【文芸】薫子というひと。【改訂版・BL】

柿木まめ太

薫子というひと。

「ごめんねぇ、迷惑かけちゃって。」

 病院のベッドに横たわって、彼女はそう言った。正確には、「彼女」にはなれなかったので、彼のままだ。手術は失敗した。

 粗末なスチールベッドはところどころとペンキが剥げていて、使い込まれている。日本のように衛生面で神経質な国とは違い、タイの病院では新品のベッドばかりが揃っているわけではない。リネンも同様、けれど決して不潔なわけではなく、少々使い込まれて色褪せているだけだ。毎日交換して洗濯もされた清潔なものだったが、過剰なほどに綺麗な環境に慣れ過ぎて、眉を吊り上げる日本人は後を絶たない。

 手術が失敗し、大量に出血した彼女は青ざめた顔色をしていた。無理に明るい声を作っているが、それでも語尾には疲労の色が濃い。点滴のチューブが筋張った二の腕に這わされている。

 彼女は光輝が最初に会った時から、一目でニューハーフと知れる顔立ちをしていた。すっかり化粧を落とした今の彼女はジャガイモに似ている。源氏名は薫子といい、こちらでもそう呼んでほしいと言われた。


 ベッドの側にスチールチェアを引いて座っていた光輝は彼女の言葉に顔をあげ、ナイフを握る手を止めた。すぐに苦笑いを浮かべ、手にしたリンゴに再び視線を落とす。

 返事を期待している素振りはなかったから、無言のままだ。彼の読みは当たり、彼女は独り言のように愚痴をこぼし始める。彼女の場合は聞いて欲しいだけで返事は要らないのだと、付き合ううちに気付いたからお好みに合わせて黙っている。

「あーあ。覚悟はしてたけど……ホントに失敗するなんて、どんだけ~?」

 古いギャグだ。いや、彼女たちの間ではまだ使える言葉だろうか。

 光輝にとってはどちらでも関係ない話だった。ニューハーフの業界だとか、新宿二丁目だとかは、彼にとっては別世界に近しい。リュック一つで世界中を旅して回るバックパッカーだから、日本で今なにが流行っているかなどという話は関係がない。タイに来て手持ちの金が尽きた、少しばかり現地の言葉が解かったから、日本語の通訳などの真似事でアルバイトを始めた。

 ジャガイモのような彼女は、光輝の雇い主だった。


 開け放たれた窓から、時折、涼しい風が吹き込んでくる。虫も飛んでくる。その程度は問題にしない。

 個室は特に大部屋よりも気を遣って清掃が徹底されている。日本人は少し無理をしても個室を取りたがった。彼女も例に漏れず、個室に拘った。金がかからないから、とタイでの手術を選択したくせに。

