あなたと二人

 深淵の森の木漏れ日の中、うたた寝をしていた有翼の蛇グィベルがゆっくりと顔を上げて、木々の騒めきと森の獣達の息遣いに混じってかすかに聴こえる音に耳を傾けた。



 「聖なる泉」が元の姿を取り戻して以来、ヤムリカは「嘆きの森」の片隅で静かな時を過ごしていた。時に風に乗って聴こえてくる幼い鳴き声に耳を傾けては、親を失った憐れな妖獣の子に庇護の手を差し伸べる心優しい「聖なる蛇」を、泉の精霊リアナンは面白そうに「聖母様」と呼んだ。

『そうお呼びする方が、聖魔様にはお似合いですわ。ねえ、タリスニール、あなたもそう思うでしょう?』

 愛する精霊に説き伏され、得体も知れぬ「魔の系譜」が森に侵入する事を良しとせぬ森の守護者タリスニールも、幼い妖獣が聖魔の助けなしに生きていける程に成長するまで森に留まる事を、渋々ながら承諾した。

 



 もう一度、鳥のさえずりにも似たその音に耳を傾けると、ヤムリカは少し身体を起こし、紅玉の瞳で彼方の虚空を見つめた。


 この音……シグリドか?


 風の精霊達のおしゃべりに耳を澄ませてみれば、銀灰色の鴉を連れた火竜の子がティシュトリアの戦士達と共に「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」に向かったという。ヤムリカは眉をひそめて少し考え込むような仕草をすると、小さくため息をついた。

『……アプサリスがそばに居るならば、我の出る幕でもあるまい』


 虹色の鱗に覆われた柔らかな身体にしがみつくようにして眠っていた幼い妖獣が、くわぁっと小さく伸びをしながら目をしばたかせるのに気づいて、ヤムリカは温かい身体を幼子おさなごにくるりと巻き付けると、なだめるように小さな身体を優しく揺すった。

 やがて妖獣の子が安心したように再び眠りに落ちると、ヤムリカも真珠色の翼の中に顔を埋めて目を閉じた。


 

***



 夢うつつの中、遠くから聴こえてくる足音に耳を傾けながら、エスキルはゆっくりと目を開けた。



 虚空から差し出された手を驚愕の眼差しで見つめるティシュトリアの戦士達の目の前で、ザラシュトラに連れられ「狭間」に姿を消したエスキルが辿り着いた先は、荒れ果てた仄暗い地下牢の中だった。

 そうと気づいた時には、既に女術師の姿は消えていた。

 牢の扉は結界で封印されているらしく、近づこうとすれば身を焼かれるような激しい痛みに襲われた。それでも、ここから抜け出そうと何度か試してみたものの、扉も結界もエスキルをね飛ばすだけだった。

 体力を消耗するだけの行為を虚しく繰り返す事に嫌気が差し、床に座り込み、そのまま、いつの間にか眠ってしまったようだ。

 夜が明けてから既にかなりの時間が過ぎたようだ。小さな明り取りの窓から明るい光が差し込んでいる。父王率いるティシュトリア軍本隊がこの王都に攻め入るのも時間の問題だろう。

 


 気づけば、自分でも疎ましくなる程の凶暴さを身につけていた。

 無我夢中で剣を振るい、無慈悲な戦場で生き延びるために非情になる事を覚えたのは、ただ、愛情を示さぬ父の背中に少しでも近づきたいと願ったからだ。愛のない契りから生まれ出た自分が、偉大過ぎる父をいつの日か超えてやろうと足掻き続けたからだ。

 やいばを向けて尚、憐れむような瞳で静かにこちらを見つめていた父の姿を思い出し、エスキルは苦悶の表情を浮かべて、ぎりぎりと歯を食いしばった。


 愛されていたのか、俺は。


『呪われた子よ、いつかお前も、我が母がそうしたように、愛する者に刃を向ける事になるだろう』

 結局、正気を手放した母の言葉が正しかったと言う訳だ。皮肉なものだ。



 前方に広がる暗闇に、ぽつり、ぽつりと青白い炎が燃え上がり、足音と共に小さな影がこちらに近づいて来るのに気づき、エスキルはいつもの冷淡な表情を取り戻した。

「少しは頭を冷やされましたか、エスキル様?」

 薄紫色の瞳が、不思議な炎の光を取り込んで妖しげに輝いている。


 まるで夜闇の中を徘徊する魔物だな……いや、妖獣を使い魔とするこの女は、真に魔物のたぐいだ。

 ひとたび魅了されれば、魂を奪われ、逃れる事など叶わぬのだから。


「どうした、ザラシュトラ。ティシュトリア軍に王都を包囲されでもしたか? それとも、独り寝の寂しさに耐え切れず、恋しい男に逢いに来たか? 囚われの牢の中で気位の高い女を抱くのも、また一興ではあるな」

