王都侵攻
「
大規模の城塞都市では、夜明けと共に広場には朝市が立ち、新鮮な大地の恵みや異国からの珍しい品物を扱う商人達と行き交う人々の声で賑わうのが常だ。王都の街ともなれば尚更だ。
だが、朝市の賑わいはおろか、人影さえ見当たらない。通りに面した家々の扉は固く閉ざされ、人々は気配を押し殺したまま建物の奥に潜んでいるようだった。
死に絶えたような街の姿とは対照的に、街の中央にある小高い丘の上にそびえ立つ白壁の神殿が、朝の光を浴びて神々しい程に
「さすがは天竜の神殿、なんとも幻想的で荘厳な美しさ、と言うべきか……」
アルスレッドの皮肉交じりの言葉を掻き消すように、シグリドの背中で「魔の系譜」の気配を嗅ぎつけたヴォーデグラムが低く妖しげな声で歌い出した。歌声が、次第に狂喜に酔いしれる叫び声へと変わっていく。
「せっかくの景色を楽しませてもくれぬか……まったく、風情を知らぬ
ただならぬ気配を感じて警戒を強める妖獣狩人達を傍目に、アルスレッドは優雅な仕草で長剣を引き抜いた。
縦長の獣の瞳をぎらぎらと輝かせ、だらしなく開いた口元に光る牙の間からよだれを垂れ流しながら、獣人達は狩人が持つ独特な形の武器を興味ありげに見つめたまま鼻をひくつかせている。どうやら、匂いを嗅ぎながら獲物に喰らいつく機会を伺っているようだ。
と、ひと
ヴォーデグラムの叫び声に耳を射抜かれた数匹の身体を、憐れみを知らぬ漆黒の刃が容赦なく斬り裂き、シグリドの足元に獣人の頭が、ごろり、ごろりと転がり落ちる。狩人達はいくつかの円陣を組みながら、手慣れた様子で獲物を追い詰め、確実に息の根を止めていく……
その姿に驚嘆しながら、アルスレッドは人と妖獣の混じり合った不気味な生き物の動きを見切って、思い切り喉元を掻き斬った。
「アルスレッド、首を落せ!」
シグリドの鋭い声に、アルスレッドは手に掛けたばかりの獣を振り返った。
ぱっくりと開いた喉元から、ひゅうひゅうと不気味な音を立て、大きく
ふうっ、と大きく息をついて、アルスレッドは首筋に流れる汗を拭い、次の獲物目掛けて剣を振り上げた……
切り刻まれた獣の身体が累々と転がり、その骸が放つ異臭が瘴気の毒となって王都の街に漂い始めた頃、いつの間にか
「浄化の炎か……術師崩れあっての妖獣狩人とは良く言ったものだ」
アルスレッドは狩人の一人を手招くと、森の外れで軍を待機させたまま時を待つタイースに事の詳細を報告するよう命じた。御意、と
「知らぬようだから教えてやるが、契約に縛られる事を嫌う自由の民を『術師崩れ』と
悪かったな、と思わず苦笑するアルスレッドの背後で、閉ざされていた扉が、ぎいっと音を立てた。
シグリドが警戒の色を強め、アルスレッドも滴り落ちる血が未だ乾かぬ剣の切っ先をそちらに向けた。
はあっ、と小さく息を呑む声がして、ゆっくりと開かれた扉に隠れるように、小さな影が顔を覗かせた。ぼさぼさの麦畑のような髪が妙に愛らしい少年を庇うように、後ろから小さな肩をしっかりと掴んで離さぬ老人の姿があった。
「なんだ、子供か」
アルスレッドは剣を鞘に戻し、制止するシグリドの手を払いのけて少年に近づくと、幼い顔の高さに視線を合わせるように片膝をつき、不安に揺れる瞳を覗き込んだ。血に塗れた戦士を前にして、少年の表情が凍りつき、びくりと身体を震わせる。
タルトゥスの貴人を必ず守れ、と厳命するイスファルの声を思い出し、シグリドは小さく舌打ちすると、物好きな貴族の男の傍らに忍び寄った。
「怖がらせて悪かったな。お前、名は何と言う?」
震える口が何事か告げたが、アルスレッドには聴き取れなかった。
「アマル、と申します。旦那様、どうかこの子の御無礼をお許し下さい」
少年の後ろで、老人が静かに声を上げた。毅然とした態度の老人に、アルスレッドが優雅に微笑みかける。
「『
「おじさん……戦士なの?」
「これ、アマルっ! 失礼な口を……」
アルスレッドが思わず笑い声を上げ、傍らで渋い表情を浮かべるシグリドに目配せした。
