孤高の戦士

 エスキルの腕から崩れ落ちるファランの小さな手を、虚空から突然現れた白い戦士がしっかりと掴み取り、愛しげに娘を抱き寄せて虚空の中に溶け込んで消え入るのを、エディルは固唾を呑んでじっと見つめていた。


 ロスタルが消えた辺りを睨みつけ、獲物を奪われた獣の如き叫び声を上げるエスキルを残して、エディルは重い足取りで治癒院へと戻ると、誰にも邪魔されぬように扉を固く閉ざして灯りを落とした。

 途端に、耐え切れぬ程の心の痛みに引き裂かれそうになって、思わず膝から床に崩れ落ち、身を震わせながら両手を胸の前で握りしめ、祈りを捧げるかのように深く項垂うなだれた。



 ……分かっていた。初めから叶わぬ願いだと分かっていたはずなのに。

 ただ傍に居て、その声に耳を傾け、その存在を身近に感じるだけで、それだけで良かった。「癒しの箱」の烙印を押された時から、分不相応な望みなど抱かず、心を殺し、全てを諦めて生きると決めたはずだった。それなのに……あの瞳に見つめられ、心を震わせる声で語り掛けられ、こんな自分でも誰かを愛する事に罪はないはずと、愚かな夢を見てしまった。

 だが……思い知らされた。どれだけ想いを募らせようと、あの人の心が自分に向けられる事など決してないのだ、と。


 明かりを落とした治癒院の中で、こみ上げる嗚咽は、ぱちぱちとぜる薪の音に掻き消されていく。


 この想いが燃え尽きるまで待てば良いのだ。そうすれば、また、魂の抜け殻のように生きる事が出来るはず。今までもそうだったのだから。



「届かぬ想いとあきらめるくらいなら、力ずくで奪ってしまえば良いものを」

 突然、耳元で生暖かい吐息を感じて、エディルは驚きの余り言葉にならない叫び声を上げて身をよじらせ、顔を上げた。

 目と鼻の先で、薄紫色の瞳が妖しく輝いている。

「……ザシュア様? どうして……?」

 ひざまずいたまま見上げるその先で、黄金色の髪が豊かに流れ落ち、むせる程の甘い香りがエディルを包み込んだ。もう一度、目の前に佇む女王に問いかけようとして、見えない力に押さえ付けられ身体の自由を奪われている事に気がついた。

「治癒師エディル。『癒しの箱』とは言え、愚かな術師どもに虫けらのように扱われるなど、さといお前には耐え難い屈辱であろうな」

 憐れみの表情を浮かべるザシュアは例えようもなく美しく、聖女ウシュリアの麗しい姿を彫り込んだ彫像を彷彿とさせた。だが、凍てつく夜明け色の瞳には、慈悲の欠片さえも浮かんではいない。

「心の奥底に抑え込んだ怒りを力に変え、望むものを手に入れさせてやろう……治癒師エディルよ、私と契約を結ばぬか?」 


 ……契約? 術師でもない者が、なぜ「契約」などと?


 声も出せず動かぬ身体に焦りを覚えながら、エディルは混乱する頭を落ち着かせようと、必死で喘ぐように呼吸を繰り返した。その様子を、勝ち誇ったような微笑みを浮かべて見つめるザシュアの後ろで、使い魔の「毒竜エレンスゲ」が鋭い威嚇の声を上げた。

「そう、契約だ。一国を束ねる女王が、ただの巫女である訳がなかろう?」

 するり、と細い指でエディルの顎を持ち上げると、唇が触れる程に顔を近づけて、その愛らしい顔立ちに似合わぬ妖艶な微笑みを湛えたまま、女王ザシュアは低くささやいた。エディルの心をおののかせるに十分すぎるほどの冷ややかさを以って。

「お前の願い、叶えてやろう。奪い取るのだ、あの娘の……」



 はあっ、と息を呑んで我に返ったエディルは、身体を縛りつけていた見えないいましめから解放されるのを感じて、ゆっくりと辺りを見回した。

 仄暗い治癒院の中で、ぱちぱちと薪の爆ぜる音だけが響き渡っている。

 暖炉から火を取って明かりを灯すと、部屋の中に一人佇む自分自身の姿が窓硝子にぼんやりと映し出された。人はおろか、妖獣が居た気配など微塵も感じられない。

 窓の外に目を向けると、ふわふわと白い羽のように降り積もる雪が地面を覆い尽くし、夜闇の中、まるで白銀の絨毯を敷き詰めたように薄っすらと煌めいている。

 

