異形の愛

 切り立った崖の上に腰かけて、谷底から吹き上げられる強風に漆黒の髪をなびかせながら、幼子おさなごは眼下に広がる「あおの森」によく似た色の瞳で遠くを見つめていた。


 どうして角山羊マーコールは、あんなに大きな身体なのに、苦もなく絶壁を駈け上がる事ができるんだろう。

 どうして山豹レーウは、高い崖から飛び下りても、怪我一つせずに獲物を追う事ができるんだろう。

 どうして蒼狼ヴォールは、足音ひとつ立てずに、森や渓谷の中を駆け抜ける事ができるんだろう。


 幼いシグリドにとって、「谷」は不思議に満ちた自然の鍛錬場だった。そこに生きるもの達の息遣いを真近に感じながら、その動きを見様見真似で学び取ることで、「火竜」に相応しい強靭な心と身体を育み、孤独さえも忘れさせてくれる……



 マーコールのごとく絶壁を苦もなく駈け上がり、レーウのごとく高さをいとわずに飛び、ヴォールのごとく気配を忍ばせる「二つ頭」の火竜は、戦場で最も畏怖される生き物となった。

 「谷」はシグリドの揺りかごであり、成長の記録を留める場所でもあった。



***



 その朽ちかけた望楼は、古い時代には物見の塔として使われていた。

 アンパヴァールの城門を抜け、荒涼とした大地の先にある「蒼の森」に守られた「火竜の谷」を監視する役割を終えた今、訪れる者もなく、その存在の意味さえ忘れ去られようとしていた。

 その最上階の小窓にたたずむ黒髪の少年が一人。


 中庭を見下ろし、高さと風の向きを確かめると、シグリドは地上めがけて飛び下りた。

 両足が地上に触れた瞬間、深く膝を折り曲げて身体をねじりながら地面に倒れ込み、くるりと一回転して素早く立ち上がる。

 刹那、アスランの叫び声が聞こえた。

「受け取れ、シグリド!」


 その声に導かれるように、シグリドは「火群フラムベルク」が投げ上げられた方へと走り出した。ずさり、と音を立てて地面に突き刺さったフラムベルクを駆け抜けざまに引き抜くと、行く手を阻もうと空中から躍り出た獣の戦士を横ぎに斬り倒した。

 「谷」でつちかった獣の本能を持つシグリドにとって、獣人達が姿を現わす前に生じる空間のゆがむ気配を読み取ることなど、さして難しくない。そこを目掛けてフラムベルクを振るえば、断末魔の叫びと共に緑色の血飛沫しぶきを上げて獣の戦士が崩れ落ちてくる。

 


 突然、空から降ってきた火竜の戦士に、処刑場は混乱の渦と化した。兵士達の中には朝稽古でシグリドに叩きのめされた者も多く、震える手で剣を構えたまま動くことも出来ずにいる。果敢に立ち向かう者もいたが、シグリドは難なく受け流して、前方へと歩みを進める。

「悪いが手加減はしない。アスランに従う者は動くな。でなければ斬り捨てる!」

 シグリドは冷たい声で言い放つと、ひたすら走り続けた。

 シエルの元へ。




 処刑台の上では、ぐらりと歪んだ空間から現れた不気味な獣の兵士達が、アスランとシエルをぐるりと囲んでいた。獣達の顔を確かめると、アスランは小さく、くそっ……とつぶやいた。


 こいつら全員、脱走兵だな。ザラシュトラにかどわかされたという訳か。愚かな奴らだ……


 アスランは腰帯にしていた短剣をシエルに渡し、自分の長剣を引き抜いた。

「シエル、剣の腕前、お手並み拝見と行くか」

「残念ながら、僕が出来るのは剣を鍛える事だけだよ」

 そう言いながらも、飛びかかってきた獣の鉤爪をなんとか交わし、短剣を思い切り目に突き立てた。遠吠えのような悲鳴を上げて獣が顔を押さえてひるんだところを、アスランが一太刀で首を跳ね飛ばす。

