第2部-夕闇の影-第14話

「本当に、こんなことになっちまって申し訳ないんですが……」

 前置きの言葉ににわかに不安を感じる。草平は眉を寄せて言葉の続きを待った。しばしの沈黙の後、赤人は重い口を開いた。

「東京で、こいつが出くわしたんです」

「……何ですか」

「別の、合いの子と」

 最初、何を言っているのかわからなかった。それが、妖を親に持つ者との遭遇だと理解するのに少し時間が必要だった。

「合いの子、ということは、妖の……?」

「そうです。犬神と人間の合いの子です」

 犬神。草平は思わず顔を歪めて身を引いた。犬神もオサキと同じく、願いを叶えることと引き換えに一族に取り憑き、幸運と災いをもたらす妖怪。その、犬神を親に持つ合の子。ごくりと唾を呑み込んでから緋紗人を仰ぎ見る。腕組みをしたまま項垂れていた彼は、小さく息をついてから顔を上げた。

「一言で言えば、凶暴な奴でした」

 隣の衣緒が身を竦めたのを感じ、膝の上の手をぐっと握り締めると両手で握り返される。草平は押し殺した息を吐き出した。

「危害を加えられたの?」

「襲われました。そいつが操っていた野犬に。それと、そいつ自身にも」

 重苦しい空気を感じ取ったのか、緋紗人は自分のグラスを取り上げ、「お代わりは?」と明るく尋ねた。

「いや、僕は結構……」

 衣緒も黙って頷く。

「しかし、理由もなく襲ってきたの?」

「いや、理由はありました」

 緋紗人は苦い表情で答える。

「そいつは俺に、一緒に妖を皆殺しにしようって持ち掛けてきたんです」

 想像もしていなかった要求に草平は呆気にとられた。

「俺は断りました。はっきり言ってとても信用できるような相手じゃなかったし、俺にとっては妖を殺す理由がありませんから」

「それで……、襲ってきたというわけか」

「はい」

 二本目の煙草に火を着け、煙を吐き出した赤人が目を眇めて言い添える。

「今思い出してもぞっとしますよ。こいつが命からがら逃げ帰ってきた日のことを。だけど、それっきりじゃなかった。二度目の襲撃を受けた時、思い切って警察沙汰にしました」

 警察。不穏な言葉が登場したが、場違いな気もする。

「警察は、動いてくれたんですか」

「ええ。単純に、因縁をつけて襲ってくる奴がいるからどうにかしてくれってね。マークされて困るのは奴の方ですから」

 なるほど。警察にとっては、ただの傷害事件だ。そこで衣緒が怖々と身を乗り出した。

「それで……、引っ越したんですか?」

「うん、あのまま東京にいるのは危ないと思ってね。長野に帰ろうかとも思ったんだけど、親父にまで危険に晒すわけにもいかず、埼玉を選んだんだけど……」

 尾咲親子は顔を見合わせると同時に溜息をついた。

「まさか……、ここで別の合いの子と出会うとはね」

 言われて草平は思わず娘を振り返る。衣緒は戸惑いで大きく両目を見開いている。

「本当に、佐倉ちゃんと出会ったのは偶然だったんだ。でも、俺はすぐわかった。佐倉ちゃんが合いの子だって。それで……、仲良くなれて正直嬉しかったんだけど……」

 緋紗人は後頭部を掻きながらぼそぼそと呟き、悔しそうに舌打ちする。

「なのに、あいつが……」

「どういうことだ」

 慌てた様子で前のめりになる父親を衣緒がそっと手を引っ張る。緋紗人は申し訳なさそうに眉をひそめて頷いた。

「あいつが、追いかけてきたんです。俺がここにいることを突き止めて。それで……、襲ってきたんです」

「秋祭りにね」

 赤人が付け加えた言葉に、草平は唖然とした。娘が誘われて訪れた秋祭り。そこで暴漢に襲われた事件。あの時の、犯人が?

