巫女姫と聖魔
何かがおかしい……何故だ?
エスキルを地下牢に幽閉したその足で水鏡の前に戻ると、ザラシュトラは一匹の
血の匂いに色めき立ち、醜い皮膜のある翼を大きく広げて威嚇の姿勢を取る使い魔を、
ぽたり、ぽたりと
「……そうだ、お前にやろう。存分に味わうが良い」
ザラシュトラの手からこぼれ落ち、赤い水
静けさを取り戻した水面に、夜明けの薄明りが差し込む森の中を、栗色の馬の背に揺られながら進んで行くパルサヴァードの姿がゆらりと浮かび上がる。その遥か上空に歪みが生じるのを、ザラシュトラは妖艶な微笑みを浮かべながら見つめ続けた。
「『天竜に選ばれし子』パルサヴァードよ。お前が妖獣の餌食となって消え去ったとして、また新たな子が生まれ落ちるだけ。天竜の声を聴くための
女術師が、「狭間」のしじまから若者を狙っている
「可愛い子、さあ、お食べ」
それに応えるように、使い魔の咆哮が「狭間」の闇に響き渡る……
刹那、毒竜は何かに酷く
……まただ。また、あの時と同じだ。
今また、水面に映るパルサヴァードの姿を「狭間」から見つめている毒竜は、己よりも明らかに強いものの姿を捉えたかのように、怯え震えている。どれだけ呪詛で縛り上げても、使い魔は必死に抵抗するだけで、決してその場を動こうとはしない。
「一体、なぜ……?」
ザラシュトラは水鏡を覗き込んだまま、広場に集められた王都の民の元に馬を進めるパルサヴァードを
途端に、女術師の瞳が大きく見開かれた。
……ああ、愚かなのは私だ。
なぜ気づかなかった? あの馬、あれは……!
『やっと気づいたか、スェヴェリスの巫女よ。あれは我の可愛い眷属でな。お前の使い魔如きに喰われるほど
凍てつくような女の声に、ザラシュトラは全身が強張るのを感じた。
突如、水面が大きく盛り上がり、艶めかしい女の姿を
「これは、聖魔アプサリス様……アンパヴァールの砦でお姿をお見かけして以来かと存じます。貴女様の眷属とはつゆ知らず、御無礼を……どうぞお許し下さいませ」
聖魔は虚空を漂いながら、うつ伏せで水鏡を覗き込むような姿勢を取ると、水面に映る
「ですが、天の定めにより人の世に関わってはならぬはずの貴女様が、何故、あの男に……パルサヴァードに救いの手を差し伸べられるのでしょう?」
銀灰色の長い髪が赤い火の粉を振りまきながら、アプサリスががふわりと虚空に舞い上がる。
『救いの手、だと? 笑止よな。我らは人間どもの愚かな欲望や生き死になどに興味はない。それに手を貸すこともない。だが……』
妖魔の女王は嘲るような微笑みを浮かべると、憤怒の炎を宿した金色の瞳をザラシュトラに向けた。
『我ら「魔の系譜」を冒涜する事は、決して許さぬ。「恐れを知らぬどこぞの術師が、途方もない数の使い魔を従えている」と風の精霊どもが戯言を申してな。人間どもに操られた憐れなものどもを滅びの道へと誘うのは、我ら聖魔の務め……スェヴェリスの巫女よ、心に
「さて、何の事やら。我らスェヴェリスの民は聖なる天竜様に永遠の従順を誓っております。疚しい事など……」
聖魔が、くくっと不気味な嗤い声を上げた。
『巫女よ、この大陸から滅び去って久しい王国に、いつまでしがみついているつもりだ? あの融通の効かぬ
どこかで、恐怖に震える妖獣の咆哮が響き渡った。
『……我も我の信じる道を行くとしよう。ああ、そうだ、ラスエルクラティアを覆い尽くしていた結界だが』
ぴくり、とザラシュトラの肩が震えた。
「私が編み上げた結界が、何か……聖魔様のお気に召さぬ事でもございましたでしょうか?」
『見るに堪えぬ醜悪さだったのでな。きれいさっぱり取り除いてやったわ』
女術師は大きく息を呑んで思わず顔を上げた。
にやり、と聖魔が美しい顔を歪める。その口元に鋭い牙が光るのを目にして、ザラシュトラの背を冷たいものが駆け抜けた。
『巫女よ、我にも慈悲の心はあるのだぞ。お前の結界の代わりに、我が編み上げた結界をこの国の至る所に散りばめておいた』
「今、何と……ああ、聖魔よ、毒竜達が恐れ
『もちろん、スフィルだけの仕業ではない。我の結界を嗅ぎ取ったのであろうよ』
聖魔の声が心の奥に忍び込み、魂を鷲掴みにして情け容赦なく締め上げていく……ザラシュトラは息も絶え絶えになる程の痛みに耐えながら、憎悪に満ちた薄紫色の瞳で「戦さ鴉」を睨みつけた。
アプサリスはその様子を妖艶な微笑みを浮かべて見つめている。
『巫女よ、せめてもの情けだ、この丘に張り巡らされた結界はこのままにしてやろう。さすがのお前も、火竜の子やティシュトリアの戦士達を相手に結界なしでは、心もとないであろう? お前に操られた憐れな妖獣どもを「狭間」に送り込むのは勝手だが……覚えておくが良い。お前の結界を出てしまえば、あのもの達は我の結界に阻まれ、搦め捕られるだけだとな』
ザラシュトラの心が戒めを解かれたと同時に、妖魔の女王の姿は燃え上がる炎となって掻き消えた。
何故だ……何故……一体、どうして……?