 その後も、シエルは火竜の護身術のお手本とも言うべき動きで獣の急所を狙い、アスランは歴戦の猛者らしい豪快な剣さばきで獣人達をなぎ倒していった。



「獣らを火竜に集中させろ、ザラシュトラ」

 天幕にいるロスタルの視線はシグリドに注がれていた。

「やっています! 血の匂いを嗅いでしまうと、獣達は抑制が効かぬのです。明らかに自分よりも強い相手より、血の匂いを漂わせる手負いの獲物を追ってしまうのは、獣の本能なのでしょう」

 ふふっと妖しげな笑みを浮かべた女術師が、アスランの首を狙って出された鉤爪を惚れ惚れと見つめる。

「人間の兵士達だけではシグリドは止められんぞ。貴族の子らを見殺しにするつもりか?」

「ならばあなたが行けば良いでしょう、ロスタル。あなたなら、あの火竜を止める事など訳ないはず。万に一つ、刀鍛冶師に逃げられでもすれば『火竜の谷』の報復を受けるやもしれぬのですよ。アンパヴァールを危険にさらすわけには……ロスタル⁉︎」


 いきなりロスタルに腕を強く掴まれて、ザラシュトラは困惑しながらも、目の前の白銀の戦士を見つめ返した。薄青色の瞳の奥で冷たい炎が揺らいでいる。

「笑止よな、ザラシュトラ。この城塞都市がどうなろうと構わぬのだろう? お前の狙いはシグリドだったはずだ。アスランはともかく、シエルはこのまま行かせてやれ」

「……ディーネと共に、ですか? あなたはそれで良いのですか、ロスタル?」

 二人を見逃せば、あなたも、妹を追って行ってしまうのでしょう? 


 ザラシュトラの心が、それは駄目、と震えた。


 ロスタルはそれに答えず、眉をひそめて女術師をしばらく見つめた後、そっと腕から手を離し、地面に突き刺していた剣を引き抜いた

「もういい。俺がやる」

 吐き捨てるように言って、ザラシュトラの前から姿を消した。




「シエル! 後ろだ!」

 遠くからシグリドに名前を呼ばれてシエルが振り返ると、背後から獣の鉤爪が迫っていた。アスランは数人の獣の兵士達を相手に苦戦している。

 なおも襲いかかる獣人達を斬り捨てながら、シグリドは蒼狼ヴォールの如き素早さで、シエルの方へ全力で走り続けた。


 刹那、目の前の空気が揺れた。

 次の瞬間、何もない空間からロスタルの剣がシグリド目がけて振り下ろされた。

 突然現れた白い戦士の攻撃に、シグリドはちっ、と舌打ちしながら飛びのいて剣を避けた。が、切っ先が腹をかすめた。斬られた部分の上衣が赤く染まっていく。


 ……速い!


 予想を上回る速さで動くロスタルに向けて、シグリドは剣を握り直した。


 本気でかからないとまずいな……こいつ、やはり戦い慣れている。



 ロスタルとの間合いを見極めながら剣を振るい、アスランとシエルの様子を確認しようとちらりと顔を向けた瞬間、シグリドの右腕に激痛が走った。

 飛び散った血が顔にかかるのを感じると同時に、フラムベルクが手から滑り落ちた。斬られた腕を反対側の手で強く押さえると、どくどくと血がにじみ出る。


 くそっ……け損ねた。首を斬られなかっただけましか。


「よそ見をするな、シグリド。次はかすり傷だけでは済まんぞ」

 氷のような微笑みを口元に浮かべて剣についた血を振り払うと、ロスタルは地面に投げ出されたフラムベルクに目をやった。

「良い剣だな。やはりシエルは殺すには惜しい」

 そう言いながら、獣人達に追い詰められているアスランとシエルに視線を投げる。

「時間がないぞ、シグリド。兄と友を血に飢えた獣達の餌食にしたくはないだろう?」

 ロスタルが言い終わるよりも早く、シグリドは自分の剣を拾い上げ、低いうなり声を上げながらロスタルに向かって振り上げた。



 まずいな、ロスタルが出てきたか……アスランは何とかシエルの背後にいた獣を仕留めると、西の門へ向かうよう促した。

「だがアスラン、シグリドが押されている。加勢を……」

「無理を言うな、シエル。こっちも化け物相手で手一杯だ」

 ザラシュトラはシグリドを欲しがっていたはずだ。ここでロスタルにシグリドを殺させるわけがない。

「シエル、とにかく西の城壁に向かえ。そこから先は火竜が『谷』まで守ってくれるはずだ」

「そう簡単に言ってくれるな、アスラン」


 シエルも既にかなりの傷を負っている。始めから不利な状況ではあったが、シグリドと力を合わせれば獣人も部下の兵士達もどうにかなるだろうと思ったのだが……やはり甘かったか。

