夜明けと共に

 百年だ。もう百年になる。


 あの忌まわしい戦士どもが、巫女達の純潔を奪い、神殿を神官達の血に染め、ありとあらゆる限りの悪行をもって我が王国を蹂躙じゅうりんし、燃やし尽くしてから。


 あの日、私は人である事を捨てた。

 何度も魂の器を替え、禁忌の力を蓄え、魔物と畏怖されても、すべては、いつの日か我が王国をこの手に奪い返すため。


 その時まで、愛しい獣よ、あなただけは私を守り続けておくれ。



***



「ロスタルは、まだディーネの所か」


 水鏡に映った影を見つめながら、ザラシュトラはため息をついた。

 頬にかかる金茶色の波打つ髪を細く白い指でさらりと耳にかけると、その指で水面に映る影をすうっと撫でる。

 映し出されているのは、腕の中で泣き崩れる月色の娘を愛しそうに見つめる白銀の髪の男。娘の髪を優しく撫で、その身体を強く抱きしめたまま、赤子をなだめるように何事かをささやき、娘の額に、頬に、口元にゆっくりと唇を落とす……

 ざわり、とザラシュトラの胸の奥が騒いだ。


 違う……! 兄と妹だ、それ以上でもそれ以下でもない。


 胸の中でどろどろとした何かがのたうち回るのを感じ、思わず水面から目をらした。


 ディーネの嘆きは仕方がない。共に生きようと誓った男の命が消されようとしているのだ。とは言え、たかが数年、愛しみ合っただけでこの騒ぎか。百年近くも生きてきた「罪戯れ」が、まるで初恋に惑う乙女のようではないか。なんとも愚かしい。

 ロスタルもあの娘を甘やかし過ぎだ。妹可愛いさに、あの刀鍛冶師に取引を持ちかけるなど……


 ふと背後に目をやって、ザラシュトラは苛立ちも露わな声を出した。

「準備は進んでおるか?」

 背後で揺らいだ空間から現れた、長いローブ姿の獣人はこくりとうなずくと、女術師の側に忍び寄りくぐもった声で告げた。

「火竜が城内をうろついております」

「分かっておるわ。あれは泳がせておけ」

「アスランはどういたしましょう? あの者は火竜に手を貸しています。これは領主殿に……ひいては、あなた様に対する裏切りです」


 アスラン・ティシュトリエン。我が王国を滅ぼした武人達の末裔。時に貴族特有の優雅さを見せる不思議な男。

 その出自さえなければ、あの男は嫌いではない。火竜と互角、と讃えられる剣の腕も見事だ。おかげで獣の護衛どもの半数以上を失ったが……鍛え上げられた戦士の体躯を器にすれば、さぞや美しいだろう。

「夜明けと共にすべてが終わる。それまでせいぜい足掻あがかせておけば良い。あの者の処分は追って考えるとしよう」

 生き延びれば、の話だが。


 獣の護衛は、御意、と頷くと、またぐにゃりと揺れた空間に吸い込まれて消えた。


 水面に寄り添う二人の影。

 男の氷色の瞳に映るのは、月色の娘だけ。その娘がいる限り、他の者を映し出すことなど決してない。それくらい、分かっている。それでも……


 ザラシュトラは水鏡を見つめ続けた。



***



 シエルの処刑は夜明けとともに城内の中庭で行われる。その瞬間を見たくなければ寝所から動くな、と兵舎と居住区に住む者たちに通達された。


 ダルーシュ殺害の噂は、シエルが連れ去られた直後から城内に広がっていた。が、その人柄を知る者達はシエルの無実を信じて疑わなかった。

 あまりにも性急過ぎる処刑が、領主への不信感に繋がらなければ良いが……とアスランは懸念した。

 そのアスランは、無実の罪であると領主へ直訴を続けた結果、自室に軟禁されてしまった。



 シグリドは城内に入ってすぐ、傭兵達が守る西の城壁の望楼に向かった。

 「二つ頭」の突然の訪問に驚きながらも、父親ほど歳の離れた西の火竜はシグリドの願いを快く引き受けてくれた。シエルを個人的に見知っていた事が大きかった。シエルが城壁までたどり着けば、「谷」まではあの男が守ってくれる。問題は、どうやってシエルを救い出すかだ。

 地下牢の鍵はロスタルが持っている。斧で扉を壊すことも考えたが、「そりゃ、無理だ。この城の地下牢は恐ろしく頑丈に出来てるんだ。第一、あの女がどんな術を仕掛けているか知れんからなあ」とアスランに却下された。

 処刑台に向かうまでの間に奪還できなければ、処刑台から奪うしかない。 


 城攻めをした事は何度もある。叩き潰し、切り捨て、破壊の限りを尽くす。それがシグリドが知る戦いの姿だ。命を奪う事が全てだった。

 誰かの命を守り、それを生かすための戦い方などシグリドは知らない。

「確かに、それが一番難しいからなぁ」

 数え切れぬ程の戦場を生き抜いてきたはずのアスランが、眉間にしわを寄せる。


 左肩を負傷しているものの、アスランならシエルを守って戦うことは出来るだろう。軟禁されているというのに「なあに、いざとなれば、あの扉を蹴破って出て行くまでだ」などと呑気に構えているくらいだ。

 この男がいるから、こんな状況でも俺は冷静さを保つことが出来ているんだろうな……シグリドは心の中で歳上の男に感謝した。

 

 結局、俺とアスランだけ、か。


 今までずっと一人で戦ってきた。シエルの命を自分一人で背負うつもりでいた。それはあまりにも重い命だった。

 でも、今日はアスランが背中を守ってくれる。それがシグリドの心を軽くしてくれた。 


 だが、あの白い妖魔に行く手を阻まれたらどうする?


 さすがのシグリドも、あの男を相手に必ず勝てるとは言い切れなかった。



 もうすぐ、夜が明ける。



***



 夜が明ける。

 シエル、愛しい人。ずっとそばに居ると、共に生きていくと誓ったのに……あなたのいない世界など耐えられない。



 ディーネの心の奥底で何かが音を立てて壊れた。仄暗い心の深淵から、ずるり、と這い上がってくる冷たいものを感じた。


『助けてやろうか?』


 ……え?


『お前の愛する男を、助けてやろうか、ディーネ?』


 静かな気高さを持つ声がディーネの中に響いた。

「誰? どこに……?」

『我はお前、お前は我。愛し子よ、我らはずっと共にいた。お前の清らかな魂に包まれて微睡まどろむのはとても心地良くてな……少々長居をし過ぎたようだ』

「あなたが……私?」

『我が幼子おさなごよ、急がねば、お前の愛しい男が堕ちるぞ』



 夜明けは近い。

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