魂の輪廻
「
天に祝福されたその子は、なぜか決まって、王国の西の境界にある小さな村に生まれ落ちる。伝承によれば、天竜の子を身籠った聖女ウシュリアが、神殿を追われ、この地に隠れ住み、男子を産んだと云う。
パルサヴァードも、その伝統に従って選ばれた子供の一人だった。
***
ラスエルクラティアの王都に足を踏み入れたエレミア達を迎えたのは、街のあちこちで
「妖獣狩人達をタイース様と共に行かせて正解でしたな。浄化の炎が燃されていなければ、今頃、街は瘴気で
イスファルの隣で馬を進めていた術師の長が、眉をひそめて辺りを見回した。
「妖獣の匂いが其処ここに残っておりますな……狩人の荒削りな術では仕方ありますまい。今一度、我ら術師の手で浄化を執り行いましょう」
そう言って馬を止めると、後方でパルサヴァードの周りを固めていた数人の術師達を呼び寄せた。
ここぞとばかりに忙しく動き回る術師達の姿を、パルサヴァードは珍しいものを見たと言わんばかりの表情で眺めていた。
妖術師の王国スェヴェリスの滅亡と同時に、大神殿の神官達から「妖術師につながる危険な存在」との烙印を押されたため、ラスエルクラティアの術師達は、「癒しの箱」同様、虐げられる存在だというのに……
ふと、赤い巻毛の「癒しの箱」の娘を思い出し、パルサヴァードの美しい顔に陰りが過ぎる。が、前方で馬を進めるエレミアが、こちらを振り返って手招くのに気づいて、形ばかりの微笑みを口元に浮かべた。
「スフィル、エンティア、王がお呼びのようですね。前に進みましょうか」
パルヴィーズから借り受けた
「パルサヴァード殿、タイースからの伝令によれば、王都の民は街の広場で保護されているそうだ」
「ああ、それは……お心遣いに感謝致します。人影さえ見えぬので、もしや、と覚悟していたのですが」
大神官として民を想うパルサヴァードが輝くような微笑みを浮かべるのを目にして、エレミアは少し心苦しそうに口を開いた。
「女子供と年老いた者ばかりで、男達の姿が見当たらないらしい。加えて、タイースの軍を襲った化け物は、人と妖獣を掛け合わせたような姿だったとか。これが何を意味するか、だな……まあ、推測の域を出ぬが」
背筋に冷たいものを感じてパルサヴァードが思わず身震いすると、スフィルは乗り手の心に湧き上がった絶望感を読み取ったかのように鼻息を荒らげ、首を大きく上下に揺さぶった。
「やはり、巫女姫の……ザシュアの仕業なのでしょうか?」
エレミアは少し肩をすくめて苦笑した。
「シグリドがアンパヴァールの砦で見たものと同じだとすれば、の話だが。実のところ、肝心のシグリドの言葉を伝令が預かっておらぬのだよ。タイースめ、気が
先を行くイスファルが馬を止め、こちらを振り返った。その先に広がる空間に集められたラスエルクラティアの民の姿を認めて、パルサヴァードは
不思議な事に、広場全体が銀灰色の糸で綿密に編み上げられた美しい結界で覆われていた。赤い炎がちらちらと星屑のように
隣で馬を進めていたエレミアが、手綱を引いて馬を一歩下がらせる。
「さて、パルサヴァード殿、お約束通り、我がティシュトリア軍の『旗印』となって頂こうか」
「ここからは、あなたが先に進まれよ。ラスエルクラティア王パルサヴァード殿、あなたの民が待っておりますぞ」
ゆっくりと馬を進めるパルサヴァードと、その後に続くエレミアを、
何が起きているのか分からず、不安の色を隠し切れぬラスエルクラティアの民は、こちらに向かって来る一団を戦々恐々と見守っていた。怯える子供たちを抱きしめたまま、女達は肩を寄せ合い、年老いた男達は女子供たちを守る盾になろうと震える身を起こす。
