もう少し、このままで

 青白い光に包まれたは、少し不安気な様子で、地面に横たわるシグリドの顔を覗き込んでいた。

 月色の髪が朝の光に揺れて銀糸のようにきらきらと輝き、鱗のようなものが虹色に輝く身体を覆っている。


 ……ディーネ? 

 いや、違う。これは……


「シグリド、目を覚まして。あなたまで私を置いて、果ての世界に行ってしまわないで」


 ああ、やっぱりディーネだ。果ての世界? 何のことだ?

 変だな……身体が思うように動かない。

 ああ、シエル……シエルとアスランはどこだ?


「……シエルは?」

 その名の響きに、ディーネは失ったばかりの愛しい人を想って、傷だらけの少年を見つめたまま涙を流した。


 可哀想なシグリド、あなたの優しい兄上はもうどこにもいないの。でも、今それを告げれば、あなたまで命を手放してしまいそうで……


 シグリドはもう一度ディーネの言葉を心の中で繰り返した。

『私を置いて、果ての世界に……』


 まてよ、それって……


「ディーネ、シエルは……シエルは死んだのか?」

 ザラシュトラの命を受けた人間の兵士達を従えて、ロスタルがこちらに近づいて来る気配を感じながら、ディーネは静かに告げた。

「……私の腕の中で、安らかな眠りについたわ。大丈夫よ、シグリド。アスランがあの人を『谷』に連れ帰ってくれるわ」


 ……ああ、シエル!

 結局、俺はたった一人の大切な人さえ守れなかったのか。


 世界が終わりを告げた気がして、シグリドは意識を手放した。



***



「目が醒めたら、ここにいた。で、お前が現れた」


 幼い治癒師に全てを語り終わって、ふと、シグリドは気がついた。

 いつの間にか、膝を立てた両脚の間に向かい合うようにファランを座らせ、その小さな肩に顔を埋めたまま、両腕で少女を囲い込み、しっかりと抱きしめている。


 まずい、これは……ああ、参ったな……こんな子供相手に、俺は一体何をしてるんだ?


 とくん、とくん、と少女の心臓の鼓動が伝わってくる。触れている身体は温かく、心地良い柔らかさだ。


 ……ああ、もういい! 

