ロックンロールをもう一度

@RelaxinHIGH-LOW

ロックンロール

夕暮れの赤い日差しがチェリーサンバーストのギターをより鮮やかに彩る。それを持つ長身の青年の黒いロックTも赤く染められていた。

彼は汗まみれの髪の毛を無造作にタオルで拭き、それを観客席に投げた。もちろん落下地点周辺の女性ファン達は黄色い歓声をそれを奪い合うのに夢中になる。

私はそんなことには目もくれず、やはりそんな観客の様子を意に介さず自分の愛器であるレスポールギターの調整に余念のない、ギターボーカルの彼を見つめ続けた。

日本のロックシーンを代表するバンドのギタリストとなった彼はもう自分とは住む世界がもう違うのだと改めて実感する。

この大規模ライブはこの地で結成された彼等の凱旋ライブだった。

私は彼らのバンドのロゴマークが入った リストバンドを握りしめた。

次でアンコールの最後の曲。

少し寂しくて、俯いた。


まだ日が昇らず暗い、人がほとんど通らないような小道で、私は自転車から降りて座り込んでいた。

つってしまったらしい右脚が猛烈に痛み、ここからまた30分はかかる学校までとてもたどり着けそうになかった。

とりあえず親を呼ぼうと取り出した携帯電話を、私はふと我に返って鞄にしまった。もう二人とも仕事に出てしまっている。そんなことも忘れるほど動揺していた。

「何やってんだお前」

突然降ってきた言葉に私は身体を大きく震わせた。

固まった首をようよう上げると、そこには真っ黒のトレンチコートを着た青年が立っていた。私はその顔に見覚えがあった。

「…芦原君?」

「なんだ俺のこと知っているのか」

知っているもなにも、私と彼は一応同じクラスなのだ。

彼は電柱のように痩せた長身の青年だった。授業もほとんど出ず、一日の大半を屋上で何かをして過ごしているという謎の同級生だ。その中性的な顔に私は強い印象受けていたため、すぐに分かった。

「で、何やってるんだ。こんなところで」

「ここが私の通学路で、脚をつったみたいで…」

「はん、右脚だな」

彼は傷だらけの鞄を放り、私の少し腫れている右脚を無造作に掴んだ。

「な、なにを」

「うるさい。黙ってろ」

いくら同級生といえ、単なる顔見知り程度に、しかも男子が右脚をいきなり掴むだろうか。

混乱に陥っている私を放って、彼は冷静に私の右脚を検分していった。

「つったんじゃなくて、多分筋が伸びてんじゃないの」

彼は絶句する私を無視して、そこらへんにあった木の枝を、自分の首に巻いていたマフラーで器用に右脚に固定した。

その鮮やかな手つきに私は再び驚かされた。

「これで少しは動けるだろ」

「あ、ありがとう」

彼は無言で私の自転車のスタンドを上げた。そして、ひょいと私の制服の襟首を掴んで立たせた。

事態を把握できない私はされるがままに立ち上がった。ずきんと右脚が痛む。

「踏み潰されたカエルみてえだな」

そんな失礼なことを呟きながら、彼は私を自転車にまたがるよう言った。

「でも、この脚じゃこげないよ」

「俺が押してやるからさっさとしろ」

「え、でも……」

「いいからさっさとしろ」

無表情から一転して、不機嫌そうな顔つきになった彼に、私は従うしかなかった。

彼に押される自転車に揺られながら、私は言った。

「ありがとう。いつかお礼をする」

「いらねえよ。こんな真っ暗闇の中に転がってるのが見えたから拾っただけだ」

カッコをつけたのではなく、彼は心からそう言っているようだった。

「私は華野。一応、同じクラスなんだけど…」

「あっそう」

気まずい無言。

道中に段々辺りを照らしはじめた朝日に浮かび上がった彼の端正な顔に思わず見とれてしまい、なんだ、と不機嫌に言われたことを除いて、結局、それは学校の近くまで続いた。

彼はたまたま通りかかった出勤中の先生に事情を説明して私を引き渡し、どこかに行ってしまった。

マフラーを借りたままだと後から気付き、返す時に礼を言おうと思った。


彼に会うこともなく数日経って、右脚がようやく回復し、借りっぱなしだったマフラーを返すために彼がいるであろう屋上へと続く階段を上っていると、儚げなギターの音ともに枯れた歌声が聞こえてきた。

その歌声は決して上手ではなく、聴いた人によってはあまり評価は得られないような物だった。

しかし、私はその場で立ち尽くしてしまった。

その歌声は無条件に私の胸に突き刺さった。

それは聴いたこともない英語の歌だった。

私は薄暗い階段に佇んだまま、その枯れた歌声に耳を澄ました。見事な英語の発音の歌声はただ単に枯れているだけでなく、聴衆を無意識のうちに感動させる哀愁と激しさを兼ね備えたものだった。