 もう時間の問題だ。俺もシエルも、とうに体力も気力も使い果たしている。


 そう思った矢先、一人の獣人がシエルの後方で長槍を構えるのが見えた。

「シエル、けろっ、後ろにっ……!」


 アスランが叫ぶのと同時に、ずさり、と鈍い音がした。




 長槍の穂先は、シエルの背中から左胸を貫き、赤い花びらのような血が夜明けの光に舞い散った。

 こほっ、と小さな咳をして、シエルは自分の胸元を見つめ、左手で胸のあたりに触れる。あっという間に、その手が生温かい赤い色に染まった。



 鮮血がシエルの蜂蜜色の髪を赤く染めるのが、シグリドにもはっきりと見えた。

 声にならない叫びを上げた「二つ頭」が見つめる先に視線を向けたロスタルも、一瞬、驚きの表情を浮かべた。

 シグリドはシエルに向かって狂ったように走り出そうとする。が、ロスタルが一歩先に躍り出て、シグリドの喉元を剣の柄で打ち据えた。がはっ、と咳き込んで血を吐きながら、素早く振り上げられたフランベルクが、虚しく空を斬った。

「ああ……駄目だ……シエル!!」


 いつの間にか背後に回ったロスタルがシグリドの後頭部を容赦なく打ち据え、背中に蹴りを入れて地面に叩きのめした。

「なんだ、もう終わりか? もっと楽しませてくれると思っていたが……」

 ロスタルはフラムベルクを奪い取ると、地面にうつ伏せに倒れているシグリドのすぐ横にひざまづいた。

おのれの非力を思い知れ、シグリド。戦場において冷静さを欠き、守るべきものさえ守れぬとは。その腕に『二つ頭』を背負う価値もない」

 そう言うと、火竜の刺青にすっと刃を滑らせ、「火群フラムベルク」と共に歪んだ空間に消えた。

 シグリドは動かぬ身体で必死にシエルの方に腕を伸ばそうとした。斬られた刺青の火竜が、まるで血の涙を流しているように見える。


 ああ、誰か、シエルを助けてくれ……駄目だ、こんな事って……



 シグリドが見つめるその先で、突然ぐらりと揺れた虚空から青白い光がこぼれ、夜明け前の薄暗がりを照らし出した。

 その光に包まれて、きらきらと虹色に輝く鱗に覆われた異形のものが現れ、細い両腕を大きく広げると、崩れ落ちるシエルをしっかりと受け止めた。

 美しく輝く生きものは、シエルを胸に抱き寄せ、蜂蜜色の髪に愛しそうに頬ずりした。絹のような月色の長い髪が、まるで外衣のように二人を優しく包み込む。その背には、天竜のそれに似た、真珠のような光沢を放つ羽根に覆われた美しい翼があった。

 虹色に美しく輝く女の肢体の腰から下には竜のように鱗の生えた胴体が続き、ずるり、ずるり、と音を立てて長い身体を引きずりながら、とぐろを巻いていく……


「……有翼の蛇グィベルか?」

 ザラシュトラは声を詰まらせた。

 翼のある異形のものを前にして、怯えきった獣達はそこから逃れようと後ずさり、ザラシュトラが攻撃せよ、と命令しても従うことを拒んだ。



 ただの妖魔などではない、あれは……聖魔だ。魔の系譜の中でも数少ない、最上位の高貴な魔物。天竜に翼を与えられた聖なる蛇。獣人が怯えるのも当然だ。まさか、「罪戯れ」の娘の中に、あんなものが眠っていたとは……