 面倒だ。何も考えるな、シグリド。

 もう少し、このまま、何もかも忘れてこの温もりを感じていよう。甘い花の香りのする少女を、まだ手放したくない……


 ファランの肩に頬を当てたまま、シグリドはその細い腰に回した両腕に力を込めた。



 はぁっ、と温かな吐息を漏らして、ファランはシグリドの頭を優しく引き寄せると、一層強く抱きしめた。

「大丈夫よ、そのままで良いから……」

 そう言うと、柔らかい頬を黒髪に押し当てる。

「ねえ、シグリド」

 幼い治癒師の声が耳元で優しくささやいた。

「泣きたい時は、我慢せずに泣いて良いのよ。あなたの心はそうしたいはず」



 ……ああ、そうか。

 この娘は天性の治癒師なんだ。俺の身体の傷を癒し、今また、傷ついた心を包み込もうと小さな手を差し伸べてくれる。


 突然、熱いものが胸にこみ上げてくるのを感じて、シグリドは声を絞り出した。

「救おうとしたんだ。でも……救えなかった。たった一つの大切な命さえ、俺は救えなかった」

 涙が頰を伝い落ちる。

 ファランの胸に顔を押しつけると、シグリドは声を押し殺して震えながら泣いた。小さな手が、黒髪をゆっくりと撫でるのを感じる。

「シグリド、自分をそんなに責めては駄目。救えない命だってあるわ。それは誰のせいでもない。あなたのせいでは決してないの」

 あやすような声で、ファランが語りかける。


 治癒師にだって救えない命は沢山ある。誰のせいでもなく、魂は果ての世界へと旅立ってしまう。

 ファランはシグリドの頭を抱きしめて優しく揺すりながら、子守唄のように祈りの言葉をささやき始めた。


『苦しみの夜に、静かに耐えよ

 絶望の果てに、歩みを止めよ

 悲しみの明けに、おもてを上げよ……』


「止めてくれ。俺は命を奪う事しか出来ない。なのに……このまま生き続けろと言うのか? そんな祈り、俺には必要ない」

 ファランは、自分を抱きしめる逞しい腕が震えているのを感じた。


 ああ、この人の魂が震えているわ……心と身体に数え切れないほどの傷を負った戦士。心が闇に落ちてしまう前なら、まだ救える。今なら、まだ……「狭間はざま」で会ったあの青年ひとには、それが分かっていたのね。 


「ねえ、シグリド。私ね、ここに来る前に『狭間』で迷子になっていたの」

 黒髪をゆっくりと撫でながら、ファランは静かに語りかけた。

「泣いている私に優しく声をかけてくれた男の人がいて、家に帰る方法を教えてくれたの」

 シグリドが耳を傾けているのを感じた。腕の震えは少しずつ治まっている。

「その代わり、ひとつだけして欲しい事があるって、その人にお願いされたの」


『助けて欲しい人がいるんだ。このままだと死んでしまう……』


「そしてあなたを見つけた。あなたは……命を投げ出そうとしていたから、助けられないかもって、正直、思ったわ」

 腕の中の少年の身体が少し緊張したのを感じた。なぜだ、と掠れた小さな声がつぶやいた。

「なぜ、俺がこの命を終わらせようとしていたのが分かったんだ?」

「分かるのよ。上手く説明出来ないけど……」

 ファランは黒髪を撫でる手を一瞬止めて、「狭間」に広がる虚空を見つめるように顔を上げて言った。

「私は治癒師だから」


『きみは治癒師だよね? お願いできるかな?』


 とろけるような優しい微笑みを、ファランは今でもはっきりと覚えている。

「その人はとってもきれいだったわ。蜂蜜色の長い髪と明るい空色の瞳の、とても背の高い……」

 突然、シグリドがファランの腰に回していた腕を解いて、壊れそうに小さな肩を荒々しく掴んだ。困惑するようなみどり色の瞳がファランを真っ直ぐ見つめている。


 シエルの瞳は空の青。その果てしなく広い青空に見守られて育った黒髪の少年を見つめ返して、ファランは微笑んだ。

「あなたの事をとても心配していたわ。優しい兄さまだったのね」



 ……ああ、シエル! シエルの大馬鹿野郎!


 自分の命が消えてしまったというのに、魂だけになっても俺の事を想って、こんな小さな娘にまで助けを求めるなんて……本当に救いようのない「兄馬鹿」じゃないか!



 ファランは、静かに涙を流すシグリドの心の中の「ほころび」が、兄が残していった愛情によってゆっくりと満たされていくのを感じていた。

「あなたの兄さまは、あなたに生きて欲しかった。生きることは時に苦しいけれど、絶望に押し潰されず、悲しみに沈まず、真っ直ぐ前を見て、ただ生き続けて欲しかったの」

 だからこそ、治癒師の祈りが必要だと分かっていたのね、シエル。


 その人は、別れ際に言った。

 きみが治癒師で良かった、と。微笑みながら。

「生き抜いて、シグリド。それが、シエルの願いよ」

 ファランの頬にも涙がこぼれ落ちた。


***



 新緑の森色の瞳がファランを優しく見つめている。兄の想いを受け止めて、その瞳に新しい命の炎が芽吹いていた。

 とってもきれい……ファランの鼓動が、また少し速くなった。


 シグリドはゆっくりと少女の頬に口づけし、そのまま小さな背中に腕を回した。火竜の戦士の力強い腕に引き寄せられて、ファランは戸惑いを隠せずに身体をこわばらせる。

「お願いだ……もう少し、このままで」

 そう言って、ふわふわの赤い巻毛に顔を埋めると、シグリドは腕の中の少女の温もりを心に刻みつけた。

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