「きっと……とりこになっちゃうよ?」
きゅうすから、香ばしいかおりが漂ってくる。
読子さんは湯のみを二つ並べると、交互にお茶をそそぎ、そのうちのひとつをぼくのほうへ寄越した。
「ありがとう」
「んーん、どういたしまして」
ぼくは湯のみを触ってみて――まだ熱くて、手を離す。
立ち上がって、そばにある窓をあけた。
硫黄のツンとした匂いが部屋に入ってくる。
時刻は二十時すぎ。窓から景色を見下ろすと、正面には名物の湯畑が見えて、もうもうと立ち上る湯気にオレンジのライトが乱反射して幻想的な雰囲気を作っている。
湯畑を囲むようにある通りは、それぞれの旅館のはんてんを着た人たちがたくさん歩いていて、お祭りみたいににぎやかだった。
ぼくは、日ごろ小説のアドバイスをしてくれている読子さんを誘って、温泉宿に来ていた。
「わぁ、きれい! なんだかファンタジーみたい」
読子さんも立ち上がり、ぼくのとなりで窓から湯畑をみて、嬉しそうな声をあげる。
ぼくは髪をアップにまとめた浴衣姿の読子さんを見ながら、和風な世界観の物語もいいなと考えていた。
「来てよかった。はじめてだったの」
しばし景色を楽しんだあと、読子さんはチェアーに座って、湯呑を両手で持って、お茶をひとくち。
それから、ほうっと息を吐いた。
「楽しんでもらえたみたいで良かった」
ぼくも座って湯のみをとる。湯のみは持てるくらいの温度に下がっていた。
温泉宿はすこし奮発して、料理と温泉がしっかりしているところを選んだ。
部屋もきれいで、サービスも十分。
ぼくたちは日中たっぷり観光して、宿に戻ってからは部屋に運ばれてきた夕食を食べ終え、いまは部屋のおくの
「ふふ、いっぱい遊んだね」
「うん」
「ごはんもとっても美味しかった! お部屋に運んでもらって食べるごはんって、いいよね! 旅館の醍醐味って感じがする。さっくん、段取りありがと!」
読子さんはそう言うと、大きくのびをした。
形のいい胸がぐんと張られる。
「うん……それで……」
「ん、小説、だよね?」
ぼくが切り出すよりも早く読子さんのほうからそう言われて、ぼくは頷く。
旅行に行く前に、読子さんに書きなおした小説を渡してあった。
感想は旅行中に話すから、と読子さんは話していた。
夜が明けて明日はもうチェックアウトだから、落ち着いているいまのうちに話すのがいいだろう。
読子さんは姿勢をただす。
背筋を伸ばして、両手を膝に。
ぼくも自然と姿勢が良くなる。
「ぜんぶ、読んだよ」
「……どうだった?」
ぼくが尋ねると、読子さんはそっと目を伏せる。
ぼくはそれをじっと見守っていた。
ゆっくりとした時間が流れる。
遠くから聴こえる街の喧噪だけが、緊張感のある時間を満たしていた。
やがて、読子さんは目を開いて、ぼくを見る。
「面白かった」
読子さんはきっぱりとそう言った。
「ほ、ほんとに?」
「うん。わたしは、面白く読んだよ」
「……や、やった……」
ぼくはこぶしをにぎる。胸の中にはえも言われぬ高揚感が溢れてきていた。
「キャラクターはいきいきしてたし、情景も色彩がちゃんとついてる。すぐになにかが起こりそうだなって思わせてくれたし、そのあとの展開も整理されてた。……けど」
「……けど?」
ぼくの発した声は、ぼくが思っている以上に不安に満ちてた。
それをきいて、読子さんはおかしそうに笑う。
「そんなに、不安にならなくていいよ」
読子さんは椅子の手すりにしだれかかるように姿勢をくずす。
浴衣が着崩れ、首元から続く白い肌がすこし露わになって、ぼくは読子さんから視線をそらせた。
「ちょっと、よくばりたいなって思っただけ……さっくん、すごく頑張ってくれたから。はじめてさっくんの小説を読ませてもらったときとは、大違いだよ。……じょうずになったね」
「そうかな……ありがとう」
いままでのことを思い出して、ぼくは感慨深い気持ちになる。
「それは、読子さんがいてくれたからだよ。ずっと、ぼくの小説をリードしてくれたから。だから……」
「うん、だから……ね」
読子さんの雰囲気は、そこで変わった。
目はすこし細めて、ちょっと挑発的にぼくをみていて、手も足もリラックスしていて、普段姿勢のいい読子さんとは対照的に、いまの読子さんはやわらかく曲線を描いていて――
なんだか、妖艶な雰囲気をまとっていた。
ぼくは、読子さんに目を奪われていた。
「だから……」
「失礼します」
読子さんがなにか言いかけたとき、ふすまの向こうにあるドアからノックの音に続いて声がして、そこでぼくは我にかえった。
読子さんもすこし姿勢を戻して、どうぞー、と返事をする。
