第2部-夕闇の影-エピローグ

 海鳴りが続いている。それに重なるように、騒ぐ波。引いては寄せ、寄せては引き。暗灰色の海を眼前に、草平はひとり立ち尽くしていた。頭に響くのは海鳴りなのか、耳鳴りなのか、後頭部にうずく痛みを遠くに感じながら、靴を舐めてゆく黒い波を無言で見つめる。足先の冷たさに眉をひそめ、目を落とす。無数の人の手の形をした波頭が靴先を掠めていく。小さく息をついてから顔を上げ、ぎょっとして後ずさる。

 目の前に、女が佇んでいた。白い裸体に黒々とした洗い髪をまとわせ、血のような緋縮緬の腰巻が丸みを帯びた腰を覆う。その腰巻きから覗く足に刻まれた、無数の鱗。青白い顔に野生的な、獰猛ともいえる眼差し。草平は、震える手を握りしめた。

「……珠波」

 口に出してその名を呼ぶのは初めてだ。だが、それが相手にとってはなんら意味を持たないことは明らかだった。それでも、

「わかってる。君が言いたいことはわかっている」

 沈黙を守る相手に、低い声で言い含める。

「衣緒を守れるのは、俺だけだ」

 それは目の前の人魚ではなく、自らに言い聞かせる言葉だった。それでも、人魚は目を細めて笑った。


 ああ、久しぶりだ。

 そんなことを思いながらうっすら目を開ける。ぼんやりとした薄闇に浮かぶ寝室の天井を目にして、安堵の溜息をつく。そうだ。思い出した。あの晩、あの浜辺に行ったことを後悔しないと決めたではないか。草平はもう一度息をつくと体を起こした。

 あまり眠れず、重い体でリビングに向かう。食欲はないが、とりあえずコーヒーを淹れようとコーヒーメーカーの準備をしているうち、ドアが開く音に振り返る。

「衣緒」

 青白い顔で立ち尽くす娘に声をかける。

「眠れたか? 無理しないで、もうちょっと寝ていてもいいぞ」

 諭すような言葉にも、衣緒は顔を横に振ってテーブルにつく。ぼんやりとした表情のまま黙りこくっている娘に、草平はテーブルに置いていたスマートフォンを取り上げる。

「衣緒」

 顔を上げる衣緒に画面を見せる。そこには、柴犬と戯れる父の姿が。衣緒の表情が明るくなり、草平はほっと安堵する。

「可愛い……」

 スマートフォンを受け取り、じっと見入る。そして、かすかに眉をひそめて振り返る。

「この子、昨夜の……?」

 草平はゆっくり頷いた。

「父さんが大学で働き始めた頃の写真だ。だから……、もう二十年前になるな」

 写真を見つめているうち、懐かしい思いが胸に溢れてくる。

「学生のうちから家を出てたから、帰るたびにきびに会えるのが楽しみでね」

「ねぇ、どうしてきびちゃんって言うの?」

 不思議そうに問いかける衣緒に思わず苦笑を漏らす。

「凛々しい顔をしているだろう。きっと、桃太郎さんのお供をしていたんだろうって」

「きび団子のきび?」

「うん」

 衣緒の顔がぱっと明るくなる。

「可愛い。だから……、あんなに強かったんだ」

「……うん」

 脳裏に、昨夜現れたきびの姿が浮かぶ。どこにでもいるような普通の柴犬。それが、異形の力を持つ者たちに果敢に吠え立てた。

「父さん」

 不意に、力のこもった声に呼びかけられて顔を上げる。衣緒は、強い眼差しで見つめてきた。

「父さんは、きびちゃんを可愛がっていたんでしょう。だから昨日、助けてくれた」

 かすかに眉をひそめ、娘の言葉に耳を傾ける。

「大事な人を守りたい。それって、人も犬も同じなんだ」

「どうしたんだ」

 少し狼狽えたように尋ねる草平に、衣緒はパジャマの裾を上げた。そこには、赤と白の天然石が光るブレスレットが。

「おばあちゃんのブレスレットも守ってくれた。……でも」

 そこで一度口をつぐみ、躊躇いながらも言葉を続ける。

「あの時、私を守ってくれたのはおばあちゃんだけじゃない。きっと、母さんも」

 上目遣いに見つめ、どこか必死な眼差しに草平は黙って頷いた。衣緒はスマートフォンをテーブルに置いて身を乗り出した。

「父さん。藤木先生のこと、まだ迷ってるの?」

「衣緒」

 驚きの声を上げる草平に、衣緒は更に畳みかける。

「迷ってるのは、それだけ藤木先生のことが大事だからでしょう。昨日みたいなことに……、巻き込みたくないんでしょう」

 娘の言葉に、何も言い返すことができなかった。これまでは、親子ふたりで秘密を抱えてひっそりと生きていけばいいと思っていた。その人生に別の人間が交わるなど、思いもしなかった。いや、交わってはならない。そんなことになれば――、

