリス滅亡後の新しい風習だと知っていたか? 戦利品として斬り落してくれ、と言わんばかりの愚かしさ……戦乱の世を知らぬ者の
全身に走る痛みに堪えながら、シグリドは両腕に力を入れて上体を起こそうとした。が、ロスタルの片足に背中を押さえ込まれ、身動き一つ取れない。
ああ、くそっ……ファラン、お前をこの腕に取り戻すと誓ったのに。こんな所で……
「シグリドよ、十年前に教えてやったはずだ。己の非力を思い知れ、とな。お前は決して俺には勝てぬ。ただの人の子であるお前がこの俺を倒せるなどと、本気で思っていたのか?」
シグリドは深くゆっくりと息を吸うと、背中を押しつけている力に全身で抗い、素早く身体を反転させてロスタルの足を払い除けた。そのまま地面を転がるように移動しながら反動をつけて立ち上がりざま、掠れた声を絞り出す。
「ヴォーデグラム!」
黒豹が唸り声を上げ、するりと宙を舞って闇色の剣へと姿を変えて主の手元に滑り込むと、狂喜の歌を高らかに奏で上げ始めた。
シグリドはヴォーデグラムの鋭い切っ先を、忌々し気な表情でこちらを見つめる白い妖魔に向けた。
「……ただの人の子、だからだ。負けると分かっていても人は戦う。運命だと言われようが、限られた命だからこそ、人は最後まで諦めずに足掻き続ける……そんな事さえ忘れたのか、ロスタル? お前とて、元は人の子だろうが!」
声を荒げた途端に、ごぼっと大きな音を立てて血の泡を吐き出すと、目の前が少しずつ霞んでいくのを感じながら、シグリドは愛しい娘の姿を心に想い描いた。
ああ、駄目だ……血を失い過ぎた。
ファラン、何処に居るんだ、ファラン?
お前のそばを決して離れぬと誓ったのに。
ファラン、俺の声が聴こえるか? 聴こえるなら……
ゆっくりと崩れ落ちていく黒髪の若者の姿を、ヤムリカは紅玉の瞳に焼き付けるかのように見つめ続けた。
「魔」の魂を持つとは言え、肉体は未だ人の子の世に属するロスタルを相手に戦うシグリドに手を貸す事は、たとえ聖魔であっても許されない。
こんな時にアプサリスは何をしているのだ? 戦場に混乱を引き起こす「戦さ鴉」が、なぜ姿を現さない? このまま、火竜の子を見殺しにするつもりか?
聖魔の魂が、悲哀と
ヴォーデグラムを手にしたまま血溜りの中に横たわるシグリドの指先が、時折、何かを掴もうとするかのように、ぴくりと動き、胸元が不規則に上下するのを認めて、ロスタルは小さくため息を吐いた。
「……そろそろ、終わりにしよう。『二つ頭』よ、案ずるな、ファランには俺が居る。あれの命が尽きるまで、必ず守り続けると誓おう」
静かに、祈るようにささやくと、ロスタルは長剣を逆手に持ち直し、シグリドの胸元から視線を外さぬまま大きく振りかぶった。
ふと、血の匂いに混じって、ふわり、と甘い香りが辺りに漂い、ロスタルの鼻先をくすぐった。
匂い立つ花の香り……まさか……
その瞬間、白い妖魔は大きく息を呑んで、咄嗟に剣の動きを止めた。
炎の色の巻毛をふわりと揺らしながら、空中から溶け出るように姿を現した癒し手の娘が、血塗れの傭兵に覆いかぶさるようにして手を伸ばし、愛しそうに傷だらけの身体に触れて両腕で優しく抱き起すと、血のこびりついた顔に張りついたままの黒髪を白い指でそっと払い除ける……
その仕草の一つ一つから
シグリドの頰を小さな手で優しく撫でながら、固く閉ざされた両の
きつく結ばれていた唇が、ぴくりと動き、わずかに開かれた
漆黒の剣が手から滑り落ちるのを感じて、シグリドは力を振り絞って掠れた声で獣の名を囁くと、小さな身体にすがりつくように両腕を回して抱きしめた。
娘の青灰色の瞳から、涙が
「私を呼ぶ、あなたの声が聴こえたわ……シグリド、やっと見つけた」
ファランの左腕に、血に染まった布が幾重にも巻かれている事にロスタルは気づいていた。手首から先はどうやら失われているらしい。
大切なものを守るかのように、か細い両腕でシグリドをしっかりと抱きしめている小さな娘は、自分自身が酷い怪我を負っている事など忘れているようだ。
「その左腕……ファラン、誰にやられた?」
愚問だ。
ファランが肌身離さず身に付けていた銀の腕輪。その腕輪にはめ込まれた青い石に異常なまでの執着を見せていたのは……
