女王の護衛
異様な気配を感じて振り返ったアルスレッドは、そばに居たはずのシグリドが忽然と姿を消した事に気がついた。
黒髪の傭兵が立っていた辺りに、ぽっかりと口を開けた漆黒の空間が不気味に揺らいでいる。その闇の中から、いつの間に現れたのか、白銀の髪の戦士がこちらをじっと見つめていた。
ぞくり、と背中に冷たいものが走るのを感じて、言葉も無く立ち尽くすアルスレッドの目の前で、戦士は美しい顔に冷ややかな微笑みを浮かべると、闇の中にゆっくりと溶け込んで消えた。
……今のは、何だ?
辺りを見回したが、やはりシグリドの姿はどこにも見当たらない。
アルスレッドは神殿の入り口へと向き直った。が、そこにも火竜の若者の姿はない。結界を解こうと呪詛を編み続ける術師と妖獣狩人の傍らで、こちらを見つめたまま驚愕の表情で立ち尽くすタイースの姿が目に入った。その周りで警護の任に就いていた戦士達も、動揺を隠せぬ様子で顔を見合わせている。
……どうやら、俺の見間違いではなさそうだな。だとすれば、あれがシグリドの言っていた「白い妖魔」か。
アルスレッドは嫌悪感も露わに顔をしかめると、タイースの元へ歩み寄った。
「タイース殿、今のは……」
「王城の薬草園にパルサヴァード様を連れて現れた、あの妖魔です。白銀の髪の……間違いありません」
アルスレッドは片方の眉を吊り上げ、額にかかった栗色の髪を面倒臭そうに払い除けた。
「嫌な予感がするな。シグリドが消えたと思ったら、奴が現れた……確か、ロスタル、とシグリドは呼んでいたな」
いつまた妖魔が現れるとも限らないと警戒を強める狩人達に、何があっても絶対に持ち場を離れぬよう命じると、タイースはアルスレッドに近づいて声を落した。
「消えた、とは?」
「どこにも見当たらんのさ。ファランが
先程まで黒髪の火竜が居た場所を振り向いて、アルスレッドがため息を漏らす。
「ともすれば、あいつも引きずり込まれたのかもしれん。あの闇の中に……術師達が『狭間』と呼ぶ異界の空間に」
その言葉に、傍らで武器を構えていた狩人が思わず声を上げた。
「アルスレッド様、それが真ならば……『狭間』などに引き込まれれば、術の力を持たぬ人の子など……!」
タルトゥスの若者の射るような視線を浴びて、狩人が大きく息を呑んだ。
「人の子など……何だ?」
「それは……その……『火竜』と言えど、ただの人の子です。瘴気の毒が漂う『狭間』に引き込まれたのならば、そう長くは持たぬかと……」
悔しそうに声を震わせる狩人に更に詰め寄ろうとするアルスレッドを、タイースが押し止めた。
「アルスレッド殿、我らがここで言い争ったところで何の解決にもなりはしない。今は一刻も早く、女術師を捕らえる事に力を尽くすべきでしょう」
恐らく、『魔の系譜』を狩るこの者の言い分が正しい。
そう思うと、タイースはどうにもやりきれない気持ちに襲われた。だが、一軍を率いる将として、個人的な感情に流されてはならない。これ以上、自軍から犠牲をだす訳にはいかないのだ……
そんなタイースの気持ちを推し量ってか、アルスレッドは悔しそうに唇を噛み締めると、野太い声を張り上げた。
「『戦さ鴉』に魅入られた火竜の傭兵が、ただの人の子などであってたまるものか! 好いた女を取り戻しもせず、あいつが
語気も荒くタイースの腕を払い除けたアルスレッドが、苛立たしさも露わに天を仰ぐ。
突如、神殿の入り口を覆っていた結界が音を立てて崩れ落ちた。
その場に居合わせた全ての者が一斉に武器を握り直し、ただ一箇所を凝視する。巻き上げられた
天竜に祈りを捧げる姿勢を保ったまま、狩人と戦士達の顔を一人一人確認するように見渡すタイースを、皆が神妙な面持ちで見つめている。
「皆、よく聴いてくれ。妖術師とて、所詮は人の子。決して諦めず、少しの隙も与えず攻め続ければ、必ず勝機はある。我らの上に聖竜の祝福があらんことを……行くぞ!」
