養父の故国へ

「息子の腕の中で息絶えるなら、本望さ」

 アスランは最後の力を振り絞ってシグリドの頭に手を乗せると、くしゃりと黒髪を撫でた。



 「火竜」の傭兵を返り討ちにする程の腕を持つ戦士であり、西の果ての城塞都市の警護を担う大隊長でもあったアスランは、東の武装大国ティシュトリアの生まれだった。

 「火竜の谷レンオアムダール」陥落後、「傭兵の親子」として共に大陸を流離さすらい、一介の傭兵として生き抜くすべと故国ティシュトリアの戦術を惜しみなくシグリドに受け伝え、幼い頃に得られなかった父親の温もりを肌身に感じさせてくれた男の命を無慈悲に奪ったのは、冷たい刃などではなく、戦場に蔓延していた流行り病だった。 


 共に大陸を旅した七年間の想い出と、父から子へと受け継がれるべき長剣を残してアスランが息を引き取った後、シグリドは「妖魔殺しの黒竜」として戦場に舞い戻り、多くの命を奪い続けた。普通の人生を取り戻す道を示してくれた養父を忘れようとするかのように、自らの新しい人生に背を向けて。


 パルヴィーズと出逢ったのは、ちょうどその頃だった。



***



 アスランから長剣を譲り受けた時、シグリドは養父の愛情と共に後ろめたさも感じていた。たとえ実子がいなくとも、貴族の出であるアスランには故国に正統な後継者がいるはずだ。


「そういう事でしたら……ティシュトリアの隣国まで来たのですから、良い機会です。アスラン殿のご生家を訪ねてみましょう。タルトゥスの領主からの紹介とあれば、あちらも拒むことはないでしょう」

 タルトゥスの厩舎で軍馬デストリアを吟味するシグリドとパルヴィーズの背後で、アルスレッドは眉をひそめた。

「ティシュトリアに向かうには今は時期が悪すぎる。不穏な兆しが見えるのでな」

 赤銅色の毛並みを持つ美しいデストリアの前で足を止めたシグリドが、アルスレッドの方を振り向いた。

「こいつを貰おう。ついでに、その不穏な兆しについても教えてもらおうか」

 有無を言わさぬ口調に、アルスレッドはにやりと唇の端を吊り上げた。

「まったく、お前という奴は……火竜の矜持の前では、王侯貴族の肩書など意味をなさんのだな」

 だから何だ? とでも言いたげに、腕をくんだまま目を細めて視線を外そうとしないシグリドを前にして、アルスレッドは少し呆れたように肩をすくめた。

「まあ、良いさ……ティシュトリア王の嫡子が、アルコヴァルとの間に交わされている和平の取り決めを良しとせぬ臣下を集めて父王に退位を迫っているらしい。王族同士の権力を巡る小競り合いで済めば良いが……万が一、中央の二大国家間で何とか保たれていた和平が崩れるとなれば、大陸全土に戦さの火種を撒き散らすやもしれん。ティシュトリアの権力争いは、それだけ危うい状況を招きかねんのだ」

 

 アルスレッドは、傍らで目を丸くしたまま年上の従兄の話に耳を傾けていたレティシアに、意地の悪い視線を送った。

「なあ、レティシアよ。同盟国の内情も知らずに、領主としてこの砦をどうやって守るつもりだ? 武術の鍛錬に精を出すのも良いが、正確な情報をいち早く手に入れるために人を使う事を覚えろ。タルトゥスが他国の侵攻を許さなかったのは、守護の結界だけが成せるわざではないのだぞ」

「……そんなこと、言われなくても分かっている。ただ、やり方が分からないだけだ。アルス従兄にいさまと違って、私には信頼の置ける側近と呼べる者がいない」

 幼い領主は唇をきつく噛みしめて、悔しそうに従兄を睨みつけた。その瞳が十五歳の少女らしく少し潤んでいることにアルスレッドは気づいていた。

「分からない事があるなら、まず、俺に聞け。お前の兄の片腕として物心ついた時から仕えてきたんだ。あいつが戦死した時から、レティシア、お前がこの砦の正統なあるじだ。俺や他の戦士達をあごで使っても、誰も文句は言わん。そのために祖父上は俺をお前の傍に置いたんだろうが……俺が窮屈な城住まいをせずに済むよう、頼むから早く一人前の領主になってくれ」

 気が強いくせに泣き虫な幼い従妹の頭に大きな手を置くと、金色の髪をするりと優しく撫でた。


 ごしごし、と長衣の袖で瞼をこすって涙を拭くと、レティシアは長身の黒髪の傭兵の前に歩み出て、真っ直ぐにみどり色の瞳を見つめた。

「シグリドよ、タルトゥスの現領主として紹介状を書いてやろう。その代わりと言っては何だが……ティシュトリアから戻ったあかつきには、私と契約をせぬか? この砦に留まり、私の護衛として……」