私は不覚にも泣いていた。

まさか同い年の子の歌に感動して夢にも思わなかった。

鼻の奥がツンとして、鼻をすすると、同時にギターと歌声が消えた。

「誰だ?」

私は慌てて眼をこすって、マフラーを握りしめた私は歌っていた人の前に出た。

ああ、とその人は呟いた。

「…華野、さん。だったっけ?」

「……」

私は二重の意味で驚かされた。

一つは彼が私の名前をかなり自信なさげに言ったこと。

もう一つは、彼が流暢な英語で歌っていたこと。

「芦原くん…。屋上は鍵が無ければ入れないはずなんだけど……」

人間は驚きが重なるとどうでもいい事を気にするんだな、と心の何処かで思った。

「ああ……針金で開けられるだろ、あんなチャチな鍵。毎日やってりゃ慣れるわな」

彼はイタズラっぽく笑って、痩けた頬をかいた。

あまりに簡単にピッキングという悪事を白状した彼に鼻白んだ私は扉の鍵をポケットに突っ込み、覚悟を決めて彼の前に座った。

「さっき歌っていたね。あれ、なんの曲?」

私は単刀直入に切り出した。すると、彼はさっきと打って変わって、困った顔をした。それはこれまで私が彼に抱いていたイメージを吹き消すような正直な表情だった。

「聴いてたのか……」

「うん。聴いてちゃまずい歌なの?」

そういうわけじゃないけど、と彼は痩けた頬をかいた。何か感情が動くと彼は頬をかく癖があるな、私は思った。

「Don't let me downって曲なんだ。知っているかい?」

私は首を横に振った。

だろうね、と彼は笑った。

「ビートルズってバンドの曲なんだ。ジョンレノンが歌っていた曲でね」

「ビートルズなら知ってるよ。いい歌だった」

「いいや、まだまださ。ジョンレノンはこんなもんじゃない。ギターも下手くそだ」

ほんの少し影が差した瞳を手元のアコースティックギターに向けた。

「しかも俺は目がいい」

「目がいいのはいいことなんじゃないの?」

「ジョンレノンは眼鏡さ。俺は形から入るやつなんだ。ジョンレノンの歌う姿を見る度に自己嫌悪に陥る。生まれた時から俺は咲くには花びらが一枚足りてない花なんだよ」

「詩人だね。今の名言だよ」

彼はニコリともせずに肩を竦めた。

こういうところが彼が学校の中で近寄りがたい存在と認識されている理由かもしれない。

彼はいつも身を引いて物事を見ているのだ。私たちより大分精神年齢が高いのかもしれない。

実際、私も今の今まで彼を授業にも出ない恐ろしい不良だとおもっていた。

でも、さっきの歌を聴いてしまったらそんな思いは抱けなくなった。

それだけ彼の歌声は素晴らしかったのだ。

「というかお前、何をしにきたんだ」

普段のぶっきらぼうな声に戻った彼の言葉に私は慌ててマフラーを差し出した。

「あ、あの。この前借りたままだったマフラーを返しに」

「ああ、なるほどね。サンキュ」

ごそごそと鞄にマフラーをしまった彼は退屈そうにあくびをした。

私はとりあえず、思ったことを率直に言ってみた。

「ジョンレノンの歌でも、あなたが今歌うならあなたの歌になるんじゃない?それくらい素晴らしい歌声だったよ」

彼は鞄をあさる手をとめて、キョトンとした顔で私を見た。しばらくしてから彼は大人びた、ニヒルな笑みを浮かべた。

「お前面白いことを言うな。気に入ったよ」

今度は私がキョトンとする番だった。

小説や漫画なんかではよく見るニヒルな笑みというのを実際に見るのはこれが初めてで、それがとても魅力的なものだったからだ。

「そ、そんな大層なことじゃないよ」

「俺は英語だけは得意なんだよ。だから上手く聴こえるだけだ。ただ学校でやってる英語は嫌いだせどな。好きな歌でも歌う時以外に使う英語なんかやってらんねえよ」

「えー……じゃあ本当はもっとできるの?」

「歌う時はな」

彼は言った。

「それ以外で英語は上手くはやれない」

「どうして?」

「だって自分が話したい時に話すのが言語ってもんだろ?授業でやってる英語なんか話したくてやってるもんじゃない」

「うん……」

「そうやってやりたくないことやらされて従順そうな仮面なんかつけてられないよ。息がつまってしまいにはくたばっちまう」

彼は一言一言を慎重に選んで話しているようだった。きっと誰よりも繊細な心を持っているのだろうという印象を私は この少年に対して強く持った。

テストや授業では分からないことを彼は知っている。

「それは、私も思う」

「だろう?でも大人はきっとこう言うさ。それは思春期の心の迷いです、間違った考えですよってな。たとえこんな気持ちが一時期の物だとしても、この気持ちは俺のものだ。誰がなんと言おうと心の迷いであろうと、間違ってなんかないんだよ」

「……すごいこと考えるのね」

「そう思わないか?」

「うん……思う」

「だろう。どんな大人しいやつだって心のどっかではこんな思いを抱えてるんだ」

「芦原君が言うと説得力がある」

「芦原でいい」不快気な表情。「君付けされるのは嫌いだ。画一化されてるみたいだ」

「……芦原はアナーキストなのかな?」

「アナーキスト!」

今度は心底面白そうな笑み。コロコロと表情が変わる人だ。

「お前、普通の女子高生はそんな言葉しらねえぜ」

日常から切り離されたような空気をまとった彼の口から、女子高生、という言葉が出てきたことに少し笑った。

「そうだね」

「ああ」

彼もまた笑った。純粋な笑みだった。

「それじゃあ、俺は帰るか」

「え?もう歌わないの?」

「俺は世界の孤独な住人さ。気がのらなきゃ歌わない」

そう言って彼はギターをケースに入れて立ち上がった。

「詩人なのね」

「ただの高校生さ」

彼は肩をすくめ、扉の向こう側に姿を消した。

その後についていくわけにも行かないので、私は彼が座っていた場所に腰をおろした。

遠くから聞こえてくる吹奏楽部のトランペットの音がいつもより下手くそに聞こえた。


世の中には錆びつくより燃え尽きた方がいい、と言って自殺したアーティストがいた。

彼はこうも語っていたらしい。

「ロックの核心は反体制、反権力だ。成功した俺にもうロックは歌えない。 聴衆を誰一人ごまかしたくない。こんなはずじゃなかった。成功したから俺は死ぬ」

これを聞いて私はよく理解できなかった。

じゃあ、成功していない、インディーズの底辺みたいなバンドが素晴らしいのだろうか、と。

それは違う、と屋上での一件からたまに話すようになった芦原君は言った。

「ロックと商業主義は本来正反対のものだ。だが、当時は流行ってるロックバンドが絶対的で金儲けの手段に成り下がってた。流行りと成功はちょっと違うけどな。カート・コバーンはそれが嫌だったのさ」

