呪詛

「……まだ生きていたか。さすがは火竜、そう簡単には死なぬか」

 ロスタルは冷ややかな微笑みを浮かべたまま、牢の扉を開けるよう命じた。

「誰か、火竜を外に出せ」


 中庭で多くの獣人と兵士達を血祭りに上げた火竜の傭兵を前に、護衛達はその場に立ち竦むばかりで誰も動こうとしない。

「貴族の子らは使えぬな。俺はアスランほど寛容ではないぞ。不要なものは除外するだけだ」

 お前が、いやお前こそ……と言わんばかりに目を白黒させながらお互い顔を見合わせるだけの護衛達を見かねて、シグリドが口を開いた。

「出ても良いか、ロスタル。そいつら貴族に引きずり出されるのはごめんだ」

 そう言って立ち上がり、扉の前に歩み寄った。


 シグリドの身体に丁寧に巻かれた布に気づいて、ロスタルはいぶかしげに目を細めると、ゆっくりと牢に近づいた。少し考え込むように首を傾げ、辺りをうかがうように視線を動かす。

「花の……いや、女の匂いだ」

 シグリドは表情を変えずに、ファランが「狭間」を無事に抜け出せるよう心の中で願った。

「治癒師か? ザラシュトラの結界に阻まれずに『狭間』を抜けてここに忍び込んだか……面白い。火竜にも使い物になる術師がいたとはな。お前の女か?」

「さあ、何のことだ? 俺は女と術師が大の苦手なんだ」


 素知らぬふりで扉をくぐり牢の外に出た「火竜」を前に、護衛達が一斉に剣の柄に手をかける。

 シグリドは両手を頭の後ろに回して無抵抗の意思を示した。殺意の欠片もない貴族の子弟を相手にするのは「火竜」の名折れ、というのもあるが、今、ロスタルに「狭間」に翔ばれてはファランに危険が及ぶと懸念したからだ。


 あいつ、また迷子になっていなければ良いが……


 ロスタルに命じられて、護衛の一人が震える手でシグリドの両腕を後ろに回して手枷をはめ、背中をそっと押して、先に歩き出したロスタルの後をついて行くよう促した。

「せめてもの情けと思ってシエルの剣を牢に置いたのだがな」

 ロスタルの冷たく静かな声が地下牢に響く。


 お前だったのか……だが、なぜ?


「自害した方が良かったと後悔するなよ、シグリド」

「……どういう意味だ?」

ロスタルは振り返りもせずに言った。

じきに分かる。ついて来い」



***



 シエルの亡骸をアスランに託した後、シグリドを助ける事も叶わぬまま、ディーネは次第に自分自身を失いかけていた。



 紅玉の瞳と月色の髪だけが、人の子だった私の名残り。

 両手に鋭い爪を持ち、首から下は鱗に覆われ青白く光る重たい身体を、ずるり、ずるりと引きずって動き回る蛇の娘。それが今の私。

 背中に生えた翼は魔のあかし……自分でもおぞましいと思うこの身体に囚われたまま、このままずっと生き続けるの? これが「生きたまま魂を喰われる」という事なのかしら?


『我が幼子おさなごよ、我はお前の魂を喰ったりなどせぬぞ』

 ディーネの頭の中に聖魔の声が響いた。

『我はお前、お前は我だ。我らは魂を共有しておるのでな。さあ、我の中でゆっくりと眠るが良い。人の世がお前に与えた苦しみなど、全て忘れて』


 でも、苦しみだけではなかったわ。人の世は、こんな私にも誰かを愛する事を教えてくれた……シエルは、私の愛しい人はどこ?


『あれの魂は既に人の世から離れた。逢いたくば、我らは魂を別たねばなるまいな……お前はそうしたいのか、愛しき幼子よ? 我の中で微睡まどろんでいれば、我の庇護の下、幾百幾千もの時を過ごす事ができようぞ』


 でも、私はあの人でなければ駄目……シエルに逢いたい、シエルはどこ?

 兄上、ねえ、兄上、私を置いてどこにも行かないで。いつものように強く抱きしめて……兄上はどこ?


『あれはアプサリスの眷属、我らと同じ時を過ごすもの。我が幼子よ、お前があれと共に居たいと望むなら、そうしよう。今までのように、これからもずっと』

 不意に有翼の蛇グィベルは「狭間」に身を躍らせ、暗闇の中を進んで行く。

『ああ、見つけたぞ』

 そう言うと、松明の光がぼんやりと浮かび上がる空間に飛び降りた。


 水鏡の前に一人の女が立っていた。その傍に、青い炎に包まれた細身の剣が浮かんでいる。その周りには、女術師の結界に囚われた妖獣達がうごめいていた。

「これは……聖魔様。何用ですか?」

 突然の「翼ある蛇グィベル」の出現に、ザラシュトラは動揺をなんとか抑え込んだ。

『術師よ、お前ではない。ロスタルがこちらに向かっておろう?』

 ああ……と女術師はため息をついた。


 あの人の瞳に映るのは、愛する妹だけ。その面影を色濃く残しながらも醜い蛇の姿をした聖魔を、ロスタルはどんな風に見つめるのだろう……


 水鏡に映る、情念の炎に身を焦がす己の姿に、ザラシュトラはぶるりと身震いすると、聖魔に向かって深々とこうべを垂れた。




*** 



 どこに向かっているんだ?