 ザラシュトラは牢の前で立ち止まり、封印の呪詛を解くための言葉を編み上げると、静かに牢の扉を押し開けた。宙に浮かぶ青白い炎が明るさを増し、牢の中を照らし出した。

「エスキル様らしいお言葉。ええ、仰る通り、既に王都の街はティシュトリア軍に制圧されました」

 床の上に座り込んだまま、エスキルは扉の外に佇む女術師を見つめて、くくっと不快な笑い声を上げた。

「ティシュトリアの戦士と妖獣狩人を相手に、獣人達だけで太刀打ち出来るとでも思ったのか、ザラシュトラ? 所詮は術師、いくさを知らぬ」

「この私が、戦を知らぬと……?」

 ザラシュトラのまとう空気が一変し、薄紫色の瞳が一層冷たい輝きを増した。

「では、エスキル様、戦の何たるやを知る戦士としてお答え下さいませ……あなたのお父上が送り込んだ戦士達がこの神殿の丘を包囲しています。彼らを相手に、この国の常備軍と神殿の護衛達だけで、どこまで持ちこたえる事が出来るとお思いですか?」

 エスキルは少し眉を吊り上げて女術師を視界に捉えたまま立ち上がると、いつもそうしていたように、ザラシュトラの方へ手を伸ばして、こちらへ来い、と手招いた。女術師はそれに応えず、愛らしい顔を歪めて不気味な微笑みを浮かべたままエスキルを見つめ返すと、口元に細い指を置いて何事かつぶやいた。


 刹那、エスキルの脳裏に、大きく翼を広げた妖魔が黒髪の少女を庇って妖獣狩人に翼を斬り裂かれ、長身の戦士達に追われた人々が、次々と斬り殺され炎に焼かれる姿が鮮やかに浮かび上がった。

 戦士の持つ刃に刻まれた神聖文字さえはっきりと読み取れる程、鮮やかな幻影。 

「ああ、くそっ……ザラシュトラ、俺に何をした?」

 妖しげな力に捕らわれたと気づき、エスキルは怒りを露わにして、頭の中に浮かんでは消える幻を追い払おうと首を大きく横に振り、長剣の柄に手を掛けて女術師を睨みつけた。


 遥か昔の記憶の糸を幻へと織り上げながら、エスキルが必死にあらがう姿を、ザラシュトラは冷ややかな微笑みを浮かべたまま見つめている。

「百年前、我がスェヴェリスを滅亡に追いやったティシュトリアの手によって、大陸の民が心の拠り所と崇める『天竜の統べる王国ラスエルクラティア』も間もなく滅び去るでしょう。そうなれば、大国間の危うい均衡などはかなく崩れましょう。多くの血が流され、大陸中が再び戦火の渦に巻き込まれ……人の子の世など、ちりとなって消え行くのですよ、エスキル様」 

 女術師が言葉を区切った瞬間、エスキルが囚われていた幻影は炎に焼かれ塵となって消え、ザラシュトラの顔からも微笑みが消えた。


 長剣の柄に掛けていた手を離して、エスキルは女術師を睨みつける。

「お前が女王の座に、いや、この王国にさえ執着がない事は知っていたが……全ては、この大陸を再び戦乱の世にするための布石に過ぎぬと言う事か。人の世が滅べば、お前とて生きてはいけぬだろうに」

 収まらぬ怒りを抱えたまま、エスキルは掴み掛るようにしてザラシュトラの身体を腕の中に捕らえると、力任せに抱きしめた。

「今でさえ、生きているとは言えぬこの身にとって、人の世の滅びなど、大した意味を持たぬのですよ、エスキル様」

 静かにささやくその声に、先程の幻影が腕の中にいる娘に起こった現実なのだと、エスキルはようやく理解した。


「……二度と、この俺を術で縛りつけるような真似はしてくれるな」

 ぴくり、と小さな肩が震えるのを感じて、エスキルはザラシュトラのあごを乱暴に掴んで顔を覗き込んだ。輝きを失った薄紫色の瞳が、一瞬、ひるむように揺れ動くのを見て、エスキルが勝ち誇ったような微笑みを浮かべる。

「そんなことをせずとも、俺はお前を離しはせん。安心しろ」

 ザラシュトラは力を振り絞って身をよじり、エスキルの腕をすり抜けると、心の内を悟られぬように女王の威厳を必死にまとい直した。

「……もう、縛りつける必要もないのですよ、エスキル様。望むものを手に入れるために互いを利用した私達の関係も、これで終わりに致しましょう」

 エスキルの手が再び女術師を素早く捕らえる。

 両腕を強く掴んで揺すぶられ、ザラシュトラが否応なしに顔を上げると、驚愕と怒りの入り混じった表情を浮かべる男の顔が目に入った。ざわり、と心の奥が熱く騒ぎ出すのを感じて、ザラシュトラは思わず目を伏せると、あらん限りの冷静さを装った。


「先程、あなたがまだ眠っている間に、全ての兵を集めました。ティシュトリアの陣営を急襲したエスキル様が、昨夜、名誉の戦死を遂げられた、と告げるために」

「……何の事だ、ザラシュトラ? 何を……言っている?」 

「あなたを必要とする理由がなくなった、と申し上げれば、お分かりになりますか? パルサヴァードの首を持ち帰るとお約束されたはずでしたのに、不甲斐ないこと……ティシュトリアとラスエルクラティア両王に刃を向けた愚かな息子を、あなたの父上がお許しになるとでも? エレミア王の嫡子としての地位を失ったあなたなど、もう利用する価値もないのですよ」

