第2部-夕闇の影-第13話

 緋紗人の「秘密」を知ってから、衣緒は学校生活にまで緊張感に包まれた時間を過ごすことになった。結局、その週の金曜日に緋紗人の父親のバーを訪れる約束が交わされた。驚いたことに、週末の夜にも関わらず、バーを貸し切りにするという。

「親父が楽しみにしてるのは本当だよ。だって『子どもの母親』の話ができる相手なんて、今までいなかったんだしさ」

 だが、衣緒は不安でならなかった。緋紗人の父親、赤人が実際どんな人物なのか、見当もつかない。一体どういう経緯で緋紗人が生を受けたのか。気にはなるが、自分の出自までは知られたくない。だから、緋紗人の秘密をこれ以上知りたくはなかった。

「俺は一目でわかったよ。佐倉ちゃんが俺と『同じ』だって。佐倉ちゃんはわからなかった? 本当に?」

 そう言っていたずらっぽく笑った緋紗人が怖かった。思えば初めて会った時から、赤毛以上に彼の目が怖かった。金に近い茶色。時折、縦に鋭く尖る瞳。彼の母、野風がそうだった。そういった意味では、自分も出会った時から緋紗人の正体を肌で感じていたといえる。

「まあいいや。とにかく金曜日が楽しみだ。お父さんにちゃんと言っておいてね」

 昼休みの廊下で交わされた会話。緋紗人は相変わらず爽やかな笑みを残して立ち去っていった。衣緒は胸騒ぎを抱えたまま立ち尽くした。人目もあるから、立ち話を装って言葉を交わすしかない。緋紗人とそんな関係になることが嫌だった。こうして、雄輔に言えない秘密が増えてゆく。

 誰にも言えない秘密を日毎に増やしていきながら、衣緒は金曜日の放課後を迎えた。雄輔はいつものように衣緒と緋紗人を図書室に誘ったが、緋紗人は買い物があると言って帰っていった。去り際の意味深な眼差しに気付かないふりをして、衣緒は雄輔にぴたりと寄り添い、緋紗人はいつものように冷やかしの声を浴びせていった。今からどんな話を聞かされるかもわからない。その前に、雄輔と静かな時を過ごしたい。そんな衣緒の気持ちを知ってか知らずか、雄輔も図書室では穏やかに言葉を交わした。

「……そろそろ」

 時計を見上げて呟く衣緒に、雄輔は「じゃ、帰るか」と席を立つ。

 図書室は校舎の最上階。ゆっくり階段を降りていく時にも雄輔は明るい話題を振りまき、衣緒は微笑みながら慎重に足を運んだ。そうして生徒玄関までやってきた時。

「佐倉、足見せてみろ」

 雄輔はそう言って足許を指差す。

「やっぱり。包帯ゆるんでる」

「だ、大丈夫だよ」

 慌てて断るが、雄輔は足許にしゃがみ込むと衣緒の靴を脱がして手際よく包帯を解き始める。人気のない生徒玄関。グラウンドからは野球部やラグビー部の掛け声が聞こえてくる。

「佐倉、手」

「えっ」

「背中掴まってろ」

 片足立ちでふらふらしていた衣緒は顔を赤くして雄輔の背に手をかける。広く、固い背中。ブレザー越しに温もりが伝わり、衣緒は強張った顔の表情がほぐれていくのが自分でもわかった。足を捻挫して以降、雄輔は事あるごとに気を遣い、リハビリのアドバイスなどもしてくれていた。そして、こんな風に時々テーピング代わりの包帯を巻き直してくれる。

 何も知らないのだ、雄輔は。自分が人ではないことを。でも、知られるわけにはいかない。雄輔と一緒にいるためには、体の異変を止めなければならない。そして、自分を狙っているかもしれない存在から、雄輔を守らなければ。でも、どうやって。自分は、あまりにも自分のことを知らなさすぎる。だから、行かなければ。

「なぁ、佐倉」

 不意に呼びかけられ、はっと目を上げる。

「なに?」

 雄輔は器用に包帯を巻きながら、顔を上げずに言葉を続けた。

「最近、元気ないけど、大丈夫か」

「えっ」

 いつもと変わらない口調で問われ、衣緒はぎくりと息を呑んだ。答えられないまま黙り込んでいるうち、雄輔は包帯を綺麗に巻き終えた。

「よっし。これでオッケー」

 満足そうに呟くと立ち上がる雄輔に、まだ戸惑いながらも「ありがとう」と囁く。雄輔は衣緒の目の前に立ちはだかったまま、首を傾げて顔を覗き込んでくる。緊張で顔を強張らせて俯いていると、静かな口調で囁きかけられる。