「じゃあ――、その時の男が」

「いや、逮捕された男は操られていただけです」

 赤人の言葉に背筋が寒くなる。犬神の持つ力。動物だけでなく、人も思いのままに操れるというのか。動揺する草平に、緋紗人は真顔で慎重に説明を続ける。

「問題は、その襲われた時に佐倉ちゃん――いや、佐倉さんの存在をあいつに知られたということです」

「何?」

 目の色を変えた草平に赤人が落ち着かせるように手で制する。

「よく聞いてください、先生」

 そして、緋紗人に目で先を促す。緋紗人は小さく頷いてから唇を湿した。

「……襲撃された時、佐倉さんはを使いました。恐らく、人魚特有の力です。聞く者の動きを封じる、悲鳴を上げたんです」

 ごくり、と喉を鳴らして隣の娘を振り仰ぐ。と同時に衣緒は顔を逸らした。その肩が小さく震えていることに気付くと、痛ましげに口許を歪める。

「……きっと、あいつは佐倉さんの存在に気付きました。だから俺の時と同じ、仲間に誘ってくるか、それとも、襲ってくるか。どちらかだと思います」

「そんな――!」

 思わず上げた声に皆がびくりと体を震わせる。草平はやりきれない思いで顔を振り、続けようとするが言葉が出てこない。やり場のない思いを持て余し、苛立たしげに大きく息を吐き出す。