「レティシア殿、シグリドを手放す気など、私にはありませんよ。彼以上の護衛は簡単には見つかりませんからね」

 にっこりと微笑みながら、パルヴィーズは幼い娘を諭すようにささやいた。

「武芸を重んじるタルトゥスならば、腕の立つ戦士はいくらでもいるでしょう? あなたの従兄殿が良い例です。城の護衛や貴族の子弟達、砦を闊歩する兵士達……『双頭の火竜』を警戒させるに足る武力がタルトゥスにはあるのですよ。他所者よそものの傭兵に頼らず、まずはご自分の民を信用なさい」

 優しい声の響きに隠された言葉の重みを感じ取って、レティシアは「もう一つの指輪を持つ者」を困惑したように見つめると、大きくため息を吐いた。

「私は……どうしたら良いのでしょう? 生まれた時からタルトゥスの姫として政略結婚で他国に嫁ぐ身だと聞かされて育てられ、タルトゥスの王族として武芸も学問も叩き込まれた。だが、この砦に愛着を持ち過ぎぬようにとも教えられた。砦に心を残したまま嫁いだ姫達の悲しい物語も聞かされた。なのに今更、領主として砦を守れと言われても……」


 突然、姿を消した兄に代わって嫡子としての責任を負わされた異母弟が王位を継いだのも、ちょうどこの娘と同じ頃だった。戸惑い、悩みながら、国を守るため戦い続けたラヴァルを想いながら、パルヴィーズはレティシアの柔らかい頬にそっと手をかざした。

「大丈夫ですよ、レティシア殿。幸い、貴女にはそばで支えて下さるワズイール殿とアルスレッド殿がおられる。意地を張らず、もっと素直におなりなさい。あなたの祖父殿がおっしゃった言葉をいつも心に留めていなさい。そうすれば、貴女は必ず素晴らしい領主になるでしょう。王族の誇りを忘れず、領地を愛し、民を慈しみ、前を向いて歩いて行きなさい」


『助けを必要とする者に自ら手を差し伸べよ』


 お祖父様はそう言った。

 私が助けを必要とすれば、アルスレッドが手を差し伸べてくれる。もちろん、お祖父様も……


「素直に……全てを受け入れて、私が出来る事から始めていけば良いのか。私の領地に根付く全ての命を慈しんで……そうすれば道は開けるという事か」

 少し口ごもりながらも、自らに言い聞かせるように心の内を言葉にするレティシアの頰を、大きな手が優しく撫でる。

「私の小さなラヴァルも、そう思いながら必死にこの城と民を守ったのですよ。大丈夫、あなたには彼と同じ血が流れているのだから」

 レティシアは驚いた表情で、自分と同じ色の髪を持つ不思議な男を見つめた。

「今、何と……? 小さなラヴァル……あのラヴァル王のことか?」


 パルヴィーズはとろけそうな微笑みを幼い領主に向けると、青鹿毛あおかげのデストリアの手綱を引いて先を歩くシグリドと共に厩舎を離れた。


 オトゥール山脈から流れる風に黄金の髪をなびかせて、タルトゥスの『永遠の王』が立ち去るのを見つめながら、レティシアはしばらくの間、厩舎の中に立ち尽くしていた。



***



 馬が苦手なファランでさえ思わず触れたくなるほど、シグリドが選んだ赤銅色のデストリアは美しい雌馬めうまだった。パルヴィーズの愛馬スフィルも新しい旅の仲間に優しく鼻先を擦りつけて親愛の情を示した。

「こんなにきれいな女の子と一緒に旅が出来るんだもの、嬉しいわよね、スフィル?」

 全くその通り、と言わんばかりに、ぶんぶんと首を振る栗毛の雄馬を見て、パルヴィーズが大きなため息を吐いた。

「ああ、スフィル、誇り高き『魔の系譜』であるお前が、雌馬ごときに骨抜きにされるとは……」

「パルヴィーズ様ったら、大袈裟すぎます。スフィルも男の子ですものね。ところで、この子の名前はもう決めたんですか?」


 ふむ、と少し考え込みながら、パルヴィーズは軍馬を見つめた。空色の左眼の瞳孔が一瞬、縦長に変わり、恐れを知らぬはずのデストリアが全身を震わせながら後ずさりした。

 自分の馬の背に荷をくくり付けようとしていたシグリドが、ちっと舌打ちをして金色の髪の雇い主を睨みつけた。

「パルヴィーズ、俺の馬をその左眼で無駄に怯えさせるな」

「ああ、悪気はなかったのですよ。少し心の中を覗かせてもらっただけです。よこしまな心の欠片もない良い馬ですね。スフィルには勿体無いくらいです」

 主の言葉を耳にして、スフィルが不服そうに鼻息を荒くした。

「そうですね……『豊穣エンティア』と名付けましょう。『虚無スフィル』の寂しさを埋めて、実りある旅が出来るように」

「エンティアか……悪くない」

 そうつぶやいて、シグリドは最後の荷を自分の馬にくくり終えると、青鹿毛の輝く毛並みをゆっくりと撫で始めた。その横で、長身の男達を見上げていたファランが小さな笑い声を立てる。

