竜紋の石
女王の心の中に、もう一つの炎が
心の一番奥底で大切に守られ、あまりにも静かに、永遠に消えることのない薄青色の冷たい炎。
ああ、これは……
「ロスタル……ね?」
幼い頃から
ああ、やっぱり……
深い吐息を漏らすと、ファランはしゃがみ込んだまま女術師を見上げた。
「ザシュア様の心が悲鳴をあげています。二つの相容れぬ炎に引き裂かれそうになって……その一つは、ロスタルなのでしょう?」
ザラシュトラは早まる鼓動を悟られまいと、身動きもせずに唇を固く結び、震える両手を強く握りしめた。
「『癒しの箱』如きが、何を言うかと思えば……」
「出逢った頃、ロスタルは『亡国のお姫様を護衛する戦士』だと言っていたわ。てっきり、お伽話の続きだと思っていたのだけれど……ザシュア様、あなたがそのお姫様だったんですね」
ファランは祭壇を覆う結界に目をやって、少しだけ首を傾げた。
「ロスタルは長い間……私と居るよりもずっと長い間、あなたのそばに居たはずです。なのに……どうして? そんなにも激しい想いを心の奥底にしまい込んだまま、どうしてロスタルに告げなかったの? あの人だって、心から自分を愛してくれる誰かが必要だったのに」
ザラシュトラの心が怒りに震え、祭壇の結界が再び大きく揺らいだ。
どうして……だと?
愛しい者への想いと喪失の悲しみで閉ざされてしまったあの人の心には、私が入り込む隙さえなかったというのに。
どんなに近くにいても、あの人の心は決して私と共に在りはしないのに……
ザラシュトラの心が悲鳴を上げ、鋭い音を立てて
「女、それ以上、口にすれば、その首、掻き切るぞ!」
女術師の苦し気な息遣いを感じ取ったエスキルが、怒りも露わに声を荒げる。
「ザラシュトラ! 小娘のつまらぬ
その声で我に返った女術師が、結界を背にして佇むティシュトリアの若者に視線を向けた。途端に、心の奥底がざわりと騒ぐ。
エスキルを見つめる時、必ず感じるこの感覚は、決して不快なものではない。が、ザラシュトラにはそれが何故なのか、理解出来なかった。
この男の身の内に流れるティシュトリアの血が憎かった。父を、アシェラを、故国を滅びの道へと追いやった、忌まわしき王国の血が。
思いがけず手の内に飛び込んできた愚かな獲物を逃すまいと、この身を許しただけだった。ティシュトリア王家の血を絶つための駒に過ぎぬはずだった。それなのに……
どうして、こんなにも心が騒ぐのだろう。
どうして、この人に守られ続けたいなどと思うのだろう。
……ああ、愚かなのは、この私か。
私を愛し守り続けてくれた者達は、とうの昔に「果ての世界」へと旅立った。
これ以上、使い魔達を縛り続ける気力など、もはや残ってはいない。よもや、
ザラシュトラは美しい顔を怒りに歪ませたまま癒し手の娘に近づくと、その細い腕に輝く銀の腕輪に鋭い視線を走らせた。そこに輝く青い石の光に、否応もなく心が騒ぎ立つのを感じた。
天竜が「魂の伴侶」に与えたとされる「竜紋の石」。その青い輝きと共に、聖女ウシュリアは
「ウシュリアの願い石」とも呼ばれるそれを持ってすれば、我が願いも……祖国スェヴェリスを滅ぼした
ロスタルの庇護の元にあっては、この娘に直接手を下すわけにはいかなかったが、あの人が姿を消した今ならば……
あなたがいけないのですよ、ロスタル。愛しい娘を置き去りになどするから。
女術師はゆっくりと振り向きざまに、娘の周りを囲んでいる使い魔の魂に結ばれた呪詛を、ぎりりと縛り上げた。
きゅいっ、と怯えたように鳴き声を上げた一匹の妖獣が、突然、ファランの左腕をがっしりと掴んだ。意思の
「娘よ、その腕輪をこちらに渡せ。そうすれば、あの戦士達の元へ行かせてやろう」
使い魔が力任せに腕輪を外そうと鉤爪を立て、小さな
「痛っ……
女術師が忌々しそうに喉の奥で唸り声を上げる。
