第2部-夕闇の影-第12話

 その頃、大学の講義を終えた草平は都内の出版社に立ち寄っていた。女性向け文芸誌にコラムを連載することになっており、その打ち合わせのためだ。

「ありがとうございました、先生。お仕事帰りでお疲れでしょうに」

 担当編集者の言葉に草平は笑顔で手を振る。

「いえ、こちらこそお世話になります。よろしくお願いします」

 草平を担当しているのは、三十そこそこの爽やかな印象の男性編集者。何かスポーツでもしていたのか、がっしりした体格が印象的な情熱的な男で、どこか出版業界とは縁がなさそうな風貌をしている。

「コーヒー、お代わりいかがですか」

「あ、もう結構。そろそろお暇しないとね。ありがとう、内田くん」

 衣緒が怪我をしてから最初の登校日だ。きっとくたくたに疲れ果てて帰ってくるだろう。自分も早く帰っておかなければ。ジャケットとブリーフケースを取り上げて腰を上げようとした時だった。

「そういえば……、藤木先生はお元気ですか」

 内田の言葉に動きを止める。彼も藤木を知っている。そもそも草平がコラムを掲載することになったのも、藤木を通じて内田と知り合ったのがきっかけだ。草平は少し苦しげな表情で口を開いた。

「ああ……、少し元気がなかったな」

 思わず溜息を吐き出してぽつりと呟く。

「何とかしてあげないとな」

 そう言って立ち上がった草平の背に、内田の声が投げかけられる。

「やっぱり。佐倉先生だったんですね」

「何が?」

 怪訝そうに尋ねながら振り返った草平はぎくりとして口をつぐんだ。目の前には、真顔で真っ直ぐ見つめてくる内田の姿があった。その鋭い眼差しに気圧されたように黙り込む。彼は草平を見据えたまま、静かに口を開いた。

「藤木先生の、片想いのお相手ですよ。やっぱり佐倉先生だったんですね」

 狼狽えて立ち尽くす草平に、内田がソファからゆっくり立ち上がる。

「すぐわかったんですよ。藤木先生とお話をしていて。ああ、多分佐倉先生のことなんだろうなって」

 編集部に隣接した応接スペース。少し離れた他のスタッフには会話が届かないのだろう。皆脇目もふらず作業に没頭している。草平はごくりと唾を呑み込んだ。罵声を浴びているわけでもないのに、内田の静かな言葉は胸と頭を激しく打ちつけた。藤木が言っていた、結婚を前提に交際を申し込んでいたのは内田だったのか。彼は静かな口調のまま問いかけた。

「藤木先生には、ちゃんとお返事されたんですか」

「内田くん」

 遮るものの、続けるべき言葉が見つからない。そんな草平に内田は苦笑を漏らす。

「藤木先生があなたを諦めるまで、僕は諦めませんよ」

 諦めない。不穏な響きに思わず顔をしかめる。だが、草平の不安を打ち消すように内田は穏やかに笑ってみせた。

「だけど、あなたが相手じゃ勝ち目はない。それでも、白黒はっきりさせてほしいと思っています。曖昧な関係のままじゃ、藤木先生が可哀想です」

 穏やかながらも、内田の言葉のひとつひとつが胸をえぐる。草平は拳を握りしめて呼吸を整えた。

「……君だったのか。藤木先生に、お付き合いを申し込んだのは」

「はい」

 片想いに甘んじるあなたのために、自分はあなたを諦めなければならないのか。藤木にそこまで言った男だ。きっと強い想いがあるのだろう。

「……こんな言い方はよくないんでしょうが」

 そう断ってから、内田は遠慮がちに囁いた。

「どちらにせよ、あの人が辛い思いをしている姿は見たくありません。それだけは、お伝えしたくて」

 草平は溜め込んだ息を吐き出した。

「わかったよ。……すまない」


 夕闇の迫る秋の空を眺めながら、衣緒は緋紗人と共にバスに揺られていた。普段訪れることのない場所。見慣れぬ風景に心を乱されながら黙りこくっている衣緒に、何か声をかけようとしながらも適当な言葉が見つからず、緋紗人は気の毒そうに眉をひそめて同じように口をつぐんでいた。やがて、車内に録音アナウンスが響く。

