挿話「ぜんぶ、うけとめさせて」
暗い。
わずかな光は厚めのカーテンの向こうからうっすらと漏れる外の夜明かりだけ。
ぼくは布団のなかからぼんやりと、部屋のどこでもない、空中を見つめていた。
もう窓は閉めてしばらくたつのに、硫黄の匂いが漂っているように思えるのは、鼻がそれを覚えてしまったのか、それとも、部屋に染み付いているからなのか。
気持ちはしぼんでいた。
沈黙が続いて、もう数分くらい経っただろうか。
つん、と、ぼくの胸元に、なにかがあたる感触がする。
視線をそちらに向ける。
暗闇のなかだけど、目が慣れているから、わかる。
読子さんは、こっちを見てる。
いつもみたいに、やさしい目で、ぼくをみている。
「……さいしょは、だれでもはじめてだから」
読子さんは、つ、とぼくの胸に立てた指を押す。
「ちゃんとできるようになるから、だいじょうぶだよ」
読子さんは寝乱れた髪がじぶんの口にかかっているのを、もう片方の手で直す。
ぼくは、なにも言うことができなくて、暗闇のなかでぼくを見つめる読子さんの目をぼんやりと見つめ返していた。
布の擦れる音がした。
読子さんの手がぼくの手をとって、引き寄せる。
読子さんの手は、あたたかかった。
「小説も、おんなじだと思うの」
読子さんは、ぼくと読子さんのあいだにある二人の手を見て言う。
「ううん、なにかを表現するっていうことは、きっとなんでも、そう。じぶんのぜんぶをかけて、晒して……隠そうとしても、その人がぜったいに出てきちゃう。さいしょは上手にできなくて、当然……ぎこちなくて、いびつで、読みづらくなっちゃったりして」
読子さんはぼくの薬指をつまむ。
「いっしょうけんめい書いた小説は、はだかのじぶんみたいなものだから、誰かに批判されたり、笑われたり、拒絶されたりするかもって考えたら、怖い。恥ずかしい。身構えたり、虚勢を張ったり……強がっちゃったり」
読子さんは、ぼくの手を読子さんの胸元へと引き寄せる。
あたたかくて、やわらかいところに、ぼくの手が触れた。
「だけど、さっくんは、ずっとまっすぐだったね。……はじめは、ひょっとしたらさいしょだけでやめちゃうかもって思ってた。でも、さっくんはわたしがどんなことを言っても、つよがったり、気取ったり、拒んだりしないで、なんどもなんども、はだかのじぶんを、さっくんのぜんぶを出した小説を、わたしに読ませてくれたね」
ぼくの手のひらには、読子さんの体温と、鼓動が伝わってくる。
「それなら、わたしだってぜんぶで受け止めなきゃって、思ったの。そうするのが、わたしにぜんぶをみせてくれるさっくんへの、わたしなりのお返しだろうって、思ったの」
読子さんはそっと目を閉じる。
それから、にぎっていたぼくの手を、そっとぼくのほうへと押しかえした。
ぼくの手には、読子さんのぬくもりが残っている。
「みせてもらうたびに、さっくんの小説がどんどんじょうずになっていくの、わたしはとっても嬉しかったし、わくわくした」
読子さんはふたたび目をあけて、やさしくほほえんで、ぼくのほうに身をよせる。
「だからね……さっくんが、じぶんのぜんぶできてくれるなら、わたしにも、ぜんぶ、うけとめさせて」
読子さんはぼくのまえでそう言って、ぼくに向かって、おおきく両手をひろげた。
「……うん」
ぼくは、短くそれだけ返事をした。
思わせぶりじゃないときの読子さんは、だから、ぼくには有無をいわせない。
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