神殿の丘の戦い

 神殿の丘全体を包み込む結界の一部がほどけかかっている事に気づいたのは、タイース配下の妖獣狩人だった。



 「術師崩れ」の狩人と共に、城付きの術師が少し渋り顔で呪詛の言葉を編み上げる間、仲間の狩人達が結界の「ほころび」目掛けて刃で斬りつけ、斧を振るい続けた。

 やがて、「ほころび」が空気を切り裂くような耳障りな音を立てて切り裂かれ、結界が轟音と共に崩れ落ちると、妖獣狩人達は何の躊躇ためらいも見せずに、化け物じみたラスエルクラティアの戦士達目掛けて走り出した。


 シグリドは「魔の系譜」の匂いに身を震わせて歓喜の歌を奏でるヴォーデグラムを手に、女術師の待つ神殿に鋭い視線を向けたまま、ゆっくりと歩みを進めて行く。

『獣の餌食にされたくなければ、馬は置いて行け』

 そうシグリドに促され、タイースは本隊と合流したアルファドに愛馬を預けると、アルスレッドと共にシグリドの後を追った。

  

「首を落せ! 首を落さぬ限り、奴らは動きを止めぬぞ!」

 神聖文字が刻まれた長剣を手に、強靭で気性の粗い軍馬デストリアを自在に操るティシュトリアの戦士達が、先を行く妖獣狩人達に後れを取るまいと獣人達を相手に反撃を開始した。だが、荒ぶる騎兵の手で獣の身体が刻まれ地面に転がり落ちるたび、新たな獣がどこからともなく現れ、人ならざる雄叫びを上げてティシュトリアの戦士達に次から次へと襲い掛かった。


 神殿の丘で繰り広げられる殺戮の嵐はとどまる所を知らず、獣の餌食となって見るも無残な姿で横たわる愛馬のそばで息絶えた戦士達と、ザラシュトラの使い魔に魂を喰い尽くされ哀れな獣と化した者達のむくろで、神殿へと続く道はあっという間に埋め尽くされた。

「くそっ……切りがない。イスファル! 術師達は何をしている!」

 苛立ちを隠せぬまま剣を振るうエレミアの声に、返り血を浴びて鬼気迫る表情のイスファルが、後方で陣を組む術師達を振り返った。

「術師! 化け物達を操っている妖術師の気配はまだ掴めぬのか!」

「最善を尽くしております! 間もなく……」

 声を上げた術師が、突然、両手でもがくように喉元を抑えると、目を白黒させて口から泡を吹きながら地面に倒れ込んだ。と、同時に、陣の周りを覆っていた結界の一部が崩れ落ちた。

 慌ててつくろおうとする術師達の頭上の空間が、不自然に、ぐにゃりと歪む。


 次の瞬間、大気を震わせる咆哮と共に、不気味な翼を羽ばたかせて「狭間」から現れ出た毒竜エレンスゲが、術師達の匂いを嗅ぎつけて急降下を始めた。 

 防御の呪詛を投げつけながら逃げ惑う術師達をよそに、凶暴な妖獣を何とか仕留めようと戦士達が剣を振るう。が、一人、また一人と毒の牙の餌食となって行く姿を目にして、矢も楯もたまらずイスファルが馬を向けた。アルファドがあるじの後を追って馬を走らせる。

 駄目だ、間に合わん……イスファルは必死に馬を駆りながら、ぎりりと歯をきしませた。



 刹那、断末魔の叫びと共に、ヴォーデグラムの歓喜の歌声が戦場に響き渡った。


 シグリドが投げつけた漆黒の剣は、術師達に襲いかかろうとしていた毒竜の喉を深々と貫き、その首をいとも簡単に斬り落とすと、空中でするりと黒い獣に姿を変えて、軽々と地上に降り立った。

 黒豹グラムが威嚇の声を上げると、聖魔の眷属の出現に怯えおののいた獣人達が、一斉に動きを止めた。恐怖のあまり神殿の中に戻ろうと走り出した獣人が、ぎゃっと悲鳴をあげた途端、女術師の結界に練り込まれていた呪詛の炎に捕らえられ、業火に焼き尽くされてちりと消えた。