「とうか山。次は、とうか山」

「ここだよ」

 緋紗人が低く呟き、衣緒は強張った顔つきで頷いた。程なくしてバスは停車し、衣緒と緋紗人は料金を支払うと停留所に降り立った。国道沿いに民家がぽつりぽつりと見える他、雑木林や小高い丘なども見える。そのうち、緋紗人が手を上げて指さす。

「あそこ。あの上に神社があるんだ」

 振り仰ぐと、鬱蒼とした木立ちに囲まれた石段が見える。ふたりが登り口に向かった時。頭上から鋭い鳥の鳴き声が上がり、衣緒は飛び上がって振り返った。黒い翼を広げて舞い上がるカラスの群れに顔を歪める。

「佐倉ちゃん」

 緋紗人に促され、衣緒はカラスが気に掛かりつつ背を向けて石段に向かう。躊躇なく石段を上がる緋紗人だったが、その場に立ちすくんだ衣緒は石段を見上げて呆然と呟く。

「これを……、登るの?」

 恐怖にも近い声色に緋紗人が振り返る。心細げに立ち尽くした衣緒の足許を見て「ああ」と声を漏らす。

「そうか、その足じゃしんどいな」

 どうしたものかと困り顔だった緋紗人だったが、やがて何を思ったかにんまりと笑う。

「雄輔なら、おんぶして上がるんだろうな」

 その言葉に、衣緒はむっと眉をひそめた。そして、唇を引き結ぶと石段に足をかけ、ゆっくりと一段一段登ってゆく。

「ありがとう、佐倉ちゃん」

 意味深な囁きに不快感を覚えながらも、その脇を通り抜けて石段を上がる。ふと目を上げると、生い茂る木立ちに囲まれた先に屋根の庇が見える。薄暗い灰色の空気をまとった屋根。衣緒はごくりと唾を呑み込んだ。と同時に、背後から再び不気味な劈きが上がり、衣緒はびくりと肩を震わせて振り返る。見ればカラスの数が増えている。羽をバタつかせ、空中で騒がしく鳴き声を上げながらわだかまっている様子に衣緒は顔を引き攣らせた。

「嫌だ……」

「困ったな、集まってきたな」

 緋紗人のぼやきに衣緒は泣き出しそうな顔で身を乗り出す。

「ねぇ、嫌だよ、こんなところ……!」

「上まで行けばあいつら来ないよ。鳥除けがしてあるから。早く上がってしまおう」

「でも……!」

 通学中、頭を嘴で突かれた記憶が脳裏をかすめる。あの時よりも数が多い。

「大丈夫だよ、上がろう。ほら」

 そう言って緋紗人が右手を差し出してくるが、衣緒は余計に顔を歪めるとその手から逃れるようにして石段を上がり始めた。捻った足が悲鳴を上げる。だが、そんなことは言っていられない。鳥が来ないようになっているなら、早く上へ。あと数段で――。

「気を付けて、佐倉ちゃん。慌てないで――」

 緋紗人の言葉が終わらないうちに。

「あっ!」

 ただでさえ動きの悪い右足の靴先が段につまづき、前のめりに倒れ込む。

「佐倉ちゃん!」

 その叫びが合図になったのか。カラスたちが黒い塊となって一斉に襲いかかる。軋む翼に、耳を引っ掻く鳴き声――。


 いや!


 頭を抱え、しゃがみ込んだ衣緒の口から言葉にならない悲鳴が迸る。その響きが波紋のように周囲を突き抜け、木立ちの枝葉が身を捩って振動し、家鳴りのような不気味な鳴動を起こす。緋紗人は口を歪めて両耳を手でふさぐと石段に膝を突いた。が、耐え切れずにその場に倒れ込む。そして、その周りに黒い塊がひとつ、またひとつと落下する。

「……あ、ああ……!」

 がたがたと震えながら衣緒が顔を上げると、周囲の状況に息を呑む。緋紗人は石段の上に倒れ、夥しい数のカラスが折り重なっている。皆身動きが取れないのか、小刻みに痙攣を繰り返している。