「私ね」

 衣緒の低い声に目を上げる。顔を強張らせ、俯き加減で言葉を続ける。

「里村くんに、付き合ってくれって言われた時、もう、一緒にいちゃいけないって思った」

 目を見開き、思わず娘の肩に手をかける。

「……でもやっぱり、私は里村くんのこと、好きだから」

 その言葉に、思わず溜め込んでいた息を吐き出す。衣緒は口をつぐむと唇を引き結んだ。しばし沈黙の後、顔を上げた衣緒はどこか清々しい表情さえ浮かべていた。

「私、里村くんみたいに優しくて強い、家族思いの人になりたい」

 衣緒の力強い言葉に、草平は頭が冴え渡っていくのを感じた。小さく息をつき、肩を叩く。

「衣緒」

「だから、里村くんも父さんも守るよ、私。きびちゃんみたいに」

 そう言ってにっこりと微笑んだ娘は、瑞々しい生命力に溢れていた。母親のように。衣緒は前に進もうとしている。すべてを受け入れて。自分にも、できるはずだ。


 殺風景な書棚が並ぶ空間。味気ないステンレスの書棚に場違いなほど古い書籍がどこまでも続く。ここは横浜開化大学の図書館。その一角で、分厚い本を何冊か抱えて書棚を見上げている女性がいる。ダークグレーのパンツスーツの立ち姿が美しい彼女が手にしているのは、「相模地方民話文献集」、「武蔵国説話大全」といった、この辺りの地方の民話をまとめたものだ。書棚に並ぶ背表紙を追っていた目が、大きく見開かれる。おもむろに右手を高く差し上げ、一冊の本を手に取る。表紙には、「若狭国妖拾遺集」の文字。

「……若狭」

 我知らず、口の中で呟く。と、その時。胸ポケットのスマートフォンが震え、飛び上がる。左手に抱えた本が落ちそうになり、膝を突くと空いている棚に押し込む。そして、震え続けるスマートフォンを引っ張り出す。その画面に表示されていたのは。

「……先生!」

 もつれる指先で画面をタップする。

「もしもし、藤木です……!」

 上擦った声で電話に出る。藤木の耳に、待ち焦がれた声が届く。

「佐倉です。すみません、今、大丈夫ですか」

「は、はいっ」

 一気に胸が早鐘のように打ち鳴る。思わず両膝を床に突き、緊張で強張った顔つきでスマートフォンを握り締める。

「今度の水曜日、お時間ありますか」

 どくん、と胸が不気味に波打つ。ごくりと唾を呑み込んでから頷く。

「――はい、大丈夫です」

「良かった。じゃあ、三時ぐらいに……。中途半端な時間で申し訳ないんだけど……」

「か、構いませんっ」

 切羽詰った声を上げるが、すぐに口をつぐんで後悔する。落ち着け。いい歳をして、はしたない。

「そちらの方は地理に詳しくないから……、もしも藤木先生のお気に入りの場所があれば」

「は、はい、わかりました。それでしたら……、大学で待ち合わせてから、ご案内します」

「それは助かる。じゃあ、そのように」

 その後、ごく簡単な近況報告を述べ合ってから、藤木は通話を終えた。小刻みに震える手におさまったスマートフォンを見つめる。ついにこの日が来た。「返答」を聞かされる日が。藤木は押し殺した息をつき、ぎゅっと目を閉じた。


 水曜日の朝。衣緒は、いつもと変わることなく登校の準備をしていた。食器を流しに運び、テレビの朝のニュースを見ながら通学鞄の中をチェックする。スポーツコーナーではプロ野球のクライマックスシリーズが始まることが紹介されている。クライマックスとはなんのことだろう。雄輔に聞いてみよう。きっと事細かに教えてくれるだろう。そんなことを考えていると。

