巨根

@sugarAsalt

巨根

出社すると、おれの勤めるオフィスの入ったビルディングの隣に巨大なペニスが屹立していた。昨日までは広い公園があったところが、跡形もなくペニス一本に占領されている。まるで地面の下から生えてきたみたいに、ペニスの周りの地面はひび割れて隆起していた。

 オフィスに上がってみると同僚はみんな窓際に集まって空を見上げていた。昨日までの景色から一変して、窓のすぐ外には茶色い壁が立ち塞がっているように見える。他の社員のようにガラスに顔が付くほどの距離で見上げてみたが、亀頭までは見えそうになかった。ならば身を乗り出して確認してやろうと錠に手を伸ばすと刺々しい声に制止された。

「窓を開けないでください。臭うので」

 見れば去年か一昨年に入社してきた、狐のように吊り上がった目をした女子社員であった。潔癖なところがあるので煙たく思っていたが胸だけは大きいので内心気に入っていた。。

 なるほど確かにこのサイズのペニスだから匂いの方もさぞかし強烈なのだろう。言われてみれば窓が閉まっている今も少し臭う気がする。

「あれはいったいなんだ」

「なにって、やっぱりナニなんじゃないか」

「こんなにでかいのは初めて見るな。巨チンってやつか」

 巨チンだ、と口に出して言うとなんだか愉快な気分になった。巨チンだ巨チンだ、と繰り返す。さっきの女子社員に睨まれたのでやめた。

 昼頃に、ついに室温が我慢できないほど高くなったので窓を開けた。むわっとした悪臭が社内を満たして、おれたちは大いに閉口した。

 流石に巨大なペニスが見えるところで食事をする気にはなれなかったので、昼休みには同僚を誘って離れた飯屋に行くことにした。しつこく付きまとってきた匂いが消えたころに小さな定食屋を見つけたのでそこに入った。やっと解放されたと思って息をついたら同僚が店の奥を指さした。見れば、奥の天井近くの液晶テレビにもペニスがでかでかと映っていた。流石に気が滅入る。

「ニュース沙汰になってたのか」

「まあそりゃなるわなあ。しかしあれだな、モザイクとかかからないんだな」

 言われて振り返ったが、確かにモザイクはかかっていない。ペニスのペニスらしいところがすべて丸見えだ。ペニスのVTRを背景に、男性アナウンサーが消え入りそうな声で喋っている。

「本日××町に突如として…………巨大な…………現在専門家の分析が…………不明…………安全が確認されるまでは近づかないように……」

「やっぱりサイズなのかな。ほら、どっかのチンコ祭りもたしかモザイクかからなかったろ。あ、レバニラ定食お願いします」

「男根祭りだっけか。おれもそれで」

 同僚もどうやら少しおかしくなっているようで、ペニスの話の直後に注文をして平気な顔をしていた。今日はどうやら、あらゆる意味でペニスから逃れることはできないらしかった。諦めて、ペニスの話とペニスの映像をおかずに飯を食った。それから会社に帰った。

 帰社するとき、ふと気になって振り返った。夕日に照らされて、ペニスはそのシルエットを元気に赤く染めていた。立派な裏筋が見えたので、ペニスはオフィスビルにそれ自身の右側の側面を見せていたことが分かった。分かったところで何の意味もなかったが。




 次の朝もペニスは昨日と同じところにそそり立っていた。

「おはよう、どうなった」

「おう。おはよう。昨日と変わらないようにも思うが何だか萎れてきたようにも思う」

 窓際に行ってよく見てみればなるほど輪郭に昨日ほどの迫力がなくなってきたような気もする。萎れてきたと言われればそうかもしれない。

「まあ、ずっと勃起させてても疲れるからなあ」

 同僚は暢気そうに言った。おれもその通りだと思ったが、昨日の女子社員がこっちを睨んでいる気がしたので黙っておいた。

 巨大ペニスが出現したとはいえ、二日目ともなれば慣れたもので、朝からすでに窓が開いている。身を乗り出して見下ろすと、根元が昨日はなかったブルーシートで覆われているのが見えた。有名建設業者の名前が入ったトラックが止まっていて、荷台には足場を組むための鉄筋が積まれている。

「どうやら隠すらしいぞ、これ。景観を損なうとかでな」

「その方がいいだろうな」

 親切にも同僚が教えてくれた。街中も街中だから、こんなところで大きなペニスが勃起していれば確かに景観は損なわれるだろう。午前中の仕事は、ペニスを囲うための鉄筋を組む金属音を伴奏に進めることになった。

 昼飯を社員食堂で食っていると、頭上から緊急時のぴんぽんぱんぽんという音が流れた。続いて誰か、知らない男の声が食堂中に響いた。

「えー従業員の皆様、昨日弊社ビルの隣に現われたペニス状の巨大物体ですが、倒壊のおそれが出てきたので、従業員の皆様は可能な限り柱の近くに寄ってください。また、当然ですが、絶対に窓に近寄らないようにしてください。繰り返します……」