「お、尾咲、くん……!」

 全身を震わせながら、衣緒は這うようにして緋紗人の許へ向かう。痛みに耐えてでもいるのか、緋紗人は目を閉じ、歯を食いしばって体を大きく上下させていた。

「尾咲くん……! しっかり……、しっかりして……!」

 切れ切れになりながら、上擦った声で呼びかける。緋紗人は何とか体を動かそうとするが、力が入らないのか、すぐにへなへなと身を沈めてしまう。

 どうしよう。どうすればいい。衣緒は涙で汚れた顔を呆然と上げた。耳鳴りががんがんと鳴り響く中、彷徨わせていた視線がやがて、「それ」を捉える。

 恐怖で大きく見開かれた瞳が捕えたのは、一匹の獣だった。白い毛並み。一瞬、犬かと思ったが違う。ぴんと立った耳。尖った鼻先。そして何より、人間のように雄弁な瞳。狐だ。白狐。狐が、石段の上で足を揃えて佇み、衣緒を見下ろしている。

「き……、きつね……?」

 衣緒の囁きに、きつく閉じられていた緋紗人の目が開く。戸惑う衣緒の目の前で、狐は優雅に腰を上げ、しなやかに前足を踏み出して石段を下りてくる。こっちへ来る。察した衣緒は恐怖に駆られて後ずさろうとするが身動きが取れない。

「こないで……!」

 囁くように必死で呼びかける。白狐は軽やかな身のこなしで石段を降り、衣緒の目の前までやってきた。白狐はかすかに首を傾げると体を伸ばして衣緒の顔を覗き込む。身動きできないながら、精一杯身を仰け反らした衣緒に、満足げに目を細める。その濃い黄金色の瞳の瞳孔がきゅっと縦に尖る。その変化に衣緒は息を呑んだ。どこかで見た、彩り。これは――。

 声も上げられずに慄く衣緒の脇をすり抜け、白狐は倒れたままの緋紗人の顔に口を寄せる。

「だ、だめ、だめだよ……!」

 必死にそれだけを囁く衣緒に白狐は一度振り返るが、再び緋紗人の体に身を寄せ、その青白い頬を細い舌で愛おしげに舐め上げた。衣緒は声を失ってその動きをじっと凝視した。狐は二度、三度と緋紗人の頬を舐め、やがて石段に座り込んだ。と、緋紗人の体がぶるっと大きく震える。

「尾咲くん……!」

 緋紗人は溜め込んでいた息を荒々しく吐き出すと、ぎこちない動きで身を起こした。

「……うぅ、痛ぇ……」

 呻き声を上げながら肩をさすり、石段に腰を落ち着ける。衣緒は慌てて手を差し出すと背を支える。

「だ、大丈夫……!」

「ああ、ごめん、大丈夫……」

 もう一度息をつくと、緋紗人は乱れた赤毛を掻き揚げ、白狐に眼差しを投げる。

「ありがとう、母さん。助かったよ」

 その言葉に衣緒は動きを止め、両目を見開いた。そして、ゆっくりと首を巡らして狐を振り返る。そこには、相変わらず思慮深げな瞳を持つ狐が静かに佇んでいた。かすかにそよぐ風に白い毛並みがうねる。わけがわからないまま狐を凝視する衣緒に、緋紗人が苦笑を漏らす。

「大丈夫、落ち着いて、佐倉ちゃん」

「で、でも」

 どもりながら口走る衣緒の目の前で、狐は腰を上げると後ろ足でぽんと飛び跳ねた。あっと声を上げる間に、狐は空中でとろりとした白い煙に変じる。息を呑む衣緒。白い煙はやがて何かの形へと凝り固まり、白い着物をまとった女へと姿を作り上げた。恐ろしさに顔を引き攣らせ、石段の上を後ずさる衣緒の手を緋紗人が咄嗟に掴む。

「危ない。上まで上がろう」

「で、でも……!」

「落ち着いて。落ちるよ」

 落ちる。そう言われて衣緒は改めて周囲を見渡した。そして、怖々と目の前に現れた「女」を見つめる。

 色白の瓜実顔。切れ長の瞳。薄桃色の唇が意味ありげに笑みを浮かべ、ただ黙って眼差しを投げかけてくる。肌の白さを際立たせる艶のある豊かな黒髪が肩に流れ、胸の辺りで束ねられている。緋紗人に手を引かれて立ち上がった衣緒に視線を向けたまま、女は石段をしとやかな仕草で石段を上がっていった。