「……ザラシュトラ、めろ」

 エスキルの手が両腕をぎりぎりと締め上げ、ザラシュトラは苦痛に耐えながら悲鳴を必死にこらえると、エスキルの耳元に顔を近づけて冷ややかな声で告げる。

「さあ、何処へなりともお行きなさい、エスキル様。私はもう、あなたなど必要ありません。エレミア王の軍勢がこの神殿を制圧するのも時間の問題でしょう……生き延びたければ、一刻も早くこの国を出て大陸の最果てまでお逃げなさい。名を変え姿を変えれば……!」

 突然、獣のような唸り声を上げたエスキルが、ザラシュトラの身体を勢いよく冷たい壁に押しつけて、細い喉元を締め上げ始めた。

「ザラシュトラ! 止めろと言っている!」

 

 その怒りは、ティシュトリアの戦士としての誇りを踏みにじられたから? それとも……?

 ああ、息が出来ない……




 腕の中でぐったりと力の抜けた女術師の身体を強く抱き締めて、それ以上傷つけぬよう、慎重に床の上に座らせて手を離す。そのまま、激しく咳き込み始めたザラシュトラを見下ろしていたエスキルが、ゆっくりと顔を上げて、女術師が現れた方に視線を向けた。

 薄闇の中で、愛しい女が編み上げた青白い炎が悲しげに揺れていた。




 遠ざかって行く足音に耳を傾けながら、こちらを振り向きもせずに立ち去って行く男の影が闇の先に消え入るのを見届けると、ザラシュトラは瞳を閉じてうつむいたまま、嗚咽のような大きなため息をらした。


 ……行ってしまった。あの力強い腕の中に抱きしめられる事は二度とない。

 これで良い。これで、少なくとも……あの人は生き延びる。


「らしくない感傷だな、ザラシュトラ」

 闇の中に、ゆらりと浮かび上がった白い戦士の皮肉めいた声を耳にして、女術師は全ての感情を心の奥底にしまい込み、術師の威厳を掻き集めて顔を上げた。

「何のことです、ロスタル?」

 ロスタルは興味深げに古い地下牢を覗き込みながら、嘲笑うように小さく喉を鳴らした。

「打ち捨てられた地下牢に奴を閉じ込めて、どうするつもりかと思いきや……情が移ったか。誇り高きスェヴェリスの巫女が聞いて呆れる」

 ザラシュトラはそれに応えず、白いローブに着いた土埃を払い落とすと、背筋をまっすぐに伸ばして術師の声色で告げた。

「兵の配置は済んだのですか、ロスタル?」

「……つつがなく、術師殿」

 芝居じみた礼をすると、白い妖魔は闇の中に揺らめく「狭間」の亀裂に目をやった。

「お前の姿が見えぬ間に傭兵達がティシュトリア軍に投降するのではないか、と神官どもが動揺を隠せぬようなのでな……迎えに来た。早く戻れ、ザラシュトラ」

 こくり、と項垂うなだれるように頷いて、女術師は絡まってしまった黄金色の髪に手をやると、細く白い指でゆっくりと解きほぐし始めた。


「結局、また、あなたと二人ですね、ロスタル」


 皆、私の前から姿を消して行く。


 まだ少し痛む喉元に手をやって、ザラシュトラは小さくため息をついた。

「ディーネがこの世を去った時、あなたはなぜ、私の元を去らなかったのですか? あの憐れな子を救えなかった時点で、あなたとの契約は無きものとなったはずなのに」

 薄青色の瞳を細めて怪訝そうに少し首を傾げると、ロスタルの表情がふとやわらいだ。

「お前には借りがある」

「借り……ですか?」

 意味が分からない、とばかりにザラシュトラは繰り返した。

「ディーネを、人の子として……普通の娘として扱ってくれたろう?」

「『罪戯れ』は元々、人の子ではありませんか。何を馬鹿な……」

 ああ、と少し微笑んだ薄青色の瞳が、真っ直ぐにザラシュトラを捕らえる。

「スェヴェリスで育ったお前だからこそ、なのだろうな……お前に出会うまで、あれは『化け物』と呼ばれ忌み嫌われ、己の容姿を呪い、人目を避けていた。お前に会って、初めて心を許せる友が出来たと喜んでいた」

「たった、それだけの事で……?」

「ああ、それだけの事だ。だが、俺たち兄妹にとっては……」


 大きな救いだった。


 そう言いかけて、ロスタルは口をつぐんだ。いつになく幼く感じる術師の姿に、百年前、スェヴェリスの王城から救い出した少女の面影を垣間見た気がした。

「行くぞ、ザラシュトラ。お前が始めた戦さだ。お前の手で終わらせろ」

「……分かっています」


 差し出された大きな手を取ると、ザラシュトラは『狭間』の闇に心を翔ばした。

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