あれから、少しずつ接点を持つようになった私たちは芦原君のことを徐々に理解していった。

彼は屋上にいる間、ずっと紙に何かを書いていた。それは他愛ない落書きであったり、時には漫画のような可愛らしい女の子のイラストだったり。でも一番よく書いていたのは詩、だった。

それはとてもただの高校生が書いたものとは思えない代物で、そこらへんのアーティストよりはるかに素晴らしいものだった。

彼に紡がれた言葉の一つ一つがとてつもない力をもって世界に雄叫びをあげているようだった。

そしてそれらにつけられた音の数々。

シンプルかつストレートなロックナンバーもあれば、なめらかなノスタルジックなバラードもあった。

彼は間違いなく音楽のために生まれてきた人だった。ただ、気が向いたら歌うという偏屈なところを除けばだが。

もちろん私一人が彼の本質に気が付いたからといって何かが大きく変わったわけではない。相変わらず彼の立ち位置は変に大人びた不良のような変わったやつ、というものだ。

だから、私が彼の歌を聴けたのは放課後のわすがな時間だけ。しかも毎回聴けるとは限らないゲリラライブだった。

その日の彼は珍しく機嫌がよく、オリジナルとT-REXというバンドの曲を立て続けに3曲も聴かせてくれた。しかもいつものアコギではなく、きれいなチェリー色のエレキギターだった。

「なあ、華野。お前、自分が何歳まで生きるかとか考えたことあるか」

「んー、何回かあるけど深くは考えたことはないかな」

「俺は27までだと思う」

あまりに唐突な言葉に私はとてもびっくりさせられた。普通、青春真っ盛りの男子高校生がそんなことを言うだろうか。

「なんで27?」

「伝説のミュージシャンは大抵そのくらいでくたばるんだ。ジミヘン、カート・コバーン、ロバート・ジョンソン、マーク・ボラン……全員30もいかないで死んだ。だから俺も27でくたばるんだよ」