「……すみません」

 ぽつりと漏らした緋紗人に顔を上げる。赤毛の少年は、神妙な顔つきで立ち尽くしていた。

「……俺がいたから」

 その言葉に、皆が諦めの表情でそれぞれ吐息をつく。重苦しい沈黙の中、草平はやっとの思い出口を開くと絞り出すように囁く。

「……君のせいじゃない」

 その一言に目を潤ませた衣緒が振り返る。

「そもそもの原因は……、私にもあります」

「お父さん」

 赤人が穏やかな口調で呼びかけた。

「お互い後悔はありますが、取り返しましょう」

 目が覚めるような言葉。少しいかつい印象の男だが、赤人は人懐っこい表情で笑いかけた。だが、彼は表情を引き締めると声を低めて付け加えた。

「大事なのは、自分たちを良く思っていない人物が近くまで来ていることを知っておくことです。俺たちのせいで巻き込んでしまって、本当に申し訳ないですけど……」

 草平は無言で頷くと、隣の娘の手をそっと撫でる。赤人の傍らでジュースを呷った緋紗人が身を乗り出す。

「佐倉ちゃんもさ、今までどおりの静かな暮らしをしたいだろ? 俺も協力するから、自分でも身を守ってほしいんだ」

 衣緒は黙ったままこくりと頷いた。まだ不安でいっぱいの表情をしているクラスメートに同情したのか、緋紗人は努めて明るい調子を崩さずになおも言いつのる。

「大丈夫だよ。うまくやれば誰にも気づかれない。雄輔にも知られたくないだろ?」

「い、言えないよ、こんなこと!」

 途端に慌てた様子で反論する衣緒に、緋紗人は父親を振り仰ぐ。

「雄輔ってのが、あの秋祭りの時にカラーボール命中させた奴だよ。佐倉ちゃんの彼氏」

「えっ――」

「尾咲くん!」

 衣緒の悲鳴のような声。一瞬の間の後、緋紗人は佐倉親子の表情を見比べて頭を掻く。

「え……、俺、ひょっとして……、また失言した?」

 その言葉が終わらないうちに息子の後頭部を赤人が叩く。草平は、少し呆然とした顔つきで娘の顔を覗き込む。

「おまえ……、里村くんと付き合ってるのか」

 衣緒は顔を真っ赤にさせたまま答えない。突如持ち上がった親子間の大問題に、赤人が笑いながら呼びかける。

「お嬢ちゃん、彼氏のこと好き?」

 ますます顔を赤くさせて俯く衣緒にひとしきり笑うが、優しい口調で続ける。

「彼氏のこと、大事にしないとな」

 まだ困惑したままの衣緒は黙ったまま頷くしかない。どこかおろおろした様子の草平に笑いかけてから、赤人はレジ横から電卓を取り出す。

「せっかくだから占ってあげよう。お嬢ちゃん、生年月日は?」

 少し怯えた目付きで顔を上げた衣緒が伺うように自分を見上げ、草平は頷いてみせた。

「……1999年、1月5日です」

 何やら電卓を叩いていた赤人が「へぇ」と声を上げる。

「運命数7か。7は孤独や神秘性を大事にする性格でね。信頼する人にしか心を開かない傾向がある」

「当たってるじゃん」

 緋紗人にそう言われるが、衣緒は複雑な表情で考え込む。

「精神的に美しいものを求める傾向があるけど、それが過ぎると現実に幻滅してしまうことになる。そこだけ気を付けてね」

「は、はい」

 返事をしてから父親を見上げる。草平はちょっと苦笑して肩をすくめてみせた。

「彼氏の生年月日は?」

「し、知りません」

「んなわけないでしょー」

 緋紗人が、やれやれといった顔つきでポケットからスマートフォンを取り出す。

「ほら、やっぱりあいつちゃんとプロフィール入れてる。1998年6月3日」

 再び電卓を叩くと赤人は「9か!」と声を上げた。

「9は人当たりがいいし、困った人を見ると放っておけない性格だから人気者でね。情に厚いのが特徴だよ。それに、9の人間はお嬢ちゃんのような7の子と縁が深い関係にあるんだ」

「へぇ! 良かったじゃん、佐倉ちゃん!」

 祝福の言葉にも衣緒は戸惑うばかりだ。だが、電卓を置くと赤人は意味深に言い添えた。

「それにしても、お嬢ちゃんはその歳でもう運命の人と巡りあってる。幸せなことだよ」

 運命の人。草平は目を見開くと娘と赤人に視線を彷徨わせた。衣緒の方も顔を赤くさせたまま話に聞き入っている。赤人は心得たように頷いてみせる。

「さっき、先祖が手に入れたのは絶対に当たる占いの能力と言いましたが、実はちょっと違うんです。俺が思うに……、直感に近いかな。言うなれば、人間離れした洞察力とでも言いましょうか」

 洞察力。これまで、俄かには信じがたい話をしてきた赤人だが、それでも草平は興味を抱かずにはいられなかった。思わず我を忘れて続きを待つ。

「説明しにくいんですが、相手がこれまで目にしてきたものがわかるんです。そして、この先どんなことが起こるかもぼんやりと、ね」

 そう言って両手を前へ差し出すと何かを触るようなしぐさをしてみせる。それはどこか、不思議な力を信じさせるに足る不思議な動きだった。

「こう、手触りといった方が近いかな。感じるんですよ」

 非科学的な話だったが、妙な説得力を感じながら頷く草平に、赤人は励ますように言葉を付け加えた。

「だから、安心してください、お父さん。お嬢ちゃんの彼氏はいい子ですよ」

 そう言って微笑まれ、草平は思わず「ありがとうございます」と返す。実際、共に食事をしながら言葉を交わした里村雄輔は好感の持てる少年だった。が、赤人がじっと見つめてくるのに気付いて眉をひそめる。しばし凝視していた赤人はやがてにっと笑いかけ、草平はぎくりとした。自分が「これまで見てきたもの」を見透かされたのだろうか。

 その後、尾咲親子は緋紗人を襲ってきた合いの子、楠瀬高彦の特徴などを説明した。

「若い男ですよ。ひょろっこくて、暗い感じ。メガネをしていた。難しいでしょうが、あまりひとりにならないように。」

「佐倉ちゃんは雄輔と一緒にいたらいいよ」

「尾咲くん……!」

 一々慌てる衣緒がよほどおかしいのか、緋紗人は嬉しそうに声を上げて笑った。こうして、草平と衣緒は尾咲赤人のバーを後にした。


 草平と衣緒は電車で最寄りの駅まで帰ると、黙りこくったまま家路に着いた。そんなに遅い時間ではないが、周囲はすでに暗く、人の姿はない。いつもと変わらない風景。なのに、昨日まで過ごしていた世界とは何かが違って見えた。いや、衣緒にとっては、自分の生い立ちを知ったこの夏からずっと、現実の世界が歪んで見えていたことだろう。草平は己のしでかした事実を今更ながら突き付けられながら、娘に寄り添った。