 紅玉の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ち、腕の中でぐったりとしているシエルの頬を濡らした。

「ああ、なんてこと……シエル、お願い。私を置いて、一人で行ったりしないで」

 薄っすらと空色の瞳が開かれる。

「……ディーネ? 愛しい人、なぜ泣いて……」

 ディーネは思わずシエルの頭をぐっと胸に押し抱き、その青い双眸に自分の姿が映らないようにした。

「シエル、見ないで……お願いだから目を閉じていて。この姿を、あなたにだけは見られたくないの」

「ディーネ、お願いだから、全てを見せてくれ……あなたの全てを、僕に」


 ディーネはシエルの頭を抱えている腕を少し緩めると、ためらいがちに愛する男に視線を落とした。

 空色の瞳に映るのは、紅い瞳と月色の髪を持つ、翼ある蛇。


「ああ、僕のディーネだ……あなたは何も変わらない。こんなにも美しくて、こんなにも……愛しい」

 シエルの指が、虹色の鱗が輝く首筋から肩へゆっくりと滑り降りていく。肩から零れ落ちた月色の髪を掬い上げて、愛しそうに指に絡み取る。

「ディーネ……どんな姿であろうとも、僕があなたを愛しいと思う気持ちは決して変わらない」

 ごほっと咳き込み、真っ赤な血が口元を伝う。ディーネは白く細い指でシエルの口元を拭い、唇を優しくなぞった。

 シエルは微笑みながら最愛の女性ひとを見つめ続けた。

「ディーネ、愛する我が妻よ……口づけを、くれないか?」



 心から愛した男を腕に抱き、その最後の吐息が止まるまで、ディーネは唇を重ねていた。


 愛しているわ、シエル。あなたでなければ、私は駄目……




 不意にロスタルの気配を感じて、ディーネの中にいる聖魔が威嚇いかくの唸り声をあげた。

『寄るな、白い獣よ。我が幼な子の嘆きがお前には見えぬのか?』


 頭の中に聖魔の声が響き渡り、ロスタルは一瞬、凍りついたように足を止めた。

「まさか……ディーネ、お前なのか?」

 目の前でシエルを抱いた鱗のある美しい生き物には、確かに愛しい妹の面影があった。

「何が……起きている……?」


 聖魔よ、お前の中で、俺の愛する妹の魂はまだ生きているのか?


 否、と言われるのが恐ろしくて、ロスタルはその問いを言葉に出さずに立ちすくんだ。

『我が幼な子の願いに応えたまでのこと。アプサリスの眷属よ、少しでもお前に人の心が残っているならば、手を出すでない』

 


 ディーネはシエルを抱きしめたまま、ずるり、ずるりとアスランのそばに近寄り、名残惜しそうに腕の中の愛する人を見つめると、もう一度ゆっくりと唇を重ねた。

 その亡骸をアスランに託し、鋭い爪で月色の美しい髪を一房切り取ると、シエルの手首にしっかりと結びつけた。


『共に暮らそう……』


 聴き慣れた心地よい言葉がディーネの心の中に蘇る。


 ええ、シエル、私の心はあなたのそばに。離さないで、ずっと一緒に……


「行って下さい、アスラン様」

 そう言うと、アスランに背を向けて遠くに視線を移した。女術師の姿を認めて、紅い瞳に冷たい光が浮かび上がる。

「お願いです、アスラン様。シエルを谷に連れて帰ってあげて。私の気高い夫を、こんなけがれた場所で眠らせないで」

「しかし……ディーネ殿、あなたはどうするんだ? シグリドもまだ……」

 天幕の手前で力なく倒れているシグリドを、ディーネは慈愛に満ちた瞳で見つめていた。

 シエルが命をかけて守ろうとした小さな弟。

「シグリドは私が守ります。だから、早く。私が、まだディーネでいる間に。さあ、早く……行って!」


 優しく甘い声色が消え、気高い静けさを持つ声が響いた。

『早く行け、アスラン。ディーネの意思を無駄にするな』

 そこには、紅玉の瞳を持ち、青白い光に包まれた神々しいまでに美しい聖魔が佇んでいた。その魂が、朝の光の中で虹色にきらめいた。

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