祖父の背に隠れていたアマルは、一団を率いて馬を進める亜麻色の髪の貴人を不思議そうに見つめながら、祖父の上衣の裾を引っ張った。
「ねえ、お祖父さん、大神官さまって『安息の地』に行ったんだよね?」
静まり返った広場に、アマルの無邪気な声が響く。
「これ、アマル! 滅多なことを口にしてはいかん!」
祖父は慌てて幼い孫の口元を手で覆った。
「でも……ねえ、お祖父さん、ねえったら! あの人、大神官さまにそっくりだよ。僕、朝のお祈りで見た事あるもの」
祖父の手が驚きに震えるのを感じて、アマルは満面の笑顔で祖父を見上げた。
少年の言葉に人々が騒めき始める中、美しい栗色の馬に乗り、その隣に青鹿毛の馬を従えた若者がゆっくりと広場の中央に近づき、人々に優しく微笑みかけた。
その瞬間、広場に居る全ての者が呆然と息を呑み、その眼差しに惹きつけられた。
慈悲に満ちた眼差しを向けるその姿は、王都の民の記憶の中に残る大神官パルサヴァードそのものだった。
「ほら、やっぱり大神官さまだ! パルサヴァードさまぁ!」
祖父の手をすり抜け、妖獣狩人が止めようとする手を振り払って、アマルがパルサヴァードのそばに駆け寄って行く。
パルサヴァードが馬上から身をかがめ、手を伸ばして麦畑のような髪を優しく撫でると、少年は恥じらうような表情を浮かべた。
「あのね、僕ね、やっぱりパルサヴァードさまが良いです! 新しい女王さまはとってもきれいだけど……」
幼い頃から慣れ親しんだこの痛み。これは……我が民の心の痛みだ。
「だけどね……ちょっと、怖いんだ」
ざわり、と風が吹き抜けて、世界を見守り続ける大いなる存在からの声が、パルサヴァードの頭の中でこだました……己の民の痛みを受け止め、それを癒すために、備えよ、と。
もう一度、優しく小麦色の髪を撫でながら、パルサヴァードは祝福の言葉をゆっくりと唱えた。少年の瞳が明るく揺らめくのを認めて、優しく声を掛ける。
「大丈夫ですよ……ほら、もう怖くないでしょう?」
うん、と嬉しそうに大きく頷くと、アマルは祖父の元へと駆け戻って行った。
武装したティシュトリアの戦士に囲まれるようにして、突然、故国に帰還したパルサヴァードを、ラスエルクラティアの民は驚愕と困惑の入り混じった表情で見つめたまま立ち尽くしている。涙ぐみ、口元を覆って嗚咽を
身を射抜くような鋭い痛みを必死に抑え込みながら、パルサヴァードはエレミアを振り返り、ゆっくりと大きく頷いた。その姿を合図に、イスファルが広場全体に響き渡る程の声を張り上げる。
「静まれ! ラスエルクラティアの民よ、ティシュトリア王エレミア様のお言葉を聞け!」
ラスエルクラティアの民の間に緊張が走るのを感じて、エレミアは少し苦笑しながら一歩前に馬を進めると、いつになく穏やかな声で語り掛けた。
「これは、侵略ではない。我らティシュトリアは、パルサヴァード殿を擁護し、
意外な言葉に、人々の顔に浮かぶ困惑の色がゆっくりと喜びに変わっていくのを、パルサヴァードはエレミアの背後で静かに見守っていた。
猛々しい戦士の王は、ゆっくりと
「パルサヴァード殿こそ、天竜の神殿を統べる長であり、ラスエルクラティアの真の王である。天竜のご加護がティシュトリアとラスエルクラティアの上にあらんことを」
***
熱狂する民に囲まれるパルサヴァードの姿を、エレミアは馬上で腕組みをしたまま見つめていた。
ティシュトリアを出て以来、張りつめていた緊張の糸が解けたように柔らかな微笑みを浮かべる若者の顔が時として痛みに歪むのを、エレミアは見逃さなかった。もはや、己の玉座を奪った女術師と対峙するだけの体力が残っているとは、とても思えない。
