夢魔の女王

 振りかざされたやいばが左胸を貫く直前、時間が永遠に止まったかのような気がした。

 否、世界が全ての色を無くし、動きさえも止めたのだ──シグリドと、その「魔」を除いて。



 剣を手にしたまま動かなくなったザラシュトラの陰から、するりと現れ出たは、炎を思わせる赤みがかった金色の獣の瞳でシグリドを見つめていた。その足元は地を踏むことなく、ゆらりと宙に浮いたままだ。

 突然、身体の自由を取り戻し、とっさに立ち上がろうともがくシグリドに一瞬で近寄ったが、長く鋭い爪の生えた手をシグリドの胸元にゆっくりと這わせる。と、その手が、上衣の下に忍ばせておいたファランの首飾りに触れた。


『お前、面白いものを持っているな』

 シグリドの頭の中に、ぞくり、とするほどなまめかしい女の声が響いた。

 妖魔は美しい口元を歪めてわらうと、野生の獣を思わせるしなやかさで宙を舞い、ザラシュトラの目の前で止まった。ぴくり、とも動かぬ女術師の手から闇色の剣を取り上げて、その鋭く光る刃を自分の手のひらに強く押し当てたまま、すうっと横に滑らせる。

 驚くシグリドの目の前で、ぼたぼたと緑色の血がしたたり落ちた。


 見る間に、目と鼻の先に妖魔の端正な顔が現れ、金色の瞳がシグリドの瞳を覗き込んだ。

『なるほど、剣奴の末裔でありながら、魂まで腐ってはおらぬな。谷の獣どもに愛でられたか』

 血まみれの手をシグリドの胸に、ぴたりと押し当てると、あっという間に上衣が妖魔の血の色に染まる。

 次の瞬間、それは青緑色の炎となって燃え上がった。


 シグリドは思わず胸に手をやった。

 が、そこにあったはずの炎が瞬く間に消え去るのを目にして、呆然となった。今までのことが嘘のように、上衣には染みひとつなく、その下にある首飾りにはめ込まれた石は、炎と同じ色の光に満たされ輝いていた。

『ほお、どうやら本物のようだな』

 ちらちらと赤い火の粉が見え隠れする不思議な銀灰色の髪を揺らしながら、妖魔はさも愉快そうに、くくっと笑い声をあげた。



 一切の色彩を持たぬ世界の中で、動いているものは俺とあの妖魔だけ……一体、何がどうなっているんだ?


『人の世の時の流れと、我らのそれとは違う。それだけのこと』

 いぶかしげに立ち上がったシグリドの耳元で囁いた妖魔が、不思議な色合いの髪をなびかせながら、ゆらりと宙を舞い、道化のような仕草でお辞儀をする。

『永遠に凍りついた世界にようこそ、人の子よ』 


「……お前、誰だ?」

 言葉にしてから、シグリドはふと黙り込んだ。


 こいつ、もしかすると、声にせずとも俺の考えが読めるのか?


 くっくっ、という笑い声が聞こえた。

『お前たち人の心など、わざわざ読もうとせずとも漏れ聞こえてくるわ』


 そう言う事か。面倒だな……そう思いながら、シグリドは火竜の誇りを重んじた兄を思いながら、言葉を繋いだ。

「我が名はシグリド。火竜の谷レンオアムダールの『双頭の火竜』。名乗れ、お前は何者だ?」

『ほお。気位の高いところは火竜の民らしくて良いではないか』

 ゆらり、とシグリドの目の前に舞い降りると、その髪から、ちりちりと火の粉が飛び散った。

『我が名はアプサリス。人の中にはわれを「夢魔の女王」、「いくがらす」などと呼ぶ者もおるな』


 ……ああ、思い出した。

 破壊者にして守護神。冷徹にして熱烈。

 混沌に満ちた性質で、水の如く思いのままにその姿と心を変えるため、最も厄介な「魔の系譜」と言われる「水妖フーア」だ。猛々しい戦士達を愛し、血を求めて戦場を駆け巡り、あらゆる場所で争乱を引き起こす妖魔……いや、聖魔だったか?

