恋人達

 激しく咳き込みながら、シエルは何が起きているのかを冷静に思い起こそうとしていた。



 喉元を無残に切り裂かれただけでなく、心臓をえぐり出され、恐怖に目を見開いたままのダルーシュの亡骸は、居室の冷たい床の上に横たわっていたという。

 その傍には、哀れな若者の血に塗れてなお輝きを失わぬ金銀の短剣。その柄に絡みつく双頭の火竜の意匠……シグリドに頼まれてシエルが門兵から取り戻した後、鍛冶場の作業台から忽然と姿を消してしまった護符の短剣に相違なかった。


 

 ……仕組まれた。

 だが、誰が、何のために? 一介の刀鍛冶師に過ぎない自分を捕らえる事に、どんな意義がある?

 ああ、だめだ、この痛み……息が出来ない……


 ロスタルに伴われて「狭間はざま」を通り抜けたは良いが、異界の瘴気しょうきは想像していた以上にひどく、いまだに喉の奥が焼けつくように痛む。閉じ込められている地下牢には明り取り程度の小窓しかなく、身体が求めている新鮮な空気を肺に入れることは容易ではなかった。

 意識が少しずつ遠のいて行く。

 床に倒れ込む寸前に、シエルの耳にその声が届いた。

「ここを開けなさい。今すぐに!」


 細い腕がシエルの頭をしっかりと抱きとめ、ゆっくりと床に横たえる。温かく柔らかな感触がシエルの唇を覆い、口の中にほろ苦い液体が流れ込んできた。ごくり、と飲み込んで、シエルは無我夢中で渇きを癒そうと、その甘く柔らかな唇にむさぼりついた。

 小さなあえぎ声と共に熱い吐息が漏れるのを感じて、シエルは薄っすらと目を開けた。紅玉の瞳に涙を浮かべながら、月色の髪の娘がこちらを見つめている。


 ああ、ディーネ……


「兄上は何てことを! あなたを連れて『狭間』を抜けるだなんて……どれだけの瘴気を吸ってしまったのかしら? 毒消しの薬が効けば良いのだけれど……シエル、ねえ、お願い。目を開けて」

 もう一度、ディーネは唇を重ねてシエルに冷たい水を飲ませると、柔らかな手でシエルの頬を包み込み優しく撫でた。

「……ディーネ、あなたは、こんな所に居てはいけない」

 小さな安堵のため息が聞こえた。

 シエルの唇にそっと指を置くと、ディーネは言葉をさえぎった。

「あなたがいる場所が、私がいるべき場所だわ」

 細く白い指が震えている。

「怖かったわ、シエル……あなたを、失ったかと思ったの」


 シエルは手を伸ばしてディーネの頬に触れ、涙を拭うと、そのまま指を滑らせて柔らかい唇の輪郭をゆっくりとなぞった。熱い吐息が優しく指を撫で、途端に、止められない想いが胸の奥から込み上げてくる。

「離さないで、シエル、ずっと一緒に。街の小さな工房でも、人里離れた谷間でも……世界の果てでも。シエル、私はあなたさえいれば、それだけで」

 はっと息を呑んで、シエルはまだ痛む喉を押さえたまま身体を起こすと、愛しい人を抱き寄せて、そのまま狂おしい程に唇を奪った。



『ディーネ、あなたをめとりたい。この城に比べれば粗末だけれど、僕の工房で共に暮らそう。この命ある限り、あなたを守りたい』

 静かに深く肌を重ねた後、しどけなく横たわる月色の娘の耳元で何度そうささやいたか知れない。その度に、ディーネは哀しそうに首を横に振った。そして決まって言うのだ。

 獣の眼を持つ娘をからかわないで、と。



「ディーネ、愛しい人。ここを出たら共に暮らそう」

 シエルに強く抱きしめられたまま、聴き慣れた言葉がディーネの心を温かい喜びで満たした。


 何度もあきらめようとした。いつ妖魔に取って変わられるか知れない化け物である私が、誰かを愛するなど決して許されない。心の気高いこの人に相応ふさわしいのは、魂のけがれた私ではない。そう思っていた。