仲居さんがふすまをあけて、深く礼をする。
「御膳を下げさせていただきます。それから、お布団の準備をさせていただきますね」
「あ……」
「はい、おねがいします」
仲居さんに会釈した読子さんは、いつもの読子さんに戻っていた。
仲居さんは手早く二人分の御膳をワゴンに乗せる。
それから、和室の低いテーブルを部屋の隅に寄せ、押入れの戸を開けると、マット、敷き布団、シーツ、枕、掛け布団と手早く整えていく。
あっという間に準備が終わって、仲居さんは入ってきたときと同じ姿勢で「ごゆっくり」と礼をすると、ふすまを閉じて部屋から出て行った。
読子さんとぼくは、敷かれた二組の布団をじっと見つめていた。
しばらくのあいだ、沈黙が続く。ぼくは何度か読子さんのほうを横目でちらちらみたけど、読子さんはずっと、なにかを考えるような顔で、布団のほうを見ている。
沈黙をどうしたらいいかわからなくて、ぼくはついに口を開いた。
「あの……」
読子さんがこちらを向く。
その大きな目は、ぼくの心のなかを全部知ってるみたいに、まっすぐぼくを見ていた。
「さっきのつづき、ね」
「……うん」
「さっくんの文章は、すらすら読めるようになった。だから、ここからはわたしの好みの、わがままみたいなものかもしれないんだけど」
読子さんは和室のほうに向けていた身体をぼくのほうへ向ける。
「わたしももっと、リードされたい、引っ張られたいなって、おもうの」
「リード……?」
ぼくが首をかしげると、読子さんは続ける。
「うん。いまのさっくんの小説は読みやすくなって、読み進めるのも苦じゃない。先の展開も読みたいって思う。その気持ちを、もっと昂らせてほしい」
ぼくが黙っていると、読子さんは、右手を胸の上に乗せて、ゆっくりと続ける。
「さいしょに気持ちをつかんだら、まずはしっかり、ていねいに。さっくんのお話の世界に、私を連れて行って」
読子さんの雰囲気が、またすこし、艶やかになる。
「そしたら、お話が起伏するのとおなじように、文章も音楽みたいにテンポを緩めたり、早めたり……穏やかな場面はゆったり、緊迫した場面はせかすように、そうしたら、私はさっくんのお話の世界にどんどん、のめり込んでいけるの」
読子さんは立ち上がる。
「気持ちはどんどん昂揚して、進みたい気持ちはとまらなくなって、もっとさきに、さきに、って気持ちがはやって、わたしは夢中にさせられちゃって」
読子さんは、和室に敷かれたふとんの二つの布団のあいだに立って、広縁にいるぼくの方を向く。
ぼくは、自分の心臓の鼓動が大きくなるのを感じていた。
「それでね……クライマックスが目のまえまで来たら……そこで、ほんのすこしだけ、テンポをゆるめて、わたしのことを焦らして?」
読子さんは挑戦するような目で、ぼくを見ていた。
読子さんの両手は、浴衣のふともものあたりをぎゅっと強くつかんでいて。
読子さんの顔は、まだ温泉に入ったわけでもないのに、あかく上気している。
読子さんから目を離せないぼくの心臓は、強く強く鼓動している。
「そのあと……突き抜けるように、おしまいまでつれていかれたら、私」
読子さんはそこで、ほんのすこしだけ間を置いてから、続けた。
「きっと……とりこになっちゃうよ?」
読子さんはそう言って、恥ずかしそうにちょっと笑う。そのときのぼくは、心臓が胸から飛び出すんじゃないかと思うくらい緊張していた。
浴衣のしたは、汗が噴き出していた。
ぼくが呼吸するだけでせいいっぱいのところに、読子さんはゆっくりと歩みよってくる。
ぼくが固まっていると、読子さんはぼくの耳元に顔を近づけて、小さく「お風呂、先に入ってくるね?」とささやいた。
この部屋には、ぼくと読子さんの二人しかいないのに。
動けないでいるぼくをよそに、読子さんはバスタオルと着替えをとると、ぱたぱたと部屋から出て行った。
ぼくはそのあと、音を立てて椅子から立ち上がり、自分のスマートフォンをテーブルからとってロックを解き、なにをするでもなく二、三回スワイプして再びテーブルに置き、和室のほうへと二、三歩あるいて、呼吸を整える。
読子さんの息がかかった自分の耳たぶに指で触れると、思った以上に熱くなっていた。
部屋の中には二組の布団が並んでいる。
読子さんはいつも、思わせぶりだ。
だけど、今回ばかりは思わせすぎだ。
いつも読子さんが付け加えていた「小説の話だよ」という言葉が欲しいぼくと、そうじゃないもうひとりのぼくが、頭のなかで仲良くいっしょに混乱していた。
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