「イスファルよ、パルサヴァード殿はここまでだな。あの娘が調合した薬も底をついたのだろう? これ以上、無理はさせられぬ」
「御意。『旗印』のお役目も果たされた事ですし、ゆっくりとお休み頂けるよう、術師と治癒師に申しつけましょう」
言うが早いか、護衛の一人を手招きして、耳元で何事か告げた。御意、と答えて、護衛が早足で立ち去ると、イスファルは街の中央の小高い丘に視線を向けた。
「我らが着くまで神殿を攻めるな、とタイースに厳しく申しつけはしましたが……」
「ザシュアが先に攻撃を仕掛ける可能性も拭えぬ以上、タイースは神経を擦り減らしているだろうな。我らも先を急ぐぞ、イスファル」
御意、と頷くと、イスファルは片手で虚空を振り払うような仕草で、後方に控える戦士達に前進の合図を送った。
「伝令曰く、アルスレッド様が率先してタイースを補佐して下さっているとか……さすがは名に聞こえたタルトゥス領主の右腕。頼もしい限りですな」
隣で馬を進めるイスファルの言葉に、エレミアは少し不機嫌そうに顔をしかめた。
「あれが参戦を申し出た時には、正直、驚いた。我らはタルトゥスに貸しなどないからな。『天竜を奉じる一戦士として、大神官殿をお助けしたい』などとぬかしおって……其の実、シグリドと共に、
ほお、とイスファルが驚きに目を見開いた。
「しかし、いつもの事ながら、あの娘が絡むとシグリドは頭に血が昇るようだな……狩人達が呆気に取られる勢いで、あっという間に化け物どもを斬り刻んだそうだ」
苦笑するエレミアを横目に、イスファルは弟が愛した「息子」の心情を察してため息をついた。
「……常に研ぎ澄まされた刃のような気配をまとうシグリドが、あの娘が傍らに居る時だけ、陽だまりで
紺碧の瞳が、エレミアの心を探るように見つめている。
「あやつにとって、あの娘は唯一人、命を懸けて守るに値するもの……王よ、あなたにもそのような女性はいらっしゃったはず」
エレミアの顔から笑みが消え、ほんの一瞬、痛みに貫かれたように眉をひそめた。
「……もう、遠い昔の事だ。あいつは俺の許しもなしに、勝手に『魂の安息地』に旅立って行った」
「アルスレッド様をご覧になって、あの御方を思い出されたのでしょう? 弟御だけあって、顔つきや雰囲気が良く似ていらっしゃる」
本音をつかれてぐうの音も出ぬ
「短い人の子の命が尽きる前に『魂の伴侶』を見つけ出せる者など、ごく
明るい栗色の髪を風になびかせ、細身の長剣を自在に操りながら、舞うように戦うタルトゥスの女戦士の姿が脳裏に浮かび、その最期の姿を思い出して、エレミアは苦し気に目を伏せた。
「それが、お前が後妻を迎えぬ理由か? らしくないぞ、イスファル。魂の輪廻など、信じるお前ではなかろうに……どれだけ足掻いたところで、『果ての世界』に旅立ってしまった者には二度と会えぬのだよ」
心が揺れたのを悟られまいとして、エレミアは凍えるような視線を幼馴染の護衛に向けた。古傷が浮かぶ「王の盾」の顔は、戦場に似合わぬ不思議な穏やかさを
遠い昔に失ったと思っていたものを、再び手にすることが出来た時の喜びを思い出しながら、イスファルは静かに微笑んだ。
「信じてみたいと、愚かにも思う時がございます。あの二人を……シグリドとファランを見ていると、まるで……」
どこからか、風に乗って聴こえてきた鳥のさえずりのような音に心惹かれて、イスファルは、ふと、言葉を途切らせた。
「まるで、アスランとリライラが、私の元に戻って来てくれたようで……らしくありませんな、確かに」
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