 シグリドは先を進むロスタルを追いながら、周りの異様な静けさに眉をひそめた。


 獣の護衛たちの姿が見当たらない。それどころか、居住区を通り抜けているはずなのに、人の気配さえしないのはなぜだ?


 行く手に松明の明かりに照らされた広い空間が見えた。ザラシュトラがこちらを向いてロスタルを見据えている。その隣には、ディーネによく似た面持ちの、翼を持つ蛇の妖魔。


 何て事だ……あれが「罪戯れ」であるディーネの末路なのか?


 シグリドは庭園で初めて出会った日の事を忘れていなかった。


『きれいね、シエルによく似ているわ』


 シグリドの魂がきれい、と言ってくれた、心の清らかな愛らしい女性ひと。彼女に降りかかった運命はあまりにも酷だ。あの妖魔の身体の中に、ディーネの魂はまだ囚われているのだろうか。



「ロスタル、シグリドをここへ」

 言われるがままにシグリドをザラシュトラの前にひざまずかせると、ロスタルは翼ある蛇の娘のそばへ歩み寄った。

「ディーネ、そこにいるのか?」

 愛しい妹の顔を持つ聖魔に語りかけて、その鱗に覆われた身体に優しく触れる。

「兄上……? ああ、兄上! 今までどこにいたの? 私を置いて、どこにも行ったりしないで」

 ディーネが甘い声でささやきながら嬉しそうに手を伸ばす。

 ロスタルは迷う事なくその身体を抱きしめた。鱗を持つ胴体が、すがりつくようにロスタルに絡みつく。


「ねえ、兄上、シエルはどこに行ったの? どこにもいないの。私を置いて、どこに行ってしまったの?」

 ロスタルは無言のまま、いつものように月色の髪を撫で、頬や口元に優しく口づけた。

 愛しい妹の魂は、まだこの聖魔の中にいる。それでも、記憶がかなり曖昧になっているのは確かだった。シエルを失った悲しみに、心が壊れてしまったのかもしれない。

「ディーネ、俺はお前を置いて行ったりしない」

「分かっているわ。兄上が居てくれれば、私はそれで良いの」

 幼い頃の妹の口癖を聴いて、ロスタルの心が痛んだ。


 ディーネ、俺の小さな光。最愛の妹。

 命果てるまで、俺が守り続けてやる。幾百、幾千の夜が過ぎようと共にいよう……この姿のままで。




 くそっ、ザラシュトラの仕業か……?


 いつの間にか身体の自由を奪われて、シグリドは唇をぎりりと噛んだ。ひざまづいたままの状態で、辛うじて動くのは瞳だけだ。

 辺りを見回せば、真珠色の翼を持つ娘が、その虹色の長い胴体でロスタルに絡みついていた。

 驚きを隠せぬシグリドが見つめる前で、白い戦士は穏やかな表情を浮かべて、虹色の鱗が光る娘の身体を優しく撫でている。

 やがて、ロスタルの輪郭がゆらりと溶け出すように揺らぎ始めたかと思うと、見る間に、蒼狼ヴォールに似た大きな獣が取って代わった。

 白銀の獣は、氷のような薄青色の瞳をシグリドに向けると、低い唸り声を上げた。


「どうだ、美しいとは思わぬか?」

 白い獣をうっとりと見つめたまま、ザラシュトラが夢見るようにささやいた。

「あれは、聖魔アプサリスが作り出した、この世で最も気高く強く、最も残酷な獣よ」

 アプサリス。

 どこかで聞いた名だが、シグリドはそれが何なのか、思い出せなかった。

「罪戯れの妹を持ったがために、ロスタルは聖魔に魂を売ってあの姿を手に入れた。妹と共に生きるために、人である事を自ら棄てたのだよ」


 私も同じように人である事を棄てた。だからこそ、ロスタル、あなたが愛しい……ザラシュトラの心が、声にならない叫びを上げた。


「火竜よ、お前も永遠に生きたいとは思わぬか? 魔の眷属ならばそれも可能だぞ」


 ……この女、何を言っているんだ?

 永遠に生きる? 

 魔の眷属ならば…?