私は開いた口が塞がらなかった。

「なんというかその……すさまじいね。で、でも音楽のために命までかけることはないと思うけど……」

彼はケケケとこの世の全てを馬鹿にするような笑い声をあげると、私の目をじっと見つめた。

「な、なに?」

「馬鹿野郎。ジミー・カイジだって言ってる。音楽はいつだって世界中の人々の心に訴える、最も強力な言語の1つだってな。そんなもんに命かけるなんてかっけーじゃねえか」

「へ、へえ」

「ロックンロールは死んだだと?ロックがもう死んだんなら、そいつはロックの勝手だろうが」

「?」

「真島昌時だ」

要は、他人の言ってることなんか気にせず自分がやりたいことをやってりゃいいんだ、と彼は結んだ。

「というか、お前生徒会のくせに毎日のようにここにくるけど大丈夫なのかよ」

「あー、うん。まあ。生徒会だからって毎日会議とかあるわけじゃないし」

「彼氏とかいないのか」

「いたらこんな所に来てません」

私は少し拗ねたように言って、ギターを指差した。

「今日はエレキギター?」

「今更かよ」

と呆れたように呟くと、彼は肩にぶら下げたギターを少し持ち上げた。

「こいつはギブソン レスポール トラディショナル と言ってな。世界中のギター弾きが羨ましがる代物なんだぜ」

「へえ、すごいじゃん」

「まあね」

ひとしきりそのギターを見つめると、彼はゼロにしていたギターの音量を上げた。

「次で最後な」

「え」

「俺だって暇じゃないんだよ。まあ聴け。これこそロックンロールってのを聴かせてやるよ」

足元のオレンジ色の機械のペダルを踏む。途端にアンプから漏れ出るノイズのやかましさが変わる。そ

「ジョニー・ウィンター。ジョニー・B・グッド」

それは爆発だった。

アコギの時とは違う、激情が私を襲った。

その感覚はずっと続いた。

私はその日のことを忘れることはできそうになかった。


いくつかの季節が過ぎ、私と彼は一つ学年を上げた。

といっても何の変化もない。以前と同じ確実に何かを忘れさせる教科書と夢をかき消すノート。落書きされた机。工場ラインの作業員のような顔をした担任。

夏休みまであと少しとなったその日、私は放課後の屋上で彼の歌に耳を傾けていた。彼はいつものギターを抱え、オリジナルの曲を聴かせてくれた。

真夏、団地を駆け抜ける少年を歌った歌だった。いつの間にか忘れたような心を慰めるような、そんな歌。

私はハラショー、とどこかで覚えた単語を言った。

「お前はロシア人か」

「ロシア語なんだ、これ」

「知らないで言ったのかよ」

と彼は私が持ってきた菓子パンを食べながら、呆れ気味に言った。

「なあ、華野」

「なに?」

彼は妙に神妙な顔をしていた。彼のそんな顔を見たのは初めてだった。

「俺は文化祭でやらかそうと思う」

「…え?」

私は空いた口が塞がらなかった。ついに彼はおかしくなってしまったと思ったからだ。

誰でも突然、こんな事を言われたら驚くだろう。先ず、何を?と。

「なんかデカイことしてやろうと思う」

「…デカイこと?」

「そうそう。デカイこと」

彼はいたずらっ子のように口を歪めた。男の子がこういう表情をした時は大抵、ろくなことをしない。

「俺には3人の音楽の友人がいてね。そいつらとやらかそうと企んでる」

「芦原君、世の中には…」

「分かってるよ。少なくとも怪我人が出るようなことはしないさ」

「そういう問題ではないと思うけど…」

彼は肩をすくめ、ギターをケースに収め始めた。

「いいじゃないか少しくらい。やりたいことやれる時にやろうぜ」

「他人の迷惑にならないの?」

「俺だって散々迷惑な目に合わされてきたよ。それにちょっと爆音を出すだけだよ」

爆音にちょっとがあるわけないじゃないか…。

「止めに入った先生方に俺はこう言うんだ。俺に用か。俺に向かって話しているんだろう。どうなんだってね」

「何それ…」

タクシードライバーだ、と彼はよく分からないことを言って、立ち上がった。

「お前はもう少し、勉強した方がいい」

「芦原君に言われたくない」

「そういう勉強じゃない」呆れ気味の彼は首の骨を鳴らした。「学校で習うような勉強じゃない」

「どういうこと?」

「本や映画を見ろってことだ。お勧めはLet it be と プラトーン だな」

「どういう映画?」

「それは見てのお楽しみだ」

錆びついた扉がキイとないて開かれる。まるで安っぽいホラー映画の効果音のような音だ。

「楽しみってのは他人に教えてもらうもんじゃない。自分で手に入れるもんだ」

「いい言葉だね。誰の言葉?」

「たまには俺も名言をはくんだ。オリジナルだよ」

「響くね」

「そりゃ良かった。そのついでに一つ、頼み事をしたいんだけど」

振り返った彼が言った。その凶悪な笑みが浮かんだ顔に、私は軽く恐怖を覚えた。

「…なんでしょう」

「その騒ぎが起こす前にバレないよう、当日は屋上に誰も朝から入らないようにしてほしい」

「私に共犯者になれってこと⁉︎」

「そうさ。その代わり、何か一つ願いを聞こう」

ため息をつく。。それだけで下手したら生徒会を辞めなければならないようなことになるというのに。

少し考えた私は、分かった、と言った。

「じゃあ、何でも言うことを聞くのね?」

彼は少し驚いたようだった。あっさりとこんなに重大なことを引き受けてくれるとは思わなかったのかもしれない。

「もちろん」彼は芝居がかった大きな身振りで頷いた。「できることならね」

「私に学校で習うような勉強を教えて」

「…ふーん」

「私の知らない音楽を。そういう世界を知ってみたい」

私がそう言うと、彼は肩を竦めて分かった、と頷いた。

「じゃあ、明日から紹介してあげよう」

ギターケースを肩にかけた彼はじゃあな、と言って帰って行った。

取り残された私は会話の余韻に浸りながら、空を仰いだ。

夏が近づく空は、透き通るほど蒼い。

別に何か特別なものではないではないのであろうが、夏の空は好きだ。

「何をする気なんだろう」

明日からは夏休みだ。当分、彼の歌は聴けそうにない。もしかしたら、二度と聴くことは無いのかもしれない。

いつだって今が最高なんだ。

ふと彼のいつか呟いた声が脳裏に浮かんだ。

私は今が最高だといつでも思えるのだろうか。

分からない。多分、当分は分からないだろう。下手したら大人になったらそんな事を考える暇さえ無くなっているかもしれない。

そう思うと、少しだけ澄んだ空が曇る。

嫌になるな、とこぼした。

いつか今が最高だと言えるようになればいいなと願った。


「お前は人を待たせるのが好きなのか?ゴドーを待ちながらのようにはいかないもんだぜ?」

いつものように彼はだらしなく着崩した白いシャツをたなびかせ、屋上の一角に座っていた。いつもと違うのはギターを持たず、その手には何冊かの本が握られていたことだ。

「生徒会。ごめんなさい」

「まあいいさ。どうせ俺は暇だ」

彼はシニカルに笑い、階段を駆け上がってきたせいで息を切らせる私に本を差し出した。

「日本のロックシーンではこれが一番好きかな」

差し出されたジャケットは、見るからに古めかしい紙製だった。

「THE BLUE HEATSっていう伝説的ロックバンドの3rdアルバムだ」

「あ、ありがとう」

こんなに古い音楽を聴いているなんて。彼は私が想像していた以上の音楽の虫だったようだ。

「それにこれだ」

彼はポケットから取り出したまた別のジャケットを取り出し、おもむろに私へ投げた。

慌ててそれをキャッチすると、そこには何も書かれていなかった。

「レッド・ツェッペリン。お気に入りは天国への階段だ」

「詩的な曲名ね」

「俺はそれを聴いて、この世の美しさの九割は悲劇にあると思ったね」

私はそれらを一旦鞄に仕舞い、息をついた。

「不思議な人だね。芦原君は」

「君付けはやめろと何回いえば…。何がだ」

「こんな古い音楽を聴くのに真面目じゃないところ」

「古い音楽がクラシックみたいなやつだと思われるのは嫌いだし、古い音楽が好きだから勉強好きと思われるのも全く不快だ」

彼は立ち上がって屋上を囲むフェンスに背中を預け、紅く染められていく街並みを眺めた。

「虫食いがあるようなロックを好む奴は総じてアナーキストか馬鹿野郎だ」

彼は吐き捨てるように言った。

「古い音楽が好きなやつが真面目だったら、アレックスは真人間だったはずだ。それがあの野郎、プー狩りからクスリ、強姦までなんでもござれの極悪人だ。何が第九だ。ふざけやがって」