「呆れたものだ、本当に何も知らぬのだな……私が欲しいのは古びた腕輪などでなく、そこに在る『竜紋の石』だ。術も使えぬ『癒しの箱』如きが持つものではないのだよ。聖なる天竜の力を秘めたその石は、スェヴェリス王家の血を受け継ぐこの私にこそ相応しい……さあ、早く、その石をこちらに渡せ!」
しがみついて離れない妖獣を振り解こうと、ファランは痛みに耐えつつ腕を大きく動かしながら、頭上に揺らぐ結界の「ほころび」を見上げて必死に目を凝らした。
ああ、あそこ……あの
ファランは結界の外から心配そうにこちらを見つめる戦士達の姿を目に焼きつけると、今にも掴みかかろうとする女王の手をすり抜けて、懐かしい友の元へと心を翔ばした。
突然、目の前の空間から現れ出た娘が、腕にしがみつく使い魔を右手で叩きながら、必死に払い落とそうと大声を上げる。その姿に、アルスレッドは驚き呆れながらも、思わず笑い出しそうになるのを必死に
普通の娘ならば、妖獣に取り囲まれた時点で正気を失うだろうに……黙っていれば
「まったく……相変わらずだな。ファランよ、少しは娘らしく、勇猛な戦士に助け出されるのを夢見て大人しく待っていたらどうだ?」
「ああ、もう、アルスレッド様ったら! そんな事より、どうにかして下さい! この子、離れなくて……ちょっと、痛いったら! 噛むのを止めないと、本気で怒るわよ! シグリド、ねえ、居るなら早く助けて!」
小さな娘が赤い巻毛を揺らしながら女術師に操られた使い魔を叩き続け、悲鳴にも似た哀れな鳴き声を上げる妖獣が鉤爪を立てて必死に細い腕にしがみつく。
目の前の小競り合いを呆れた顔でしばらく見つめながら、くるくると動き回る娘の青灰色の瞳が愛しい男の姿を探しているのに気づいて、アルスレッドは手にしていた剣を鞘に収めて娘の髪に手を伸ばし、こちらを向け、と言わんばかりに、くいっと引っ張った。
今にも泣き出しそうな顔でタルトゥスの戦士を睨みつけたファランが、冷たい決意を浮かべてエスキルに視線を向けるアルスレッドの心の内を感じ取って、ひゅうっと息を呑んだ。
「アルスレッド様……? まさか……駄目です! だって、あの方はエレミア様の……」
ぐっと顔を近づけると、アルスレッドはいつになく真面目な顔で、タイースに聞こえぬよう声を潜めた。
「だからこそ、だ。タイース殿に、己の
アルスレッドは娘の小さな背中に手を回して優しくタイースの方へ押しやると、ファランが止めようとするのも構わず前に進み出た。
「エスキルと言ったな。俺が相手をしてやろう」
背中を押されて倒れ込みそうになる娘を受け止めたタイースが、焦った様子でタルトゥスの戦士の背中に向けて叫んだ。
「アルスレッド殿! エスキル様はティシュトリアの中でも最強と謳われる戦士の一人なのですよ! お一人では……」
「ほお、そうなのか?」
にやり、と不敵な笑いを浮かべると、アルスレッドは歩みを止めずに長剣を引き抜いた。
「ならば、手加減は無用と言うわけだ……面白い!」
言うが早いか、思い切り地を蹴ってエスキルの懐に飛び込むようにして剣を振り上げた。
素早く後方に退いたエスキルが、アルスレッドを見ながら舌なめずりするのを見て、タイースは、エレミア王の嫡子であるこの戦士が戦いの場で獲物を
「アルスレッド殿を援護しろ! 絶対に毒竜を寄せ付けるな!」
傍らに居た狩人達に命じると、タイースは腕の中にいるファランを立たせ、腰帯から短剣を引き抜いて、
「ファラン、そのまましばらく動くな……その使い魔を斬り離す」
「斬り離すって……ええっ? 駄目です、タイース様、殺さないで! この子は女王に操られているだけなんです!」
ファランは腕輪の留め具を外そうと必死に右手を伸ばすが、しがみつく妖獣の身体が邪魔をして届かない。
「タイース様、腕輪の石の裏に留め具が……今なら簡単に外れるはずです。この子に腕輪を渡して……そうすれば、離れてくれるはずです、早く!」