「衣緒」

「なに?」

 鞄の被せを閉じてから振り返った衣緒は、どこか強張った顔つきの父親に首を傾げる。

「どうしたの?」

「ちょっと……、おまえに見てほしいものがあるんだ」

 衣緒は不思議に思いながらも父親に歩み寄った。草平はブリーフケースから小さな紙の袋を取り出すと、衣緒に手渡す。

「開けていいの?」

「ああ」

 紙袋に入っていたのは、薄い箱。蓋を開けると――。

「あ、可愛い」

 それ・・を目にした瞬間、衣緒は明るい声を上げた。

「いいなぁ、どうしたの、父さん」

「……可愛いか、これ。可愛いと思うか」

 弾んだ声を上げる衣緒とは対照的に、不安そうな声色の草平に衣緒は眉をひそめる。

「どうしたの、父さん」

 しばし口をつぐんでいた草平は、意を決したように頷いた。

「これを……、藤木先生に贈ろうと思ってね」

 その言葉で、衣緒はすべてを察した。息を呑んで目を見開き、父を凝視する。草平は緊張しきった表情を崩さぬまま、衣緒を真正面から見つめた。

「……父さんな、藤木先生と、お付き合いしようと思う」

 沈黙を埋めるように、テレビからはニュースを読み上げるアナウンサーの声が続いている。衣緒は唇をかすかに開き、呆然とした表情で父を見上げた。草平はどこか苦しそうに眉根を寄せ、重い溜息を吐き出した。

「気付いたんだ。父さん、藤木先生のことが好きなんだって」

 衣緒は、それまで止めていた息を吐くと制服の裾をぎゅっと握りしめた。

「……衣緒のおかげだよ。衣緒が反対せずに、付き合ってもいいって言ってくれたから――」

「やった!」

 唐突に上がった声に草平が言葉を呑み込む。衣緒は弾けるような笑顔で飛び跳ねながら父の手を握りしめた。

「かっこよく決めてよね! 藤木先生、きっと喜んでくれるよ!」

「衣緒」

 はしゃぎながら声援を送る衣緒に、戸惑いの表情を浮かべる草平。

「今日? 今日申し込むの?」

「ああ――」

「がんばって! うまくいったらお祝いしなきゃ! かっこ悪い姿見せちゃ駄目だよ、きちんと――」

 と、そこで不意に言葉が途切れ、笑顔だったはずの衣緒の表情が突然崩れる。

「――衣緒」

 円らな瞳から、大粒の涙が溢れ出す。草平は咄嗟に肩に手をかけるが、衣緒は父の胸に突っ伏した。

「衣緒。……衣緒」

 動揺しながらも自分をしっかり抱きしめてくれる。これまで何度も同じようなことがあったのに。嗚咽が止まらない。止めようにも止まらない。衣緒は声を押し殺して泣き続けた。

「……衣緒」

 もう一度名を呼ばれる。衣緒は父のワイシャツをぎゅうと握り締めた。

「……とう、さん」

「なんだ」

 慌てて腰を屈め、耳を寄せる。

「わ、忘れないで」

 草平は眉をひそめて身を乗り出した。衣緒はしゃくり上げながらも、一言一言絞り出すようにして囁いた。

「世界で一番、父さんが好きなのは、私なんだから……!」

 その言葉を耳にした瞬間、草平の表情も泣き出しそうに歪んだ。そして、ぐっと瞳を閉じると娘を抱きしめる。

「父さんも、おまえが世界で一番大事だ」

 そう言って、娘の背を愛おしげに撫でる。その温もりを、ずっと感じていたかった。だが、これからはその温もりが半分しかもらえない。そう思うと、猛烈な寂しさに襲われる。衣緒は唇を引き結ぶと父の胸から逃れた。

「衣緒――」

 腕をすり抜けていく娘に、どこか情けない声を上げる父をきっと睨みつける。

「かっこ悪い告白なんかしたら、許さないからね」

 そう言い捨てると背を向ける。通学鞄を手に取ると逃げるようにして玄関に向かう。

「衣緒!」

 父の悲鳴のような呼び声を背に、衣緒はドアを閉めた。

 流れる涙を拭いながら、走って駅まで向かう。脇目もふらずに通りを駆け抜ける中、脳裏にこれまでの出来事が次々と蘇ってくる。

 自分にはいない、母親という存在を初めて知った幼稚園。自分の家庭と身体が周囲の人々とは違うということに気付いた小学校。自分と他人との違いを葛藤しながら受け入れていった中学校。それらを乗り越えて、ようやく平穏な日々を手にしたと思っていたのに。