 ……いや、待て。何かがおかしい。


 血溜りの中に横たわっていた憐れな女の骸が何処にも見当たらない。不可思議な力に捻り潰され、地面に倒れ込んでいたはずの獣の姿は、跡形もなく消えている。エスキルの姿はおろか、無慈悲な戦士の手から逃れようとして小さな娘がもがき苦しみながら必死に手足をばたつかせていた痕跡さえ見出せず、窓の外には染み一つない白い世界が広がっていた。

 あれは夢だったのか……そう思いながら、ふと視線を手元に落としたエディルは、見覚えのない黄金色の腕輪がそこにある事に気づいた。いぶかしげに顔を近づけて目を凝らした途端、エディルの全身に衝撃が走った。



 ひと房の黄金色の髪で作られた腕輪は左の手首を締め上げるように絡みつき、きらめく薄紫色の宝玉が一輪の花のように輝いていた。



***



 夜も明けきらぬ森の中で、獣の遠吠えが響き渡る。

 円陣を囲むように燃え立つかがり火に照らし出された天幕の中で、ほとんどの者は既に眠りに落ちているのだろう。時折、夜警の戦士が辺りを見回る足音が聴こえる他は、ぱちぱちと爆ぜる焚き木の音が響くだけだ。


 ザラシュトラの手によって、ティシュトリアの術師が編み上げた結界はいとも簡単に解かれ、エスキルは自ら選んだ数名の傭兵を引き連れて、獲物を探す夜の獣のように足音を忍ばせながら、王都軍の陣営の中を闇に紛れて突き進んでいた。

 招かれざる客とすれ違った不運な護衛達を容赦なく斬り捨てながら、ようやくエスキルは目当ての天幕へと辿り着いた。入り口に掲げられた垂れ幕に「天駆ける青竜」の意匠があるのを認めると、傭兵の一人が垂れ幕を静かに持ち上げ、中に護衛が居ない事を確かめて、静かにあるじを招き入れた。


 天蓋てんがいで覆われた寝台に忍び寄ったエスキルが、寝息を立てる貴人の優しげな顔と亜麻色の髪を静かに覗き込み、手にしていた長剣を逆手に持ち変えて、ゆっくりと上下する夜具の心臓辺りを目掛けて音もなく振り下ろす……


 ずしり、と確かな手ごたえを感じた。


 エスキルは薄笑いを浮かべながら剣を引き抜き、亜麻色の髪を鷲掴みにして、貴人の首筋に刃を走らせた。

 次の瞬間、穏やかに眠ったままの美しい頭が斬り落とされ、夜具の下の身体が、びくりと大きく痙攣けいれんする。


 刹那、何かが壊れるような鋭い音が響き渡った。と、同時に、エスキル達の頭上に天幕が崩れ落ちた。

 



 動揺を隠し切れぬ傭兵達を叱咤しったしつつ、なんとか天幕の下から這い出したエスキルは、いつの間にかティシュトリア王都軍の戦士に包囲されている事に気づいて驚愕の表情を浮かべると、怒りに震える手で長剣を握り直した。

 掻き斬ったはずのパルサヴァードの首も、血に染まった夜具も、その全てが余りにも生々しく、父王配下の術師達が作り上げた幻影であるとは思いもしなかった……己の不甲斐なさに心の中で毒づきながら、エスキルはゆっくりと立ち上がり、何かを探すように辺りを見回した。

 取り囲む戦士達の中に見知った顔を認め、エスキルは彼らと共に戦場を駆け巡った頃に想いを馳せた。父王とのほんの些細な感情の行き違いが、次第に親子の間に埋められぬ溝を築き上げ、今の状況を生み出してしまった。だが、それを悔やむ気持ちなど、エスキルにはさらさらなかった。


 認められぬのならば、力ずくで認めさせるしかない。

 父が思い描く大陸の和平など、儚い夢だと思い知らせてやる……


「やはり来たか」

 長身の戦士達の背後で、漆黒の軍馬デストリアにまたがったエレミア王が、呆れたような表情でエスキルを見下ろしている。その背後に、亜麻色の髪を夜風になびかせて、治癒師達に守られるようにして佇むパルサヴァードの姿があった。