祈りの言葉と共に
陽の光を通さぬ分厚い壁に囲まれた神殿は、仄暗い闇に包まれていた。
「くそっ、何も見えん……誰か、明かりを」
先頭に立つ狩人の声が静まり返った神殿の中に不気味にこだまする。仲間の手で
ばさり、ばさりと大きな翼がはためく音と共に突風が巻き起こり、手にしていた松明の炎が掻き消された。再び漆黒の闇が辺りを包み込むと、暗がりの中に、ちらちらと不気味な赤い光が浮かび上がる。
獲物の姿を捉えた獣の赤い瞳が、次第に数を増しながら不気味に揺らいでいた。
***
神殿の中から聴こえる断末魔の叫びは、明らかに人のものだ。
先陣を切って内部に突入したタイースの軍のものに間違いない……神殿の丘で獣人との戦いを繰り広げているティシュトリア軍の誰もがそう思い、心の中で天竜の慈悲を乞い願った。
怒りに震えながら獣人をねじ伏せるイスファルを見かねて、エレミアが口を開いた。
「イスファルよ、せめてアルファドをタイースの加勢に行かせてやれ。あの様子では……」
王の言葉に、神殿の入り口に馬を走らせようと
「先陣の犠牲は、それを率いた将であるタイースが負うべき責。犠牲なくして己が望む世界は得られぬ事など、王よ、あなたが一番ご存知のはず」
そう言い放つと、イスファルは丘の麓で陣を組む術師の元へ馬を走らせ、結界の中の術師達に向けて声を荒げた。
「答えよ! 神殿内で何が起きているのか!」
予期せぬ『王の盾』の怒号に驚いて振り向いた術師の長が、畏怖の表情を浮かべて声を絞り出した。
「
***
神殿の暗闇の中にひとつ、またひとつと、術師の言葉で作り上げられた炎が燃え上がっていく。
宙を漂う炎が照らし出したのは、毒竜の犠牲となって絶命した狩人や戦士達の亡骸に、群れをなして喰らいつく妖獣達の姿だった。
あまりにも異様で凄惨な光景に圧倒され、戦士達が茫然と立ち尽くす。タイースもまた、込み上げる怒りと抑えきれぬ絶望感に言葉を失った。
誰かに名を呼ばれて、タイースは我に返った。
気づけば、アルスレッドが長剣を振るいながら亡骸に群がる毒竜を
獲物を横取りされてなるものかと大きく翼を広げ威嚇の咆哮を上げる妖獣が、アルスレッド目掛けて襲い掛かった……
間一髪、毒竜の身体の下に滑り込みんだタイースが獣の腹を一突きにすると、悲鳴を上げる獣の首めがけてアルスレッドが刃を振り落ろした。
獣の断末魔に顔を
「ようやく正気に戻ったか」
アルスレッドは憐みとも怒りとも取れる複雑な表情を浮かべたまま、タイースの胸ぐらを乱暴に掴んで、ぐいっと顔を近づけた。
「いいか、良く聞け……あの亡骸は、お前が国に連れ帰るべき戦士達だという事を忘れるな! 戦場で術師が編み上げた浄化の炎でなく、せめて、家族の手で灯された炎で『果ての世界』に送らせてやれ!」
周りの者が唖然と見つめる中、アルスレッドはタイースから手を離すと、非礼を詫びるように一礼して顔を上げた。
「それが、一軍を率いる者としてのあなたの務めだ、タイース殿」
自分とさして歳の違わぬ、だが、比べ物にならぬほど多くの死と向かい合いながら、
「まあ、
少し肩をすくめて苦笑いすると、アルスレッドはタイースの肩を、ぽん、と優しく叩いた。
同朋の
連携を強め、着実に妖獣の息の根を止めながら神殿の奥へ、奥へと突き進んで行くタイース軍の前に、使い魔達も次第に動きを鈍らせていく。戦士達の気配に威圧され、回廊の奥へと飛び去るものさえ現れ始めた。
「毒竜達が逃げ出そうとする先に、奴らの
狩人の一人がタイースに向けて声を張り上げると、それに応えるように、術師の炎が宙を滑るように漂いながら回廊の先を照らし出す。仄暗い灯りの先に、祭壇の前に佇む人影と、そのそばの床にうずくまる小さな影を取り囲むようにして、宙に浮かぶ小さな獣達の影が浮かび上がった。その姿が揺らいで見えるのは、恐らく、術師の結界に守られているからだろう……タイースは、ごくりと息を呑んで剣を構え直すと、アルスレッドと隣り合わせのまま祭壇に足を向けた。