「ああ、聖魔よ、何故、この私の行く手を阻むのですか……? 我がスェヴェリスは、尊き『魔の系譜』と共にあらんとしたがために、忌々しい戦士どもに滅ぼされたというのに……聖魔よ!」
悲痛な叫びと共に地面に崩れ落ちた女術師の背後で、揺らいだ暗闇からロスタルが静かに姿を現し、何かの気配を探るように辺りを見渡すと、僅かに眉をひそめた。
「あの聖魔が、居たな……何をされた、ザラシュトラ?」
地面に膝をついたまま、ザラシュトラは這うようにして水鏡の縁に手を掛けて中を覗き込むと、憑かれたように次々に水面に映し出される影を見つめ続けた。
ああ、ここにも……あそこにも……!
あらゆる場所に、まるで森の茂みに仕掛けられた罠のように、煌めく赤い炎を散りばめた銀灰色の結界が巡らされているのを目にして、ザラシュトラは怒りと恐怖に顔を歪め、ぎりりと唇を噛んだ。
水鏡に映る結界を取り払おうとするかのように、震える手を水面に伸ばし、血の滲み出る唇から絶叫にも似た声を絞り出す。
「ここで……この神殿の丘で、自らの手で、全てを終わらせろと……聖魔よ、そう仰りたいのですか!」
……良かろう。
我が王国に災いなした者達の血筋を……ティシュトリアの王族とラスエルクラティアの神官どもを、ここで根絶やしにしてやろう。
神殿の外に毒竜を放てば、聖魔の結界に怯え慄き、死に物狂いでそれから逃れようと暴れまわるだろう……構うものか。愚かな妖獣など、我が呪詛に魂を縛られたまま、全てを壊し、全てを呪い、全てを喰いつくして果てるがいい……戦士と神官どもを道連れにして、だ。
故国の怨念を刻み込んだ我が魂が次に狙うはアルコヴァル。
そのためには、どんな手を使ってでも、スェヴェリス最後の王族であるこの私は生き延びねば……そう、どんな手を使ってでも、だ。
ゆっくりと立ち上がった女術師の脳裏に、全てを焼き尽くす業火に呑まれ崩れ落ちる故国の姿が蘇った。あの夜、自分を救い出してくれた大きな手を想いながら、ザラシュトラの瞳から涙がひと筋こぼれ落ちる。
信じていた。あなただけを、ずっと。
そして、あなただけを、ずっと……
「思えば、あなたも、アプサリス様の眷属でしたね、ロスタル」
ザラシュトラの心の奥底で、あの夜から大切に守り続けてきた暖かな
***
漆黒の軍馬に
「タイース、王に状況の説明を」
息子の前に馬を止めたイスファルは、表情一つ変えずにそう言うと、一歩下がってエレミアに場所を譲った。タイースと周りにいる者達が一斉に馬上の礼を取ると、エレミアは丘の上の神殿から目を離さぬまま片手を上げてそれに応えた。
「ここまでの働き、ご苦労だったな、タイース」
タイースは再び頭を下げると、ゆっくりと顔を上げて幼い頃から我が子のように慈しんでくれた壮年の王の顔を見つめた。
「神殿の周囲は、既に兵と妖獣狩人の配備を終えております。残るは術師達をどうするか、ですが……あいにく、術師と共に戦場に立ったことがございません」
少し困ったような顔をする若者を前に、背後に続く術師達に視線を投げると、エレミアは面白そうに笑い声をあげた。
「それはそうだろう。この俺とて、これだけ多くの術師を引き連れた戦さは初めてだ……タイースよ、アルスレッド殿はどちらに?」
「先程まで、シグリドと共に周囲を見回っていたのですが……ああ、あちらにいらっしゃいます」