「ああ、おじさん達は悪い魔物を退治するために、ある御方の命を受けてこの国にやって来た戦士なんだ。アマル、あの化け物達の事を何か知っているか?」
恐々と浄化の炎を見つめながら、少年が小さく頷いた。
「うん、知ってる。僕たちを敵国の戦士から守るための使い魔だって、朝のお祈りで女王様が言ってた。だけど……」
アマルの身体がわなわなと震えだしたのに気づいて、老人が少年をしっかりと抱きしめた。
「この子の父と兄は、神殿に連れ去られたまま戻らぬのです……思い出したのでしょう」
「連れ去られた? どういう事だ?」
老人は困ったように首を横に振りながら、すがるような目でアルスレッドを見つめた。
「ザシュア様が女王となってからと言うもの、神殿に奉仕するという名目で街の男どもが否応なしに連れて行かれ……戻って来た者は一人も居りません。ちょうどその頃からです。あの化け物どもが街を徘徊し、人々を襲うようになったのは。いまやこの街に残されたのは、女子供と私のような老骨のみ」
老人は怒りと悲しみで疲れ切った顔を神殿に向けた。
「パルサヴァード様がお亡くなりになって、この国は変わってしまった……あの御方が守り続けて下さったラスエルクラティアは、あの御方と共に消えてしまいました」
「でも、兄さんと父さんによく似た目をした獣がね、僕を見て、アマルって、呼んでくれたんだよ」
老人を見上げて声を張り上げる少年の様子を見て、アルスレッドは
「アマルは獣を見たのか?」
少年の澄んだ瞳が嬉しそうに輝き、目の前に
「うん。夜中に窓の外を見ていたら、向こうから近づいて来たんだ。初めは怖かったけど……僕らを守ってくれてるって分かったんだ」
「その獣達は今、何処にいる?」
びくっ、と大きく身体を震わせた少年の目から涙が零れ落ちる。見かねて、老人が小さな肩を優しくさすり始めた。
「不思議な事に、毎夜、この子に会いに来ていたその化け物達は、この子を襲えと命じられても動こうとせず……業を煮やしたエスキル様の手で斬り殺されました」
祖父にしがみついたまま、アマルは泣きじゃくりながら必死に言葉を紡ごうとした。
「兄さんはいつも言ってた。一生懸命、天竜様にお祈りすれば、必ず願いを叶えてくれるって。だからね、僕、毎日お祈りしてるんだよ。兄さんと父さんによく似たあの獣達の魂が『安息の地』に辿り着きますようにって」
アルスレッドの脳裏に、タルトゥスに残して来た年下の従妹の姿が浮かんだ。
冷たくなった兄の骸を前にして、蒼白の面持ちで天を仰ぎ、
『どうか、兄上の魂が「安息の地」に辿り着きますように。兄上、そこで私を見守りながら、待っていて下さい』
「良い子だな、アマル。お前の祈りは必ず天竜様の元へ届くだろう。小さなお前に幸せが訪れるように、私も天竜様にお祈りしよう」
アルスレッドは優しく少年の頬に触れ、祝福の口づけを与えた。驚いたアマルが、少し恥ずかしそうに、くすくすっと笑い声を上げる。
「ご老人、間もなく、ティシュトリア軍がこの王都に攻め入るだろう……白旗を掲げて迎えるよう、街の者に伝えてくれ。刃を向けぬ者は捨て置くのが彼らの流儀だ。軍を率いるタイース殿は慈悲深い方ゆえ、あの方に助けを求めれば必ず手を差し伸べて下さるだろう」
驚きに打たれて呆然とする老人に、アルスレッドは微笑みを湛えたまま清々しい声で告げた。
「我らの願いはただ一つ。大陸の和平を願って止まぬ心清らかな御方のために、この王国を解放する」
タルトゥスの戦士の隣に無言で佇む黒髪の戦士に、アマルが
恐る恐る伸ばされた小さな手が、そっと黒い竜の腕に触れた。
「ねえ、これ、天竜様?」
シグリドは少し首を傾げて少年に目をやると、遠い昔、養父が自分にしてくれた仕草を思い出しながら、少年の頭に、ぽんと大きな手を乗せた。
「いや、違う。天竜は何色だ?」
「ええと……青色、かな? あ、でも女王様の神殿にいる天竜様の使い魔は真っ白だよ」
天竜の使い魔……?
