第3章 渇望の果て
夜明け前
夜明け前の薄暗い森の中を、ラスエルクラティア目指して慎重に歩みを進めながら、タイースは心に湧き上がる不安を必死に
一軍を率いるのは初めてではない。「王の盾」イスファルの子として幾度となく戦場に赴き、死の予感を間近に感じた事も少なくない。
だが、この戦さは今までとは違う。意思に反して人を殺め続け、己の手を血に染め続けるのは、これで最後にしようと心に誓ったのだ。
『私を旗印にお使いなさい』
そう言って、己を守る
『旗印となるべき者が旗を掲げなければ、意味がないでしょう?』
優しい微笑みを浮かべたまま、女王ザシュア配下の刺客達を
あの方の心の強さの
自らが思い描く未来に向かって迷いも疑いも抱かずに突き進む、あの強さがあったならば。
『あなたが望めば、今とは違う未来が必ずやって来るわ』
そう言って、希望を捨てずに歩み続ける事を教えてくれた治癒師の娘。屈強な戦士達に囲まれた協議の場で、臆することなくパルサヴァードの参戦をエレミア王に進言する勇気が、あの小さな身体のどこから湧いて来たのか。
ファランの一途さは、希望を失っていたタイースの心に再び光を取り戻してくれた。あの娘に出逢わなければ、心にわだかまりを抱いたまま、父が望む人生を歩んでいたに違いない。
戦士でもない者達の方が、私よりも強い。
傷つきながらも己が信ずる道を歩み続ける彼らの方が、ずっと……
「タイース様、お父上のように冷徹であれ、とは申しません。ですが、常に冷静さは失わぬように」
新雪を踏みしめながら歩みを進める戦士達の足音に紛れて、背後に付き従うアルファドの静かな声が、タイースを現実の世界に引き戻した。
「……そうあろうと
イスファルの護衛として何度も死線を潜り抜けたアルファドは、タイースが「命の奪い合い」に不向きな事など百も承知だった。
幼い頃から実の弟のように世話を焼き、剣術の稽古の相手をし、望みもしない次代の「王の盾」となる事を強いられた青年が真に望むのが、戦さのない静寂な世である事も知っている。優しすぎる心が、誰かの命を奪う度、現実と理想の
そして……
「王の盾」イスファルが、唯一残された息子に託したのが一軍の指揮だけではない事も、アルファドは痛切に感じていた。
『パルサヴァードに祖国の地を踏ませまいとする刺客が、エレミアの陣地に向けて放たれた』との知らせが、ラスエルクラティアに潜んでいた「王の目」の犠牲と引き換えに、イスファルの元に届けられた。
「パルサヴァード様の狙い通りですな。しかし、大陸の傭兵の寄せ集めであるラスエルクラティア常備軍の中に、我らティシュトリア軍に夜襲を掛けようなどと肝の据わった愚か者がいるとも思えませぬが……」
眉をひそめるイスファルを前に、エレミア王が端正な顔を歪めて奇妙な薄笑いを浮かべる。
「一人いるだろう? まさか、本気でこの俺に刃を向けるとはな……イスファルよ、エスキルの首は俺が上げる。その旨、全軍に申し伝えよ」
言葉とは裏腹に、エレミアの顔に苦悶の表情が
「……御意。王よ、軍を二手に分け、刺客を迎え撃つ間に、先陣をラスエルクラティアへ向かわせましょう。エスキル様も、お一人で夜襲を掛けるほど無謀ではありますまい。自らが選んだ手練れの者を引き連れているはず。ならば、神殿の警護は手薄になるでしょう」
「だが、王都の結界は『王の目』さえ阻んだのであろう? 邪悪な妖術師に守られた砦を落とすのに、手勢の半分で太刀打ちできるとは思えぬが」
「シグリドによれば、ザシュアは……ザラシュトラ、と言うのが真の名のようですが、あの女術師は使い魔を操る事に秀でてはいても、己自身を戦いの場に置く事は避けているようです。護衛なしで術を使う危険を知っているのでしょうな……アンパヴァールの砦は外壁を人の子の兵士が護り、王城は使い魔である妖獣達が護っていたそうです。幸い、従軍している妖獣狩人の中には術師崩れの者が多く居ります。シグリドとアルスレッド様を先陣に置き、あの二人を斥候として、軍はタイースに預けると致しましょう」