「何をしている! 結界の陣を立て直す好機を逃すな!」

 イスファルの声に、我に返った術師達の一人が必死の形相で崩壊した部分に新たな結界を築くと、既に息絶えた仲間の骸に目をやって震える声を絞り出した。

「イスファル様、結界に守られた術師さえも簡単に絶命させることが出来る程の力を持つ妖術師を相手に……我らに勝機はありましょうや?」

 恐怖に立ち尽くす術師のそばで、黒い獣グラムが嘲笑うように大きく喉を鳴らした。が、神殿の入り口近くに迫ったあるじの姿を認めると、しなやかな身体をひるがえして風のように駆け戻って行く。

「術に頼らぬ火竜の傭兵でさえ、あのように『魔の系譜』を手懐てなずけているのだぞ……大陸最強とうたわれるティシュトリア王に仕える術師の底力、見せてみよ!」


 そう言い捨てて走り去る「王の盾」を呆然と見つめる術師達に、アルファドが静かに告げた。

「王がお与え下さった術師の名誉を回復する機会を無駄にするな、とイスファル様はおっしゃりたいのだよ。敵の妖術師が術に集中出来ぬよう、干渉するだけでいい。命を奪うは、我ら戦士の役目」


 主に遅れまいと馬を走らせて行く戦士を見送る術師達の心の奥底で、長きに渡って虐げられ、忘れかけていた誇りがゆっくりと目を覚ました。


 


 神殿の入り口近くで、頭上から忽然と姿を現した獣人の鉤爪をなんとか交わすと、タイースは短剣を獣の瞳に突き立てた。そのまま体勢を崩し地面に転がったところを、狂ったように咆哮をあげながら獣がなおも襲い掛かる。

 が、背後を取ったアルスレッドが、一太刀で獣人の首を跳ね飛ばした。

「ご無事か、タイース殿?」

 タイースに手を貸して立ち上がらせながら、アルスレッドは先を行くシグリドと妖獣狩人達に視線を投げた。その脇をすり抜けて、黒い山豹レーウが走り抜けて行く。地面を蹴ってシグリドに飛びついた獣の輪郭が、流れる水の如く溶け出して漆黒の剣に姿を変えると、あるじの利き手にするりと収まった。


 一瞬、我が目を疑ったアルスレッドが、隣で同じように驚愕の眼差しを向けるタイースの姿に気づき、思わず苦笑する。

 得体の知れぬ漆黒の剣を手に、獣の敏速な動きを物ともせず、確実に首を斬り落としていくシグリドの周りで、妖獣狩人達も先を争うように獲物を狩り続けている。

「あいつら、化け物だな……まあ、化け物を相手にするには、あれ位が丁度良いのだろうが。シグリドはともかく、狩人達がここまで有能だとは思ってもみなかった」

 感心したような声を上げるアルスレッドの言葉に、タイースが、ごくりと生唾を呑んでうなずいた。


***



 ……ああ、まただ。


 水鏡を覗き込みながら、ザラシュトラは唇を噛み締めた。

 魂を縛りつけているとは言え、元来、神経質で暴走しがちな毒竜を操るのは決して容易ではない。同時に獣人達の意識も支配するとなれば尚更だ。

 おまけに、聖魔が仕掛けた結界のおかげで、怯えきった毒竜達は「狭間」の彼方に逃走しようと抵抗し続ける。

 人の身に妖獣の魂を押し込めた獣人達は、聖魔の結界に阻まれる事はないようだ。が、己より明らかに強いものに出くわすと逃げ出す習性は変えようがない……


 思うようにならぬ使い魔達にかまけている間に、丘を覆い尽くす結界のあちらこちらに、不自然なほど多くの小さな「ほころび」が突如として現れた。修復するたびに新たに現れる「ほころび」は、明らかに何者かの意思で作り上げられた「罠」だと、ザラシュトラには分かっていた。 


