恩讐

 ひねり潰したかったのは、あの娘の命だった。

 かつて最愛の妹だけに向けられていた愛情を一身に受け、あの人の傍に寄り添い、あの人に触れ、その腕に抱かれていた「癒しの箱」の娘。



 握りしめたてのひらに食い込む爪の先からにじみ出た血が、水面みなもにぽたりと落ちて弧を描きながらゆっくりと沈んで行く。それをじっと見つめたまま、ザラシュトラは水鏡に映る嫉妬と羨望に揺らぐ己の姿に苛立ちを隠せずにいた。娘に襲い掛かろうとする獣人を縛り上げるための呪詛を編み上げながら、いっそこのまま、獣人の餌食となって八つ裂きにされてしまえば良いのに……そんな思いが、ふと、心を過ぎりもした。


 だが、我が結界内で、ましてや、神殿に併設されている治癒院の目と鼻の先でそんな事にでもなれば、ロスタルは決して私を許しはしない。契約と言う名の足枷など臆する事なく、私の命を奪うだろう……


 薄青色の冷たい瞳を思い出して、ザラシュトラの心が、ざわりと騒いだ。

 水鏡の中では、女術師の呪詛に絡み取られた獣人が、地面に激しく叩きつけられ、何度も痙攣けいれんを繰り返しながら、やがて動きを止めた。

 怒りに任せてエスキルが素早く長剣を引き抜き、恐怖に震える娘に切っ先を向けるのを見て、ザラシュトラは大きなため息を吐く。

 「狩り」と称して、夜ごと獣人達に王都の民や神殿に仕える者を襲わせるエスキルの凶行の裏に、歴戦のティシュトリア軍を前にしても獣人達が怯まぬための意図が隠されている事を、ザラシュトラも承知していた。


『血肉の味を覚えれば、こいつらの中にわずかに残る人間性も妖獣の本能に喰い尽されるだろうよ』


 そう言いながら獲物を襲う獣人達を見つめる姿が、憎悪と怒りに捕らわれた獣の本能をさらけ出している事に、エスキル自身は気付いてはいないだろう。

 いつの頃からか、故国を追放されながら未だにティシュトリアの剣を手放せずにいる男の姿に、故国を滅ばされながらスェヴェリスの巫女の矜持を忘れられぬ己自身を重ね合わせるようになっていた。



 ザラシュトラはもう一度、大きくため息を吐くと、エスキルの剣を絡めとるための呪詛を編み始めた。こんなことをすれば、また、責め立てるように身体を求められるに違いない、そう思いながら。

 その矢先、エスキルの刃の前に立ち竦んで動けないままだった娘を、神殿に仕える治癒師の青年が救い出す姿が水面に映し出された。

 確か、エディルと言ったな……ロスタルが決まって「巫女姫ザシュア」のための薬草をあの「癒しの箱」に処方させる、と術師達が愚痴をこぼしていたのを思い出した。ロスタルの庇護を受ける者があの娘と同じ「癒しの箱」である事に、ザラシュトラは忌々しさを感じながらも、優しい顔立ちの青年の中にうごめく仄暗い闇に気づいて僅かに微笑んだ。


 エスキルが突然、娘を乱暴に掴んで引き寄せ、その腕から逃れようと必死にもがく娘の細い首を、ぎりぎり、と締め上げていく……ザラシュトラは娘の喘ぎ声が水面を揺らし、その顔面が色を失っていくのを凍える眼差しで見つめ続けていた。


 ……このまま、そうだ、このまま終わってしまえばいい。エスキルの狂気が娘を死に追いやった事にすれば、ロスタルも納得せざるを得ないだろう。


『用心しろよ、ザラシュトラ。あの男、女を責め殺す悪い癖があるらしい……』

 そう言ったのは他でもない、あなたでしょう、ロスタル?

 

 エスキルの腕の中で必死にもがき続けていた細く小さな身体が、やがて動きを止め、力なく崩れ落ちる腕に光る銀の腕輪が、からり、と音を立てた。次の瞬間、青白いうろこを思わせる淡い輝きが腕輪にはめ込まれた青い石からぼんやりと立ち昇り、娘の身体をゆっくりと包み込んで行く。

 それを目にして、ザラシュトラは思わず身を乗り出して食い入るように水面を覗き込んだ。


 あの石の光……まさか、竜紋の……?

 聖女ウシュリアが聖竜よりもらい受けたと伝えられる護符の石が、なぜこんな所に?

 なぜ、術を編み出すことさえ出来ぬ「癒しの箱」如きが、尊き天竜の加護を与えられたあの石を……?