 でも、私は……この人でなければ駄目。

「ええ、シエル。あなたと共に」



***



 うつろな愛だ。


 地下牢の中で寄り添う二人を遠目に見ながら、ロスタルはため息をついた。


 もう止められぬのならば、命をかけて貫き通せば良い。だが、その先にある絶望が二人には見えているのか? 「罪戯れ」である妹が、いつまで人の心と身体を保っていられるのか……


『百年近く、今の状態で生き抜くことが出来た……それだけでも驚愕に値します。ですが、もう人としての生に限界が来ても不思議はない頃。ディーネの内に宿る妖魔も、これ以上は沈黙を守ってはくれないでしょう』


 ザラシュトラはそう言った。

 哀れな妹の魂が妖魔に喰いつくされる前に、自分が手を下して苦しみから解放してやりたかった。だからこそ俺は、あの日、己の魂をあの女に売ったのだ。銀灰色の髪に揺らめく炎を散りばめ、血のように紅く燃え上がる瞳の、恐ろしく強大な力を持つ聖魔に。

 ただ小さな妹と共に生き、共に死ぬためだけに。それなのに……



 女として愛される喜びを知ってしまったディーネの、その微笑みを奪う事などロスタルには出来なかった。

「ディーネ、そこから出るんだ」

 地下牢の看守に扉を開けるように命じると、ディーネに有無を言わせぬ鋭い視線を投げかけた。愛する男のそばから離れようとしない小さな妹に、手荒な真似はしたくなかった。


 その想いを察したシエルが、ディーネの身体に回していた腕を緩め、背中を優しく押す。

「今はあなたの兄上の言う通りになさい。僕は身の潔白を証明しなければならないからね。それまで待っていてくれますか、愛しい人?」

「……ええ、いつまでも」

 そう言って口づけを交わすと、ディーネは名残惜しそうに地下牢の扉をくぐり抜けた。



 護衛に伴われて自室へと戻るディーネの後ろ姿を見つめながら、シエルはゆっくりと口を開いた。

「何を企んでいる、ロスタル?」

 愛しそうに妹を見つめていた男の表情が、氷の心を持つ白い魔物のそれに取って代わる。

「さあな。俺はただ、あの状況でお前を傷つけずにすむ方法を探したまでだ……あれを悲しませたくはないのでな」

 妹が立ち去った方に向けていた視線を、ロスタルはゆっくりとシエルに戻した。口元に歪んだ微笑みが浮かんでいる。

「さすがに『狭間はざま』の瘴気はきつかったか。もろいものだな、人とは……」


 そう言うお前は人ではないのか?


 そう問い掛けそうになって、シエルは首を振った。ロスタルを人外と認めれば、ディーネをもおとしめることになる。

 駄目だ、それだけは……今すべきは、何が真実かを見極めることだ。

「何故、ダルーシュを殺した?」


 くっくっ、という不気味なわらい声が地下牢に響く。

「シエルよ、まさか本気で、俺があのようなやからを手に掛けたとでも思っているのか?」

「では、一体誰が?」 

 シエルの青い双眸が冷たい光を宿してロスタルを貫く。

「あれは、あの女の戯れだ……哀れなものよ、使い魔ごときに心臓を取って喰われるとは。まあ、亡くしたところで誰にも惜しまれぬ命ではあったが、利用する価値はあった。あんな男でも、領主の息子ではあるからな」

 ロスタルはおもむろに腰帯から短剣を引き抜くと、しばらくの間、静かに凝視する。

 金銀の象嵌を施した双頭の火竜の剣。シエルが小さな弟の身を案じて作ったものに違いなかった。

「良い得物だ。シエルよ、全くもって、お前は良い腕をしている」


 シエルの顔が一層厳しさを増す。

「何故、おまえがそれを持っている?」

 さあな、とつぶやくと、ロスタルはその剣を軽く宙に投げ上げ、くるり、くるりと回しながら冷たい微笑みを浮かべた。

「あの女に魅入られたのが、火竜の運の尽きだ」


 ……魅入られた? 何の事だ?


 ロスタルは腰帯に短剣を戻すと、凍てつく氷色の瞳でじっとシエルを見つめた。

「ザラシュトラは欲しいものはどんな事をしてでも手に入れる。お前を捕らえておけば、あの火竜は自ら進んで取り戻しに来ると教えてやった。ダルーシュはそのための捨て駒よ。領主の覚えめでたいお前を地下牢に繋ぐには、それ相当の理由が必要だったからな」



 ……シグリドか?