「……父さん」

 不意に呼びかけられ、娘を振り返る。衣緒は俯いたまま呟いた。

「さっきの話……、信じられる?」

「信じるも信じないも――」

「私の話、信じてくれる?」

 顔をしかめると、衣緒は不安そうな表情で見上げてきた。

「尾咲くんのお母さんに会ったって話。……父さんは、見てないし。狐の、姿」

 草平は小さく息をつくと衣緒の冷たい手をを握った。

「正直、この目で見てみないことにはな。でも、父さんも見てきたんだ。……この世ならざるものをな」

 そう。自分が出会ったものを否定したくない。その結果授かった衣緒の存在も。草平はそう自分に言い聞かせた。

「でも、尾咲くんは、お母さんだけじゃなくて、お父さんの家系にも……」

「衣緒」

 心配そうに言いつのる衣緒を穏やかに制止する。

「あまり考えすぎるな。今夜は……、色々知りすぎた。今日はもう、これ以上追い込まなくていい」

 その言葉に安堵したのか、衣緒は体をぴったりと寄せ、すがるように腕を組んできた。その手を叩くと、微笑む気配を感じる。

「そういえば……、本当に今日はいろんなことを知ったな。おまえが里村くんと付き合ってるとか」

 草平は冗談のつもりで口にした言葉だったが、衣緒は歩みを止めると腕をぎゅっと抱きしめてきた。

「ごめん……」

「おいおい」

 余計なことを言った。草平は慌てて衣緒の顔を覗き込んだ。

「別に怒ったりしてないぞ」

 それでも父親に黙っていたことが気を咎めるのか、衣緒は項垂れたまま黙り込んでいる。草平は苦笑いを漏らすと衣緒の頭を軽く叩く。

「むしろ……、安心したよ。人を好きになるって、いいことだぞ」

 その言葉に衣緒が顔を上げる。青白い面立ちに、「母親」を思い出させる強い眼差し。娘は眉をわずかに寄せると囁いた。

「……父さん」

「わかってる。――わかってるよ」

 衣緒の言いたいことはわかっていた。藤木のことは、早いうちに結論を出さねばならない。何か言いたげな表情をしていた衣緒だったが、それ以上は何も言ってはこない。草平は息をつくと娘の頭を優しく撫でた。

「……父さん、応援するからな」

 滑らかな黒髪が吸い付くように指へ流れる。が、草平は少し驚いた表情で娘の顔を覗き込んだ。

「おまえ、髪伸びたな」

 その指摘に衣緒が顔を上げる。が、わずかに頬を染めると目を逸らす。

「……また伸ばしてるし」

「そうか」

 黙りこくったままの衣緒だったが、ふと眉間に皺を寄せると指先で髪を掬い上げた。そして、思わずしげしげと見つめる。そんな娘を見守っていた草平は、思い出したように声を上げた。

「衣緒、腹空かないか」

「空いた」

 草平は苦笑を漏らした。

「考えたらほとんど食べてないもんな。コンビニで何か買って帰ろう」

 帰路の途上にあるコンビニに立ち寄るとレトルトの食材を見繕う。草平は幕の内弁当。衣緒は和風パスタ。ふと、衣緒が生まれる前はこんな風に弁当を買っていたことを思い出す。あれから、ずいぶんと時間が経ってしまったような気がするが、こんな何気ない日常が送れることが奇跡なのだということに気付く。