タイースが指し示した方向に、タルトゥスの若き戦士が幾人かの妖獣狩人と話し込む姿があった。その傍に、神殿を見つめたまま静かに佇む黒髪の傭兵が居た。養父が
「なんだ、パルヴィーズ恋しさにティシュトリアに戻ったかと思ったが」
少し面倒臭そうな声で銀色の鴉に語りかけるシグリドに、アルスレッドが少し困惑した顔をする。
「なあ、シグリドよ、その鳥……ひょっとしてお前の使い魔か何かか?」
持ち場に戻って行く妖獣狩人達を傍目に、くるると喉を鳴らす鴉を
『これ、火竜の子! 妖魔の女王に対して余りにぞんざいな扱いではないか』
目を白黒させながら羽毛を逆立てる銀色の鳥が発した声に、アルスレッドの顔が一瞬、凍りついた。
「で、ザラシュトラの様子は?」
『……相変わらず我の話を聞いてはおらぬようだな。これ、タルトゥスの戦士よ、せっかくの美しく精悍な顔が台無しだぞ』
何とかシグリドの手を逃れた鴉は、信じられぬものを見た、という表情で立ち尽くすアルスレッドの肩に、ひょいと飛び乗った。優雅に毛繕いを始めるその姿を、タルトゥスの若者は戦々恐々と横目で見つめている。
『かつて、スェヴェリスには、自らの魂を賭けて我ら妖魔と対等に渡り合うだけの気迫と資質を持った王が数多く居た。我が「魂の伴侶」ラーガを手に掛けた女王アシュビシスのようにな。だが、いつの頃からか、哀れな妖獣達の魂を担保にして術を編み出す下劣な輩が現れ、我ら魔の系譜はスェヴェリスと
神殿を見つめる金色の獣の瞳が、妖しい輝きを増した。
『シグリドよ、我に感謝するのだな。神殿の丘以外の結界は全て取り除いてやったぞ』
「なぜ、わざわざこの丘の結界を残したんだ?」
……聞くまでもない。悪ふざけの好きな聖魔の事だ。どうせ、少々の混乱と流血を期待して、などとぬかすに決まっている。
『これ、火竜の子、心の声が漏れておるぞ。まあ、そうでなくては面白くあるまい? 久しぶりの戦さだ、我を楽しませておくれ』
肩の上で、くるるっとほくそ笑むように鳴く銀色の鴉をどうして良いものか分からず、アルスレッドが困惑した顔をシグリドに向けた。
「アルスレッド、そいつはアプサリス。一応、力ある聖魔だ。王都の街の結界があれ程容易く崩れたのも、そいつの助けあってだろうな」
『分かっているなら、もう少し敬意を表したらどうだ? 相変わらず可愛げのない奴だ』
ふわり、と宙に舞い上がった銀色の鳥が、一瞬、妖艶な女に変わった気がして、アルスレッドは我が眼を疑った。
「おい、シグリド……今……」
神殿の上空に飛び去って行く鳥の姿が虚空に消えると同時に、大地を揺るがすような獣の咆哮が辺りに響き渡った。それを合図に、神殿の正門が開かれ、ラスエルクラティアの常備軍が姿を現した。
その身を人ならざるものに喰われ、血に飢えた獣のような唸り声を上げて幽鬼の如く歩く兵士達の姿に、ティシュトリア軍の戦士が畏怖の声を漏らした。
その憐れな身の内に、人の魂の
***
神殿から聴こえる恐ろしい獣の咆哮に身を震わせながら、ファランはロスタルの居所を抜け出した。辺りを覆う結界の「ほころび」が徐々に大きくなっていくのを不思議そうに見つめると、ゆっくりと神殿の出口を目指して歩き始めた。
シグリド、私を呼ぶあなたの声が聴こえたわ。待っていて。すぐ、あなたのそばに……
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