 始めから、シグリドが目当てだったのか? でも、一体、何故……?


 ロスタルがシエルを「狭間」に連れ去る直前、アスランの姿を見た。恐らく、シグリドは既にシエルの身に起きている事をアスランから聞いているだろう。


 ああ……駄目だ! 動くな、シグリド……!


 シエルを見つめながら、ロスタルはディーネを想った……お前が弟を守るように、俺にも守らなければならない愛しい命があるのだ、と。

「ディーネは、よく笑う子供だった」

 輝く金色の髪をなびかせながら笑い転げる幼い妹の姿が、心の中に蘇った。

「獣の瞳さえ現れなければ、あれは人として平凡でも幸せな人生を終える事が出来たはずだ。あの瞳さえ現れなければ……」



 十二の歳の春。輝く紅玉の瞳に浮かび上がった「獣のあかし」と引き替えに、ディーネは全てを失った。

 美しい金色の髪も、ばら色の肌も、日ごとに色を失った。共に谷を駆け回っていた友も、その美しさを溺愛していた許婚いいなずけも、魔の眷属特有の縦長の瞳孔が浮かぶ瞳に見つめられるのを恐れて、ディーネから離れていった。

 「罪戯れ」の子を産んだとしてそしりを受けた母は、夫がいる身でありながら、妖魔の誘惑に負けて情を交わしてしまった罪の意識に耐えられず、「お前さえ生まれて来なければ……!」と娘の首に手を掛けた。

 妹を守るため、ロスタルは己を産んだ女を斬り捨てた。その日から、ずっと守り続けてきた。

「自身には何の非もなく、実の母親に殺されかけ、魔物と忌み嫌われ、生きながら内なる妖魔に少しずつ魂を喰われ続けるその苦しみが、シエル、お前に分かるか? あれの苦悩を、お前は本当に背負っていけるのか?」



『……どうして? 私は人ではないのよ? この目が恐ろしくないの?』 


 その悲しい瞳さえ美しいと思った。

 自分の運命におびえながらも、可憐な微笑みを忘れぬ娘に、シエルは初めから惹かれていた。彼女を知る毎に、その想いは強くなっていった。

 初めて愛し合った夜。ずっとあなたを守る、誰にも渡さない、内なる妖魔にさえも……そう誓った。たとえそれが目の前にいる白い魔物であっても。

 愛する者は自分のやり方で守ってみせる。火竜の民の誇りにかけて。


 シエルは顔色一つ変えずに、ロスタルに鋭い視線を向けた。

「ザラシュトラは何故シグリドを欲しがる?」


 なるほど。ディーネの宿命を知った上で、それでもこの男は心を乱すことなく全てを受け入れる事が出来るのだな……ロスタルは心の中で密かに驚嘆した。

 この男ならば、愛する妹をたくす事が出来るかもしれない、と。


 ザラシュトラはシエルさえも捨て駒にしようとしている。一人息子を奪われた領主は、明日の早朝、シエルの処刑を執り行う事を既に決めていた。もしシグリドがそれまでに現れなければ、シエルは処刑台の上で首を刎ねられ、果てる事になる。

 シエルならば、むしろそうなる事を望むだろう。小さな弟を危険にさらすより、自分の身を投げ出す事を選ぶはずだ。ロスタルにとってのディーネが、シエルにとってのシグリドと同じであるのは、ロスタルも重々承知している。

 だからこそ、妹が愛して止まぬこの男を失うわけにはいかない。

「シエルよ、お前の命尽きるまで、あれを守りいつくしむと誓え。そうすれば、しばしの間、ディーネをお前に預けよう」


 ロスタルの意外な言葉に、シエルは驚きを隠せず、空色の双眸を大きく見開いた。

「お前の命は保証しよう。夜明けまでにこの城を出て、ディーネと二人、何処へなりとも行くが良い」

 ロスタルの瞳から一切の感情が消え去り、冷たい輝きを増した。

「だが、お前の弟はあきらめろ。ディーネを得る代わりに、シグリドをザラシュトラに渡せ」


 静まり返った城の闇の奥底から、悲鳴にも似た不気味な女のわらい声が響いた。シエルは背中をぞくりと冷たいものが這い上がるのを感じた。

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