「……お、尾咲くん」

「慌てない慌てない。ちゃんと説明するよ」

 がくがくと震える膝では、ひとりで石段を上がれなかっただろう。最後まで上がりきった衣緒たちを迎えたのは、夕暮れが迫る薄闇に浮かぶ、鮮やかな朱色の鳥居。その奥には、小さな社が祀られている。鳥居の前で立ち止まった女がゆっくりと振り返る。

「緋紗人」

 低く、かすれた声音。衣緒は背にぞくりと寒気を感じた。

「な、間違いないだろ、母さん」

 緋紗人はどこか嬉しそうな調子で「母親」に呼びかける。

「こんなことができるなんて予想外だったけどさ」

 言われて女は目を細めて衣緒を見やった。

「……かか様は磯のあやかしかえ」

 怯えて後ずさろうとした途端、痛めた足首に激痛が走り、思わずしゃがみ込む。

「おっと」

 緋紗人はその手を取ると社の濡れ縁に座らせた。

「足、大丈夫?」

 大丈夫ではなかったが、とりあえず溜め込んだ息を大きく吐き出すと小さく頷く。そして、改めておどおどとした眼差しを女と緋紗人に投げかける。その様子に、緋紗人はちょっと困ったように微笑むと肩をすくめた。

「まずは紹介しておくよ。……俺の母さん」

 そう口にした緋紗人の優しい眼の色に衣緒ははっとする。女の方もどこか嬉しそうに目を細める。

「あたしは野風」

 相変わらず少しかすれた囁き。衣緒はごくりと唾を呑み込んだ。

「海の妖か。それで水の匂いがしたんだ」

 ぎくりとして緋紗人を振り返る。夕焼けに照らされた赤毛が金色に輝く。一陣の風が吹き抜け、髪を乱されながらも緋紗人は笑みを絶やさなかった。

「大丈夫。他のやつらにはわからない匂いだよ。でも、会った時にすぐわかった。――むしろ……」

 そこで懐疑的な瞳でじっと見つめてくる。

「君は……、俺のこと何も思わなかった?」

「……変な転校生だとしか」

「あ、ひどいな」

 大袈裟に表情を歪める緋紗人に、野風と名乗った狐がくすくすと忍び笑う。その様子を、衣緒はまだ信じられない思いで見守る。

「……まぁ、これでわかってもらえたかな。俺と君が『似た者同士』だってことが」

 似た者同士。その言葉が胸に深く突き刺さる。彼も人ならざる者だというのか。

「俺の母さんは狐。佐倉ちゃんは……、海の妖か」

「ねぇ、待って。妖って何――」

 慌てて問い質す衣緒に緋紗人は眉をひそめる。

「……お父さんから何も聞いてないのか」

 それについて衣緒は即答できなかった。母とは引き合わされた。だが、それ以上のことは何も語られていない。ただ、父が母を愛し、自分を授かったとしか――。

「お待ち、緋紗人」

 低い囁きに言葉を遮られる。ふたりの視線を受けた野風は落ち着き払って言葉を続けた。

「このひぃさん、まだ何も知らんようじゃ」

 不思議な言い回しのひとつひとつが浮世離れした雰囲気をいやが上にも掻き立てる。衣緒は得体の知れない存在を前にますます恐怖心が膨れ上がっていくのを感じた。

「うん、そうだね……」

 緋紗人は赤毛を掻きながら困ったように呟く。

「佐倉ちゃん……、お母さんに会ったことは?」

 お母さん。衣緒は強張った顔つきで緋紗人を見つめる。

「……夏に、初めて」

「ええっ」

 今度こそ緋紗人は素っ頓狂な声を上げた。

「じゃ、それまで何も知らなかったの?」

「何も知らないわけじゃない」

 思わずかっとなって声を高める。

「じ、自分の体だもの。人と違うってことぐらい、知ってたわ」

 怒りと不安から落ち着きを失いつつあることを察した緋紗人が頷きながら手を上げる。

「わかった。わかったよ。落ち着こう、佐倉ちゃん」

 そして、息をつくとどこから話し始めたものか、しばし逡巡する。

「……うん、俺も全部を知ってるわけじゃない。俺が知ってることを話すよ」

 そう前置きすると、緋紗人は改めて衣緒に向き直った。

「妖は、俺たちが言うところの妖怪とか、そんなもの。普段は決して人間とは接触しない。だけど……、たまにいるみたいなんだ。俺たちみたいな、『合いの子』がね」