色々とNGワードがでてきて固まっている私に気付きもせず、彼は一気にまくしたてた。それでも、時計じかけのオレンジだ、と注釈は忘れなかった。

「まあ、いいさ。またいつかな」

「あ、うん」

彼は聴いたこともない曲を口ずさみながら扉の奥に消えて行った。

そして、ふと思った。

どうやって扉の鍵を閉めようか、と。


次に手渡されたのはこれまた古い紙製のジャケットだった。

一曲も飛ばすことなく聴き、感想を細かく言った私に彼は少しだけ感心してくれた。

「どうだった」

「パンクロックがあんなに感動できる音楽とは知らなかった」

「本当の美しさを知らなきゃあんな歌詞書けないさ」

「天国への階段、儚くて美しくて。エレキギターであんな旋律を生み出すなんて信じられない」

着崩した白いシャツがふわりと揺れる。

「音楽は偉大だ」

「その通りね」

「今回、お前に渡したアルバムには生きる希望を見失わないことの大切さを教えてくれる曲と、生きることは辛すぎると教えてくれる曲が入っている」

「…言ってることが極端すぎない?」

うん、と彼は頷いた。

「でも最高のアルバムだ。他のにしようと思ったけど、まだ早いからそれにしたよ」

「そんなこと言われると気になるんだけど」

「やめておけ。メッセンジャーフロムサンデーの涙腺崩壊パワーはシャレにならない」

彼が涙腺崩壊なんて冗談かと思ったが、彼の目は本気だった。

「このアルバムはTHE BLUE HEATSの1stアルバムだ」

「どんなアルバム?」

「聴けば分かる。生きるっていうことを教えてくれるさ。教科書には書いてないようなね」

「そのさっき言った極端な曲の名前は?」

「前者は世界のまん中で、という。後者は、チェインギャングの夢、という曲」

「優しそうな曲名だね」

彼は黙って頷き、大儀そうに出っ張りに腰を下ろした。私もゆっくり腰を下ろす。夏の暑い空気に包まれて火照った身体に、冷えたコンクリートが心地よい。

彼は座ったままじっと動かず、ぼんやりとした表情を浮かべていた。

なんとなく口を開いてはいけないような気がして、私はフェンスの向こう側に広がる街を見た。

蒼い空の下に、横たわる白い道。

沸き起こる蝉の声が耳を打つ。

そうだ、もう夏なんだな。

夏は青以外の色を薄くしてしまう。どんなものでも白っぽく、浅い世界に変えてしまう。

ちらりと視界に入った彼の横顔さえも、いつもよりぼんやりとして見える。こうやって眺めても、その顔は痩せてはいるが、女性的な優しいラインを描いていた。しかし、その瞳には強い意志が見え隠れしていた。

その絶妙な均整の上に成り立つ美しさに、私は思わず彼の顔を見つめていた。

「なんだ、俺の顔に何かついてるのか?」

私の視線に気付いたのか、彼はぼんやりとした表情を消し、普段の無表情を顔に張り付けた。

「え、いや、えーと」

しどろもどろになりながら言う。

美しいから見惚れていた、なんてことはとてもじゃないが言えはしない。

「なんだかぼんやりしてたから」

彼は苦笑しながら、夏だからな、と呟いて立ち上がった。銀色の手すりに背中を預け、空を見上げた。

「夏は好きだが、夏の空を見ると将来のこととか世の中とかなんかどうでもいいと思うようになっていけないな。俺にもなりたいものだってあるんだけどな」

空を見据えたまま彼は言った。とても静かな声だった。

「へえ…。あなたは一体何になりたいの?」

「ロックンローラー」

「へ?」

「ロバみたいな間抜け面してんじゃねえよ……。中学一年くらいだったかな。家にあったCDを聞いてロックンロールを聞いた時に、もの凄く感動して心が震えて、興奮したんだ。この感じを感じ続けたい、が夢だったんだ。でも、自分でやったらもっと面白いんじゃないかと思ってな。それからずっとその夢は変わらない」

「はー……」

言葉も出なかった。

身近にこんなにキラキラした夢を見ている人がいるなんて。

彼が大人びているのは単なるキャラなんかじゃなかったというわけで、建前じゃない本当の夢を持つ勇気があったからだった。

「芦原君」

「だから、君付けは……」

「あなたはいくつ?」

彼は唇を歪め、ニヒルな笑みを浮かべた。その姿はこんな殺風景な屋上には不釣り合いなほどかっこよかった。写真の中のジェームズ=ディーンのような笑み。

群青色のバックにはよく似合っていた。


私と彼の繋がりはふとしたことで千切れそうなほどささやかなものだった。

実際、彼は2週間も現れないこともあった。

それでも彼がときたま教えてくれる様々な音楽や本は私にとってとても大きな意味を持つようになっていった。これまで 一度も聴いたことがない世界を知って感動するというのはとても素晴らしいことだというのは本当なんだと私は心から思った。

それに彼の言葉はまるで詩集のように美しかった。少ない言葉で人の心を揺さぶることがどれだけ難しいことか、言葉を話すものなら分かるだろう。

人間は紙飛行機だ。

ある日、彼は突然そんなことを言った。

どういう意味かと尋ねると彼は、どこに着くか分からない落下地点までジグザグにユラユラ飛んでいく、人間だってそんなもんだろ、風に押し流されたり力一杯投げれてすぐ落ちたりね、と答えた。

