火竜のさえずり

 眼を閉じて、逢いたいと願う人を想いながら、静寂の虚空に向かって心を翔ばす。

 聴こえるのはその人の息づかいと、私を呼ぶ低く懐かしい声。ただ、それだけ。


 少しずつ手を伸ばして、また心を翔ばす。

 私を呼ぶあなたの声は、「狭間」の闇を彷徨さまよう私を、あなたの元へといざな道標みちしるべ

 

 ねえ、だから、お願い。もう一度、私の名を呼んで。



「……お願い……シグリド!」


 自分のうめき声で、ファランは目を覚ました。何気なく頰に触れた指が涙に濡れる。泣きながら眠っていたなんて小さな子供みたい、とため息をつくと、ゆっくりと身を起こして辺りを見渡した。

 暖炉の炎のぜる音だけが響く見慣れた部屋の中に、柔らかな朝の光が差し込んでいる。ファランを連れ戻して寝台に横たえた後、ロスタルはまた姿を消した。朝の祈りに戻る、と告げて。


 まだ思うように身体に力が入らない。一体、エディルはどれだけの毒の花をお茶に混ぜ込んだのだろう。毒に慣れているはずの自分でさえ動けなくしてしまう程だ、通常ならば死に至るに十分な量だったに違いない。

「命を救うべき治癒師が絶対にしてはならない事だわ、エディル。あなたをそこまで追い詰めてしまったのは……私なの?」

 答えてくれないとは分かっていても、ファランは堪え切れずに声を出した。



 ファランにとって、同じ『癒しの箱』であるエディルは、痛みを分かち合える数少ない相手のはずだった。

 術が使えぬと分かった時点で、多くの者が絶望し、治癒師になる事さえ諦めてしまう。術師にさげすまれ続ける人生を歩むより、己の力量に見合った道で生きて行く方が容易いに決まっているのだから。


 それでも治癒師である事を選んだのは、誰でもない、あなた自身のはずでしょう、エディル?

 『そこに救うべき命がある限り』と誓いを立てて。それなのに……


 はあっ、と大きくため息をついて痛む左腕に視線を向けると、エディルに押さえ付けられていた手首が赤く腫れ上がっているのが分かった。

 ロスタルは何も言わなかったけれど、白い上衣が返り血に染まっているのを目にして、エディルの身に起きたであろう悲劇など容易に想像がついた。ファランは心が引き裂かれるような痛みを覚えた。


 命を救うはずの治癒師であるのは、私も同じ。なのに、私はあなたの心を救えなかったのね、エディル。


「『果ての世界』……いえ、この国では『安息の地』と呼ぶのだったわね。そこで魂は浄化され、新たな命に宿る……ねえ、エディル、次にこの世界に生まれ落ちたなら、あなたはどんな道を選ぶのかしら」

 ファランは静かに目を閉じると、失われた魂への祈りを静かに詠唱した。

 その苦しみに終わりを告げ、絶望の果てに安らぎを得よ、と。



「治癒師の祈りを捧げる価値さえない男だったと言うのに……ファラン、お前は優し過ぎる」

 聴き慣れた声と共に、ロスタルが目の前に姿を現した。

「……どんな魂にも休息は必要だわ」

 治癒師の誇りに満ちた娘の声に、ロスタルは少しだけ眉をひそめた。

 ファランがこんな声を出すのは、決まって心にわだかまりを抱いている時だ。見かけによらず頑固な娘の性分に、初めのうちは戸惑ったものだ……まだ幼かった頃の娘の姿を懐かしく思い出しながら、小さな肩を抱きしめようと、ロスタルはゆっくりと手を伸ばした。


 突然、目の前の白い戦士から漂う血の匂いと禍々まがまがしい気配に包まれて、ファランは激しい吐き気と痛みに襲われた。

 身を強張らせてこちらを見つめる娘の姿をロスタルが認めた瞬間、ファランはあえぎ声を上げて寝台に崩れ落ちた。

「ファラン!」

 愛しい娘を抱き起そうとするロスタルの腕を、ファランが必至にね退ける。

「駄目、止めて……! その手で……血に染まったその手で……私に、触らないで……止めて、ロスタル!」

 半狂乱で叫び声を上げるファランの頭の中で、あの日、シグリドの心を刺し貫いた拒絶の言葉が甦った。 


『駄目よ……こっちに来ないで。ロスタルに触らないで……止めて、来ないで!』



 ……ああ、そうだ。


 私だけをずっと待ち続けてくれたあの人を、私はどうしようもない程に傷つけてしまったんだわ。魂を癒す祈りを唱えるはずの声で、あの人の心に癒えようのない傷を残してしまった。