 支払いを済ませ、買い物袋を持つ衣緒に「持つよ」と声をかける。

「大丈夫だよ」

 そう言って店の外に出るが、「あっ」と声を上げる。

「あれ買うの忘れた……。ちょっと買ってくる。先に行ってて」

 少し慌てた様子で店に戻る衣緒を見送り、草平は店先でそのまま待っていた。

 ふぅと息をつき、夜空を見上げる。衣緒には「もう今日は考えるな」と言い含めたばかりだが、それでも先ほど聞かされた話が頭をもたげる。十五年前に出会った妖。その間に授かった衣緒。考えてみれば、人ならざる者の存在を痛いほど知っているのはほかならぬ自分だ。自分と同じく、妖と出会った人間が他にいてもおかしくはない。だが、それでも、と一抹の不安が過ぎる。

 その時だった。草平は眉を寄せると首を巡らせた。どこかから、犬の遠吠えが聞こえる。

 うおおおおん。

 うおおおおん。

 不安を煽りたてる、切れ切れに轟く遠吠え。草平は一歩踏み出すと路地の先へ目を凝らした。まただ。また聞こえる。今度ははっきりと。草平は顔を強張らせると、思い切って遠吠えのする方向へ歩き始めた。まるで、呼ばれているような感覚だった。その声を辿っていかなければいけないような、そんな心持ちでひたすら遠吠えを追いかける。時々立ち止まり、耳を澄ませる。

 おおおお。

 まるですぐ後ろから聞こえてくるような鳴き声にぎょっとして立ち尽くす。そこで初めて、草平は恐怖を感じ始めた。思えば普段立ち入らない住宅地に入り込んでいる。まずい。草平はごくりと唾を呑み込んで踵を返した。と、

「ひっ――!」

 目の前に、大型犬が立ちはだかっている。牙を剥いた口からは涎が垂れ流れ、唸り声が漏れ出ている。と同時に鼻を突く異臭。草平の目は、犬の脇腹が異様な色に染まっているのを見逃さなかった。そして、どんよりと白濁した眼。まさか、腐りかけてる――。そんな思いが沸き起こった時。犬の背後から音もなく現れた人影に体を震わせる。

 痩身を包む、黒っぽいパーカーにジーンズ。長い前髪が顔を半分覆い隠し、白く光るメガネが覗く。後方の街灯がわずかに照らし出すその青白い顔には、表情が感じられなかった。草平は、全身から汗が吹き出すのを感じると手にしたブリーフケースを握りしめた。

「やっと見つけた」

 吐き捨てるように呟かれた乾いた声。それを耳にした瞬間、赤人の言葉が脳裏に響いた。

「若い男です。ひょろっこくて、暗い感じの」

まさか、もう。これまでの恐怖が別の恐怖へと変わる。草平は目を見開き、相手のどんな動きも見逃すまいと身構えた。

「ひょっとして……、君が、楠瀬高彦くんか」

「黙れよ、畜生以下が」

 ぶっきらぼうな物言い。抑揚のなさから怒りと嫌悪を感じる。そのことに困惑しながらも草平は相手を見据え、はっきりと問いかけた。

「何の用だ」

「偉そうに」

 目を眇めて呟くと、男は荒い息遣いで肩を上下させている野犬の横に寄り添った。

「許せないんだよ」

「え?」

 顔をしかめて聞き返す。楠瀬高彦は顔を上げると細めた目で草平を見下すように見つめた。

「おまえのような人間が許せないんだよ。己の肉欲のためなら化け物でも相手にするような、畜生以下がな」

 その言葉は草平を震撼させるに足るものだった。肉欲。化け物。畜生以下。そんな言葉のひとつひとつが草平の胸を深く抉る。と同時に、激しい怒りが沸き起こる。

「待て」

 草平は口許を歪めると身を乗り出した。

「言っておくが、俺は欲のためなんかじゃ――」

 瞬間、高彦の手が動いたかと思うと、野犬が腰を屈め、一気に飛びかかる。草平は咄嗟にブリーフケースを横に薙ぎ払い、野犬は悲鳴を上げて地に伏せる。が、すぐに体を起こすと唸り声を上げてじりじりとにじり寄ってくる。

