癒しの箱

 ……消えた。恐らくは「狭間はざま」をくぐり抜けて。


「あいつ……使い魔を連れていたのか?  あんなにも幼い身で?」

 ファランが消える直前、シグリドは辺りの空間が歪むのを感じていた。「狭間」と呼ばれる異界への入り口が開かれた時に起こる揺らぎなのだ、と「谷」の術師から聞いた事がある。

 傭兵として諸国を渡り歩いて来たシグリドは、術師が「魔の系譜」と呼ばれる魔物を手懐けて使い魔としているのだと知っていた。それなしでは「狭間」を通り抜けることが出来ないことも。

 術師は己の魂を代償として、使い魔と契約を交わす。術師の肉体が滅び去る時、使い魔はあるじであった者の魂をむさぼり喰らうと言う。

 天竜に導かれるはずの魂を失えば、「魂の安息の地」に赴くことも叶わない。あの少女はそれを知りながら、使い魔などに手を出したのだろうか……


 そんな思いに囚われていた矢先、もう一度、目の前の空間がぐらりと揺れた。次の瞬間、空中をふわりと舞ったファランが、ゆっくりと地面に足を着けた。

 安堵したように小さなため息を漏らした少女が、シグリドの視線に気づいて、気まずそうに眉尻を下げた。

「ええっと……ただいま、と言うべきなのかしら?」

「……で、俺は何と言ってお前を迎えるべきなんだ?」

 また何か拝借してきたのか、と続けようとして、先ほどファランが声を荒げたことを思い出し、シグリドは言葉を呑み込んだ。


「……あなた、ちっとも驚かないのね」

 少し不服そうにこちら見つめる少女の赤い巻毛が、松明の灯りに透けてゆらゆらと揺れている。その姿に訳もなく魅入られながら、シグリドは「谷」の伝承にある『火竜が愛でた炎の乙女』の話しを思い出していた。

「ねえ、普通は急に誰かが目の前に現れたら、びっくりすると思うのだけど?」

 納得できないとでも言いたげに、少女が薄紅色の唇をつんと尖らせる。言葉とは裏腹なあどけない仕草に、シグリドは思わず薄笑いを浮かべた。

「あいにく、俺は昔から『普通』とは無縁なんだ。お前がどうやって色々と無断で拝借してきたのか分かって、呆れているだけさ」

 ファランは少し顔をしかめると、手にしていた毛布をシグリドに差し出した。

「私の外衣と交換よ」


 言われるまで気づかなかったが、どうやら少女の外衣を毛布代わりにしていたらしい。酷く血に染まったそれを目にして、シグリドは躊躇ためらいを隠せなかった。

「……ああ、すまない。いくら何でも、これでは……もう使い物にならないな」

 それもそうね、と心の中で思いながら、ファランは地面に座り込んだままのシグリドにゆっくりと近づいた。その胸に青い石の首飾りがあるのを確かめて小さく微笑むと、自分の汚れた外衣を手早くまとめて傍らに置き、手にしていた毛布でシグリドの身体をふわりと包み込んだ。

 一瞬、明るいみどり色の瞳を覗き込むことになって、ファランの心が、とくり、と鳴った。


 新緑の森の色だわ。とってもきれい……


 よく見れば、この傭兵はとても美しい容姿をしている。少年から青年になりかけの、細身だが鍛えられた身体に、あり得ない程の古傷があるのをファランは見てしまった。左の頬にある新しい傷も痛々しい。

 それらを差し引いても、充分に人目を惹きつける存在であるのは否めない。


 傭兵でなければ、きっと女の子にもてたでしょうね。あ、でも、兄さまも傭兵だけど、街の女の人達が熱を上げているわね……せめて、そのきれいな顔に不釣り合い過ぎる鋭い視線で見つめるのはやめてくれないかしら。心がこごえそうだから……

 

 何やら思うところがあるような少女を横目に、シグリドはそっと辺りに視線を滑らせる。

「お前の使い魔はどうした?」

 突然、思い掛けないことを尋ねられて、少女は青灰色の瞳を大きく見開いた。が、それも束の間、またしても唇を尖らせる。

「私に使い魔なんていないわ。術師じゃないもの。ただの出来損ないの見習い治癒師よ」

「術師じゃない? なら、どうやって……」

「なんだ、あなた、『狭間』の事を知っているのね。傭兵にしては珍しいわね」


 その腕ひとつで命のやり取りをする傭兵の中には、身の危険を犯すことなく妖しい術を操る術師を毛嫌いする者が多いことくらい、子供だって知っているわ……ファランが声に出すのを躊躇ためらった言葉を、シグリドは気配で感じ取った。

「俺の住む谷にも術師はいるからな……で、使い魔も持たない出来損ないの治癒師のお前が、どうやって異界を通り抜けるのか、教えてくれないか?」


 この人ったら、本当に人の揚げ足を取るのが上手ね……とファランはいっそう不機嫌になる。

 お願いだから、地下牢に置き去りにされて虫の息だったあなたを、あのまま見殺しにすべきだったのかも、なんて、本気で思わせないで。


「ねえ、シグリド。出来損ないの『癒しの箱』如きに命を助けられた事は、あなたにとって、不名誉なことなのかしら?」 


 特別な力を持たない庶民の子らが、術師の下で助手兼見習いとして働くのは珍しい事ではない。

 術師でありながら治癒の力が乏しい者は、時に自分以上に優秀な助手を得る事がある。その腕をねたむ術師が「されど、あの者は術師ではない。術師がそばに居なければ役にも立たぬ。まるで治癒師が置き忘れた治療箱の如く」とさげすむためにつけた呼び名が「癒しの箱」だ。

 皮肉なことに、ファランは役立たずどころか、治癒師だった祖父から受け継いだ薬草と治癒の知識で、幼い頃から確かな腕を持つ見習い治癒師として街の人々の信頼を得ていた。それだけで満足だった。



 確かにちょっと言い過ぎたな……と思いながら、シグリドは気まずそうに艶やかな黒髪をがしがしと掻いた。

「悪かった。心ない言葉など吐くべきではなかった。女と話すのは、どうも……その、苦手なんだ」


 ほおっと息を呑んで、ファランは驚きに目をまばたかせた。 

 この人、目つきは悪いのに、心根は案外悪くないのかも。私みたいな子供相手に素直に非礼を認めて謝ってくれたわ……そう思うと、ほんの少しだけ、この無愛想な黒髪の傭兵のことが好きになった。

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