 どれだけ心を翔ばしても、どれだけあなたの事を想い続けても、あなたが私の名を呼んでくれるなんて……私には、そう望む事さえ許されないんだわ。




 まるで魂が抜けてしまったかのように、急に大人しくなった娘をしっかりと抱きしめると、ロスタルは力なく身体を預けるファランの髪を優しく撫でた。

「大丈夫だ、ファラン。お前が何と言おうが、俺は決してお前を手放しはしない」


 ……ああ、そうね、ロスタル。あなたはいつもそばに居て、見守ってくれていたわ。「狭間」で出逢ったあの日から、ずっと。


「お前の命尽きるまで、共に居よう。お前の生まれ故郷に戻って、小さな庵を構えて二人で暮らそう……そうすれば、お前も好きなだけ治癒師の仕事に専念できるだろう?」


 そうね、それも良いわね。冬のないプリエヴィラの草原には、きっと今頃、沢山の美しい花が咲き誇っているわ……



 心配そうにこちらを覗き込むロスタルの頬に小さな手をそっと添えると、ファランは寂し気に微笑んだ。

「そうね、ロスタル……あなたと二人で、一緒に……」

 そう言いかけたファランの隣で、突然、ぐにゃりと歪んだ空間から金色の目の妖獣が現れた。翼の生えたクズリのような使い魔は、神殿の護衛の一人にそっくりな声で告げた。

「ロスタル殿に伝達! 急ぎザシュア様の元へ戻られよ! 女王は常備軍と全ての護衛を徴集され……」

 ちっ、と小さく舌打ちして、ロスタルは片手で素早く使い魔を掴み、「すぐに行く」と苦々しくつぶやいて、そのまま、揺らいだ空間に放り投げた。憐れな妖獣が小さな悲鳴を上げて「狭間」の闇に消え入ると、ロスタルはもう一度ファランを引き寄せて強く抱きしめた。

「ロスタル……? 戦士を集めて、ザシュア様は一体何をするつもりなの?」

 不安そうに見上げる青灰色の瞳に吸い寄せられるように、ロスタルはファランの額に唇を押し当てた。

「心配するな。すぐに全てが終わる。そうすれば、お前と二人……」


 ふいに、窓の外に目を向けたロスタルが、顔を歪ませて唇を噛み締めた。


 その仕草を不思議そうに見つめながら、ファランは鳥のさえずり声にも似たかすかな音を聴いたような気がした。

 娘が少し首を傾げて耳を澄ませるのに気づき、ロスタルは開け放たれていた窓に手を掛けた。が、もう一度、今度ははっきりと、結界の外から響き渡る音がファランの耳に届いた。

 知らない人にとっては「鳥のさえずり」にしか聴こえぬ指笛の音。

 その懐かしい響きに、ファランの胸の鼓動が高鳴った。



『ねえ、もう一度、私の名を呼んでみて』


 初めてシグリドの腕の中で目覚めた朝。少し苦笑いしながら指笛を鳴らして「今のがお前の名前」と教えてくれた黒髪の火竜を想って、あふれ出る涙と愛しさをこらえることなど、ファランには出来なかった。



***



「まさか、『火竜のさえずり』をこんな間近で聴く日が来ようとは」

 アルスレッドは少し呆れたような顔で、丘の上に向かって指笛を鳴らすシグリドを見つめていた。

 神殿がそびえる小高い丘の周囲は、タイース率いるティシュトリア王都軍の先発隊によって慎重に包囲されつつあった。



 いち早く丘の麓にたどり着いた妖獣狩人達が、丘全体に張り巡らされた結界の堅固さに息を呑む姿を目にして、さすがのアルスレッドも、一筋縄ではいかぬ者を相手に戦いを起こしたエレミア王を心の底で密かに呪った。

 張り詰めた空気の中、指笛を耳にした「王の盾」の年若き息子が緊張で顔を歪めるのが遠目にも分かる。エレミア率いる本隊を待たずして、神殿を墜とす必要に迫られる最悪の事態だけは、タイースも避けたいのだろう。

「シグリドよ、あの神殿の中にファランが居るという根拠など、何処にもないのだろう?」

 丘の上を見つめたまま、黒髪の火竜はアルスレッドの問いには答えず、胸元から護符の石を取り出して握りしめた。

「おい、その石……やけに輝きが増してやいないか?」

 シグリドが肌身離さず身につけている青い石が、ファランから譲り受けたものである事は、アルスレッドも薄々勘付いていた。だからと言って、それが不可思議な力を秘めているなど、「魔の系譜」の力を目にした事がないアルスレッドには信じようがなかった。



 ……近いな。

 元は一つだった石が、お互いを呼び合いながら光を放つ。石の輝きが増せば増すほど、それだけ近くに居る……だったな、アプサリス?


 シグリドの心の声に答えるかのように、肩に止まっていた銀灰色の鴉が、くるると鳴いて、満足気に金色の瞳を細めた。

「あの丘の上に居る、はずだ」

 ファランが自分の名前の響きを覚えてくれていると良いが。


 祈りにも似た思いを抱きながら、シグリドはもう一度、空を見上げて指笛を鳴らした。

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