「もっとさわってみて」

 読子さんはスマートフォンの画面を見ている。

 見ているのはいつもと同じく僕の書いた小説だ。

 だけど、いつもと違うことがひとつある。

 きょうの読子さんは、ぼくの向かいじゃなくて、ぼくの隣に座っている。


 いわゆる、カップルシートというやつだ。

 ぼくにしてはちょっとだけ背伸びした雰囲気の店で、柔らかくてほの暗い照明の店内にはいくつかのテーブル席のほかに、男女ペア向けの横長ソファーも置かれている。

 店内にはジャズが流れていて、それぞれの席の距離は適度に離され、ちいさな声で会話するくらいなら周りの席に声は殆ど届かない。


 目の前のテーブルには、サラダとバケットとレバーパテと、それからカクテルグラスが二つ。

 となりにはほろ酔いなのか、すこしとろんとした目でぼくの小説を読む読子さん。

 なんだかこの状況のほうが小説じみてるな、などと思いながら、ぼくは自分のグラスを口に運んだ。

 横目で読子さんのスマートフォンの画面を盗み見る。

 どうやら、ヒロインが登場したあたりを読んでいるみたいだ。

 いわゆるボーイミーツガールな導入部。

 ここで事件は動く。

 ここまで来てもらえれば、きっと続きまで読んでもらえるはず。

 ぼくの気持ちは、口から鼻へと抜けていくジンの香りもあってますます高まった。

 ……けれど。


「……うん」


 読子さんはそこで、スマートフォンをそっとテーブルに置いて、自分のカクテルグラスをとった。

 霧みたいに濁ったグラスの底でチェリーが揺れる。

 読子さんはそのチェリーをすこし見つめて、カクテルをゆっくりした手つきで愉しむと、グラスをスマートフォンの横に置いて、それからソファーの背もたれに身体を預け、ふぅん、とちょっと長めの息を吐いた。

 ぼくの視線のはしっこで、読子さんの胸は呼吸に合わせて上下する。


「ど、どう? ヒロインの子」

 ぼくは自分の動揺を紛らわせるようにたずねた。


 ヒロインの設定は練り込んである。

 物語中では徐々に主人公と仲を深めていき、最後にはちゃんと成就させる。


「うんと……どんな子なのか、いまいちつかめない、かな?」

「どんな子……」

「うん、まだ絵が浮かんでこないの」


 ぼくの頭のなかには、ぼくが考えたヒロインの姿が浮かんでいる。


「この子は、どんな子なのかな?」

「どんな……」


 ぼくは答えを返せずにいた。

 小説を読んでも、ヒロインのかわいさが伝わらなかったということだろうか。

 読子さんは、スマートフォンをとると、画面を数回上下にスワイプする。


「たとえばね、いちばんさいしょ、ヒロインと会ったシーン……」


 読子さんは、ぼくにその場面を見せる。


「『すごくかわいい』って、さっくんは書いてる」


 ぼくはその箇所をみる。

 たしかにそこは、主人公がヒロインのかわいさを地の文で褒めるシーンだった。


「すごくかわいいって、どういうことなのかな?」

「どういうこと、って……」

「ん、と……」


 読子さんは、スマートフォンを操作し、ぼくに画面を示した。

 そこには、ぼくも知っているアイドルの女の子の画像が表示されている。

 十年に一度の逸材とかなんとかで、朝のニュースですら話題になるような、いまをときめくトップアイドルだ。


「この子は『すごくかわいい』かな?」

「……この子? うん、かわいいと思う」

「うん、この子もかわいいよね」


 読子さんはスマートフォンを置くと、ぼくにぐっと顔を寄せる。

 ちょっと試すような目で笑う。


「じゃあ、わたしは? かわいいかな?」

「……うぇ……?」


 急に詰め寄られ、ぼくは動揺してへんな声をあげた。

 それでも読子さんはぼくを見つめたまま動かない。


「うん、か、かわいい……」


 ぼくは絞り出すような声で言った。

 言ってから、恥ずかしさか、アルコールが入っているからか、もしくはその両方か――顔がぼっと熱くなる。


「……ん、ありがと」


 読子さんはちょっと頬を染めて、にっこり笑って、もとの位置まで身体を引いた。


「じゃあ、さっくんの小説のヒロインの子の『かわいい』と、さっきのアイドルの子の『かわいい』と、さっくんが褒めてくれたわたしの『かわいい』は、ぜんぶ同じ? それとも違う?」

「……それは、違うと思う」

「そうだよね? じゃあ、その違いを知りたいの」


 読子さんはもういちど、スマートフォンにぼくの小説を表示して、ぼくに示す。


「このヒロインの女の子って、どういう子なのかな?」

「どういう……たとえば、髪が長い、とか……?」


 ぼくは読子さんのミディアムボブの髪をみる。

 ブラウンの髪は、店内の照明の加減で普段よりすこし明るめに見えた。


「うん、それもひとつ。どんな服を着てる?」


 読子さんは、ぼくにじぶんの服が見えるように正面を向けて、両手をすこし拡げる。

 読子さんはキャミソールの上に薄いブラウスを着ている。どちらもぴったりしたサイズで、読子さんの身体のラインが際立っている。首には細いネックレスの鎖が照明の光を受けて輝いていた。

 黒の長いスカートは、両脚をすっかり隠していて、スカートの先には高すぎない印象のヒールのある靴がのぞいている。


「顔の特徴は?」


 読子さんは首をちょっと傾げる。

 大きな目がぼくをみていた。よくみると目じりにほんのすこしラメが乗っている。

 丸顔の読子さんの頬は、カクテルのせいかすこし上気して赤くなっていた。

 ぼくははじめて気づいたけれど、下唇の近く、あごのあたりに、唇でかくれてしまうくらいのちいさなほくろがある。


 ぼくがなにかを言うより早く、読子さんは戸惑っているぼくの右手を取る。

 読子さんの手はしっとりしていて、やわらかい。


「やわらかい? それともかたい? おおきい? ちいさい? ほそい? ふとい? まるい? しかくい? においは?」


 鼻に意識を集中すると、シャンプーの香りがうすく感じられるような気がした。

 さすがに錯覚かもしれない、とぼくは思う。


「ね? ヒロインの女の子……に限った話ではないけど、ものにはいろんな特徴があるよね」

「う、うん」


 ぼくの意識は、読子さんに包まれた右手に集中したままだ。

 読子さんは、ぼくの右手をちょっと持ちあげる。


「だからね。――もっとさわってみて?」

「さ、さわっ」


 読子さんは口角を持ちあげて、どぎまぎしているぼくに笑いかける。


「うん。さっくんが描く世界の人、もの、どれも全部もっとさわってたしかめてみるの。その体験を書いてみて。そうしたら、さっくんが作った世界の輪郭はもっともっとしっかりしていく。きっとわたしにももっと伝わるようになると思うの」


 そう言って、読子さんはぼくの手から自分の手を離して、その細くて長い指でカクテルグラスをとった。

 カクテルグラスを口に運んで一口のむと、読子さんは幸せそうににっこりと微笑んだ。

 ぼくはというと、自分の小説のかわいいヒロインの姿が、すこしずつ読子さんの姿に置き換わっていく現象に、必死で抵抗をしていた。

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