治癒師の祈り

 本当によく動き回る娘だな……


 甲斐甲斐しく傷の手当てをしながら、不要になった物を元の場所に戻すために時折姿を消すファランを、シグリドは感心しながら眺めていた。


 ふと左腕の新しい傷がうずく。

 火竜の刺青の胴体部分を引き裂いた傷を、ファランは縫合用の曲がった針と絹糸で丁寧に縫い合わせていた。こんな事まで出来るのか、とシグリドは感嘆した。

「きれいな刺青に傷跡が残らないように、なるべく気をつけて縫ったんだけど……」

 傷口に薬を塗り込みながら、ファランは指で火竜の形をゆっくりとなぞる。

「とってもきれい。これ、翼が無いけど天竜、よね? どうして炎に包まれているの?」

「天竜じゃない。火竜レンオアムだ」

「レンオアム?」

「炎を愛でる地上の竜。愚かな熱情にとらわれず、苦悩を焼き尽くすもの。俺たち『火竜谷レンオアムダール』の民の守り神だ」

「どうして頭が二つあるの?」

 確かに変だよな、とシグリドは微笑むと、ファランの両腕が置かれたままの左腕をすっと伸ばして、彼女の頬に触れた。


 ……温かくて柔らかい。

 口も立つが、治癒師としての腕も立つ。飛び抜けて美しいわけではないが、くるくるとよく動く青灰色の瞳とふわふわと揺らめく豊かな巻毛が精霊のような雰囲気をかもし出し、妙に愛らしい。

 あと数年もすれば、わが妻に、と求める男達も少なくないだろう……


 いや、一体何を考えているんだ、俺は?

 あと数年もすれば、俺の人生も何か変わるのだろうか。

 命を奪い、眠り、また剣を握り命を奪う。その繰り返し。戦場では人としての感情など邪魔なだけ、と切り捨てて生きてきた。目の前で果てていく命の重みなど考えた事もなかった。自分の命でさえも。


「ファラン、お前が救ったのは、打ち捨てられるはずだった命だ」

 シグリドの声に、道具箱を整理しようとしていたファランの手が一瞬止まった。鍛え上げられた傭兵の強靭な身体の内に、傷だらけの心が押し込められているのを見てしまったから。



 ファランは、自分にしか見えないものがこの世界にあることに、いつの頃からか気付いていた。癒しを必要とする「ほころび」が、なぜ他の人には見えないのか、とても不思議だった。

 術師が紡ぎ上げる結界には必ずどこかに「ほころび」があり、それが魔の眷属や望まれぬ者の侵入を防ぎ切れない理由だとファランは知っている。

 「狭間」という異境にも「ほころび」は数え切れないほど存在し、あらゆる場所に通じる抜け道になっている。「ほころび」が見えるファランにとって、「狭間」は「行きたい場所に行くための通過点」でしかなかった。望むべき場所を心に想い描きながらそこに通じる「ほころび」を見つけて通り抜ければ、何処にでも翔んで行けるのだ。「狭間」で迷子にならないように、戻るべき場所に目標めじるしを置くことも覚えた。

 人間の身体や心にも「ほころび」があり、それが病や傷、悲しみと言った形で人々を苦しめている事もファランには分かっている。

 だから、手を差し伸べるのだ。そこに救うべき命があるから。



 道具箱を片付けたファランは、片膝を立てて座っているシグリドに近づいて、その美しいみどり色の瞳を覗き込んだ。


 この地下牢に閉じ込められる前に、いったい何があったのかしら? この人の心が痛がっている……


 ファランはゆっくりと手を伸ばすと、小さな両手でシグリドの頬を包み込んだ。澄み切った碧玉へきぎょくの瞳が驚いたようにファランを見つめている。

 身体の傷は時が経てば癒える。けれど、心の傷は時に命を奪う事さえある。

 美しい瞳の奥に宿る冷たいものを見つめながら、おごそかな声で、歌うようにファランはささやき始めた。


『苦しみの夜に、静かに耐えよ

 絶望の果てに、歩みを止めよ

 悲しみの明けに、おもてを上げよ

 光は漆黒の闇においてこそ輝きを増す

 今日は眠りにつくの地で、明日は命に甦れ』


 祈り終えると、ファランはそっとシグリドの額に口づけた。すると、また胸の鼓動が速くなった。


 この人に見つめられると、胸の奥がぎゅっと苦しくなるのはなぜかしら……?


 赤く染まった頬に気づかれないように、ファランはシグリドから少し離れたところに座り込んだ。じんじんと痛む膝を両腕で抱え込み、鼓動がゆっくりとなるまで顔を腕の中に埋めていた。

 しばらくして、ゆっくりと面を上げてシグリドの方を見た。

 そこには、凍てつくような視線の傭兵ではなく、信じられないという表情でこちらを凝視する十七歳の少年がいた。

 ああ、そんな顔で見つめないで……ファランは心の中で思わずつぶやいた。



 むせる程の甘い香りと柔らかく小さな両手に頬を包まれ、シグリドは一瞬、我を忘れた。


 ……あり得ない。こんな子供に一時でも魅了されるとは。



 沈黙を破ったのはシグリドの方だった。

「あれは……祈りだったのか?」

「治癒師の祈りよ。『苦しみに沈まず、明日を迎えなさい』……つまり、あきらめずに生きなきゃだめ、という事ね」

「意外だな。天竜の祈りかと思ったが」

「天竜の? まさか! 私が天竜を信じていると思っていたの?」

 まさか、と言われても……と少し困ったような顔で、シグリドは胸の青い石に手を置いた。

「この意匠は、俺には天竜のように見えるが」

 ああ、なるほど、とうなずいて、ファランは自分の左腕に光る腕輪に触れた。

「私の家に昔から伝わるお守りよ。娘が受け継ぐ決まりだから私が持っているだけ。深い意味はないわ。神様なんていないもの」

 そう言って、にっこり微笑む。


 神様なんていない。

 どうか私に術師としての強い力をお与え下さい、とずっと天竜に祈ってきた。でも、祈りは届かない。天竜の神官達は「信じて祈り続ければ、願いは叶えられる」と言うけれど、それが叶えられないのだから、信じることなどできなかった。

 ファランが信じるのは、目の前の現実と自分の感覚だけ。


 ファランはすっと立ち上がると、シグリドの名を呼んで、腕輪をはめた方の手で彼の胸に光る青い石に触れた。二つの石が共鳴したかのように輝きを増す。

「ねえ、驚かないで聞いてね。あなたの心が痛がっているの……解き放たれた命と、投げ出そうとした命を、それでも諦めたくないから必死で戦っているの。だから、傷ついて悲鳴をあげているの。お願い、少しでいいから、その痛みを癒し手に……私に預けて。大丈夫だから」

 真っ直ぐにシグリドの目を見つめながら、幼い治癒師は慈愛に満ちた声でささやいた。

「何があったの、シグリド?」


 その声に、シグリドは思わず大きく息を呑んだ。あの時、救えなかった命を想って、シグリドの心がまた悲鳴を上げた。



 シエル。

 天涯孤独だったシグリドに、年の離れた兄代わりとして惜しみない愛情をそそいでくれた人。

 人殺しの道具として育てられたシグリドが血に飢えた狂気に飲み込まれることが無かったのも、シエルの辛抱強い支えがあればこそだった。


 救おうとした。

 必死に手を伸ばし、剣を振るい、多くの命を奪ってでも、絶対に救わなければならない命だった。

 でも、救えなかった。


 シエルはもう、どこにもいない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る