 一人では結界さえまともに編み上げられぬティシュトリアの術師如きに、この私が心を乱されるとは……


「治癒師に毛が生えた程度とは言え、神殿の術師達までも獣に喰わせたのは誤算だったな。あれでも、結界を繕うぐらいは出来ただろうに」

 いつもの冷静さを失い苛立ちを隠せぬ女術師の様子に、ロスタルが冷ややかに告げた。

 スェヴェリス王家の血を引く生粋の妖術師であるザラシュトラは、亜流の術師達をさげすみ、決してそばに置こうとしなかった。

 よもや、その術師達の手によって、誇り高い女が追い詰められようとは……

「らしくないぞ、ザラシュトラ。どんな時でも冷静さを失わぬのがスェヴェリスの巫女の矜持ではなかったか?」

 くっ、と喉の奥で鋭い音を立てた女術師が、怒りに満ちた薄紫色の瞳で白い戦士を睨みつける。

 刹那、主の一瞬の気の迷いを嗅ぎ取った一頭の毒竜が、呪詛の戒めを食い破って虚空から飛び出し、女術師に襲い掛かった。


 間一髪、ザラシュトラと妖獣の間に飛び込んだロスタルに片翼を斬り裂かれ、毒竜は恐ろしい咆哮を上げて地面をのたうち回り、長く強靭な尾が水鏡のかめを宙にすくい上げた。

 中空から地面にしたたか打ちつけられた瓶が、大きな水飛沫を上げる。

「ああ……何という事を!」

 悲鳴を上げて粉々に砕け散った水瓶に駆け寄ろうとするザラシュトラに、狂ったように暴れ回る毒竜が牙を剥く。深傷を負った野生の獣が女術師の細い首に狙いを定めるのを目にして、ロスタルは焦燥の念に駆られるまま、毒竜の喉元目掛けて剣を振り上げた。



 断末魔の叫びを上げる間もなく首を斬り落とされた毒竜の身体が、ゆっくりと地面に滑り落ちた。と同時に、ザラシュトラは力強い腕の中に引き寄せられた事に気づいて、はっと顔を上げた。若草色の瞳がこちらを見つめ返している。

「……エスキル様? どうして……」

「ザラシュトラよ、ティシュトリアの戦士を追い出すならば、剣を持たせるべきだったな。おかげで、地下道を抜けて神殿の外に出た後、遠回りをして居所に戻らされた挙句、親父殿の戦士を幾人か『果ての世界』に送り込む羽目になった」

「何故、戻ったのですか? 貴方ならば、剣など如何様いかようにしても手に入れられたでしょうに……」

 くくっ、と懐かしい笑い声を上げたエスキルは、ザラシュトラを片腕に抱いたまま、妖獣の血に濡れた剣をなぎ払った。

「そうだな。だが……気位の高い女術師を手に入れるには、ここに戻るしかあるまい?」

 一瞬、ザラシュトラから手を離して神聖文字が刻まれた刃を鞘に収めると、エスキルはもう一度、女術師を抱き寄せた。

「お前の結界は、俺を拒まなかった」

 

 思わずあふれ出る涙を見せまいと、うつむく女術師をしっかりと胸に抱きしめたまま、エスキルはロスタルに視線を向けた。

「護衛殿、神殿の前で面白いものを見たぞ」

 怪訝そうに眉をひそめるロスタルに、エスキルが不敵にわらう。

「左腕に黒い竜を刻んだ黒髪の戦士を知っているか?」

 薄青色の瞳が驚愕に見開かれ、火竜の傭兵の気配をはっきりと感じ取った白い獣がうなり声を上げた。

「シグリドめ……奪いに来たか」



***



 神殿の入り口に張り巡らされた結界を崩そうと、術師と狩人が呪詛を練り上げる姿を前に、シグリドは胸元の青い石を取り出して、しっかりと握りしめた。確実に輝きを増した石が、片割れの石がすぐ近くにある、とシグリドに教えてくれる。


 あと少しだ……あと少しで、ファラン、お前をこの腕の中に取り戻せる。

 


 ふと、背後の虚空が歪んだ気配に、咄嗟に振り返ったシグリドの目の前で、静かな殺気をまとった白い戦士が揺らいだ空間から姿を現した。

「久しいな、『二つ頭』。ファランを取り返しに来たか? だが……」

 ロスタルの凍えるような声が、シグリドの耳元で響く。

「渡してなるものか。あれと共に生きると決めたのだ」


 その瞬間、シグリドは深い闇に包まれた。

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