巫女姫ザシュア

 朝の光あふれる神殿の奥で数人の巫女に取り囲まれながら、巫女姫ザシュアは「聖なる水」をたたえた大きな水瓶の前にたたずんで天竜に朝の祈りを捧げていた。


 突如、神殿の外で静寂を破る悲鳴が上がり、乱暴な物音がこちらに近づいて来るのを耳にして、巫女達は動揺を隠しきれずに祈りの声を乱して息を呑んだ。

「何事でしょう……ザシュア様?」

 巫女姫はゆっくりと薄紫色の瞳を見開き、水鏡を覗き込んで水面に映る人影を見つめると、静かに入り口の方を振り返った。


 どさり、と何かが地面に崩れ落ちる音と同時に、固く閉ざされていた神殿の入り口が物々しい音を立てて開けられた。朝日を背に浴びながら、血に濡れた長剣を手にした戦士がゆっくりと神殿に足を踏み入れる。足元の血溜りに横たわる神殿の護衛は、既に息絶えているようだ。

 ひいっ、と悲鳴を上げて後退あとずさる巫女達を傍目に、ザシュアは身じろぎもせずにあごを上げたまま戦士を真っ直ぐ見据えた。

「神聖なる神殿と知っての狼藉ですか? 天竜様の庇護を受けながら、その聖域を血で汚すなど、ティシュトリアの軍人として恥ずべき行為だとは思いませぬか、エスキル様?」

 幼さの残る少女らしい透き通る声が神殿の中に響き渡った。


「ほお、この状況で悲鳴一つ上げぬとは。後ろで震えあがっている女どもと違って見上げた度胸だな。さすがは天竜の声を聴く巫女姫殿、と言うべきか」

 剣をひと振りして血を払うと、エスキルは刀身を鞘に納めながらザシュアに近づいた。側近達が後ろに続き、むせかえるような男達の汗と血の匂いに、巫女姫が美し顔をしかめる。

「若様、これはまた……麗しい娘ではありませんか」

 優雅に結いあげられた黄金の髪にはまばゆいばかりの宝玉がちりばめられ、巫女の正装である床まで届く白いローブを身につけた神々しくも可憐な姿に、豪胆さで知られるティシュトリアの戦士でさえ目を奪われている。

 エスキルはザシュアを見つめたまま、さして興味も示さずに、ふんっと一笑した。

「美しさなど、俺には珍しくも何ともないがな」

「確かに。若様をお慕いするあでやかな側妾そばめなど、城に戻れば両手でも数え切れぬほど居りましたな。では、この者は一時のお楽しみという事で?」

「よく見ればまだ幼い娘ではないか。若様を楽しませる事が出来るかどうか」

 男達が卑猥な笑い声を上げると、ザシュアの後ろで震えていた巫女達が床の上に泣き崩れた。

「……面倒だ、後ろの女達はお前達が好きにしろ。巫女姫のありがたい祝福とやらは俺の寝所でゆっくりと頂くとしよう。この娘は連れ帰る」

 エスキルはザシュアの細い顎を大きな手で掴むと、薔薇色の柔らかな唇を親指でぬぐって舌なめずりした。エスキルを見つめていた薄紫色の瞳が、ふと背後の空間へと向けられた。


 刹那、背筋を震わせるほどの殺気を感じて、エスキルは反射的に娘を突き飛ばした。振り返りざま、目前に迫る冷たく光る刃を寸でのところでかわすと、身体を横に投げ出しながら長剣を素早く引き抜いた。

「くそっ、いったい何処から……?」

 頭上から打ち込まれた一撃を何とか受け止めると、エスキルは凍てつく氷のような瞳を間近にして力任せに剣を振り上げる。が、白銀の髪の戦士はエスキルの攻撃を軽々と避けて後方に退いた。

「若様! おのれ、ティシュトリアの次代の王に剣を向けるとは……生かしてはおかぬぞ!」

 ときの声を上げながら、エスキルの側近達が白い戦士目掛けて一斉に襲い掛かった。

 が、驚愕するエスキルの目の前で薄っすらと冷たい笑みを浮かべたまま、白い戦士は恐ろしい程の速さと正確さで剣を操りながら一人、また一人とティシュトリア兵を確実に切り捨てていく。


「やめよ、ロスタル」

 巫女姫の声に、白い戦士は顔をしかめてあるじ一瞥いちべつすると、ゆらりと歪んだ空間に溶け込むように姿を消した。が、一瞬の後、ザシュアの背後の空間からゆっくりと歩み出た。