「待て! 君は何がしたいんだ」

 思わずそう叫ぶが高彦は口の中で何事が呟き、野犬は再び地を蹴って飛びかかり――。

「きゃん!」

 唐突に横から白い何かをぶつけられ、野犬は再び地面に崩れ落ちた。草平と高彦、男ふたりが同時に顔を向けた先に、顔面蒼白で立ち尽くした衣緒の姿があった。野犬の傍らに落ちているのは、コンビニのレジ袋。

「衣緒、逃げろ!」

 父の叫びにも衣緒は足が竦んで動けない。それを見て取った高彦が「行け!」と叫ぶ。蹲った野犬が飛び跳ねるようにして起き上がり、衣緒に向かってジャンプする。

「や――!」

 悲鳴・・を上げる暇もない。衣緒が顔を庇うようにして手を上げた瞬間。

 衣緒と野犬の間でばきん! と大きな音と共に赤と白の閃光が走った。高彦が思わず身を乗り出す。と、野犬は糸の切れた操り人形のようにぱたりと倒れた。衣緒ははっとして手許を見やる。祖母から贈られた赤瑪瑙と白蝶貝のブレスレットは、またもや自らの身を守ってくれた。

「衣緒……!」

 震える衣緒の許に草平が駆け寄る。が、

「父さん!」

 振り返ると、高彦が左手を振り上げて襲い掛かってくる。草平は、考える間もなく衣緒に覆いかぶさって地面に伏せた、その時。突然彼らに降りかかるように犬の吠え声が響き渡る。激しく鋭い咆哮に思わず衣緒が頭を抱えて身を竦める。が、草平は別の理由で両目を見開いた。

「――どこから」

 警戒に満ちた呟きを口にしながら周囲を見渡す高彦だが、吠え立てる犬の姿は見えない。苛立たしげに舌打ちし、草平に鋭い一瞥をくれると高彦は踵を返した。弱々しい街灯が照らし出す中、高彦の痩身が小さく遠ざかり、やがては闇に消えて行った。それからほどなくして、犬の吠え声も止む。

「……父さん」

 震えながらしがみついてくる衣緒の手を握りしめ、草平は辺りを眺め渡す。乾ききった喉でごくりと唾を呑み込み、

「――きび!」

 思わず声を高めて呼ぶ。すると、彼らの目の前の空間にぼんやりとした黒い塊がわだかまる。それはやがてくっきりとした輪郭を結び、するりと色が抜ける。そこに現れたのは、何の変哲もない――、

「柴犬……?」

 衣緒の囁きに呪縛を解かれたように、草平が叫ぶ。

「やっぱり、きび、おまえか!」

 きび、と呼ばれた柴犬は一声高く鳴くと一目散に駆け寄ってきた。

「きび……!」

 夢中にじゃれてくる柴犬を両手で撫でまわし、抱きしめる。ああ、この温もり。変わらない。きびも目を細め、千切れんばかりに尾を振って喜びを全身で示した。やがて、草平は思い出したように衣緒の手を引く。

「きび、俺の娘だ。衣緒だ、可愛いだろう」

 きびは柴犬特有のつぶらな瞳で衣緒を見つめると、嬉しそうに鳴く。だが、不意に寂しげな眼差しで草平を見上げると、その腕からするりと抜け出る。

「きび――」

 主人の呼びかけに一度振り返ると、名残惜しそうに鼻を鳴らす。そして、ぽんと地を蹴って飛び上がった。すると、きびの姿は煙が溶けるようにして消えていった。衣緒が息を呑んで口許を押さえる。後に残るのは、静寂と闇。

「……父さん」

 まだ少し震え声で囁くと、衣緒は草平にぴたりと寄り添った。

「今の子は……?」

 草平は、すぐには答えられなかった。しばらく口を開きかけては閉じ、ようやく答える。

「……俺が福井で飼っていた柴犬だ」

 衣緒は眉をひそめると、柴犬が姿を消した場所へと眼差しを向ける。草平は思わず額を押さえると地面にへたり込んだ。

「福井を出て、五年ぐらいして死んだんだ。きび……」

 その柴犬が姿を現した。自分たちを守るために。衣緒はごくりと唾を呑み込むと、父の背に手を回した。

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