シグリドは眉をひそめてアルスレッドに視線を向けた。
やはり、妖獣を操っているのはザラシュトラだ。アプサリスが鴉の姿のままでいるのも、あの女に気取られぬよう気配を隠すためだろう。
「
少年はこくり、と頷いて、考え込むような仕草をすると、シグリドの腕にもう一度触れた。
「分かった! 天竜様の弟は黒い竜だよね。でも……その竜は悪い事をして天宮を追われたんだよ。罪を背負って地上に落とされて、翼を焼かれた、って語り部が言ってた」
「弟竜のレンオアムは炎の精霊を好きになっただけだ。自分と異なる種族の者を愛する事は、決して罪じゃない」
隣で、行くぞ、と目配せするアルスレッドに静かに頷いて、歩き出そうとしたシグリドの腕を小さな手が引き留めた。
「ねえ、天竜様のそばから離れて、弟竜は本当に幸せだったの? 翼がなくちゃ天竜様のところに飛んで行けないのに……」
真っ直ぐ注がれる少年の瞳を見つめ返した黒髪の火竜は、くしゃり、と優しくその髪を撫でた。
「……
左腕に刻まれた黒い竜を見つめる小さな瞳が喜びに満たされるのを認めると、シグリドは少年を祖父の腕の中に押し戻して、足早にアルスレッドの後を追った。
***
朝の祈りの
神殿で祈りを捧げていた人々が騒めき立ち、ロスタルの気配が消えたのを感じ取って、ザラシュトラはただならぬ不安を覚えた。
「ザシュア様、何事でしょう?」
背後に控える巫女が、震えながら小さな声でささやいた。
正門の結界が何者かの手によって破られたのは確かだ……周りの者に胸中を悟られぬよう、ザラシュトラは高らかに声を上げた。
「聖竜に選ばれし我が民よ、静まりなさい……どうやら、天竜様のお怒りがティシュトリアの上に
ロスタルが命に背いて姿を消したのは、何もこれが初めてではない。
元々、
お付きの巫女達を従えて、神殿の奥にある水鏡の間へと急ぎ足で向かうザラシュトラの前で、ぐらりと揺れた空間から白い妖魔が姿を現した。
「ああ、ロスタル。正門の結界が崩される気配を感じましたが……先程の音は、やはり、ティシュトリアの仕業でしたか?」
ロスタルは無言のまま、手にしていた何かを女王の前に放り投げた。
どさり、と鈍い音を立てて床に転がったそれを覗き込んだ一人の巫女が、鋭い悲鳴を上げて床にしゃがみ込んだ。他の者達も、恐怖のあまり凍りついたように動こうとしない。
そこにあるのは、血塗れの腕。
苦しそうに歪められた指先が若草色に染まっているのは、薬草を扱う事を
手首に絡みついた絹糸のようなものを目にして、ザラシュトラが
「……何のつもりですか、ロスタル?」
「それはこちらの台詞だ。なぜ、エディルにファランを襲わせた?」
何の事だか分からない、と言う表情で、薄紫色の瞳がロスタルを見上げている。
「あの娘が襲われたのですか? この神殿内で? ああ、なんて恐ろしい……護衛の手落ちですね。愚かな彼らに、相応の罰を与えねばなりません」
「なるほど、あくまでも
薄青色の瞳が一層冷たさを増し、ザラシュトラの心が、ざわりと震えた。
それを見透かすように、ロスタルは
「ザラシュトラよ、俺が同じような手落ちをせぬよう、精々、天竜に祈っておけ。あの娘に手を出せば、その首、
わなわなと怒りに震える女王を後に残して、白い妖魔は「狭間」の闇に消えた。
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