  電車に乗り込んでからも、涙は止まらなかった。乗り合わせた乗客らの視線を痛いほど感じながら熊谷駅で下車する。ようやく涙は止まったものの、時々しゃくり上げながら改札に向かい――、

「佐倉―」

 懐かしい声にぴたりと足を止める。顔を上げると、自転車に跨った雄輔が笑顔で手を振っている。人懐っこい、優しい笑顔。包み込んでくれるような大きな体と、大きな手。いつも傍にいてくれるその姿に、再び涙が溢れる。

「ど、どうしたよ……!」

 ぽろぽろと涙を流して立ち尽くす衣緒に慌てて自転車を押しながら駆け寄る。

「何かあったのか」

 通勤通学の人々の流れの中で、雄輔は心配そうに問いかけた。衣緒は答えようにも言葉が出ず、黙って項垂れた。

「こっち」

 不意に手を掴まれると引っ張られる。衣緒は引かれるままに歩き始めた。連れて行かれたのは、駐輪所に隣接した小さな公園。植え込みの前に置かれたベンチに座るよう促される。

「大丈夫か」

 背中を丸めて座り込んだ衣緒に、雄輔はポケットから皺だらけのハンカチを取り出し、慌てて皺を伸ばそうとする。その仕草に、衣緒はようやく表情をほぐした。

「……ありがとう」

 ちょっと恥ずかしそうにハンカチを差し出す雄輔に感謝の言葉を呟く。

「落ち着いたか」

 衣緒は大きく深呼吸をしてから、小さく頷いた。

「……父さんがね、あの女の人と付き合うんだって」

 雄輔の表情が驚きに満ちたものになる。

「本当か」

「うん。今日、お付き合いを申し込むんだって」

 どう答えたものか、困惑の表情で視線を惑わす雄輔だったが、衣緒は溜息をつくと空を見上げた。

「……覚悟してたのに。あの先生だったら大丈夫って、思ってたのに。なのに、私」

「当然だよ」

 思いを否定せず、受け入れてくれることが嬉しかった。衣緒はようやく心が落ち着いてくるのを感じた。朝の公園。駅前の雑踏が遠くに聞こえる。その喧噪から離れて雄輔と一緒にいられることが、何よりも心が安らいだ。それきり黙り込んだ衣緒を催促することなく、雄輔は黙って寄り添っていた。ハンカチを握りしめた両手に目を落とすと、雄輔はそっと手を包み込んできた。その温もりに、強張っていた表情が少しずつ和らいでゆく。

「……私さ」

「うん」

 自分の言葉を受け止めてくれる人がいる。そのことに衣緒は喜びを噛みしめながら続けた。

「笑って応援しなきゃいけないのに、泣いちゃった。……馬鹿だよね、いきなり結婚とか、そういう話じゃないのに」

「わかってくれるよ、お父さん」

 なだめるような優しい口調。衣緒は軽く目を閉じると、懐かしむように呟いた。

「私、小さい時は、父さんは自分のものだと思ってた。……いつまでも」

「今もだろ」

 その言葉にはっと振り返る。雄輔は真顔でまっすぐに見つめてきた。そして、幼子をあやすようにゆっくりと言い含める。

「お父さんはおまえのものだよ。今までも、これからも」

 自分のもの。これからも、ずっと。それは絶対に破られることのない、永遠の約束だと信じられた。喜びと安堵。衣緒は、くしゃりと笑顔を咲かせた。と、その顔に、柔らかいものが押し付けられる。

「きゃっ!」

 飛び上がりながら悲鳴を上げ、頬を押さえる。そんな衣緒の目に飛び込んできたのは、晴れやかな太陽のような笑顔の雄輔だった。

「やっぱおまえ、笑ってる方がいいや」

瞬間、衣緒の胸が温かさに満ち溢れた。そして、雄輔の背に腕を回すと抱き着いた。

「佐倉……!」

 慌てた声。それでも、衣緒は黙って雄輔を抱きしめた。少し遅れて、ぎこちない手つきで抱き返してくる雄輔。

「ありがとう……!」

 噛みしめるような囁きに、雄輔はほっとした表情で衣緒の背を撫でた。


 その日の午後。横浜開化大学を訪れた草平は、ロビーで緊張しきった表情の藤木の出迎えを受けた。

「近くに、よく行くカフェがあるんですが……」

「じゃあ、そこで」

 草平は明るく答えたつもりだったが、藤木は少々引き攣った顔つきで草平をカフェまで導いた。連れてこられたのは、大学から歩いて十分ほどの場所。雑居ビルの階段を上がりながら藤木が「二階です」と声をかける。