 石の輝きに魅入られるように伸ばした指先が、ぱしゃりと水面を叩き、水鏡に映し出されていたエスキルの姿が波間に揺れた瞬間、ザラシュトラは白い影が過ぎるのを垣間見た気がした。

 静けさを取り戻した水面に、怒りに駆られて叫び声を上げるエスキルと、潤んだ瞳で焦がれるように宙を見つめる治癒師の青年の姿だけが残されていた。



***



 『狭間』から不意に現れたロスタルにファランを奪い返され、怒りも収まらぬ様子で神殿に戻ったエスキルを、ザラシュトラは水鏡のそばへと優しく手招いた。

「とんだ邪魔が入ったものだ……お前の護衛はあの娘に余程の執着があるらしい。あのような色香も感じぬ貧相な娘が好みとは」

 不機嫌な表情のまま、エスキルは長い手足を投げ出して床に座り込み、ザラシュトラを引き寄せて両足で囲うようにして座らせると、息も出来ぬ程に抱きしめた。

「……やはり、俺は、お前が良い」


 黄金色の髪にかかる熱い吐息を感じて、ザラシュトラは唇を噛み締めながら心の疼きを必死に抑え込んだ。

「エスキル様、ご覧なさいませ……ティシュトリア王がラスエルクラティアに向けて進軍を始めた、と告げる使い魔のささやきを聞いてから、既に六日目」

 滑らせた指の先で水面が静かに弧を描き、夜闇に燃え上がる松明の灯りが、ゆらりと浮かび上がった。

「真冬に進軍とは、親父殿も血迷ったか……雪嵐に阻まれ身動きも取れずに森の中で野営を張って、もう何日になる? 食糧も兵の気力も、そろそろ底をついた頃だろう」

 国境に広がる森で野営を構えるティシュトリア王都軍の陣営を水鏡越しに覗きながら、エスキルは冷酷な戦士の顔で言い捨てた。

「今ならば、あるいは……な。神官たちは何と言っている?」

 あざけるような微笑みを浮かべると、薄紫色の瞳が妖しい光を増してエスキルを見つめた。

「何とでも。ティシュトリア相手に戦う事を良しとせぬ臆病者ばかりで、心の弱いあの者達の魂を妖獣に与えても、獣人として使い物になるかどうか」

「頭数を揃えればおとりくらいにはなるだろうよ……親父め、いつの間にあれだけの数の妖獣狩人を?」

 一目でそれと分かる、独特な形状の武器を携えた戦士達が天幕のそばで焚き火を囲んで座り込んでいる姿に、エスキルは眉をひそめた。

「王都軍の狩人ではないな。異国の者か」


 普段の様子からは想像できぬ程、真剣な表情で水鏡を覗き込むティシュトリアの若者に、ザラシュトラは言い知れぬ不安を覚えた。

「……エスキル様? 何か、お気に召さぬ事でも?」

 鋭い視線が女術師を捕らえると、若者は不敵な微笑みを浮かべた。いつものエスキルがそこに居た。

「あの誇り高い親父が異国の狩人を引き連れている、と言う時点で、気に食わんな。それに、従軍する術師達が多過ぎる。術にらぬのがティシュトリアの気骨なのだが」

「『女王ザシュア』を恐れての事では? 不思議な力を操る、と言う噂は大陸の端々まで広がっているようですし」

 そうかもしれん、と耳元でささやかれて、ザラシュトラが、ぶるり、と身を震わせる。

 女の肌をゆっくりとまさぐりながらも、エスキルの視線は一つの天幕に注がれていた。黄金の冠を頂き優雅に翼を広げて天駆ける青竜の意匠を掲げた天幕は、その主が明らかにティシュトリアの者ではない事を物語っていた。

「ああ、お気づきになりましたか?『天竜の統べる王国ラスエルクラティア』の紋章です。王冠を頂く意匠ともなれば、それを掲げる事が出来るのは」

「まさか……パルサヴァードか?」

「恐らく。あの時、『毒竜エレンスゲ』の餌食となったのは確かなのですが……信仰心の篤きあの男なれば、『狭間』に引き込まれた後、尊き天竜の加護を受けて生き延びたとしても不思議はありません」



 いつの頃からか、吟遊詩人によって面白可笑しく語られ始めた「大神官パルサヴァードの殺害」の物語は、既にラスエルクラティアの王都に住まう民の耳にも届いている。新女王ザシュアに対する民の信頼が揺らぎ始めている今、「天竜の加護」を受けた先王が帰還すれば……


 忌々しそうに顔を歪めると、エスキルはザラシュトラから身を離してゆっくりと立ち上がった。

「パルサヴァードに王都の土を踏ませる訳にはいかぬな。不本意ではあるが、野営地を急襲するか」

 女王ザシュアに膝を折って芝居掛かった最敬礼をすると、猛々しい顔に冷笑を浮かべて、エスキルは神殿を後にした。

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