 三回繰り返してからブツリと音を立てて放送は終わった。見れば、食堂にいた連中はこぞって外を一目見ようと窓の近くで揉みあっていた。

 


 おれの部署もおおむね同じ状況だった。昼時で社員が少なかったから揉みあいにこそなっていないが、部屋の人間が例の女子社員を除いて窓の外に注目していることに違いはない。女子社員は大真面目に柱に背中をくっつけて体育座りしていた。


「で、倒れそうって本当か」

「ああ。急にしんなりし始めたんだ。このままだとこっちに倒れてくるに違いない。こいつは右曲がりだから。きっと持ち主は右利きだな」

 誰のペニスだか知らないが、どっち曲がりかまで日本中に広まるのはいい気分ではあるまい。密かに同情した。ペニスは持ち主の心を表すかのように前後左右にふらふらと揺れている。

「倒れてきたらどうなるかな」

「水の入った袋みたいなものだからな。まさか潰されるってことはないと思うが、傾いたりひしゃげたりはするかもしれないな」

「ふむ。保険はおりるんだろうか」

「不動産保険?」

「そうそう。天災とかで」

「天災って地震とか風災だろ。多分、巨大なチンコが倒れ掛かってきたことによる損害は契約にないんじゃないか」

「そうかもなあ」

 おれは考えてみる。保険がおりないとなると、この会社は自力で被害から復興しないといけない。仮に衝撃で建物の基礎に異変があれば、建て替えなり引っ越しなりでさらに大量の資金が必要だ。もちろんそのあいだ代理として使える建物なんか用意していないから、一定の期間業務が完全に止まるだろう。それから立ち直るような力がこの会社にあるだろうか。もしかしたら、ペニスによって潰された世界初の会社になるのかもしれない。

「おい、何だあれ」

 誰かの声で現実に引き戻された。口々に騒ぎ立てる同僚どもは、上ではなく地上をしきりに指さしていた。一緒になって見下ろすと、昨日と変わらない光景の中に、一部だけ違っているところがあった。一台のタクシーが止まっていた。そしてそこから降りてきたと思しき女性の格好を見て、皆が騒いでいる理由を理解した。黒い革のボンデージ衣装は、服というより、露出面積が大きすぎて、ベルトを身体に巻きつけているだけのようにも見える。顔の上半分には、蝶をかたどったような黒い仮面を着けている。そして右手には細く短い鞭。

「SMクラブの女王様が何をしに来たんだ」

 つい、そう呟いた。見守っていると、女王様は工事現場から電気式の拡声器を取って、叫んだ。

「このフニャチン!」

 キィン、とハウリングを伴いながら届いた言葉に、おれたちは一瞬、完全に沈黙した。そしてその沈黙は長くは続かなかった。女王様はまだ何かを叫んでいるようだったがそれはおれたち自身の笑い声にかき消されて、おれの耳には届かなかった。ただ、女王様はおれたちが聞いていなくても、ペニスには届いていると信じているようだった。女王様は拡声器に向かって叫び続けた。恥ずかしくないのかしら、だの、みんなが見てる、だの、そういう内容が断片的に聞き取れた。

 急に、ペニスがドクンと脈動して、おれたちは慌てて笑い声を引っ込めた。のみならず、ほとんどうちのビルに倒れ掛かっていたペニスが、出現直後のような覇気を取り戻して、再びそびえ立った。女王様はいよいよ声を張り上げて、彼女が仕事で身に着けたであろうありとあらゆる言葉を使ってペニスを罵った。今度はおれたちは唖然とするのに忙しかったから、彼女の声は全部、おれたちの全員に聞こえていたと思う。今度の沈黙も長くは続かなかった。誰かが

「頑張れ!」

 と叫んだのを皮切りに、おれたちは口々に女王様を応援する言葉を叫んだ。ペニスの上の方から透明で粘ついた液体が流れおちてくるのにおれたちが気づいて、興奮は最高潮に達した。おれたちは張り裂けんばかりに声を張り上げて女王様を応援した。なんとなくそう思ったからとしか説明しようがないのだが、とにかくその時のおれたちは、あのペニスに射精させれば、問題は解決すると信じて疑っていなかった。

 そしてついに、ペニスは大きくその巨体を震わせて精を吐き出した。海綿体をうねるように収縮させることによって空中高く押し上げられた白濁液はぼたぼたと降り注ぎ、おれたちはそれを三日ぶりの雨のように両手を上げて歓迎した。

 女王様はマスクを取ると、疲労と達成感によって真っ赤に上気した顔をおれたちに向けて大きく手を振った。それはさっきまでの女王様然とした振る舞いとは違って、高校を出たばかりの少女のような無邪気なものだった。おれたちも力いっぱい手を振り返して叫んだ。なおも降りしきる精液のむせるような臭いにも構わず、ずっと手を振り、叫び続けた。

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