「もっと近くに、明るくて開放的なカフェがあるんですが、そこはうちの学生が多くて」

 そのうち二階に到着し、古めかしい扉に迎えられる。扉を押し開くと、暗いが思いのほか広々とした店内だ。温かみのある照明がぽつりぽつりと灯され、入り口近くにOLらしき女性が数人いるきりで客の姿はまばらだ。美しい光沢を放つマホガニーのカウンター奥には洋酒が並び、夜はバーになるようだ。奥のソファに腰を落ち着けると、草平はメニューにちらりと目を通した。

「……ケーキセット」

 えっと声を漏らした藤木に、老眼鏡越しに目を上げる。

「駄目かな」

「あっ、違うんです……!」

 慌てて顔の前で手を振り、訂正する。

「ちょ、ちょっと意外で……」

「うん。美味しそうだし、ちょっと小腹も空いてるから」

 そんな会話を交わしていると、店のマスターらしき男性がやってくる。

「僕はケーキセットのコーヒーで」

「……私は、ケーキセットの紅茶で」

 マスターが厨房へ向かうのを見送ると、草平は窓越しに通りを眺める。

「大学の近くにこんな落ち着いたカフェがあるなんていいねぇ」

「はい……」

 か細い返事に振り返る。白いブラウスに優しいベージュのカーディガン。緊張で体を強張らせ、細い指先で柔らかな髪を耳にかける。そんな彼女がいじらしく思え、草平は静かに声をかけた。

「時間をかけてしまって、すまなかった」

 藤木は俯いて顔を振った。

「先に、美味しいケーキを食べよう」

「はい……」

  店内には、草平にとっては懐かしいボサノバが静かに流れている。本格的な純喫茶といった佇まい。ここなら、学生はあまり訪れないだろう。そんなことを考えていると、マスターがケーキセットを運んでくる。素朴なピンクの皿に白いレアチーズケーキ。ラズベリーソースが鮮やかに艶めいている。

「美味しそうだね」

「はい」

 そう言って草平はフォークを手に取り、一口運ぶ。甘酸っぱい味わいが口の中に広がり、満足そうに頷く。

「うん、美味しい」

 だが、ケーキセットを前に体を固くしたままの藤木に気付き、後悔しながらフォークを置く。

「……ごめん」

「えっ」

 不安でいっぱいの瞳を向けられ、草平は両手を膝につくと頭を下げた。

「こんな状況では喉を通らないね、ごめん」

「い、いえ……」

 突然謝られ、藤木は慌てて顔を振る。だが、草平は居住まいを正すと真っ直ぐに瞳を見つめた。

「先に、言ってしまおう」

「先生」

 怯えに近い表情でわずかに身を引こうとする藤木だったが、草平にも勢いが必要だった。

「僕と、お付き合いしていただけますか」

 一息に、はっきりと告げる。一瞬何と言われたのか理解できなかったのか、藤木は呆然としたまま草平を見つめていた。が、やがて青白い頬に赤みが差すと震える手で口を覆う。

「……先生」

「でも、すまない。これから卑怯なことを話す」

 どこか切羽詰ったように言葉を添える草平に眉をひそめながらも頷く。

「あなたとお付き合いをしたい。でも、この交際には色々と障害がある。それは先日もお話ししたと思う」

「はい」

 口許を覆っていた手を握りしめ、静かにテーブルに置くと藤木は生真面目に頷く。

「僕の両親はともかく、交際を知った先生のご両親が反対するかもしれない。娘も……、今は賛成してくれているけど、いつ気持ちが変化するかわからない」

「先生」

 藤木が遠慮がちに身を乗り出す。

「それは、どんな人生でもあり得ることです」

「うん、そうだね」

 草平は、表情をほぐすと溜め込んでいた息を吐き出す。そして、幾分肩の力が抜けたことを感じながら言葉を継ぐ。

「この間話したように、娘が成人するまでは結婚はできない。あなたが結婚という形を望むのであれば、待っていただくことになる」

「はい」

 間髪を入れない返答。だが、藤木は眉をひそめると恐る恐る尋ねる。

「……先生の、ご両親は……」

「うちの両親は……、僕の結婚を半ば諦めているでしょう。僕が伴侶を得ることよりも、孫の将来を心配していると思います。むしろ……、あなたとの交際を知ったら、若いあなたの身を心配するかもしれない」

