あなたのその手で

 契約、と女王は言った。


 その代償として、なぜ、このような物を望まれるのだろう?



 細い腕にはめられた銀の腕輪をゆっくりと指でなぞりながら、エディルは眠りに落ちた娘に目を落とした。

 小さな身体を包み込むように広がった赤い巻毛が、時折、壁の隙間から吹き込む夜明けの冷たい風に、ふわりと揺れる。その様子が、古い伝承に語られる炎の精霊を思い起こさせた。

 この国の女と比べて何とも貧弱な身体つきは、少女のままの姿で時が止まってしまったかのようだ。人目を惹くほど美しいわけでもない。異国の生まれと治癒の技に秀でている事以外、実に平凡な娘だ。

 それなのに……

 

『奪い取るのだ。あの娘の腕にある銀の腕輪を、この私に捧げよ。そうすれば、手に入れたいと願って止まぬものがお前のものになるだろう……どうだ、エディルよ、術師との契約の代償としては悪くはなかろう?』


 頭の中でザシュアの言葉を何度も思い返しながら、エディルの指が腕輪にはめ込まれた青い石をそっと撫でる。その輝きが前よりも増して見えるのは、気のせいだろうか。

 不意にファランがうめき声を上げて身をよじり、腕輪をなぞっていたエディルの指が驚きに固まった。小さな指先が、ぴくり、ぴくりと動き、娘の顔が苦しそうに歪むのを、エディルは信じられない思いで見つめていた。


 ……嘘だろう? 毒に慣れた術師でさえしばらく動けぬ程の量のダチュラをお茶に混ぜ込んだはずなのに。


 小さく舌打ちすると、苛立ちを隠せぬまま娘の細い腕を乱暴に掴み上げて、力任せに腕輪を引き抜こうとした。が、手首でつかえてどうしても外れない。

 目を凝らして腕輪をよく見ると、石を支える台座の下に留め具らしきものがある。どこをどう動かせば外せるのか、エディルには見当もつかない不思議な形をしていた。

「……どうなっているんだ?」

 薬草を摘むための短剣を腰帯から引き抜き、台座の下に切っ先を滑り込ませて留め具を壊そうともしたが、びくともしない。

 また、ファランが身じろぎし、小さく咳き込んだ。


 ああ、くそっ……落ち着け、エディル。つまらぬ腕輪一つで、心が狂いそうになるほど望んでいたものが手に入るのだ。これさえ奪い取ってしまえば、後の事はザシュア様に任せてしまえばいい。


『お前が娘に何をしようが、娘の記憶をすり替えてしまえば恨みも残らぬ。愛する者への想いさえ、忘れさせてやろう』


 そうだ、大切な腕輪の事も、ロスタル殿の事も、全て忘れてしまえばいい。夢の中でさえ思い出さぬように……


 もう一度、力任せに青い石と台座の隙間に刃先を押し込もうとして、勢い余って手が滑り、腕輪を押さえていた指を傷つけた。エディルは思わず小さく毒づいて、掴んでいた娘の腕を投げ出した。

 力なく夜具の上に滑り落ちる腕に光る腕輪が、からり、と乾いた音を立てた。



 混濁する意識の中で、誰かに腕を掴まれている事だけはファランも薄っすらと感じていた。その手を振り払おうとしても身体に全く力が入らず、わずかに指先を動かすのが精一杯だった。

 こつり、こつりと金属が触れ合う音と左腕に伝わる振動で、どうやら誰かが腕輪を壊そうとしているらしい、とぼんやり思った。


 無理よ、それには持ち主の意思に反して外せないよう、術が掛けられているの。

 いつの時代に誰がそんな術をかけたのか伝えられていないけれど、加護の石を守るためにいにしえの術師が仕掛けた呪いだとも言われているわ……


 ファランは動かぬ舌で、何とか言葉を紡ぎ出そうと必死に声を絞り出した。

「外れない……わよ……ちょっとした……細工がしてあるの……」


 全身に冷たいものが走り抜けたように、ぎくりと身体を強張らせたエディルが、寝台に横たわる娘に困惑の眼差しを向けた。


 そんな馬鹿な……眠りに落ちた者を何日も目醒めさせぬ事で知られる毒草を口にして、まだ意識を保っていられるなどあり得ない。この娘、一体どれほどの毒に耐性があるんだ?