「……ひょっとして、秋祭りのこと、引きずってるのか」

 思わず体に力が入る。

「俺は引きずってる」

 思いがけない言葉に顔を上げる。そこには、真顔で見つめてくる雄輔がいた。

「あの時は夢中だったけど、後から考えたら正直怖かった。だから、おまえもそうじゃないかって」

 秋祭りのコンビニで受けた襲撃。それが偶然の事件ではなく、自分たちを見定めて襲ってきたかもしれない事実。それに、雄輔を巻き込んでしまった。

「――お、おい?」

 黙って顔を胸に押し付けると、雄輔は狼狽えた声を上げた。そのまま制服のブレザーを握りしめ、息を押し殺してすがりつく。突然のことに戸惑いながらも、雄輔はぎこちない動きで衣緒の頭をそっと撫でた。腫れ物にでも触るように、慎重に。頬と額に触れる胸。頭を撫でる手のひら。雄輔の温もりに包まれていると、自然と体の中に力が湧いてくる気がした。

「……ごめんね、里村くん」

「え?」

 聞き返してくる雄輔に、顔を上げる。そして、精一杯の笑顔を見せる。

「いつもありがとう」

何かを隠すような笑顔に雄輔はかすかに眉をひそめたが、衣緒は息をつくと体を起こした。

「里村くんのおかげで、私、がんばれる」

 胸と手のひらから衣緒の温もりが離れてゆく。雄輔はどこか慌てた様子で身を乗り出した。

「――佐倉。お父さんとは、あれからどうなんだ」

 衣緒は微笑を浮かべて頷いた。

「大丈夫。今日も、これから一緒にご飯食べに行くし」

「そっか」

 雄輔は、ほっとした様子で表情を和らげた。


 仕事や学校帰りの人々が行き交う熊谷駅前。雑踏を前に、スマートフォンを操作していた草平の目の端に何かが止まる。画面から顔を上げると、小麦色に円らな瞳をした愛くるしい柴犬がこちらを見上げている。飼い主がリードを引いて「ほら、行くよ」と声をかけても四足を踏ん張り、草平をじっと見上げて尻尾を振っている。草平は思わず表情をゆるめた。

「いいですか?」

 そう言って手を差し出すと、主婦らしき飼い主が笑いながら「どうぞ」と答える。片膝を突いて両手で頭と喉許を撫でると柴犬は嬉しそうに目を細めてすり寄ってくる。柔らかで温かな毛並み。体全体を押し付けてくるような力強さ。懐かしい感触が手のひらから伝わってくる。