「それは――」

 不安そうに言い淀む藤木に、草平は優しく微笑んでみせた。

「ありがとう。うちの親のことまで心配してくれて」

 固い表情のまま頷く藤木。改めて彼女をじっと見つめる。自分よりも十六も歳若い藤木。不安に満ちていながらも、若さに溢れた瞳。草平は、今更ながら自分を慕ってくれる瑞々しい存在を眩しく思い、目を伏せた。

「……色々考えました」

 声をひそめて呟く。

「考えれば考えるほど、不安材料ばかり心に浮かんで。でも、それ以上に良いことも想像して」

 彼女も息をひそめて頷くのを感じ取る。

「心配事だらけです。でも、それでもあなたとお付き合いしたい。そう思えたんです。それは――」

 そこで思い切って顔を上げる。目の前に、固唾を呑んで言葉の先を待つ藤木の姿があった。草平は、大きく息をつくと、静かに告げた。

「あなたが、素敵な女性だから」

 瞬間、藤木の瞳が大きく揺れる。涙を滲ませ、瞼を指先で押さえる彼女に、咄嗟にポケットからハンカチを取り出す。

「……ありがとうございます」

 涙声で囁くと、藤木はハンカチを受け取った。草平は溜め込んでいた息を大きく、長く吐き出した。自分の思いは、言葉にできたつもりだった。そして、怖々と藤木を見つめる。

「……お付き合い、してくれるかな」

 藤木はハンカチで目頭を押さえてから、にっこりと笑ってみせた。

「はい」

 その返事に、草平は一気に解放されたように両手をテーブルに突いた。

「……良かった……」

「先生」

 藤木がいつもの明るい声色で呼びかける。

「元はと言えば、私がお付き合いしたいって、言い出したんですから」

「うん、そうなんだけどね」

 緊張がほぐれ、ようやく穏やかに笑ってみせる。

「今日こうしてお付き合いを申し込めたのも、娘の後押しがあったからです。……感謝しています」

「……ありがとうございます」

 噛みしめるようにして呟く藤木を見つめていると、草平ははっと思い出したようにブリーフケースを手繰り寄せた。

「そうだ。これを」

「何です?」

 ブリーフケースから紙袋を取り出すと、再び表情を引き締めて藤木と向き合う。

「これを……、もらってくれるかな」

 両手で静かに差し出すと、藤木も神妙な顔つきで受け取る。紙袋から薄い箱を取り出し、緊張に満ちた表情で蓋を開ける。

「……あらっ」

 開けた瞬間、藤木の顔がぱっと華やぐ。

「可愛らしい……」

 愛おしそうに呟くと目を細める。彼女の眼差しの先にあったのは、手のひらに収まるほどの大きさの木製の櫛だった。柔らかな質感の櫛はぽったりとした丸みを持った形で、本体に開けられた穴に藤色の組紐が結わえつけられている。

「お六櫛ですか」

「うん。柘植ではなくて、みねばりで作ってあるものなんだけど……」

 少し照れくさそうに説明する草平に、藤木は嬉しそうな顔つきで耳を傾けている。

「若い女性にはちょっと古臭いかな、と思ったんだけど……」

「いえ、お六櫛は憧れだったんです。とっても嬉しいです」

 藤木の言葉に草平はようやく安堵の吐息をつく。

「良かった、気に入ってもらえて。身に着けてもらえれば僕も嬉しい」

 草平は何気なく口にした言葉だったが、藤木は瞬間、眉をひそめた。そして、まじまじと櫛を見つめてから身を乗り出す。

「――先生、ひょっとして、何か障りでも?」

 真剣な表情の藤木にぎくりと息を呑む。そんな草平に藤木はさらに畳みかける。

「だって、櫛と言えば古事記の時代からの魔除けじゃありませんか」

 さすがだ。草平は感心したように頷いた。

「そう、お守りのつもりでね。……お守りなんか、今まで信じていなかったんだけど」

 そう前置きしてから、草平は藤木が手にしている櫛を見つめながら語った。

「この夏、田舎に帰った時に母が娘に天然石のブレスレットをくれてね。若狭地方に伝わる赤瑪瑙なんだけど。どうもその石が身を守ってくれたと思えるような出来事がいくつかあって」