「……ファラン、気がついたのですか?」


 ああ、情けない。

 私とした事が、声が震えているじゃないか。


 眠りに落ちまいとあらがうように指先を動かす娘を見て、エディルは娘の胸元に耳を近づけた。とくり、とくりと微睡まどろむような静かな鼓動が聴こえる。そのままの姿勢でファランの顔を見上げると、エディルは唇の端を吊り上げて目を細めた。

「脅かさないで下さいよ、ファラン。まだ動ける状態ではないのでしょう? さあ、お眠りなさい。そうすれば、恐怖も痛みも感じずに済みますから……」

 おもむろにファランの左腕を掴むと、動かぬように片膝を乗せて押さえつける。

「あなたが悪いのですよ、ファラン。同じ『癒しの箱』とは言え、良く知らぬ男に安易に心を開き、疑いもせずに一人でのこのことやって来たりするから……本当に危なっかしい。だからこそ、ロスタル殿はあなたをご自身の居所に囲っておこうとされたのでしょうね……愚かな娘だ。鳥籠の中にいれば傷つかずに済んだものを」

 エディルは、するりと腰帯を外して、細い手首を縛り上げるようにきつく巻き付けた。

「大丈夫、すぐに終わります。なるべく痛みを感じないようにしてあげますから……」



 左の手首をきつく縛られ指先が急激に冷たくなっていくのを感じて、短剣を手にして自分の身体を押さえつけている治癒師の男がこれから何をしようとしているのか、ファランは一瞬にして理解した。言い知れぬ恐怖に心が折れそうになる。

「嫌……止めて……お願いよ……」

 弱々しく懇願する娘の姿に、エディルは勝ち誇ったように顔を歪めた。

「意識など手離しておしまいなさい、ファラン。そうすれば、すぐに終わりますから」

 冷たく光る刃先を娘の手首に押し当てると、エディルの心の奥底で、ざわりと冷たい炎が燃え上がった。

「外れないのだから仕方がありません。手首を切り落として奪うしかないでしょう? 大丈夫ですよ、左手を失ったところで、利き腕さえ残っていれば、治癒の施術は出来ずとも、『癒しの箱』本来の姿である薬師としてひっそりと生きていけば良いことです」

 短剣を握りしめた右手の親指でゆっくりと腕輪をなぞると、エディルは心を決めて腕に力を入れようとした。

 まさにその時、ファランの頬に涙が伝い落ち、震える唇が何事かを告げる。エディルは困ったように眉をひそめて手を止めた。

「何ですか? 聴こえませんよ、ファラン。怖いのなら、目を閉じたままでいて下さい」 


 もう一度、ゆっくりと、だが、はっきりとファランはその人の名を呼んだ。

「ロスタル」





 エディルは右肩に、ちりりと冷たいものが走った気がした。


 刹那、焼けつくような痛みに襲われ身体を弓なりにすると、勢い余ってファランを押さえ付けていた寝台から床の上に転がり落ちた。

 深手を負わされた獣のような低い唸り声を上げながら、震える左手で右の肩に触れる。

 その瞬間、エディルは全身をがたがたと震わせ、血走った目を大きく見開いたまま視線をゆっくりと動かした。

「嘘だ、そんな……無い……私の右腕が、無い……!」


 ファランの左手のすぐそばに、持ち主を失った血塗れの腕が短剣を握ったまま転がっている。エディルは狂ったように立ち上がってそれを取り戻そうとした。が、大量の血と平衡感覚を失った身体は思うように動かず、倒れ込んだまま床の上を這いずるしかなかった。



「お前の利き腕は右だったか?」

 いつの間に現れたのか、ぞっとするほど冷たい表情を浮かべた白い戦士は、血溜りの中に転がる男を凍てつくような薄青色の瞳で見つめていた。

「片腕を失ったところで、『癒しの箱』本来の姿である薬師として、今まで通りひっそりと生きていけば良い……そうだな、エディル?」

「ロスタル殿……! どうして……こんな……ひどい……」

 苦悶の表情を浮かべて身体を震わせるエディルをよそに、ロスタルは寝台に横たわるファランに近づいて小さな身体をそっと抱き上げると、赤い巻毛を優しく撫でながら、耳元に顔を寄せて優しくささやいた。