あなたは紙飛行機じゃないね、と私は心の中で呟いた。

世間が吹く逆風に抗い、自分が行きたい場所までまっしぐら。

私は多分、そのまま紙飛行機だった。

生徒会に入ったのだって、先生に勧められて入っただけ。勉強もそこそこできるけど、それは本当に自分の未来に必要なのかという疑問を押し殺しているおかげ。

それしか生き方を知らなかったし、それが正しいとと思っていた。

私が、自分とは正反対の彼と出会って、その考えに初めて疑問を覚えた。

世界中全て敵に回す前に屈して自分を殺してしまうのが私だ。

世界中全てを敵に回しても彼はあの、魅力的なニヒルな笑みを浮かべているだろう。彼の言葉を借りて言うなら、世界の首根っこ押さえ、ギターでぶん殴ってやる、と言ったところだろうか。

だからと言って、彼がそこらのバカみたいな乱暴者だったわけではなかった。むしろ、その逆だった。

彼は理不尽なこの世界を鋭く尖った言葉でめった刺しにはしていたが、他人を貶めたりはしなかった。

私は肩までしかない男の子ように跳ねた黒髪が嫌だった。体質だからと言っても、周りがロングにしたりきれいなストレートであるのを見ると、嫌になる。

ある時、私は彼に自分の髪型が嫌いだ、と呟いたことがあった。

すると彼は臆面もなく、俺は好きだと言った。

どんな形であれ、俺はそのままの姿が一番美しい。飾り立てたものほど醜いものはない。

本当の自分を殺してまで周りに合わせようとする人々を彼は笑う。

世の中には、こうでなきゃいけないっていう事はないんだってジョニー・ロッドスは言ってるぜ、と言う彼のニヒルな笑みは今まで見てきたどの笑顔よりも美しかった。


夏休みはあっという間に過ぎた。

その間に、彼とは一度も会わなかった。

私は親から言いつけられた塾通いで忙しかったし、彼は文化祭でやらかすことの準備で忙しかったのだろう。そもそも学校に行っていない。

夏休みが終わり、学校が始まっても彼は相変わらず屋上にいた。

「何をするの?」

「さあな」

私がいくら聞いても、彼は微笑む程度で 何も答えようとしない。

そして、文化祭当日を迎えた。


日陰になっているベンチに座っているだけでもじっとりと汗が肌に浮かぶ。8月の終わりの暑さのせいもあるだろうが、おそらくは冷や汗も混じっていることだろう。

屋上へ続く扉に、立ち入り禁止、の貼り紙を無許可でしたからだ。もちろん筆跡でバレないようパソコンで打ち、手袋をはめて貼ってはいるがあまり気分のいいものではない。

いつ始まるのだろうか、とドキドキしながら生徒会役員としての午前の部の仕事をこなした。

しかし、意外にも何も起きなかった。私は屋上に行って、彼等が何をしているのか見たい気持ちを我慢しなければならなかった。

やっと午前の部のシフトから解放された私はとりあえず校庭に設置されていたベンチに座ったという次第だ。

中庭や校舎はにわかカップルで埋め尽くされて居心地が悪い。わずかな木漏れ日の中に佇むベンチに一人、座っているのが私にはお似合いだ。

私はそっと目を閉じて、午前の部に増して大きい声の数々を遠ざけて静かに時を過ごそうとした。

「華野じゃん。何やってんの」

聞き慣れた声が不意に近くで聞こえた。

「あ、芦原君」

肩に届きそうなほど長い髪をバンダナでかき上げた彼の手には大量のプラ容器があった。

「生徒会が終わったからゆっくりしようと…」

「模擬店とか回らないのか」

「疲れた。誰かさんが何やらかすか不安で」

私は彼を睨んで言った。当の本人は至って平然としているのが癪に障る。

「悪いな。まあ、これでも食べれば?」

彼は器用に一つのプラ容器を掴むと、私によこした。作りたてのたい焼きだった。

私は無言でそれにかぶりつき、黙々と嚥下した。

「おいおい、せっかくの美人が台無しだぜ…」

「うるさい」

まだ何も胃に入れていなかったことに今更気付いた。お腹が空くとイライラしてくるのだ。

「というか」私は大量のプラ容器を指差した。「それどうしたの」

「全然知らない女子がくれた。一過性の安っぽい恋愛感情で動く愚劣な女さ」

彼は平然とそう言ってのけ、たこ焼きを口に放り込んだ。

「屋上の準備が終わってやっと昼飯と思ったら校庭でたそがれてるぼっちを見つけてやってきたというわけだ」

「生徒会の仕事で疲れたの」

「それはそれは」

彼は大げさに同情の表情を浮かべ、肩を竦めた。そして、私の横に腰掛け、手に抱えていたプラ容器をどっさりと置いた。

「誰も屋上に来なかったからスムーズに進んだ。あの貼り紙のおかげだな」

「感謝してよ」

「してるさ。屋上からの景色のおかげで、気分はもうジェリー・ハーヴェイ・オズワルドだ」

「そろそろ何をやるのか教えてもらえるかな?」

「秘密さ。もうまもなく始めるから、来いよ。てか、来い」

「なんで私が行かないと…」

いけないの、と後から続く言葉は出なかった。

彼に襟首を掴まれて強引にたたされ、首が締まってしまったからだ。そして彼は私の右手を掴んで引っ張って行く。

「ちょ、ちょっと」

彼は応えない。

顔が暑い。夏の陽光のせいだけではないような気がして、余計に暑くなってくる。

屋上へと続く階段は何か紙を持った人でごった返している。そして彼がその人々を押しのける度に、周囲の無数の視線と声が突き刺さる。