だが、暗闇から溶け出すように目の前に現れた長身の影が、二人の行く手を
「誰かと思えば……タイースではないか。しばらく見ぬ間に随分と戦士らしくなったものだ。狩りの獲物さえ手に掛けられぬ、気弱な男だと思っていたが……」
くくっ、と不快な
「あの白い妖魔がシグリドに
相手に不足はないと言わんばかりに
「……道を開けられよ、エスキル様。我が王に
タイースは大陸の共通言語で、その場にいる全ての者に聞こえるように声を張り上げた。騒めく戦士達を面白そうに眺めながら、エスキルはゆっくりとタイースの方へ歩み寄る。
「ほお? この俺を、お前がか? 冗談もほどほどにしておけ、タイース。お前の腕では俺を倒せんことぐらい、承知しているだろうに」
エスキルは薄笑いをうかべたまま長剣を引き抜くと、その切っ先をタイースに向けた。
***
使い魔達に囲まれて身動きが取れないまま、結界の中から外の様子を伺っていたファランは、人と獣の怒号と悲鳴が入り混じる血生臭い戦いの気配を感じながら、消え行く魂への祈りを小さな声でささやき続けていた。
一体、どれだけの魂が奪われたのかしら……?
女王の結界に囚われ心を翔ばす事も出来ず、目の前に広がる闇を見つめる事しか出来なかったファランが、薄明かりの中で毒竜達を追い詰めながら次第にこちらに迫る長身の戦士達の姿を捉えて、ほおっと息を呑んで口元に両手を押し当てた。
荒れ狂う翼を掻い潜りながら獣の首めがけて剣を振るう戦士達の中に、懐かしい顔を見い出して、ファランは囚われの身である事も忘れて無我夢中で声を上げた。
「タイース様! アルスレッド様も!」
その声に、タルトゥスの戦士がぴくりと顔を上げ、こちらを向いてタイースに早口で何事か告げるのが、遠目にも見て取れた。
ああ、助けに来てくれたんだわ……!
心の緊張が解けて行くのを感じて、ファランは安堵のため息を吐くと、二人の傍らに居るはずの黒髪の火竜を見出そうと立ち上がり、小さな妖獣達を押し退けるようにして身を乗り出した。
ザラシュトラは使い魔を恐れぬ娘の様子に
妖艶な唇に
「あれがティシュトリアの『王の盾』の息子か。ティシュトリア王家に繋がる呪われた血は、聖なる天竜に捧げるに相応しい
その言葉の響きに異質なものを感じて、ファランは女術師を見つめ返した。
……どうして? 王家に繋がると言うなら、エレミア様のお子であるエスキル様の方がよっぽど……
刹那、燃え盛る炎にも似た
驚き慌てた娘が、幻の炎を払いのけようと必死に両腕を動かした拍子に、左腕にはめた腕輪が、からりと音を立てる。途端に、炎は跡形もなく消え去った。
突然のことに、ファランは震えの止まらぬ身体を両腕で抱え込むと、へなへなと地面にしゃがみ込んだ。間違いない、自分を焼き尽くそうとした幻は、ザシュアの心の底で燃え盛る情念の炎だ……そう確信しながら。
……ああ、この人の魂が悲鳴を上げているわ。こんなにも激しい想いに身を焼かれながら、ずっと自分の心に
女王の護衛さながらに結界の前に立ち塞がるエスキルに、ファランはそっと目を向けた。
青灰色の瞳に映ったのは、冷たい孤独の闇に閉ざされ凍え切った心。その闇の中に、小さな宝玉のような薄紫色の光が
もう一度、女王の魂がすすり泣きのような叫び声を上げた。
ザシュアの心の奥で揺らめく深紅の炎は、それによく似た髪を持つティシュトリアの戦士を想って燃えているのだろうか。
愛のない政略結婚だと聞いていたけれど、この二人の間には、それ以上の何かが芽生えているのかも……そう思うと、ファランは切なさを覚えずにはいられなかった。
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