戦士達

 うつむいたまま頬に伝う涙を拭うと、ザラシュトラはゆっくりとロスタルが消えた辺りの虚空を振り返った。

 薄紫色の瞳がその姿を探して揺れ動くのを目にして、エスキルは小さく舌打ちすると、女術師を抱く腕に力を込めた。


 エスキルの腕の中にいるのだ、と思い出したザラシュトラは、長身の戦士に向き直っていぶかし気にその顔をしばらく見つめ、細い腰に回されていた腕をそっと押し戻した。

「……愚かな人。あのまま、どこかへ逃げ去ってしまえば良かったものを」

「祖国を裏切った男を逃がそうとする女の方が、よほど愚かだと思うがな」

 ざわり、と心の内が震えるのを悟られまいと、ザラシュトラはエスキルから視線を逸らし、術師の声で言葉を繋いだ。

「『火竜』のシグリドがティシュトリア軍に参戦していたとは気がつきませんでした。エスキル様は、ロスタルとシグリドが因縁の仲だとご存じだったのですか?」

「いや……護衛の任をないがしろにして、ロスタルが恋敵から治癒師の娘を奪い取って来た、と神官達が騒いでいたのはお前も覚えているだろう?」

 女術師の表情が強張るのを目にして、エスキルは愉快そうに顔を歪めた。

「ただならぬ殺気を漂わせる異国の傭兵が、タイースと共に居るのを見かけてな。戦さの最前線で『王の盾』の嫡子と並び立つその男の腕に、黒い竜の刺青が刻まれていた。そいつが、滅多な事では他国の事情に介入せぬはずの『火竜の傭兵』だとすれば、もしや、と思ったのだ。どうやら、図星だったようだが……あいつを行かせてしまって良かったのか?」


 ザラシュトラは少し呆れたように吐息を漏らすと、粉々に砕け散った水鏡に目を向けた。

 なるほど。ディーネの命を奪ったあの傭兵に好いた娘まで奪われては、さすがのロスタルも冷静ではいられないだろう。どちらにせよ、あの『火竜』を相手に、まともに剣を交える事が出来るのは、ロスタルを除けば、目の前にいる恐れを知らぬ若者くらいだ。

「……エスキル様、ロスタルをけしかけた責任は取って頂きます。聖竜の祭壇にもう一つ水鏡がございます。そちらまで、私の護衛として共にいらして下さい。結界を編み上げるまでの間、無防備のままでいる訳には参りませんから」

 ふん、と鼻先で笑うと、エスキルは手を伸ばして女術師の頬にそっと触れた。

「いい加減、認めたらどうだ、ザラシュトラ? お前には俺が必要だとな」 

 幾度も触れられたはずのその大きな手は、こんなにも優しいものだったのか。もう少し、あともう少しだけ、この温もりを感じていたい……心からそう願う己の愚かさに気づいて、ザラシュトラはその想いを振り払おうと首を横に振った。

「では、参りましょうか、エスキル様。ロスタルが『双頭の火竜』に気を取られている今ならば……」


 あの娘から「竜紋の石」を奪うなど、容易い事。

 


***



 どうにもらちがあかない。 「狭間」に引きずり込まれるとは。



 暗闇を抜けてシグリドが辿り着いた先は、揺らいだ虚空こくうが果てしなく広がる異様な空間だった。

 ゆらゆらと宙を漂うのは、何かのむくろだろう。獣に食い尽くされ原型を留めぬそれは、朽ち果てるのを待ちきれぬとでも言いたげに、濛々もうもうと瘴気を吐き続けている。むせるほどの毒の気から身を守ろうと、シグリドは外衣を引き裂いて鼻と口元を覆い隠した。それでも、瘴気は容赦なく体内に入り込み、強靭な肉体を内側から確実にむしばんでいく。

 息をするたびに喉と肺が痛み出すのを感じて、愛する娘がたった一人で通り抜けていたこの世界が、守るべきすべを持たぬ者の命を容易に奪う場所だという事を、シグリドは改めて思い知らされた。

 一体どうすれば、ファランのように使い魔も従えずに、ただの人の子がこの場所から抜け出せると言うのだろう?