「タイースに? 少々無謀な気もするが……あれは心根が優し過ぎるのでな」
「王よ、次代の『王の盾』となるべき者に試練はつきものです……アルファド、お前はタイースと共に行け」
その命掛けて、我が息子を護れ。
言葉の奥底に隠された想いをしっかりと受け止め、一礼してその場を後にするアルファドの姿を、イスファルは黙って見つめ続けた。
タイースよ、お前が描く新しい世界に、王のために命を投げ出す護衛など必要ない。お前の未来を、お前のその手に託してやろう。平和な世を望むなら、己のその手で掴み取るが良い。
「タイース様、考えても御覧なさい。アルスレッド様は『アルコヴァル最後の砦』と謳われるタルトゥスの血を引く高貴なお方。シグリドは
アルファドはふと立ち止まり、腰帯の長剣に手を添え、もう片方の手を胸の上に置いて薄明りの黎明の空を仰いだ。その仕草は、戦場でティシュトリアの戦士が天竜に祈りを捧げる時のものだ……タイースは思わず苦笑した。
「皮肉だな。まさにその『天竜の加護』を与える王国に攻め入ろうとしているのだぞ、アルファド。天罰が
「ラスエルクラティアを
タイースは緑色の瞳を大きく見開いて、年長の兄の幼馴染だった男を真っ直ぐに見つめた。
「さあ、顔をお上げなさい、タイース様。胸を張って、己が信ずる道をお進みなさい。それが如何なる決断であろうと、このアルファドはあなたのおそばに
タイースが四人の兄を次々と失う中、アルファドも仕えるべき
泣き崩れる幼い自分を優しく抱きしめてくれた温かい腕を思いながら、タイースは年上の護衛に微笑みかけた。
「知っている。いつもそうだった」
***
明け方の淡い微睡みの中を漂っていたエディルは、治癒院の扉に掛けられた呼び鈴の音で目を覚ました。
窓の外をぼんやり眺めると、まだ明け切れぬ夜空に薄っすらと白銀の光が差し始めている。そろそろ神官や巫女達が起きだす頃だ。朝の祈りが終わるまでは、神殿の外れにある治癒院に立ち寄る者など滅多に居ない。まだぼんやりとした頭で何事だろうと考えながら、治癒院の一番奥に設けられた仮眠用の寝床から起き上がり、簡単に上衣の乱れを整えた。そのまま薬草の香り漂う応接の間に向かうと、扉の前に
まるで迷子の子供のように、うつろな目でこちらを見上げる娘がそこに居た。恐らく、一晩中、泣き続けていたのだろう……真っ赤に泣き腫らした顔が余りにも痛々しく、エディルの心が少し傷んだ。
「寒かったでしょう、ファラン。さあ、中にお入りなさい。大丈夫、この時間は誰も来ませんから。温かいお茶を用意してあげましょう」
弱々しく歩く娘の肩をそっと抱いて、暖炉の側に置かれた椅子に腰掛けさせると、エディルは薬草棚から必要なものを取り出して薬監に投げ入れた。お茶が出来上がるまでの間、温めた薬湯に浸した布を固く絞って、腫れ上がったファランの顔を優しく拭いてやった。
「……さい……ごめん……なさい、エディル……」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭う力さえも失ったように、ファランはただ、途切れ途切れの声でつぶやき続けた。
「もう、何も……分からないの……信じていた……のに……どうして、あんな……ロスタルは……」
はあっ、と大きく息を呑み込む声が、やがて
赤い巻毛が身体を覆うように流れ落ちて、娘のむせび泣きと共に静かに揺れている。時折、暖炉の炎を映して揺らめくように何かが輝いている。それが左腕にはめられた銀の腕輪だと気づいて、エディルはそっと手を伸ばして細い腕に触れた。
びくり、と身震いして、娘が恐る恐る顔を上げた
「ああ、ファラン、怖がらせるつもりでは……美しい腕輪だったので、つい……この装飾は、天竜ですね?」