 何にせよ、戦さに明け暮れる傭兵達の間で語られる作り話だと思っていたが。


『あながち嘘ではあるまい。我は強くて見目麗しい男が好みでな。だが……』

 シグリドのつま先から頭の先まで舐めるように見つめて、ほおっと大げさにため息をついた。

『お前のような子供が「双頭の火竜」とは』


 子供で悪かったな……シグリドは無愛想な顔を余計に曇らせた。確かに、幾千年と生きてきた魔物にとって、俺など赤子にも等しいのだろうが。


『せめて、そこの蛇の娘が抱いておる白い獣ほど美丈夫であったなら、情欲も湧くというに』


 宙に浮かんだまま、シグリドに、ゆらり、するり、とまとわりついていたアプサリスが、暗闇の中でゆっくりと動き出した虹色の鱗を持つ妖魔に向かって語りかけた。

『久しいな、ヤムリカ。我がいなければ、お前がそこで白い獣と戯れている間に、竜紋の石をあの女術師に奪われていたかもしれぬ。天竜の爺様に知られれば事だぞ』

 意地悪な笑みを浮かべる水妖フーアの顔を見つめて、ヤムリカと呼ばれた有翼の蛇グィベルは、胸に抱いていた白い獣の柔らかな毛をゆっくりと撫でながら不満を露わにした。

『目覚めたばかりで、まだこの身体は思う通りに動かぬのだよ。アプサリス、お前こそ、戦場で恋しい男を血祭りにあげるのに夢中で、石の守護を怠っていたのではないか?』




 まったく。人間も妖魔も……これだから女は苦手なんだ。


 妖魔達の戯言たわごとを呆れたように聞き流しながら、シグリドは干からびた黒い妖獣の骸の方へ歩み寄った。

 野生の動物も、妖獣も、谷の獣たちは皆、幼いシグリドに優しかった。この黒い妖獣は、もしかするとシグリドに飛び方を教えてくれた山豹レーウだったのかもしれない。

 干からびた哀れな身体を優しく撫で、見開いたままの目を閉じてやると、不意にザラシュトラの結界に囚われている他の妖獣達が、ざわざわと動き始めた。

 振り返ると、アプサリスが両足を組んでゆらりと宙に浮いたまま、首を傾げて興味深げにシグリドを見つめていた。


『火竜の子よ、面白いものを見せてやろう』

 水妖フーアは手にした闇色の剣を振り上げると、シグリドが止める間もなく、黒い妖獣の骸にその刃を突き立てた。

 突然、低く唸るような歌声が暗闇に響き渡った。


 あの時と同じだ。ザラシュトラが獣の心臓に剣を突き立てた時と同じ……


 どくり、どくりと音を立てながら、命の鼓動が黒い妖獣の中に注がれていく。

 闇色の剣が歌う事を止めると、艶やな毛皮を持つ漆黒の獣が再び目を開けた。金色の瞳が、静かにシグリドを見つめていた。

 行け、と言うようにアプサリスがあごを動かすと、黒い獣はうやうやしくこうべを垂れ、暗闇の中に姿を消した。ザラシュトラの結界に囚われている妖獣達の間を、ゆらり、ゆらりと泳ぐように「夢魔の女王」が進む度に、獣は自由の身となって闇の中に吸い込まれ、消えていった。


『命を奪い、命を与える。それが残酷で美しい人の世のことわりわれが創造しロスタルに与えたこの剣も、命を奪い、命を与える。残酷で美しい戦士にふさわしかろう?』

 ヤムリカの腕の中で、ぶるっと白い獣が身震いした。それを目にして、アプサリスが冷やかな視線を投げかける。有翼の蛇グィベルはその眼差しから守ろうとするかのように、白い獣の頭を自分の胸にぎゅっと押し当てた。

われが吹き込んでやった妖魔の魂を、ロスタルは戸惑いながらも受け入れた。ヤムリカの宿主である妹と共に生き続けるためにな』 

 闇色の剣を構えたまま白い獣に手を伸ばそうとするアプサリスに、翼を持つ蛇の娘が威嚇の唸り声を上げると、銀灰色の妖魔は耳障りな笑い声で応じた。

『ヤムリカが眠りから目覚めれば、ロスタルは我が剣に心臓を貫かれ、その魂は我に捧げられるはずだった。奴に横恋慕した愚かな女術師が我が剣を奪い、呪願かしりの炎に封印しなければ……な』


 アプサリスはゆらりと宙を泳いでシグリドの背後に舞い降り、その肩にしなやかな両腕をするりと回した。夢魔の女王の吐息は危険な媚薬の香りがした。

『まあ良い、妹を溺愛する男には愛想が尽きたわ。なあ、火竜の子よ。今度はお前が我を楽しませておくれ』

 しなやかな指がシグリドの頬を愛撫するように触れ、そのまま唇をらすように這っていく。媚薬の香りが一層濃くなり、シグリドは身体に違和感を感じた。


 くそっ……身体が、動かない。


『若く美しい姿そのままに、永遠に我のものとなりて共に戦場を駆け巡ろうぞ。われがお前を至高の戦士にしてやろう。命を奪う瞬間の血のたぎりを分かち合おうぞ』

 妖魔の唇がねっとりとシグリドの唇を奪う。同時に気力も奪われたようで、シグリドは思考があやふやになるのを感じた。


 ああ、まずい。女に関わるとろくな事がない。人の意思などお構いなしに心を操ろうとする……


 夢魔の女王はぐったりとしたシグリドを片手に抱き、もう一方の手で握りしめた闇色の剣をゆっくりと頭上に掲げながらシグリドの耳元に唇を寄せると、熱い吐息と共にささやいた。