「ラスエルクラティアの常備軍さえ引き連れず、僅かな手勢で我が陣営に夜襲を掛けるとは……我が子ながら、呆れる程の愚かさだな、エスキルよ」

 いつもの陽気さからは想像できぬ、冷酷非情な戦士の顔をした父王から射るような視線を浴びせられ、エスキルは背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 エレミアの隣に控える『王の盾』イスファルの号令で、戦士達が一斉に長槍の穂先をエスキル達に向けた。

「愚かな息子よ、祖国ティシュトリアを敵に回してまでお前が手に入れようとしているものは、一体何なのだ? 王座ならば、この俺が老いぼれ、戦場で朽ち果てれば、いやでもお前の手中に転がり込んでくるものを……」


 じりじりと距離を詰めるティシュトリアの戦士達に恐れをなしたエスキル配下の傭兵達が、一人、また一人と剣を捨てて両手を頭の後ろに回し、ゆっくりと地面にひざまずくのを目にして、エレミアが嫌悪の表情を浮かべる。

「ラスエルクラティアの傭兵どもは、天竜の威光を食い物にする者ばかりと聞いてはいたが……敵陣で己のあるじをこうも簡単に見捨てるとはな。エスキルよ、部下は慎重に選べと教えたはずだぞ」

 長剣を手にしたまま、もう一度、エスキルは辺りを見回した。父王の背後で、一目でそれと分かる長いローブを身につけた術師達が祈りの言葉を編み上げる姿が目に入った。水鏡からこちらを覗いているはずのザラシュトラが救いの手を差し伸べてこないのは、恐らく、術師達が新たに編み上げた結界に阻まれての事だろう……

 エスキルは唇を噛み締めると、父王を睨みつけた。

「なるほど、まんまと罠に掛かったという訳か。確かに、術に頼らぬはずのティシュトリア軍が、これ程多くの術師を戦場に引き連れているとは思いもしなかった」

 不敵な笑いを浮かべると、エスキルは長剣の切っ先を父王に向けた。

「……エスキルよ、もう一度だけ機会をやろう。この父に刃を向けぬと誓え。そうすれば命だけは助けてやる」

「謀反人の娘と疎まれ続けた母を守ろうともしなかった男に、今さら父親づらをされてもな……俺の中でティシュトリアのエレミアが父親だ、などと、髪の毛一筋たりとも感じた事はない」



 心にわだかまりを抱き始めた幼い日々。

 父王は「砦の姫」と呼ばれる女戦士を片時もそばから離さず、愛を育み、共に戦場を駆け巡っていた。

 一人寂しく城に残された母は、激しい嫉妬と憎悪で心を病み、エスキルに向けて呪いの言葉を吐き続けた。

咎人とがびとの血を引くお前など、生まれてくるべきではなかったのだ。呪われた子よ、いつかお前も、我が母がそうしたように、愛する者に刃を向ける事になるだろう……血塗られた一族から生まれたお前は、その手を血で染めるしか生きるすべはないのだよ』



 エレミアは大きくため息を吐くと、憐むような眼差しで我が子を静かに見つめた。

「お前の母は自ら俺を遠ざけた。謀反人グウィネリアの娘である己と、その甥である俺の間に生まれてくる子が憐れだ、と言ってな。伯母上の謀反など、わが父が崩御するより以前に、既に忘れ去られていたと言うのに」

 エスキルを包囲する戦士たちの長槍の穂先が一層迫るのを目にして、エレミアがイスファルの号令を制止する。

「剣を納めよ、エスキル。お前が俺の血を引く息子である事に変わりはない……愛しい我が子の命を絶つような真似を、この俺にさせてくれるな」


 鞭打たれたように、びくりと身体を震わせて、エスキルの瞳が大きく見開かれた。

 一瞬、心から欲していたものを手に入れた少年のように輝きを取り戻した若草色の瞳が、エレミアを真っ直ぐに見つめた。

「……親父殿、いつの事だろうな。あなたを越えられない己自身に気づいたのは」



 いつもの不敵なわらいを取り戻すと、エスキルは手にしていた剣をゆっくりと降ろし、もう一方の手を前方の虚空に向けて、ゆらりと差し伸べた。その手を、虚空から現れた細くしなやかな指が掴んだ瞬間、エスキルは力強い腕で小さな身体を抱き寄せ、愛しげに黄金色の髪に顔を埋めた。

「待ちかねたぞ、ザラシュトラ」


 女術師の耳元で囁くと、共に「狭間」の闇に姿を消した。

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