ザラシュトラ。
ロスタルの中で何かが壊れた。
もう誰にも傷つけさせない。
同じ時間を生きられなくとも、愛する娘が穏やかにその命を終えるまで守り続ければ良いだけだ。
「こちらに来い、ファラン。俺の元に…… 俺と共に生きると誓えば、その男の命は助けてやる」
胸にもたれかかったシグリドの頭がわずかに動き、身体に回された腕に力がこもるのをファランは感じた。大丈夫よ、とささやきながら黒髪に優しく口づけると、白い妖魔をまっすぐ見つめ返した。
「大好きよ、ロスタル。初めて会った時からずっと。でも、この人は……シグリドは、私の魂なの。絶対に手放したりしないわ」
その微笑みの下に強い意志を秘め、指に絡みついた黒髪を愛しそうにそっと撫でると、傷だらけの身体をいたわりながら両腕でしっかり抱きしめて、ファランは遥か彼方にある青い輝きを想い描きながら、「狭間」の果てに心を翔ばした。
***
ファランの姿が「狭間」に吸い込まれるように消え入るのを、タイースは立ち尽くしたまま呆然と見つめていた。
「消えたな……あの娘が『狭間』を自由に行き来する、と聞いてはいても、初めて目にするとなれば、やはり驚いたでしょう」
アルスレッドが同じ方向に顔を向けたまま、タイースに声を掛けながら近づいた。
「ところで、ファランの腕の具合は? 止血は上手く出来たのですか」
平然とした様子のタルトゥスの戦士の声に、タイースは驚きを隠せぬまま答えた。
「え……? ああ、何とか。包帯代わりに巻き付けた布が上手く傷口を圧迫してくれたようで……アルスレッド殿、エスキル様は?」
ああ、と少し気まずそうな声を出して顔をしかめると、アルスレッドは祭壇の方を振り返った。
「あと一歩のところまで追い詰めたつもりだったが……逃げられました。先程の妙な青い光、あれを目にしてから結界の中に居る女王の様子が気になって仕方がなかったようで。エスキル殿が女王にご執心、との噂は本当のようですな」
「……エスキル様が逃げた、と仰るのですか? 戦いを反故にして、ですか?」
何かがおかしい。
血に飢えた獣のごとく争い事を好むあの方が、たかが女一人のために戦いを投げ出すなど考えられない。
腑に落ちない様子で祭壇の前にいる二人に目を向けたタイースが、はぁっと息を呑んだ。
「アルスレッド殿、あれは……!」
結界を喰い破ろうと牙を立てる毒竜の方へ吸い寄せられるように歩いていく女術師の腕を掴んで引き寄せると、エスキルはザラシュトラの顔を覗き込んだ。薄紫色の瞳は目の前に居るエスキルを通り越して、何か見えざるものに向けられているようだ。
「ザラシュトラ……おい、ザラシュトラ!」
両肩を掴んで揺さぶってみる。と、ようやく女術師がぼんやりとこちらを見つめ返した。
「ああ、エスキル様。父上を……父上を見ませんでしたか? 何処にもいないのです。アシェラも……ねえ、何処にいるの、アシェラ? エスキル様、アシェラを見ませんでしたか? 私の使い魔の……」
「……何を言っている、ザラシュトラ?」
困惑した表情で女術師の顔を見つめるエスキルの腕をすり抜けると、結い上げられていたはずの黄金色の髪が解けて背中に流れ落ちるのも気にならぬ様子で、ザラシュトラは結界の片隅に喰いついたままの毒竜の方へ、ふらふらと歩き出した。
あれは……俺の知っているザシュアでも、ザラシュトラでもない。まだ幼く穢れを知らぬ少女のような……
耳を塞ぎたくなるような毒竜の咆哮に、エスキルが我に返ると、今にも手が届きそうな程の距離にいる妖獣にザラシュトラが細く白い腕を伸ばしていた。女術師の威厳に満ちた姿からは程遠く、まるで、愛しいものに向けるような微笑みを浮かべながら。
「ザラシュトラ、止せ! 戻れ、ザラシュトラ!」
駄目だ、間に合わん……心の中で、そう叫びながら、エスキルは矢も楯もたまらず娘の元へと駆け出した。
その声を聴きながら、甘えるような口調で、ザラシュトラがささやいた。
「ああ、アシャラ……こんな所にいたのね、探していたのよ」
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