天竜の首飾り

 どれくらい眠っていたのだろう。地下牢に 囚われてからどれくらい経ったのかも既に分からなくなっている。


 シグリドはぼんやりと眼を開けると、静かに身体を起こした。不思議な事に、あれほどひどかった頭痛もめまいも全く感じない。まだ新しい傷口がうずいてはいるが、物心ついた時から傭兵を生業なりわいとする少年にとっては慣れ親しんだ痛みだった。

 かたわらでは、ファランが何やらせっせと作業をしていた。薬草をすり潰し、香りの強いどろりとした液体を加えて、ゆっくりと練り合わせている。どうやらシグリドのために薬を調合しているらしい。

 少女の周りには色々なものが整然と置かれていた。治癒師が持ち歩く道具箱はもちろん、色々な種類の薬草とそれを刻むための小刀、水を張った手桶ておけ、様々な大きさの布。よく見ると、パンや果物を盛った器や葡萄酒の壺らしきものまである。


 一体全体、どこから……?


「俺達は地下牢に居るはずだが……お前、一体どうやって、それだけの物を手に入れた?」

 びくっ、と驚いたように手を止めて、ファランは顔を上げると、おずおずとシグリドの方に視線を向けた。

 が、すぐに何事もなかったかのように視線を落として作業に戻ると、練り上げた薬を小さな器に移して、壺の中から濃い色の液体を注ぎ入れた。小指の先で器の中のものをほんの少し掬い上げて口にし、満足気な表情を浮かべて小さくうなずく。


 器を手にしてシグリドのそばにやって来たファランが、彼の顔を覗き込むように座り込んだ。

「どうやってって……必要だったから、あなたが寝ている間にちょっと拝借してきただけよ」

 少女が差し出した器からは、微かに葡萄酒の香りがする。その液体は何やら入り混じった濃い緑色だ。

「飲んで。傷口の熱を取るための薬よ」

「……口をつけたくない色だな」

 顔をしかめながらも、シグリドは薬を全て飲み干した。目覚めた後、身体が確実に力を取り戻している事に気づいて、ようやく少女の治癒師としての腕を信用する気になったらしい。 


「拝借してきた、と言ったな。何処からどうやって? 看守にでも頼みこんだのか?」

 辺りに人の気配など全くしないが……シグリドは怪訝そうに目を細めながら、辺りをうかがった。

「もともと看守なんて、この牢にはいなかったわよ」

 ファランは少し不機嫌そうにつぶやくと、シグリドに一層近づいて、その胸の辺りを小さな指で、とん、と叩いた。


 つられるように視線を落としたシグリドの胸には、見覚えのない首飾りが掛けられていた。手のひらに収まる程の大きさの、不思議な青い光を帯びた石が、銀の枠にはめ込まれている。

 青い石をファランが指先でそっと撫でると、心なしか光が強みを増したようだ。同じような青い石をはめ込んだ銀の腕輪が、少女の左腕で、からりと音を立てた。


 首飾りの銀の枠は竜のような生き物をかたどっていた。青く輝く石を自らの身体で守ろうとするかのように抱え込んだ生き物には、一対いっついの大きな翼が生えている。

 天竜だ……シグリドは心の中でつぶやいた。



 妖魔の王である「聖なる天竜」を神とあがめる者は未だに多く、この大陸に存在する数多あまたの王国が国教として認めている。

 この西の小国ヴァリスにあっても、その信仰は根強く、異端の竜の刺青を持つ「火竜」の傭兵達が不信心な荒くれ者として恐れられる所以ゆえんでもある。

 その昔、天竜の名のもとに、多くの剣奴が王族達の手で否応なく戦場に駆り立てられ、無意味に殺され続けた。下位の妖獣とさげすまれた火竜を守り神とした先達が歩んだ苦難の歴史を、シグリドは忘れてはいない。


 神など、この世に存在しない。

 妖魔がこの世界を救うなど、あり得ない。

 自分を救うのは自分自身だ。誰も守ってはくれない。だから、地を這ってでも、死に物狂いで戦い続ける。ただ生き残るために。


 それが、「火竜」の傭兵として故郷の「谷」を守り続ける誇りと「二つ頭」の名を背負うシグリドの生き方だった。 

 目の前の少女は、祈りを捧げさえすれば、いつの日か天竜が自分の前に現れて世界の果ての、その先にあると言われる「魂の安息の地」に連れて行ってくれる、などと本気で信じているのだろうか?

 

「これ……お前のか。なんでまた、俺なんかに預けている?」

 そう言いながら首飾りを外そうとするシグリドの手を、小さな手がぎゅっと握りしめて動きを止めた。

「ああ、もう! 質問ばかりしないで!」

 顔を真っ赤にして本気で怒っているらしい。それが妙に愛らしくて、シグリドは思わず口元を緩めた。先程までの大人ぶった態度とは大違いだ。

「説明しても信じないだろうから……見ていて。でも、その首飾りは絶対に外さないでね。私が迷わずここに戻って来るための目標めじるしだから」 


 意味が分からない、とでも言いたげに顔をしかめるシグリドをよそに、あごを上げて虚空を見つめたファランの周りの空間が、ぐらりと揺れた。



 刹那、少女の姿が、地下牢から忽然と消えた。

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