「珍しいわぁ。この子がこんなに懐くなんて」

 飼い主が驚いたように声を上げ、草平は柴犬を撫でながら見上げる。

「私も昔、柴犬を飼っていました」

「ああ。わかるんかなぁ」

 しばらく思う存分掻き撫でてやってから、草平は立ち上がった。

「ありがとうございます」

「いえいえ」

「バイバイ」

 草平が手を振ると、柴犬はどこか得意げな顔つきをして連れられていった。その後ろ姿を見送っていると。

「父さん」

 振り返ると、少し驚いた顔付きの衣緒と、自転車を押した少年が。

「ああ、里村くん」

「こんちは」

 体の大きい雄輔がちょこんと頭を下げる。

「なるほど、こうして毎日一緒に登下校してるわけだ」

「父さん!」

 夕日を受けて真っ赤な顔をした衣緒が甲高い声を上げる。雄輔も目を見開いて戸惑った顔つきで立ち尽くす。

「ははは、いいじゃないか。本当のことだろう?」

「もう、知らない……!」

 恥ずかし紛れにそっぽを向く衣緒に雄輔は苦笑しながら「じゃあな」と声をかける。

「あ、うん」

「また来週」

 手を振り合って別れるふたりを、草平が少し嬉しそうな表情で見守る。

「いいねぇ、青春してるじゃないか」

「父さん……!」

「でも、こうして一緒に帰っていたから、倒れた時に助かったんだろう?」

 それを言われると弱い。衣緒は顔をしかめて黙り込んだ。そんな娘を微笑ましく思いながら腕時計に目をやる。

「もうそろそろかな」

「うん」

 夕焼けに目を眩しそうに眇め、衣緒は辺りを見渡した。待ち人の姿はない。

「あの占いの看板、気になるよなぁ」

 草平の言葉に衣緒が振り返る。

「お父さんがやってるのかな。おまえ、占ってもらったらどうだ」

「……いいよ」

「どうして」

 衣緒は人並みに占いやおまじないが好きな娘だったはずだ。草平は首を傾げた。

「父さんお金出すぞ」

「そうじゃなくて」

 衣緒は困惑した様子で俯いた。そして、どこかもじもじしたように体を揺らしていたが、やがて眉をひそめた顔を上げる。

「……あのね、父さん」

「うん?」

 だが、衣緒は唇を開きかけたまま沈黙し、再び目を伏せてしまう。

「ううん、やっぱりいい……」

「どうしたんだ」

 何故だか胸騒ぎを感じる。項垂れた娘に身を乗り出した時。

「お待たせ!」

 明るい呼び声にふたりが顔を上げる。夕日を受け、金色に輝く髪を持つ少年。その輝きに溶けていきそうな笑顔に草平は一瞬言葉を失う。

「ごめんね、待たせちゃったかな」

「――ううん、大丈夫」

 衣緒が言葉を返し、草平は思わず溜め込んだ息を吐き出した。

「親父、楽しみにしてますよ」

「ああ、ありがとう」


 熊谷駅から北へ上がり、細い路地を抜ける。以前訪れた時はもう日が落ちた後だったので雑多な雰囲気だったが、今はまだそこまでの人通りではない。それでも、普段縁のない店構えが続く通りに衣緒は思わず草平の隣にぴたりと寄り添った。やがて、見覚えのある看板が見えてくるが、草平はかすかに首を傾げた。ドアの前に若いOLらしき女性がふたり、立ち尽くしている。ドアには張り紙がしてあり、「本日貸し切り」と記されていた。

「貸し切りかぁ」

「残念だね」

 そんな言葉を交わしながら、女性たちが店先から立ち去ってゆく。

「何だか申し訳ないね」

 草平が思わず呟き、緋紗人が明るい表情で振り返る。

「いいんですよ。たまにはこんな日があってもいいでしょう」

 大人顔負けの言葉に草平が苦笑いを浮かべる。

「どうぞ」

 そう言ってドアノブに手をかけ、押し開く。その先は逆光で一瞬真っ暗のように思えたが、やがて慣れた目にカウンターの明かりが映る。薄暗い店内。白と黒のブロックチェックのタイル張りの床にモダンなデザインのスツールが並び、煙草の匂いが鼻腔をくすぐる。店内にはレトロな雰囲気に似合う、スウィングジャズの曲が静かに流れている。中へ踏み込む草平と共に続こうとした衣緒が、ふと立ち止まる。そして、制服のポケットを探ると左手に何か身に着ける。夕日の名残りが照らし出したそれは、赤瑪瑙と白蝶貝のブレスレット。おばあちゃんからもらった大切なお守りだ。草平が声をかけようとする前に。