きゅいっ、と妖獣が苦しそうに一鳴きし、左の手首に深く噛みついた。ファランは思わず、あっ、と叫んで痛みに顔をしかめたものの、獣の重みに耐えながらタイースに向けて左腕を必死に持ち上げた。
不意に、使い魔が顔を上げ、首を捻って金色の瞳をファランに向けた。
『命までは奪わぬ。ロスタルに感謝するのだな。あの人の庇護さえなければ、娘よ、お前など……』
小さな獣が、女王そっくりの声色で不気味に囁く。
タイースが、ぎょっとした表情で妖獣を見つめ、ファランは冷たいものが、ちりり、と手首に触れた気がして、不思議そうに首を
妖獣に掴まれていたはずの細い腕が、急に
刹那、ファランが激しい叫び声を上げて地面に崩れ落ちた。
「ファラン!」
タイースは何が起きたのか分からぬまま、左腕を抱え込んで地面にうずくまり
が、一瞬、驚きの余り凍りつく。
左手が……ない。
鋭い刃物で切り取られたような腕の傷口から鮮血があふれ出し、見る間に娘の濃い緑色の上衣をどす黒く染めていく。
「タイース殿!」
エスキルの攻撃を
「ファラン……私だ、タイースだ。分かるね?」
「血を止めなければ……痛むだろうが、私にその手を預けてくれないか、ファラン」
言葉を失う程の痛みに身悶えながら、ファランは抱え込んでいた左腕を庇いながらタイースを見上げると、小刻みに震える腕をゆっくりと差し出した。
小さな翼を必死に羽ばたかせて主の元へ戻った妖獣が、重そうに抱えていたものをザラシュトラの足元に、ぽとりと落とした。女術師が編み上げた呪詛の
ぴくり、ぴくりと小さな指が脈打つように動き続ける手首を目にして不愉快そうに顔をしかめると、ザラシュトラは血塗れの腕輪を拾い上げた。
結界の外では、『王の盾』の息子が己の外衣を切り裂き、治癒師の娘の細い腕を締めつけるように覆い始めた。血の気の失せた虚ろな顔の娘を心配そうに覗き込みながら、何事か言葉を掛け続けている。
その頭上で、新たな血の匂いを嗅ぎつけた毒竜達が不気味に旋回を始めると、ティシュトリアの戦士と妖獣狩人達が陣を組み、妖獣の攻撃に備える構えを取った。
今や、毒竜達は天井や壁に身体をぶつけながら、狂ったように神殿内を飛び回っていた。呪詛の
ザラシュトラは途切れそうになる気力をなんとか奮い起こし、地面に転がったままの小さな手首を拾い上げて呪詛を練り込むと、結界に弾き飛ばされ地面に叩きつけられた毒竜に向かって投げつけた。
「そら、お前にやろう。若い娘の肉は柔らかく甘かろう?」
目の前に転がった小さな餌に喰らい付いた毒竜が、再び魂を呪詛に縛り上げられて身悶える姿に、女術師は口元を歪めて小さく笑い声を漏らした。
「やはり、獣を手懐けるには餌を与えてやるのが一番か」
言うが早いか、ザラシュトラは傍で小さな翼を必死に羽ばたかせていた妖獣を旋風の刃で斬り刻むと、呪詛を絡めて結界の外へ放り投げた。仲間の無残な最期をぼんやりと眺めていた使い魔達も、次々に毒竜の餌食となった。
もう一度、結界の外に目を向けて、タルトゥスの戦士を相手に剣を振るうエスキルが未だ余裕の表情を浮かべているのを確かめると、ザラシュトラは手元の腕輪に意識を戻した。天竜を
ようやく手に入れた……愚かな娘だ。初めから素直に渡していれば痛い目に遭わずに済んだものを。
手首ひとつ失ったから何だ? 術師の真似事で治療を施すことは二度と叶わずとも、若い娘ならば、身売りでもして生き延びれば良い……ああ、そうだ、せめてもの情けとして、遠く離れた異国の花街に送り込んでやろう。ロスタルには、戦さの混乱の中で行方知れずになったと言えば、文句も言えまい。
細く白い指先が触れる程に、少しずつ石が本来の青さを取り戻していく。
ザラシュトラは妖しい微笑みを口元に浮かべたまま慎重に言葉を
「
女術師の手の中で、まるで眠りから覚めるように青い石が光を取り戻し、ゆっくりと輝きを増していった。
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