 シグリドは動かぬ身体に苛立ちながら、女術師をにらみ続けた。



「獣人達を見たであろう? あれらはアスランの兵士達の成れの果て。わざわざ術を施し妖獣の魂を植え付けてやったと言うのに、身も精神こころもろ過ぎた。結果、人の知性が貪欲な獣の本性に喰われてしまった。だが……火竜よ、お前は違う」


 シグリドの頭の中で、東の火竜の「さえずり」が蘇る。

『領主の術師に用心しろ、あれは危険だ』


「あの刀鍛冶師もそうだったが、火竜の民は身も精神こころも怖ろしいほどに強い。迫害された過去の遺産であろうな。シグリド、火竜の中でも最強とうたわれるお前ならば、良いうつわになろう」


 良い……器?


 シグリドは思いを集中させた。


 この女は狂っている。これは幻術だ。

 惑わされるな。この女の言葉の毒に呑み込まれるな……聴いてはいけない!


「シグリド・レンオアムダール、美しき火竜よ。永遠の忠誠を私に誓え」

 シグリドの意に反して、思うように動かぬ身体がザラシュトラの前にこうべを垂れる。

「我が王国を再びこの手に取り戻すために、私のためだけに戦い、私にその身を捧げよ」


 ザラシュトラは傍らの青白い炎に手を差し伸べ、その中に浮かぶ剣を取り出した。闇の暗がりを思わせる色の剣を片手に、結界に囚われている妖獣達の間を吟味するようにゆっくりと歩き回り、ふと足を止めた。

 そこには、山豹レーウを思わせる美しい妖獣がいた。黒く艶やかに光るしなやかな肢体を低く屈めて威嚇の姿勢を取ると、鋭い牙と鉤爪を誇示するように女術師に飛びかかる……

 が、結界に阻まれ、見えない壁に弾き飛ばされた。それでもまた起き上がると、怒りに震える瞳でザラシュトラを見据えたまま牙をく。

「ふむ、これが良い。猛々しく美しい火竜にふさわしい獣だ」

 女術師は獣の目を見つめたまま、闇色の剣を胸元に引き寄せると、異国の言葉で何事か囁き始めた。



 術師の力を支えるのは、綿密に練り上げられた祈りの言葉だ。自然を祝福し、その自然の力を貸し与え給え、と祈りを捧げる。

 だが、ザラシュトラが紡ぎ上げる言葉は祈りとは程遠い。

 それは、人の世に想いを残して逝ったものたちの怨念を糧にして編み出される、仄暗い呪縛。『あらゆる命に救いの手を差し伸べよ』と誓ったはずの術師ならば決して手を出さぬ、禁忌の言霊。



 女術師の呪詛に魂を絡みとられ、黒い獣は力なく横たわった。

 ザラシュトラは手にしていた剣を頭上に振り上げると、獣に向けて振り下ろした。恐ろしい断末魔の叫びと共に、黒い妖獣の心臓が闇色の剣に貫かれ、どくりと大きく鼓動した。


 突如、低く唸るような狂喜の叫びが暗闇の中に響き渡った。

 高らかに歌声を奏でる闇色の剣は、黒い獣の魂を、どくり、どくり、と吸い上げながら、獲物の恐怖と怒りをもかてとして、恍惚の悦びに酔いしれている。

 もっと寄こせ、まだだ、まだ足りない……貪欲な歌声が響き続ける中、命を吸い尽くされた黒い獣は見る間に干からびていった。

 なおも剣は歌うことを止めない。あたかも、新たな犠牲を求めるかのよ如く。


「火竜よ、私を見よ」

 ザラシュトラがシグリドのあごを掴んで新緑の瞳の中を覗き込む。途端に、シグリドの頭の中に、先ほどの黒い妖獣の怒りと恐怖が流れ込んできた。


 なんだ、これは……? この女、俺に何をするつもりだ?


 ザラシュトラの術にあらがえず、瞬きをする事さえ許されない。ロスタルが地下道で言った言葉が、シグリドの脳裏をよぎった。

『自害した方が良かったと後悔するなよ、シグリド』



 ディーネの柔らかな身体に身を委ねたまま、白銀の狼はシグリドを見つめていた。


 何度見てもあの女の呪詛は醜悪だ。器としてその呪詛を受けた者の末路は哀れなものだ。せめてシエルの弟があの女の餌食にならぬよう、地下牢に短剣を忍ばせてやったのに……生き延びてしまうとは。愚かな奴だ。


「兄上、あの歌声、怖いわ……ねえ、止めさせて……」

 ディーネが震える手でロスタルを強く抱きしめた。大丈夫だ、と言うように鼻先を月色の髪に押し当てる。


 もう少しだ、もう少しで全てが終わる。

 そしてシグリド、お前の苦しみが始まるのだ。



 ザラシュトラはシグリドの顎に手を置いたまま、親指で唇をゆっくりとなぞり、自分の唇が触れそうな程に顔を寄せた。

「若く、美しい。火竜よ、お前は私のもの」

 にやり、と口元を歪めて妖艶な眼差しを獲物に向けると、自由を奪われたまま宙を見つめるシグリドの心臓めがけて、ザラシュトラは闇色の剣を振り下ろした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る