「いらっしゃい」

 明るい声に顔を上げる。グレーのTシャツにサングラスを額に上げ、愛想のよい笑顔で客人を招き入れた主人。カウンターにグラスを並べながら手招く。

「どうぞ。よくいらっしゃいました」

「失礼します」

 草平の背中に隠れるようにして佇む衣緒に、赤人が顔をほころばせた。

「ああ、こないだはちゃんと見えなかったけど。可愛いお嬢ちゃんだ」

「でしょ」

 軽い調子で相槌を打ちながら、緋紗人はカウンターに並べられているジュースの瓶を取り上げた。

「だからさぁ、お母さんはきっと美人な人魚さんだったと思うよ」

 緋紗人が口にした言葉に衣緒が息も止まらんばかりに硬直した、次の瞬間。

がしゃん! と大きな音と共に緋紗人が壁に押し付けられ、衣緒が悲鳴を上げる。

「父さん!」

 思うより先に体が動いた。緋紗人の襟首をつかんで壁に叩き付けた草平は両目を見開き、口許を歪めると絞り出すように囁いた。

「今――、何と言った!」

「やめて、父さん!」

 泣き出しそうに叫ぶ衣緒。喉許を押さえられた緋紗人は答えようにも答えられない。赤人も困惑の表情でカウンターのドアを跳ね開ける。

「父さん、違うの! 尾咲くんは、尾咲くんは……!」

 泣きながらまくし立てる娘に、草平が血走った眼で振り返る。

「私と同じ……! お母さんが――、人じゃないの!」

 室内に響く絶叫を最後に、沈黙が流れる。ジャズのコミカルなメロディが恐ろしくも滑稽に聞こえる。それに加え、壁に掛けられたブリキ製の時計が刻むやたら大きな秒針の音が責め苛むように耳を刺す。草平は眉に皺を寄せ、ごくりと唾を呑み込んだ。

「……人じゃ、ない?」

 その囁きに赤人が「お父さん」と呼びかけ、草平ははっとして手をゆるめた。途端に床に膝を突いた緋紗人が荒々しく呼吸を繰り返す。そして、

「ひっでぇな佐倉ちゃん……。お父さんに、言ってなかったのかよ……」

「ご、ごめんなさい……!」

 泣きじゃくりながら必死に詫びる衣緒の姿に、草平はようやく冷静さを取り戻した。

「……す、すみません」

 やっとそれだけを呟く草平に、赤人が苦笑しながら顔を振る。

「いえ、こいつの口の利き方がなってなかったんですよ」

 そう言って息子に歩み寄ると頭にごつんとげんこつを落とす。

「痛ぇ……!」

「ったく。ただでさえデリケートな問題なのに。もうちょっと考えてから言え」

 言い返せない緋紗人は涙目で頭をさする。そして上目遣いに衣緒を見上げる。

「……ごめん」

 衣緒は両手で涙を拭うと顔を振る。そして、まだ呆然とした表情で立ち尽くしている父親を見上げる。

「……父さん」

 囁きかける娘に振り返るが、その目の焦点がまだ合わない。そして、熱にうなされたようにたどたどしく呟く

「……人じゃないって、どういう、ことだ」

 突然のことにまだ受け入れられない父のために、衣緒はごくりと唾を呑み込んでからゆっくり言い聞かせる。

「私、会ったの。尾咲くんの、お母さんに」

 頭と喉をさすりながら緋紗人がゆっくりと立ち上がり、その肩を赤人が叩く。そして、息子と共に「人魚の娘」を見守る。衣緒は大きく息をついてから唇を湿した。

「尾咲くんのお母さんは、……狐だった」

 その言葉に、草平の反応は鈍かった。しばしの沈黙の後に、「えっ」と聞き直す。

「白い、狐。……狐だった」

 草平は顔をしかめ、戸惑った顔つきで赤人と緋紗人親子を振り返る。そして、間接照明の明かりを受け、怪しい彩を見せる赤毛をまじまじと見つめる。

「狐の……子……?」

 草平の囁きに、赤人はどこか同情のこもった眼差しで頷く。

「信じていただけますか」

 その言葉に即答はできなかった草平だが、やがて溜め込んだ息を吐き出すと、「娘の、言うことなので」と呟く。

「最初から説明しましょう。どうぞ」

 赤人は明るくそう言うとカウンターを手で指し示した。

「お父さんはビールでいいですか。お嬢ちゃんは何がいいかな」

 尾咲親子はカウンターに戻るとあれこれ食器を準備し始めた。佐倉親子はまだ困惑した様子で顔を見合わせるが、恐る恐るスツールに腰を下ろす。

「佐倉ちゃんは、ジンジャエールでいい?」

「う、うん……」

 手慣れた手つきでグラスを運んでくる緋紗人に衣緒が「ありがとう」と囁く。草平には赤人がジョッキを手渡す。そして、プロシュートとサラミが盛られたガラスの皿が差し出される。