 目の前には、凍てついた表情でこちらを見つめる白い妖魔が一人。

 すぐそばに居たはずのアルスレッドとタイースの姿は見えない。少なくとも二人がこの異空間に囚われてはいないと分かって、シグリドは安堵した。 

 胸元に手を当てて、革紐に繋がれた守護石がそこにある事を確かめ、右手に握りしめていたヴォーデグラムにちらりと視線を向けて黒い山豹レーウの名を呼ぼうとして、シグリドは躊躇ためらった。こちらを見つめるロスタルがまとう異様な雰囲気に気づいたからだ。

 氷のような薄青色の瞳に、くっきりと「魔の系譜」であるあかしの縦長の瞳孔が浮かんでいるのが、遠目にも見て取れた。



 ……ああ、そうだ。

 目の前にいるのは、人の子の姿と妖魔の魂を併せ持つ、聖魔アプサリスの眷属だ。聖魔から与えられた剣でなければ、おそらくロスタルに太刀打ちすることなど叶わぬだろう。

 グラムを使い魔代わりに「狭間」を抜け出すことが出来ればと思ったが、どちらにしても、この瘴気だ。ただの妖獣に過ぎないグラムに結界を編む力などない。通り抜けられる道筋をグラムが見つけ出す前に、恐らく毒の気が俺の息の根を止めるだろう。さもなければ、目の前にいる妖魔が……



 考えを巡らせながら、シグリドは大きく咳き込んだ。その拍子に両膝をつく姿勢になった。が、どうしたわけか膝をついたはずの場所に地面はなく、まるで宙を漂っているような感覚に陥った。

 瘴気の毒に侵され、次第にシグリドの意識も朦朧となっていく。


 まずいな。さすがにこれは……駄目かもしれない。


 握りしめていた青い石の輝きが徐々に薄れゆくのを見つめながら、最後に愛しい娘を見たのは何時の事だったろう、とシグリドはぼんやりと考えた。


 あの時。ぼろぼろと涙を流す娘が必死に差し出した小さな両手を拒んだのは、誰でもない、この俺だ。


『火竜の子よ、そのつないだ手を、決して離してはいけませんよ』


 そう心に語り掛けてくれた「嘆きの森」の精霊の言葉に誓っておきながら、俺はファランの手を離してしまった。

 人の子の欲望に翻弄された泉の精霊リアナンには、癒し手の娘と人殺しの傭兵が共に生きるなど、決して起こり得ぬ未来なのだと初めから分かっていたのかもしれない。


 

「ファランはその石のおかげで『狭間』を通り抜けられる、と信じていたが……どうやら、そうではなさそうだな」

 小さな娘が肌身離さず身につけていた腕輪に光る青い石と瓜二つの石を、シグリドが身につけている事実に驚きと妬ましさを隠し切れず、ロスタルの顔が大きく歪んだ。唇を噛み締め、右腕を頭上高く差し伸ばし、何もない空間から現われ出た細身の剣をその手に掴むと、凍てつく獣の瞳をシグリドに向ける。

「せめて、お前の兄が鍛えた刃で『果ての世界』に送ってやろう。案ずるな、ファランには俺が居る」

 ひざまずいたまま、前屈みに崩れ落ちていくシグリドの首に狙いをつけると、ロスタルは「火群フラムベルク」を振り下ろした……


 だが、きらめく刃は、突如として目の前に現れた真珠色に輝く結界にはじき飛ばされ、鋭い音を立てて砕け散り、輝く火の粉ように宙を漂いながら「狭間」の闇に呑み込まれ消えていった。

 その音で我に返ったシグリドの前に、「聖なる蛇グィベル」の姿が、ゆらりと浮かび上がった。息をするたびに感じた痛みが、いつの間にか消えている。聖魔の結界に守られ浄化された空気の流れを感じて、シグリドは思い切り息を吸い込んだ。

 ヤムリカは少しうれいた顔でシグリドを見つめると、怒りに燃える紅玉の瞳をロスタルに向けた。

『ただの人の子を「狭間」に引き込むとは、誇り高き白い獣も地に堕ちたものだな、ロスタル。アプサリスが愛想を尽かすわけだ』

 

 聖魔の結界に触れ、焼けつくような痛みに襲われた利き腕を庇いながら、ロスタルは愛する妹の面影を色濃く残す美しい妖魔を睨みつけた。

「どういうつもりだ、ヤムリカ? 天の定めによって人の世に自ら関わってはならぬはずの聖魔が、なぜ火竜の傭兵如きの肩を持つ?」

 有翼の蛇グィベルは真珠色の翼をふわりと広げると、シグリドを覆い隠すようにしてロスタルの前に立ち塞がった。

『天の定めが聞いて呆れる。己の姿に気づいておらぬようだな。今のお前をディーネが目にすれば、さぞや悲しむことであろう』

「……その名を口にするな。お前の中にディーネは居ない。俺の心を操ろうとしても無駄だ」

『そうだな。我が愛し子がここに居れば、妖魔の魂に人の心まで食い尽された兄の姿に、さぞや心を乱されたであろう。ロスタルよ、よもや未だに己は人の子であると信じて疑わぬか? 「魔の系譜」である我らと同じ魂を抱え持つお前こそ、人の世を乱す元凶となる事は許されぬのだよ』