『我がものとなれ、シグリド』



 シグリドは遠のいていく意識の中で、甘い花の香りと炎の精霊のような少女の姿を思い出していた。


『ラスエルファラン。ファランでいいわ』


 胸元で天竜の意匠を施した首飾りが、からりと音を立てるのを感じながら、シグリドは、ゆっくりとその名を呼んだ。

「……ラスエル……ファラン」



 刹那、首飾りの石が急に輝きを増した。

 光のもやきらめきながら漂うように石から立ち昇り、青緑色の炎となって、頭上に振り上げたアプサリスの腕を闇色の剣ごと包み込むと、ごおっと音を立てて激しく燃え上がった。


 ぎゃあっ、と獣のような悲鳴を上げて手にしていた剣を投げ出したアプサリスが、シグリドを突き放し、宙を舞いながら天を仰ぎ、金色の獣の瞳で睨みつけたまま、を叫んだ。

『ラスエル!!』


 シグリドの胸で首飾りの石はゆっくりと輝きを沈め、やがて静かな深い青色を取り戻した。

 アプサリスは焼かれた腕を天に伸ばし、怒りに震えながらうなり声を上げる。

『地を這う火竜ごときに加護をくれてやるとは……戯れが過ぎるぞ、天竜ラスエル!』



 体の自由を取り戻したシグリドは、足元に投げ出された闇色の剣を素早く拾い上げ、水妖フーアに向けて構えた。


 まいったな。女術師の策略の次は、夢魔の戯れか。よくよく俺は女運が悪いらしい……


 アプサリスは世界中の男を翻弄させてしまう程に妖艶な美しさをまとい、冷たい微笑みを浮かべてシグリドの目の前にゆらりと降り立った。

 銀灰色の髪に怒りの炎を絡ませて。 

 焼かれたはずの腕にその跡は既になく、ばら色の滑らかな手がシグリドの頬に触れた。切ないほどに甘い毒を隠し持った声が、シグリドの心に忍び込む。

『火竜の子よ、その剣をお前にやろう。愚かな人の世で、我が剣を振るい、乾きを知らぬほどの血で大地を覆い尽くせ。殺戮の限りを尽くし、救われぬ絶望に悶え苦しみ、己の命をその剣で奪ってくれと我に懇願するその日まで……せいぜい我を楽しませておくれ』


 シグリドは、ふうっと大きく息を吐いて、闇色の剣の重さを確かめるように大きく振り上げると、その切っ先を妖魔に向けた。

「そんな言葉で俺を縛れるとでも思ったか?」

 聖魔を正面から見据えた黒髪の火竜の声は、静かな怒りに満たされていた。


 ……もうこれ以上、命をもてあそばれるのはごめんだ。


「我ら火竜の民は何ものにも屈しない。何人なんぴとたりとも我らにこうべを垂れさせる事など出来ない。この左腕に二つ頭がある限り、俺は決してお前にくだらない」

 誇り高き兄の言葉が心の中に鮮やかに蘇り、シグリドの声となって暗闇に響き渡った。


 その声に、妖魔の女王は金色の瞳を大きく見開いて、ゆっくりとシグリドから視線を移すと、懐かしそうに虚空を見上げた。

 そこに映し出されたのは、端整な容貌の内に凶暴さを秘めて戦場を駆け巡る、誇り高き火竜レンオアムの戦士達。共に戦い、夜ごと肌を重ね、いつくしみ、憎み合い、戦場に散っていった男達の姿。


 ……ああ、いつ見ても、彼らはこの上なく美しい。

 目の前にいるこの子供でさえも……


『……やはり良いな、レンオアムの子らは』




 「戦さ鴉」として傭兵達から恐れ敬われる聖魔は、先ほどまでの邪気を一切感じさせぬ神々しさを身にまとい、慈愛に満ちた声で黒髪の火竜に語りかけた。

『シグリド、炎に愛でられし地上の竜よ。覚えておけ、その剣の名はヴォーデグラム。命を奪い、与えるもの』


 名を呼ばれて、闇色の剣ヴォーデグラムが鋭い悲鳴にも似た悦びの声を上げた。

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