「じゃ、我々の出会いに、乾杯」

 気取った口調で赤人がジョッキを掲げ、草平と衣緒は複雑な顔つきのままグラスを重ねる。

「改めて、自己紹介からいきますか」

 そう言いながら、赤人は名刺を一枚差し出す。それを受け取った草平は片眉を吊り上げた。

「……オサキ?」

 オザキではなく、オサキと呟いた父親に衣緒が振り返る。一方の赤人は満足そうに目を細めた。

「ご存知ですか。さすがだ。大学の先生でしたっけ」

 草平は見開いた目で顔を上げる。

「……お宅は、ひょっとして」

「なに……?」

 不安そうに視線を彷徨わせる衣緒に、赤人は穏やかな表情のままゆっくり答える。

「うちはね、オサキ持ちなんだ」

 オサキ持ち。衣緒はわけがわからないまま眉をひそめていたが、草平はごくりと唾を呑み込んだ。

「緋紗人」

 レジの横からボールペンを取り上げながら声をかけると、息子は紙のコースターを手渡した。コースターを裏返すと何事か書きつける。

「うちは今、『尾』が『咲く』って書くんだけど、江戸時代まではこうだったんだ」

 そう言って草平と衣緒にコースターを示す。そこには、「尾咲」、そして「尾裂」という漢字が並んでいた。

「尾が……、裂ける……?」

 不思議そうに呟く衣緒に、緋紗人が「佐倉ちゃん」と呼びかける。顔を上げると、緋紗人は相変わらずにこにこ笑いながら言葉を続けた。

「九尾の狐とか、聞いたことない?」

 その言葉に衣緒はあっと声を上げて口を手で覆う。

「妖怪の狐にとり憑かれた、キツネ憑きの家なんだよ」

 キツネ憑き。黙り込んだ親子を前に、ビールで喉を潤してから赤人は語り始めた。

「うちがオサキ持ちになったのはずいぶん昔のことです。先祖のひとりがにっちもさっちもいかないぐらい困窮したようで。悪いことに女房子どもを抱えていた。そこで、お稲荷さんに願を掛けたらしいんですね。『末代に至るまで、食うに困らないたつき・・・をお恵みください』と」

 食うに困らない生計の頼り。神仏にすがるほどの貧困だったのか。草平は研究者として激しい興味を感じる自分に複雑な思いを抱きながら耳を傾けた。

「願いは叶えられ、ご先祖はある能力を手に入れました。それが、これです」

 そう言ってカウンターの下から紙の箱を取り出す。レトロな照明に照らされたパッケージには、月や星で飾られ、中世の衣装を身に着けた人々が描かれている。

「タロット……」

 衣緒が目を丸くして呟く。

「占い?」

「そう。絶対に当たる占いの能力。おかげでご先祖はずいぶんと儲けたようです。特に大店おおだなのお得意様をたくさん作ったらしく、食べていけるだけの道は確かに手に入れたんですね」

 困惑の表情のまま見上げてくる衣緒に草平も黙ったまま頷く。

「それで……、今は苗字の漢字を変えられたんですか」

「ええ、明治になってから。尾が裂ける、じゃあまりにも目立つんでね。ちゃんとお狐さまに伺いを立てたようですよ。そしたら、こっちの漢字を指定してきたそうなんで」

 そう言ってカウンターに置かれたコースターをこつこつと叩く。

「しかし……」

 草平が遠慮がちに口を開き、赤人はにっこりと笑って先を促す。

「稲荷は、契約の神のはず。見返りを求められたのでは……」

「そうです。さすが先生。その見返りが要するに『キツネ憑き』ですよ」

 赤人は寂しそうに笑った。

「先祖代々、キツネ憑きの発作を起こして死んでいった者が絶えません。近いところでは、俺の叔母がそうです」

 衝撃的な言葉に衣緒は体を震わせた。隣の緋紗人も沈んだ表情で佇んでいる。

「裕福な暮らしはしていたようですが、人には言えない苦労も多かったみたいです」

 赤人の言葉に草平は鎮痛の面持ちで頷いた。キツネ憑きの発作といえば、今でいう精神病のような錯乱状態が起こると信じられている。赤人の叔母がそのような状態で死んでいったとすれば、赤人自身や緋紗人も常に狂気の恐怖にさらされているに違いない。と、そこで草平は隣の衣緒を見やった。娘は紙のように白い顔で眉をひそめ、赤人の語る言葉に耳を傾けている。衣緒も同じ。体の異常に日々怯えながら過ごしている。草平は思わず唇を噛みしめた。