鱗の一つ一つまで細かく彫り込まれたその腕輪は、娘の腕に天竜がぐるりと身体を巻き付けたようにも見え、意匠を凝らした美しい両翼に守られるように青く輝く石がはめ込まれていた。
「母の……形見なの……」
しゃくりあげながらそう言うと、左腕に置いた手を離そうともせずに腕輪を指でゆっくりとなぞり続けるエディルを、ファランは困惑した瞳で見つめた。
「エディル……?」
はっ、と息を呑んで気まずそうに小さく微笑むと、エディルは細い腕から名残惜しそうに手を離した。
「ああ、お茶が出来上がった頃ですね……さあ、どうぞ」
甘く香ばしい香りの湯気が立つ杯をファランの前に差し出すと、エディルは涙の跡が残るファランの頬にそっと触れて、優しく拭った。
「ここに居る事は、ロスタル殿はご存知なんですか?」
こくり、こくりとお茶を
「ついさっき、ザシュア様の使い魔に呼ばれて行ってしまったわ」
「なるほど……そろそろ朝の祈りが始まる頃ですからね。女王はロスタル殿に絶大な信頼を置いていますから、あの方の警護でないと安心して祈れないのでしょう」
その言葉に、不思議そうに首を少し傾げると、ファランは窓の外に目を向けた。
安心して祈れないって……どうして? 神殿は結界で覆われているのに……
「神殿の中は安全ではないの?」
「大丈夫、安全ですよ。『魔の系譜』の使い魔達を操る以上、警護は怠らないと言うだけの事でしょう」
『魔の系譜』を操る巫女。
やはり、この国は何かがおかしい……心の騒めきを抑えようと、お茶の杯を口元に近づけたファランは、不意に身体の力が抜けていくような違和感に襲われた。
この香り……さっきは気がつかなかったけれど……
ファランの両手から滑り落ちた杯が、からん、と音を立てて床の上に転がった。
「……エディル……どうして……?」
動かぬ両手を見つめたまま、ファランは震える声を必死に絞り出した。
「ああ、ようやく気づきましたか? 普段のあなたならば、危険な薬草の香りなど、すぐに見破っていたでしょうに」
ずるり、と椅子から滑り落ちそうになる娘の身体を苦もなく抱え上げると、エディルはそのまま奥の間へと歩き始めた。
「……ダチュラ……ね」
力なくエディルの腕に抱えられたまま小さくつぶやくファランの声に、一瞬、エディルは驚いて立ち止まると、引き
「さすがですね。そう、ダチュラの花を使いました。巫女達が神託を得るために使う毒草です。安心なさい、ほんのちょっとの量をお茶に混ぜ込んだだけですから。身体の麻痺はしばらく続くでしょうが……」
どうして……? なぜ、こんな事をするの、エディル?
男の腕から逃れようと必死にもがいているつもりでも、身体が全く動いてくれない現実に恐怖を覚えて、ファランの瞳に涙が
「ああ、泣き顔もまた愛らしい。守ってあげなければと嫌でも思ってしまう……そんなところに、ロスタル殿も惹かれたのでしょうね」
青灰色の瞳が恐怖に凍えるのを見て、エディルは冷ややかに微笑むと、寝台の上にゆっくりと小さな娘の身体を横たえた。
助けて……シグリド!
ねえ、何処に居るの? お願いだから……シグリド……早く……
心の中で愛する人の名を何度も呼びながら、ファランの意識は暗い眠りの淵へと落ちていく。
しばらく様子を伺っていたエディルは、身じろぎさえしなくなったファランの髪をそっと掻き上げて顔を近づけた。薔薇色の唇から、静かに、ゆっくりと規則正しい吐息が漏れるのを感じて、憐れむような表情で目を細める。
「ああ、眠ってしまったようですね。なんとも無防備な……男として見てもらえていないようで、悲しくなりますよ、ファラン」
娘の左腕にそっと手を置くと、銀の腕輪をゆっくりと指でなぞった。
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