 草平が語る言葉に引き込まれるようにして頷きながら、藤木は聞き入った。

「それで、わかったんだ。大事な人を守りたい。その思いがあればお守りは力を発揮してくれるんだって」

 藤木は、胸を突かれたように目を見開き、手許の櫛を見つめた。繊細な細い櫛目。柔らかな光沢。手に馴染む温もり。藤木の顔には、自然と笑みが零れる。その微笑みに向かって、草平は呼びかけた。

「小枝さん」

 途端に、弾かれるようにして顔を上げた藤木に、草平は思わず笑いを漏らすと改めて背を正す。

「これから……、よろしくお願いします」

 そう言って頭を下げると、藤木も慌てて居住まいを正す。

「こ、こちらこそ……」

 その後、ようやく心のつかえが取れた藤木はケーキと紅茶を堪能し、店を後にした。

「雰囲気のあるお店だったね」

「ええ、たまにひとりで行くんです。落ち着く場所なので」

 そんなことを語り合いながら駅に向かう。

「そう言えば、先生」

「うん?」

 首を巡らせると、どこか心配そうな表情で藤木が見上げてくる。

「お嬢様にも……、よろしくお伝えください。ありがとうございます、と」

「ええ、伝えましょう」

 草平はそこで、衣緒の顔を思い浮かべた。

「そうそう……。実は娘にも彼氏ができて」

「まぁ」

  藤木は明るい表情で声を上げた。

「同級生ですか?」

「うん、クラスメートでね。何度か会ったけど、いい子でほっとしているよ」

 そして、苦笑を漏らしながら言葉を続ける。

「それが、プロ野球のことを聞いてくるようになってね。どの球団が人気なのか、どの選手がすごいのか、ってね。どうやら野球好きの彼氏に話を合わせようと必死みたいで」

 草平の話に藤木も微笑ましそうに頷く。

「そのお気持ち、すごくわかります」

 だが、やがて藤木は声をひそめて尋ねる。

「やはり、ご心配ですか?」

「うん? まぁ、多分あの子なら大丈夫だと思うけど……」

「心配というより、寂しいというお気持ちでしょうか」

 藤木の言葉に草平は溜息をつきながら頷く。

「そうだねぇ……。まぁ、うん、嫁にはやらないよ」

 いきなり極論が飛び出し、ふたりは声を上げて笑った。ひとしきり笑い合い、草平は夕焼けに目を細めながら、側に寄り添う藤木を見やった。左肩にかけたショルダーバッグのストラップをすがるようにして両手で握りしめる藤木の笑顔を、熟れた果実のような温かい陽の光が染める。自分と一緒にいることで、こんなに満ち足りた表情をしてくれるのか。そう思うと、愛おしい気持ちがこみ上げてくる。

「小枝さん、手」

「え?」

 目を見開いて振り返る藤木の手を指差す。

「……それじゃ、握れない」

 意味がわからず、首を傾げていた藤木だったが、やがてはっと息を呑むとストラップを握りしめていた右手を外す。その手を包み込むようにして、指を絡める。

 その瞬間、藤木の手の温かさと柔らかさに胸が詰まる。思わず目を閉じ、歩みを止める。脳裏に浮かんだのは、月夜の浜辺で触れた人魚の水を含んだ手。

(そうだ、卒業しなければ)

 そんな思いがこみ上げる。自分の心を掴んで離さない、美しい人魚。あの冷たい手から、離れなければ。彼女のことは忘れない。衣緒の母親なのだから。だが、これからはこの世界で、この温もりと生きていく。草平は藤木の手をぎゅっと握りしめた。藤木も、黙ったままそっと草平に寄り添った。ふわり、と彼女の髪から優しい花の香りが立ち上る。懐かしい香り。ああ、薔薇の香りだ。いつか、幼い衣緒のために買ってやった薔薇のクリーム、ロザリーを思い出す。ふたりはしばし、夕焼けに染まる路傍で立ち尽くした。

 そのふたりの頭上に広がる夕空を、黒い筋が切り裂く。闇のように深い漆黒のカラスは、ひと声甲高く鳴いた。        


終幕

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魚媛 カイリ @kairi_elly

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