「……でも」

 不意に声を上げた衣緒に赤人が目を見開く。

「尾咲くんの、お母さん……、尻尾は裂けてなかったよ……」

「ああ、あいつはまだ若いから」

 笑いながら答える赤人に、草平はどこかうすら寒さを覚えてごくりと喉を鳴らす。まるで古馴染みの女の話でもするような、そんな他愛無い口ぶりではないか。

「尾が九つに裂けるまでには千年ぐらいかかるらしいよ、お嬢ちゃん。あいつはまだ三百歳ぐらいだから」

 さすがに衣緒は顔をしかめて父親と顔を見合わせる。そして、草平は言葉を選びながら赤人を見上げた。

「そういえば、東京からこちらへ引っ越されたとお聞きしましたが、東京にはオサキはいないはず……」

 その言葉に赤人は驚いた表情で両肘をカウンターに突き、身を乗り出した。

「先生詳しいですね! 民俗学が専門ですか」

「い、いえ、近代と中世の比較文学です」

 赤人は感心したように唸ると熱っぽく答えた。

「そう。東京にはオサキがいないんですよ。うちは元々長野です。色々と言い伝えがあるそうですが、うちでは王子稲荷神社の親分が怖くてお江戸には行けなかったと聞いています」

 話が理解できてなさそうな衣緒に、緋紗人が言葉を付け加える。

「東京の王子稲荷は、東国のお稲荷さんをまとめる偉いお稲荷さんなんだってさ」

 まだよくわからないながらも困惑したまま頷く衣緒の様子を眺めながら、赤人は大きく息をついた。

「……今思えば、やっぱり東京には行くんじゃなかったなぁ」

「何があったんですか」

 それまで饒舌に語っていた赤人は、口を閉ざすと腕組みをした。年若いはずの面立ちが不意に険しさから老け込む。しばしの沈黙の後、一息ついてから頷いた。

「元はと言えば俺のせいなんですが……、息子が生まれたことがまず発端です」

 そう言って緋紗人を顎でしゃくる。

「こいつは長野で生まれました。……俺がまだ十八の時にあいつと出くわしまして」

 あいつとは、狐のことか。草平は眉をひそめながらも、覚えず前のめりになって耳を傾けた。

「そう……、お嬢ちゃんはもう会ったんだね。うちのと」

「……はい」

 衣緒は上目遣いに赤人を見つめ、怖々と口を開く。

「……野風さんですね」

 野風。その名に赤人は目を閉じると長い溜息をついた。草平は口を開きかけ、一度思い留まった。そして、慎重に言葉を選ぶ。

「緋紗人くんのお母さんは、お宅のオサキだったんですか」

「いや、野風は野狐やこです。つまり、野良の狐です。うちとは元々関係のない狐でした」

 話の内容がひどく個人的なものへと変わってゆくことに衣緒は戸惑いながらも、黙って赤人の表情を見守る。

「あいつと出会って二カ月ぐらいしてから、実家の庭先に現れたんですよ。産着を着せた緋紗人を咥えたあいつがね」

 衣緒は目を大きく見開き、赤人の隣で腕組みしたまま身じろぎもしない緋紗人をそっと見上げた。照明に照らされた赤毛が艶めく。前髪で陰になった表情はよくわからないが、いつも絶やさない微笑は、見当たらない。

「俺は混乱してよくわからなかったんですが、親父はすぐに察しました。俺の子を狐が産んだんだと。それで……、俺は親父と一緒にこいつを育てることになりました」

 一旦そこで言葉を切ると、赤人はジョッキのビールを呷った。そして、カウンターに目を彷徨わせる彼に草平が声をかける。

「煙草なら、どうぞ」

 すると、赤人は嬉しそうにほっとした笑顔を見せた。

「すみません。じゃあ、失礼して」

 ポケットから煙草を取り出すと、流れるような仕草で火を着ける。吐き出した煙は溜息が混じっているのだろう。緋紗人がカウンターの端にあった灰皿を父親の前へ押しやる。

「考えようによっては、俺は運がいい。家が家ですからね、親父の協力もありました。でも、さすがに男ふたりが赤ん坊を育てるには目立ちすぎる田舎でね。こいつが少し大きくなったら東京へ出ました。……親父は、東京はやめておけって何度も言ってくれたんですが」

 そこで言葉を選ぶように口を閉ざした父親に代わり、緋紗人がカウンターに手を突いて身を乗り出した。

「今日ここへ来てもらったのは、俺たちが東京から引っ越すことになった理由をお話するためなんです」

 赤人は口から煙草を離すと灰皿にぎゅっと押し付けた。

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