別れの約束

 シグリドが地下牢に囚われたのが、処刑の朝。ファランがシグリドに治療を施している間に朝が来た、と言っていたから、おそらく既に二日は経っているだろう。


 いつまで閉じ込めておくつもりだ? 

 一体、何のために?


 

 様子を探ろうと「狭間」を抜けて城内に戻ろうとするファランを、シグリドが引き留めた。ザラシュトラの結界に捕らわれる危険があるからだ。

「お城の中は静まり返っていて、人影もまばらだったわ。だから簡単に色々と持ち出す事が出来たのよ」


 やはり、この城は何かがおかしい……


 眉間にしわを寄せて何やら考え事をしている黒髪の傭兵を見つめていたファランが、急に思いついたように道具箱の中を探って布に巻かれたものを取り出すと、シグリドに差し出した。

「これ、あなたの?」

 シグリドが布を取り除くと、そこには見慣れた短剣があった。

 碧玉へきぎょくの眼を持つ双頭の火竜が絡みつく柄。揺らめく金銀の炎の象嵌ぞうがんが施されたさや


 ああ、シエルが門兵から取り戻しておいてくれたんだな……


「そうだが、どこで見つけた?」

「倒れているあなたのすぐそばに置いてあったの」

「置いてあった……? で、なぜ、今までその箱の中に隠していたんだ?」

 表情を険しくするシグリドを前に、ファランは気まずそうに視線を逸らすと、少し頬を膨らませ、唇を尖らせながら小さな声でささやいた。

「手当てをしている間に……殺されるのは嫌だったから……」

「俺がそんな卑怯な奴だと思ったのか?」

「だって、目つきが怖かったもの」


 悪かったな、と毒づきそうになりながらも、本当に怖ろしかったのだろう、とシグリドは反省した。


 当たり前だ。暗い地下牢に得体の知れない血塗れの傭兵と二人きり。傍らには短剣。大の男でも十分逃げ出したくなる状況だ。なのに……お前は逃げなかったんだな、ファラン。


 心根が強く優しい娘をとてつもなく愛しく感じて、急に抱き寄せたくなった。


 ああ、まただ。俺は何を考えているんだ、こんな子供相手に……


 ふわふわと炎の色の巻毛を揺らしながら、青灰色の瞳をきらきらと輝かせて短剣に見入っている姿が、精霊のように愛らしい。初めて見た時は、何だ、ただの子供じゃないか、と思ったのだが。


 初めて人を殺めたのが十歳の時。何だ、ただの子供じゃないか、という顔でこちらを見つめていた男の命を、一瞬で奪ったのをシグリドは覚えている。


 ただの子供なんかじゃない。ファラン、お前は……


「きれいな短剣ね。これ、あなたの刺青と同じ、火竜ね?」

「……ああ、シエルが作った守り刀だ」


『僕がお前を守ってあげるよ』

 シエルの声が聞こえた様な気がした。

「ファラン、お前にやる。護身用だ、いつも持っていろ」

「え? 駄目よ、そんなの! あなたの兄さまの形見じゃないの、そんな大切なもの……」

「だからこそ、お前がここから持ち出して大切に使って欲しいんだ。シエルもきっと喜ぶ」

 俺はここから生きて出られないかもしれない……シグリドは心の中でつぶやくと、短剣をファランの腰帯に無理やり差し込んだ。シエルが生きていた証しを地下牢に埋もれさせるより、「狭間」を超えて自由に外の世界に出られるこの娘に託す方が良いに決まっている。


「あなたを連れて『狭間』を翔べれば、ここから抜け出せるんだけど……ごめんなさい、自信ないわ」

 大体、どうして術師でもない自分が「狭間」を翔べるのかさえ、ファランには分からないのだ。他の人間を連れて翔ぶなど考えた事もなかった。第一、あの瘴気に耐えられない。


「気にするな。どちらにしても、俺はまだこの城でしなければならない事が残っているんだ」

 ロスタルに奪われたフラムベルクを取り戻す。

 シエルを奪ったザラシュトラを殺す。

 そして、シエルが愛したディーネを「谷」に連れ帰らねば。



 ふと、シグリドは鉄格子の向こう側に顔を向けて耳を研ぎ澄ませた。


 誰か来る……少なくとも五人。

 いや……もっとか?


「ファラン、もう行け。お前の兄が帰りを待っているんだろう?」

「え? でも、そろそろ傷口の薬を変えようかと……ああ、嘘……どうしよう、シグリド……!」

 地下道に響く足音にファランも気づいたようだ。

 シグリドは無言でファランを引き寄せると、強く抱きしめた。ファランも細い両腕をシグリドの背中に回してしがみついてきた。銀の腕輪が、からりと音を立てた。

「シグリド、首飾り、絶対に外さないでね。私が迷わずあなたのところに戻って来るための目標めじるしだから」

「馬鹿、二度と戻ってくるな! ファラン、早く行け」


 俺とお前とでは生きる世界が違うんだ……そう言おうと思った瞬間、唇に温かくて柔らかいものが触れた。

 少女の唇は甘い蜜の味がした。


「戻って来るわ、シグリド」


 炎の色の娘は、シグリドの腕をすり抜けて消えた。アキレアの花の香りと切ない想いを残して。



***



 地下牢に一人残され、シグリドは待った。

 新しい傷がうずく身体に力が満ちてくるのを感じていた。


 あの少女の祈りが、シエルの想いが、心の支えとなってこれからも俺を生かし続けてくれる。忘れるな、俺は「二つ頭」、誇り高き火竜の民だ。顔を上げろ。前だけを見て、その先にある明日を生きて行け。


 遠くから聴こえてくる足音の中に白い妖魔の気配を感じて、シグリドは不敵なわらいを浮かべた。



 ……生き抜け。何があっても生き抜くんだ。

 生き抜いて……

 あの少女を、もう一度、この腕に抱きしめてやる。

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