 巫女姫は幼さを残す顔立ちに似合わぬ妖艶さを漂わせながら、ティシュトリアの若き軍人を見据えたまま、ゆっくりと嘲笑うような表情を浮かべた。

「エスキル様、剣をお収め下さい。さもなければ、わが護衛にあなた様の喉を掻き切らせ、亡骸を『狭間はざま』に群れる妖獣達に与えると致しましょう」


 神に仕える巫女らしからぬ口調に、エスキルは若草色の瞳を大きく見開くと、くくっと不気味な音を立てて笑い出した。

「この俺とした事が、危うくその姿に騙されるところだった……なるほど、巫女ならば『不思議な力』を持っていても怪しまれる事はないからな」

 エスキルは可笑しくてたまらないとばかりに口元を歪めながら剣を鞘に戻すと、獲物を追い詰める野生の獣のような視線をザシュアに向けた。

「我らティシュトリアの民をあなどるなよ。武装国家として術の力に頼らぬ我らが、如何にして妖術師の王国スェヴェリスを滅ぼしたと思う?」


 突然の問いかけに、困惑したように後退あとずさる巫女姫の細い肩を、ロスタルが荒々しく掴んだ。はっ、と大きく息を呑んで「大丈夫です、ロスタル」と震える声でささやくと、ザシュアは赤毛の戦士に視線を戻した。

「……何の事ですか、ティシュトリアの戦士よ?」

「百年前、我らの先達は多くの戦士の犠牲によって妖術師どもを捕らえた。奴らを拷問にかけ、お前達の力の秘密と知識を手に入れた……あくまでも、術師の考え方を学ぶためだがな。お前達は術を仕掛ける相手に容赦ないが、己が拷問にかけられれば、いとも簡単に口を割り仲間さえも売る。心根が弱すぎるのだよ、我ら戦士と違ってな」

 巫女姫の後ろに佇む白い戦士の瞳が面白そうに輝くのを、エスキルは見逃さなかった。

「『神聖な聖域』で妖魔の護衛とはな。ザシュアよ、いや……本当の名は何と言う、術師よ?」


 先ほどまで身を寄せ合って震えていた巫女達は、訳が分からないという顔をしながら懇願するように可憐な少女を見つめた。

「巫女姫様、いったいこの者は何を言っているのですか……?」

 ザシュアは大きなため息をついてエスキルを睨みつけると、女達の方を振り返って美しく微笑みかけながら、威厳のある声を神殿に響かせた。

「安心なさい。さあ、巫女達よ、彼らに祝福を与えましょう。天竜様に祈りなさい」

 ああ、ザシュア様……と女達は安堵したようにつぶやくと、言われた通りに目を閉じて、天に向かって祈り始めた。


「そうです、祈りなさい。すぐに……お前達の魂を『果ての世界』へ放り込んでやろう」



***



 堅固な岩肌を砕き、獣も通わぬ険しい谷を切り開き、タルトゥスとティシュトリアの間にそびえ立つオトゥール山脈にはばまれずに国境を超えて進軍するための抜け道を、タルトゥスの領主は代々に渡って密かに作り上げていた。

 アルスレッドに教えられた通り、山脈のふもとに生い繁る深い森の先に延々と続く道を進んで行くと、やがて目の前にティシュトリアとの国境の砦が現れた。砦を守る兵士達には既に早馬で領主からの命が伝達されていたらしく、パルヴィーズ達は尋問される事もなく丁重に送り出された。


「アルコヴァル王がタルトゥスを手元に置きたがる理由が分かるでしょう? 王国としてのタルトゥスは百年もの昔に大陸から消え去りましたが、『アルコヴァル最後の砦』とうたわれるタルトゥスの城塞都市がある限り、ティシュトリアはアルコヴァル侵攻に及び腰にならざるを得ないのですよ」

 パルヴィーズは満足気に砦を振り返った。

「山脈を南下した先の平原からなら攻め込めるだろう?」

 傭兵として大陸中を駆け巡って来た「火竜」らしい言葉に、パルヴィーズが苦笑する。

「野獣や妖獣達がひしめくクリクゾールの平原からですか? あそこは対スェヴェリス戦において激戦地となって以来、スェヴェリスの妖術師達が残した呪詛に縛られたままですからね。術師の助けなしに平原は渡れません。『双頭の火竜』ともあろう者が、術を好まぬティシュトリアの気風をお忘れですか?」

 やれやれ、と呆れたようにため息を吐くと、パルヴィーズはシグリドの腕の中で眠り込んでいる娘に目を向けた。

「何はともあれ、そろそろファランを起こした方が良いですね。もうすぐティシュトリアの国境の砦に着くはずです」

 パルヴィーズは無愛想な若者が大事そうに抱えている娘の寝顔を覗き込んで、優しく微笑んだ。


『火竜の子、ここから先は竜紋の石を手放すでないぞ。天竜の娘もだ』

 パルヴィーズの肩に止まって居眠りをしていたはずの銀灰色の鴉がささやくのを聞いて、シグリドは怪訝な顔をして妖魔の女王を見つめた。

「なぜだ?」

 鴉の金色の瞳の奥が妖しい光を増した。


『ティシュトリアの先は、スェヴェリスの巫女の領域だ』




 〜第2部 再びの明け〜 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る