「芦原君」

彼は応えない。

そしてついに屋上に出る扉の前に着いた。

彼はようやくこっちを振り返って言った。

「ロックンロールをするんだよ」


勢い良く開け放たれた扉の向こうにはドラムセットにアンプ、マイクが置かれ、3人の男子生徒が待ちきれないという表情で立っていた。

「おせえぞ、芦原」

「悪い悪い。招待客をお迎えするために、ね」

彼はつかつかとそれらに歩み寄り、立てかけられていたあの美しい、チェリーバーストのギブソン・レスポール・トラディショナルを手に取った。

エフェクターのスイッチを入れると、凄まじいノイズがアンプから漏れ出る。

騒ぎを聞きつけて集まった生徒が屋上を埋め尽くす中、それは否が応でも緊張感を高めていく。

「お集まりの皆様方、さっき撒いたビラを見ていらっしゃってくれてありがとう」

スタンドマイクを握り、彼は静かに言った。一呼吸おいて、彼は声を張り上げた。

「オーライ、ロックンロール‼︎屋上の落伍者‼︎」

それは爆発だった。

そこに理論とか法律なんて存在しない。

ただ衝撃が全てを覆い尽くす。

リードギターが弾くコードに、彼に紡がれた美しいアルペジオが載せられていく。

屋上を埋め尽くす生徒は誰も彼もが皆、圧倒された。それどころか学校全体が、学園祭自体が彼等のステージと化した。

ギターを見つめていた視線をマイクにおく。その眼はここではない、どこかを見据えていた。


立ち入り禁止の柵をこえて

今夜僕たちは秘密を漏らす

つまらないことは置いとこう


給水塔の影に消えたのは

月明かりに濡れた大事な事

どこか都市伝説のような夜


死にかけの身体引きずって

僕はどこに行くのだろう

戻れない旅へと向かう

ここでずっと生きているから


尖ったままでいたい

そうだろう 屋上の落伍者

泣くより笑っていたい

そうだろう 屋上の落伍者


安っぽいビートに酔いしれ

踊ろうぜ君と二人っきり

邪魔するやつなんかいないさ


壊れた記憶頼りにしてるけど

作られたものよりももっと

大切なことを教えてくれる


ああ 屋上の落伍者


なにも怖くなんかないよ

空っぽの言葉よりも

子供の頃に見た夢を

そんなことを忘れないで


尖ったままでいたい

そうだろう 屋上の落伍者

泣くより笑っていたい

そうだろう 屋上の落伍者


視界がぼやける。歓声が遠のき、握り締めた両手が震える。

「どんどんやるぜ。錆びたナイフ‼︎」

心臓が興奮に脈打ち、身体中の震えが止まらない。さっきとは打って変わって、ストレートなロックンロール。

尖りきった彼のシャウトが突き抜けていく。


臆病者の歌声が

世界を包み込む

皮肉にもそれは

勇者と似ていたよ


いくら数えてみても

分からないまま

叫んでみたところで

どうにもならない


飴玉が転がって 僕は追いかける

追いつけない 誰かが笑ってた


溢れっぱなしの欲望が

ギラギラ輝いている

錆びたナイフをもう一度


金属バット引いて

昭和を探してる

ない落し物拾って

ないポケットに押し込む


夜の闇をまた 金属バットで切り開く

見えない 誰かが笑ってた


溢れっぱなしの欲望が

ギラギラ輝いている

錆びたナイフをもう一度


環状線を夢見て

ドラマチックな人生に

狂った希望を持っている

ロマンチックはありえない


飴玉が転がって 僕は追いかける

追いつけない 誰かが笑ってた


溢れっぱなしの涙が

ギラギラ輝いている

錆びたナイフをもう一度


すげえ……、と誰かが呟く。

それ以外、形容詞はない。

歌詞もサウンドも、世界中の誰にも説明できない素晴らしさをはらんでいる。

「勉強勉強で忘れた、何かにドキドキする気持ちをロックンロールは思い出させてくれる」

彼は訥々と語り出した。屋上の観客全員が耳を傾ける。

「学校なんかじゃ教えてくれないことをロックンロールは教えてくれる。まやかしや建前をぶっ飛ばすだけの強さを与えてくれるのがロックンロールだ」

入道雲が太陽を隠し、周囲が暗くなる。

夏のじっとりとした空気が奇妙な静寂を作り出す。誰も彼もが彼をじっと見つめて息さえしない。

「これが最後の曲です。聴いてください。今夜ロックンロールを抱きしめて」

最高まで歪んだギターのサウンドがアンプから叩き出された。

雲が去り、光が降り注ぐ中、世界がロックンロールに支配された。


世界に打ちのめされた夜

一人レコードをかけたなら

止まらない感動の嵐に

涙の僕は震えだすんだ


鳴り響く心臓の叫び

エイトビートがぶっ飛ばす

幻なんかじゃない優しさ

砕け散ったペンキの空


ああ

今夜ロックンロールを抱きしめて

今夜ロックンロールを抱きしめて

走ってく 雨ざらしの秘密


あまりにもドラマチックで

感傷すら蹴飛ばした

自分で決めたことだけは

まだ覚えていられるんだ


明日なんか見えない

昨日なんか見えない

今だけが見えるんだ

一瞬ごとが最高潮


それだけ それだけ それだけ

もう笑っちゃうくらいに

ほらロックンロールも笑ってる


ああ

今夜ロックンロールを抱きしめて

今夜ロックンロールを抱きしめて

夢をみて 雨ざらしの情熱