「ファラン、俺の名を呼ぶお前の声が聴こえた」


 まだ思うように動かぬ身体を優しく包み込んでくれる懐かしい温もりを感じて、ファランは力なく微笑むと、ゆっくりと意識を手放した。

 深い眠りに落ちたファランをしっかりと抱きしめたまま、ロスタルは喘ぎながら床を這いつくばる男を見下ろした。




 狭間の隅で、朝の祈りを捧げるザラシュトラの姿をぼんやりと見つめている時だった。

 今にも消え入りそうな声が自分の名を呼ぶのに気づき、胸騒ぎを覚えて声のする方へ翔んでみれば、愛しい娘が寝台の上で男に羽交い締めにされていた。

 短剣を握る男の手が、細い手首を切り落とそうとしているのだと察するや否や、ロスタルは男の肩に長剣を振り下ろした……


「それだけの血を失っては、そう長くは持つまい。エディルよ、この娘に手を出したのが運の尽きだ」

 エディルは残された左腕をロスタルに向けて必死に伸ばした。

「ロスタル殿、あなたがいけないのですよ……その娘を手放そうとせず、その腕の中に閉じ込めようとされるから……籠の中の小鳥を愛でてばかりいるから……」

 ずるり、ずるりと身体を這わせていた男の、血に塗れた左手が、ロスタルの足首をぎりりと掴む。

「なぜ、その娘なのです? 私も……その娘と同じ『癒しの箱』なのに……治癒院で、初めて言葉を交わした日……花の名前を知って微笑んだあなたが……私の名を呼び、気に掛けて下さるあなたが……私が摘んだアキレアの花を愛しそうに見つめる、あなたが……」


 これは、腕を失ったからだけではない。この痛みは……


「私から離れていくなんて……許せない。その娘が現れてからだ……もう、あなたは私を見つめてはくれない……治癒院で、以前のように私の名を呼ぶ事さえも……」

 朦朧とする意識の中で、エディルは心の奥底に秘めていた想いを、これ以上、隠し通す事など出来なかった。

「その娘さえ居なくなれば……また、あなたは私を見てくれるのでしょう? 大丈夫……あのお方が、その娘の記憶を全て消し去ってくれます……娘が戻りたがっていた男の元へ、送り届けてくれます……この国の事も……あなたの事も忘れてしまえば……」

 くくっ、と耳障りな声を上げて、エディルはまるで夢見るように、恋焦がれた男を見上げて微笑んだ。

「ロスタル殿、あなたは……私のものだ、私だけの……!」

 

 足元に伸ばされた手首に絡まる黄金色の髪に気づき、ロスタルは激しい憎悪と怒りに駆られた刃で、エディルの心臓をひと突きにした。


 

 『癒しの箱』と蔑まれ続けた私に、あなただけは……ああ、愛しいあなたのその手で、この命を終わらせる事が出来るなら……


 

***



 黎明の空の下、朱に染まった夜明けの光が「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の王都を赤黒く浮かび上がらせていた。


 まるで、砦自体が返り血でも浴びたようだな……


 シグリドは、血に染まった長剣を手にしたまま、目の前の城砦を見上げた。



 砦の正門を守る常備兵達に音もなく忍び寄り、野生の獣の俊敏さで一人、また一人と確実に息の根を止めていく「火竜」の傭兵を、妖獣狩人達は驚愕の息を押し殺したまま見つめていた。

 シグリドのかたわらで、最後の一人にとどめを刺したアルスレッドが、狩人達の方を振り返りざまに長剣を空に向けて高く掲げる。それを合図に、言葉を編み上げながら待機していた狩人の一人が砦に向けて呪詛を解き放った。

 その瞬間、結界に守られ固く閉ざされていたはずの正門が、轟音を立てて崩れ落ちた。


「なんとも豪快だな……今のは王都の奥底まで響いたぞ」

 アルスレッドが呆れ顔でぼやき声を上げると、シグリドは、だから何だ? と言わんばかりに肩をすくめた。その肩に、何処からともなく現れた銀灰色の鴉が舞い降りて、タルトゥスの戦士を獣の瞳で見つめながら、嘲笑うように、くるると鳴いた。

「行くぞ、アルスレッド。ここから先はあの女術師の支配下だ。命を無駄にしたくなければ、つまらん貴族の作法など捨て去れ」

 瓦礫と化した正門を軽々と越えて先へ進む狩人達に目を向けたまま、シグリドは肩に止まっている銀色の鳥を振り払おうと、片手で小突いてみる。が、鴉は気にも留めぬ素振りでそこに居座る事を決めたようで、黒髪をついばみながら悠長に毛繕いを始めた。

 大きなため息を吐くと、シグリドはそのまま狩人達の後に続いた。


「やれやれ……貴族の誇りまでは捨てられぬよ」

 アルスレッドは不敵な微笑みを浮かべると、黒髪の火竜の後を追ってラスエルクラティアの王都に足を踏み入れた。

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