「本当は二人とも仲が良いのよね。そう思わない、グラム?」

 ファランの足元にうずくまっている黒豹レーウは小さな娘を見上げると、興味なさそうに大きな欠伸あくびをした。それを見て、ファランはまた微笑んだ。


 もし、あの時、王都に留まっていたら、私の世界はあそこで終わっていた。

 シグリド達と旅を始めて、色々な国を見て、色々な人に出会って、色々な事があったけれど……旅をするって素敵だわ。色々なものを見て、感じて、そして、もっと多くの事を学べば、「癒しの箱」の私でも、もっと多くの命を救うことが出来るはず。


 目の前に差し出された大きな手をいつものように握りしめると、ファランは一気に馬上に引き上げられ、シグリドの腕の中にすっぽりと収まった。大柄な軍馬デストリアの背中は今までよりも視線が高くなり、ファランは少しだけ目眩めまいを覚えて腰に回されたシグリドの腕にしがみついた。

「すぐに慣れる。怖がると馬に舐められるぞ」

「そんなこと言われても無理よ……怖いもの」

 呆れたように小さくため息を吐くと、シグリドは腕の中にいる小さな娘を強く抱きしめて、赤い巻毛に鼻先を埋めた。ふわり、と漂う甘い花の香りに心地良さを感じながら、タルトゥスの城門をくぐり抜けて先に進むパルヴィーズの後に続いて馬を進めた。



 遠ざかっていく城塞都市を振り返りながら、ふと、前を行くパルヴィーズはどんな思いで何度となく故郷を後にしたのだろう、とファランは思った。その背中が少しだけ寂しそうに見える。金色の髪が風に揺れるたび、肩に止まって寄り添う銀灰色の柔らかな塊が垣間見えた。

 悠久の時を共に過ごして来た妖魔の女王とタルトゥスの「永遠の王」は、これからも共に旅を続けるのだろう。ずっと一緒に。


「それにしても……」

 少しずつエンティアの背の高さに慣れてきたファランは、旅立つ際の幼い領主の少し不安そうな姿とアルスレッドの不機嫌な顔を思い出した。

「どうしてこんなに急にティシュトリアに向かうことにしたの? レティシア様はもっとパルヴィーズ様とお話ししたがっていたのに……アルスレッド様だって、もっとゆっくり滞在すれば良いのにと残念がっていらっしゃったわ。城の庭園に珍しい薬草があるから案内して下さるって仰ったのよ」

「だからですよね、シグリド」

 ふふっ、と面白そうにパルヴィーズが笑った。

「……え? どういう事ですか、パルヴィーズ様?」

 凍てつくような眼差しを金色の髪の雇い主に向けながら、シグリドは馬の足を速めてパルヴィーズを追い越した。

「これ以上、城に長居して、アルスレッド殿にファランを横取りされたくなかったと素直に認めれば良いではないですか、シグリド」


 急に赤銅色の軍馬エンティアを急き立てて、速足でティシュトリアとの国境に向かうシグリドの腕の中で、ファランは顔を真っ赤にしたまま、振り落とされないように無愛想な黒髪の火竜にしっかりとしがみついた。



***



 大陸に数ある王国の例にもれず、ティシュトリアは天竜を守護神とし、その祝福を受けた王族によって統治される軍事国家である。


 天竜が地上に初めて舞い降りたとされる東の隣国「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の神託の祝福なしには次代の王として認められない事くらい、神の存在を信じないエスキルでも心得ていた。だからこそ、自ら馬を駆り、この陰気な神殿にわざわざ足を運んだというのに。

「次代のティシュトリア王であるエスキル様を、いつまで待たせるつもりだ?」

 苛立ちを露わにする側近達を前に、エスキルは右膝に立て掛けた長剣の柄に手を置いたまま、巫女姫の謁見の間に置かれた賓客用の椅子にゆったりと腰掛けていた。燃えるような赤い髪を軍人らしく短く刈り込んだ王族の若者は、戦場では冷酷非情の戦士として既にその名を知られていた。


「巫女とはいえ、ただの女だ。何かと身支度に時間がかかるのだろうよ」

 精悍で整った顔を歪めて嘲笑あざわらうような表情を浮かべたエスキルに、側近達は低い笑い声を上げた。

「仰る通りで……若様を色仕掛けで篭絡ろうらくさせるつもりなのでしょうな。貴賤の女など、考える事は皆同じです。王侯貴族の愛人となれば、一介の巫女の地位など喜んで投げ捨てるでしょう」


 天竜の声を聴くことが出来る不思議な力を持つ巫女とはいえ、元はどこの馬の骨とも知れぬ流浪の民だと言うではないか。そのような者の祝福を受けるためだけに、ティシュトリアの王となるこの俺がわざわざ王都から出向いてやったというのに。


「……面倒だ。さっさとその巫女姫を頂いて、国に帰るとするか。神のお告げなど、それからでも良かろう?」

 エスキルは不敵な笑いを浮かべると、鞘から長剣を引き抜いて立ち上がった。

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