 ヤムリカの言葉に胸を締め付けられながら、ロスタルの薄青色の瞳が怒りに震えた。

「望みもせずに与えられた妖魔の魂など、飼い慣らしてやった。俺は俺だ、他のなにものでもない……邪魔をするな、ヤムリカ!」


 ロスタルは虚空から取り出した長剣を握りしめると、野獣のような身のこなしで聖魔の翼を掻い潜り、シグリドに襲い掛かった。

 


***



 妙な胸騒ぎに襲われて、ファランはふと足を止めて辺りを見回した。

 祭壇へと続くこの回廊は、普段ならば天竜への祈りを捧げる信者達に埋め尽くされているはずだった。だが、今は人影さえ見当たらず、不気味な静けさに包まれている。

 ようやく暗闇にも目が慣れ、ゆっくりと歩みを進める事が出来るようになったとはいえ、せめて蝋燭の明かりくらいは持って来るんだった、と少し後悔し始めていた。


 それにしても……結界の「ほころび」も「狭間」の揺らぎも、前より一層大きくなっているように感じるのは気のせいかしら?


 少し首を傾げて、回廊の先にある祭壇の方をぼんやりと見つめていると、祭壇の真上の空間に、ぽっかりと闇色の空間が現れ、二つの黒い影へとゆっくり姿を変えた。その影の一つが女王ザシュアである事に気づき、ファランは驚きのあまり大きく息を呑むと、すぐ近くの円柱の陰に身を隠した。



 静まり返った神殿の中で、恐怖に震える哀れな心の叫びを耳にした女術師は、回廊の隅に身を潜めている娘の気配を感じ取って、愛らしい顔にそぐわぬ妖しげな微笑みを浮かべた。

「エスキル様のお手をわずらわせずとも、あちらから姿を現してくれたようですね」

 ザラシュトラは翼を持ったクズリに似た使い魔を数匹呼び寄せると、素早く呪詛の言葉を編み上げた。首を垂れたままあるじの命に耳を澄ませていた使い魔達は、うなずくようにゆっくりと首を動かすと、揺らいだ空間に吸い込まれるように姿を消した。


 次の瞬間、ファランの周囲に数匹の使い魔達が音もなく現れ出て、両脇を抱え上げるようにして娘の身体を押さえ込んだ。驚きと恐怖に悲鳴を上げて必死にもがく小さな身体に鉤爪を立ててしがみつく使い魔達の手で、ファランはあっという間に「狭間」の闇に引きずり込まれた。

 突然の事に冷静さを失い、「狭間」に漂う瘴気を吸い込んでしまった娘が激しく咳き込むのをよそに、捕らえた人の子を決して離すまいとして、使い魔達は小さな翼を懸命に羽ばたかせながら女術師の目の前に飛び出ると、ファランをゆっくりと地面に横たわらせた。


「しばらくそのままで。娘から目を離すでないぞ」

 こくり、と頷いた使い魔達が、怯え震える娘の周りをぐるりと取り囲むのを確かめると、ザラシュトラは祭壇の前に歩み寄り、そこに置かれていた小さな水鏡を覗き込んだ。背後に佇むエスキルを振り返り、水面に目を向けるよう手招きする。

「エスキル様、ご覧下さいませ。妖獣狩人とティシュトリアの術師達の手で、この神殿の結界も壊されようとしています。すぐに戦士達がこの場に雪崩れ込む事でしょう」

「獣人や毒竜達はどうした? なぜ奴らを使わない?」

 ザラシュトラは不愉快そうに眉をひそめ、エスキルから目を逸らして、もう一度水鏡を覗き込んだ。

「獣人達には、王都の民とティシュトリアの戦士達を喰い尽すよう命じております。毒竜達は……ある尊き御方の戯れのおかげで、王都の街では私の意のままに操る事が叶わぬのです」

 聖魔の嘲り笑う声を思い出して、心の底に湧き上がる怒りを何とか抑え込む。

「ですが、ご安心下さいませ。神殿の中ならば、あの子達は私の思いのままになりましょう……ほら、愛らしい歌声が聴こえるでしょう? あの子たちが戻ったようです」 


 耳をつんざ咆哮が神殿の天井近くに響き渡る。と、同時に、何匹もの毒竜が「狭間」から姿を現した。怒り狂ったように飛び回る妖獣達を新たな呪詛で縛りつけると、ザラシュトラは神殿の入り口に視線を向けた。

「エスキル様、戦士達の相手をするおつもりであれば、どうぞご自由に。ただし、お遊びは私の結界の外でお願い致します……結界の中で刃を振るわれては、私の心が揺らぎますゆえ」

「分かっている。お前は使い魔を操る事だけに集中しろ」


 ザラシュトラが示した結界の裂け目を通り抜けると、エスキルは二度と戻ることが許されぬ祖国の前に立ち塞がるべく、父から送られた長剣を引き抜いた。


 その刀身に刻まれた祈りの言葉を思い出し、ティシュトリアの若者は少し悲しげに微笑んだ。

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