ああ

今夜ロックンロールを抱きしめて

今夜ロックンロールを抱きしめて

走ってく 雨ざらしの歌


ギターの音が消えると同時に大歓声が沸き起こった。

汗まみれの彼は笑っていた。そして、興奮した生徒たちに囲まれて見えなくなった。

私は、大慌てで登ってくる先生達を横目に見ながら階段を降りて行った。


夏の終わりを告げる涼しげな風が吹く殺風景な屋上。

私は小さくあくびをして、背を伸ばした。銀色のフェンスの向こう側には灰色に沈む街並みが見える。

「……寒いなあ……」

屋上はあれ以来、一切進入禁止になった。今、私がここにいられるのは、ネットで学んだピッキング技術のおかげだ。

「……まさか、お前がピッキングを身につけるとはね」

あの時と同じ黒いトレンチコートをたなびかせた芦原牧は呆れ気味にそう呟いた。

もう、この学校の制服を着ていない。

「退学になった人が学校に忍び込んでいるのもどうかと思うけどね」

今朝、私の靴箱に入れられていた簡素な置き手紙。放課後屋上。

「耳が痛いね」

彼は肩を竦め、頭をかいた。港町の猫みたいだ、とふと思った。

「……なんの用?」

「冷たいやつだな……」

彼は視線を逸らし、言った。

「お前に礼を言っときたかったんだ」

「そう」

風が強くなってきた。雨が降るのかもしれない。

「芦原君。これからどうするの?」

私は努めて冷たい声で言った。そうでもしないと心の奥底から湧き上がる何かが押しとどめられそうになかったからだ。

「とりあえず……東京にでも行くさ。ロックンロールで世界と戦うんだ」

「楽観的ね」

「生まれつきさ」

遠くから聞こえてくる蝉の声がさらに遠ざかる。

無言のまま、二人でフェンスに背中を預けて空を眺める。過ぎ去っていく時間。

彼の黒いトレンチコートが、はたはたと音を立てている。

「華野」

「なに?」

思い詰めた表情の彼の唇がゆっくり動く。私は彼と目を合わせないように俯いた。

「ありがとう」

くすんだ青い貯水タンクが滲む。

「別に」

「お前のおかげで悪巧みが成功した」

「それは褒めてるの?」

「ああ」力強い声。「本当にありがとう」

彼は私の前に立ち、繰り返す。

「ありがとう」

私は必死で涙をごまかそうとしたが、叶わず泣き笑いの表情が出てしまった。

「ありがとうと思うんなら、約束してくれないかな」

詰まる声で私は言った。

「また、会おうよ」

彼はわらった。あの、美しいニヒルな笑みで。

「ああ。今度会う時は俺たちが成功して凱旋ライブでだ」

「取らぬ狸の皮算用って言わないかな、そういうの」

「そんなことはさして重要なことじゃないさ」

涙で濡れた私の頬を、彼はコートの袖で拭った。彼は少し困ったような顔を浮かべていた。

「必ず、会おう」

「必ず?」

「必ず」

私はやっと笑えた。心の底から安心したのだ。

「それまでお別れだ」

「ええ」

彼はコートを翻し、扉へと歩き出した。

「芦原君」

振り返る。雲のせいで薄暗い中でも、彼の端正な顔は輝きを失っていなかった。

「私はあなたに会うまでロックンロールは聴かない」

ポケットから出した、聴きかけのレコードを彼に差し出す。

「聴けない」

彼は私をじっと見つめた。そしてふっと肩の力を抜き、私からレコードを受け取った。

「分かった。じゃあ、それまでお預けだな」

「ええ。ロックンロールにさよならを、って言ったところかな」

「詩的な言葉だ」

「いい感じでしょう」

「ちょっと違うんじゃないか」

彼は挑戦的に唇を歪ませた。

「ロックンロールをもう一度、だ」

私は黙っていた。

じゃあまたな、と彼は言って、扉の向こうへ消えた。

彼と屋上にいると、いつも私が取り残されると思った。それも、今思い返すと悪くなかったのかもしれない。

ポツポツと雨がコンクリートに跡をつけはじめた。

私も扉に手をかけ出ようとした。ふと振り返って屋上を見た。

誰もいない屋上に、抜け殻のような静けさが横たわっていた。

「ロックンロールをもう一度」

誰ともなくポツリと呟く。

屋上とは、またねじゃない、本当のさよならだ。

私はありがとう、と言って扉を閉めた。青春の扉を、閉めた。


「次が最後です」

マイクを軽く握った芦原君が言った。その静かな声に、会場のざわめきは段々と収束していく。

「思い入れが一番ある歌です。聴いてください」

私は顔を上げ、彼を見つめた。あの約束を彼は、覚えていてくれたのだろうか。

そっとギターを持ち上げ、エフェクターを踏み込む。瞬間的なノイズ。

そして、それまで無表情だった彼はあの日のような、美しいニヒルな笑みを浮かべて言った。

「夏の屋上で共犯者になってくれた、少女に贈ります。ロックンロールをもう一度」

涙が頬を伝う。私は叫ぶ。

あの日のロックンロールが、あの日のドキドキが、蘇る。

ロックンロールをもう一度、聴けたなら、きっと出逢える。

君に、初恋の君に。

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ロックンロールをもう一度 @RelaxinHIGH-LOW

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