 入院期間中の、僅かな時間で虫程度は気にしなくなったくせに。

 リンゴを剥き終えて、光輝はピックを挿した。一口大に切ったリンゴの欠片をクライアントの口へと運んでやる。これは、サービスだ。

「あーん、」

 薫子は大きく口をあけて甘えた声を出す。正直、似合ってはいなかったが、気にしない素振りを貫いている。なにせ雇い主の機嫌一つでアルバイト代に色が付く。

「ほんっっと、迷惑かけて、ごめんねぇ~。」

 また言った。今度は視線が向いていて、どうやら返答を求めているらしいと感じられた。

「いや、いいっスよ。結果は残念だったけど、まぁ、死ななかっただけマシってか……、結構ヤバかったって話だから、運が良かったんスね。」

「いっそ、死んじゃった方が良かったわよ~! なぁに、敗血症とかマジ勘弁よぉ!」

 薫子の手術はとても危なかった。経過も芳しくなく、術後数日間は生死の境を彷徨ったほどだ。それでも持ち前の生命力とタフさで、なんとか一命を取りとめて現在に至る。

 今では、こんな軽口を叩ける程度には回復した、と光輝は見ていた。

 退院出来るほどに回復すれば、彼女は日本に帰る。その時に、光輝は通訳と付添い人のアルバイト代を貰えることになっている。

「ごめんねぇ~、」

 また言った。


「ねぇぇ。光輝はさぁ、ずぅっと世界を周っていくんでしょ? だから無理だってのは解かってるんだけどさぁ、次にアタシが手術する時も通訳引き受けて欲しいわけよぉ。」

 よくある社交辞令と光輝は受け取り、適当に相槌を打って返しておく。いくら安く済ませられると言っても、性転換手術に掛かる費用は桁が違う。何百万単位の資金を用意するのは大変なことだ。

 それも、彼女のように容姿に恵まれなかった者にとっては。

 こちらへ来て、騙されて大金を奪われるということもある。けれど、同じ日本人というだけで得体の知れないバックパッカーを雇う事も、現地の人間を雇う事も大した違いはないだろう。

「出来たらでいいのよ、アタシ光輝だったら安心出来ると思うのぉ、お願いしていいでしょぉ?」

 社交辞令にしては引き伸ばす意図がありありで、光輝は少し警戒する。彼女に必要以上に気に入られていることは、なんとはなしに気付いていて拙いかも知れないとは思っていた。

 彼女たちは、奥ゆかしい。ごねることはむしろ珍しいくらいだが、手練手管で情にほだされ、気付けば泥沼という話も聞いている。

「アタシ、絶対にリベンジしてやるわ。こんなの、絶対に嫌だもの。何百人と手術してきたくせにさぁ、どうしてアタシだけ失敗しやがるわけぇ? こんなの、許せないじゃない。」

 鼻息がだんだん荒くなる薫子の口へ、もう一度リンゴの欠片を放り込んだ。タイミング良く。

「んむ、……ありがと。そんでさぁ、むぐ、て、んく、ちょっと喋れなぁい!」

 ごくん、と飲み下したタイミングで、また放り込んだ。反応が面白い。完全に遊んでいた。


「アタシさぁ、上にお姉ちゃんが三人居るわけよぉ。で、末っ子のアタシがたった一人の跡取り息子ってわけなんだけどさぁ。なんかもー、申し訳ないっていうのー? こんなんでゴメンナサイっていうかさー、親が泣いちゃうでしょー? ……帰れないじゃないのー。」

 ジャガイモを四つ思い浮かべて、光輝は慌てて打ち消した。姉弟といって、驚くほど似ているばかりじゃないだろう、と。

「なぁにぃ? ヘンなこと、考えたでしょ?」

 薫子がジト目で睨む。愛想笑いを浮かべた光輝に、口を突き出して「ぶー!」と鳴いた。

「お姉さんたちって、似てるんスか? ……あ、いや、別にいいんスけど。」

「お姉ちゃんたちは美人揃いよぉ~、アタシだけなんでなのよって僻んじゃうくらい美人なのよ、ホンッと、神様って不公平よねぇ~。」

 自慢の姉たちなのか、薫子の声は踊るような響きを持っていた。

 そうスか、と答えようとした。

 それより早く、薫子は声を落とした。

「……ほんっと。不公平。なんでアタシだけこんななのかしら。アタシだけ、男なんかに生まれて。アタシだけ、美人じゃなくって。アタシだけ……」

「薫子さんは可愛いっスよ、」

 心にもない嘘が出た。


「……ありがとっ、」

 ジャガイモのような彼女は、笑顔を作っても可愛くはなかった。愛嬌はあったが。






 長い旅から帰ってきた。手紙は束になっていたが、ほとんどはどうでもいいダイレクトメールだった。その中に一通、懐かしい差出人の名を見つけた。


 葉書は薫子から。元気です、と。そして愚痴が延々と。

 封書は薫子の家族から。生前はお世話になりました、と。

 葉書の日付から二ヶ月も経っていなかった。


 気にはなったが、結局返事は出せなかった。



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