 衣緒は黙ったまま両目を見開いて緋紗人を凝視した。そして、思い出したように野風を振り仰ぐ。彼女は表情を変えないまま、濡れ縁に腰を下ろしている。

「母さんは俺の親父と出会って俺を生んで……。今でもこうして時々会ってる。おかげで、俺は妖の知識はある方だと思う」

 そこで緋紗人は口をつぐみ、言葉を選ぶように沈黙するとようやく言葉を継ぐ。

「佐倉ちゃんも、お父さんがどこかで妖と出会って生まれたんだと思う。……お父さんが何も話していないなら、お父さんもお母さんのこと、よく知らないんだろうな」

 衣緒の脳裏に、真夜中の月光を下、この世の物とは思えぬ艶やかな肢体をさらした母の姿が蘇る。黙り込んだ衣緒を緋紗人がじっと見つめる。そして、慎重に口を開く。

「妖にはね、人間にはない力がある。俺たちもそれを持って生まれる」

「何、それ……」

 他人事のように聞き返してくる衣緒に、緋紗人は苦笑いを浮かべる。

「例えば、さっきのような悲鳴だよ」

 悲鳴? 衣緒は眉をひそめて首を傾げた。

「ああ……、自覚がないのか。さっきすごい悲鳴を上げたんだよ。俺もカラスも身動きが取れなくなった」

 言われて口許を手で覆う。緋紗人は首を巡らすと石段を見やる。

「多分、あいつらまだ麻痺したまんまだよ」

「ま、待って……! それ、私がやったって言うの?」

「うん」

 いつもの爽やかな笑顔で返され、衣緒は絶句した。

「ああ、もうあまり時間がないな」

 目を上げると日が傾きかけ、天頂に青い帳が降り始めている。緋紗人は唇を湿すと真剣な眼差しで語りかけた。

「大事なことだけ伝えておく。君とお父さん、それから雄輔に危険が及ばないように」

 そうだ。そもそもここまで来たのは、自分たちの身の安全に関する話を聞くためだった。

「覚えてるかな。俺が東京からここへ引っ越した理由」

「悪の組織に狙われてるって」

「ごめん、そっちじゃない」

 思わず緋紗人が吹き出しながら手を振る。衣緒は顔をしかめて目を伏せ、やがて思い出したように顔を上げる。

「変な人に因縁つけられたって……」

「そう、そいつ。そいつも……、合いの子なんだ」

 ぎくり、と衣緒は身震いした。緋紗人は思い出すのも忌々しいといった風情で息を吐き出す。

「偶然だったんだ。東京でたまたま出会って……。そいつはどういうわけか、妖に並々ならぬ憎しみを持っていた。妖を根絶やしにするために手を組めって言われて」

「えっ」

 思わず身を乗り出す。

「そいつがどんな理由で妖を憎んでいるかなんて知らない。……まぁ、わからないでもないけど。でも俺は、母さん好きだからさ」

「嬉しいねぇ」

 またも上がったかすれ声に衣緒は体を跳ねらせて振り返る。

「どんなに否定しても、俺の母さんは狐で――、俺のルーツは妖なわけだ。妖を殺すなんて、俺はしたくない」

 緋紗人の言うことはわかる。わかるが、それでもまだ理解が追い付かない。衣緒は口を挟もうとせず、その先を目で促した。

「だから、俺は嫌だと断ったんだ。そしたら、そいつ逆上して俺を襲ってきて」

「襲ってきた?」

 同じ妖の血を引く合いの子が。人間にはない力を持つ者同士が争ったというのか。

「だ、大丈夫だったの?」

「死ぬかと思った」

 明るくあっけらかんと答える緋紗人に衣緒は「ちょっと」と声を上げてたしなめる。

「母さんが色々教えてくれてたおかげで、どうにかなったよ。でも、このままじゃ親父も危ないと思って、ふたりで熊谷に引っ越したんだ」

 緋紗人は溜息をつくと濡れ縁にもたれかかった。そんな彼を見守りながら、衣緒は恐る恐る問いかける。

「……その人、どんな人なの」

「うん……。佐倉ちゃんにも特徴言っておくね。まだ若い男で、大学生だって言ってた。色白で、メガネをしてる」

 どこにでもいそうな風貌ではないか。衣緒は黙って頷いた。

「あいつが言うには、犬神の合いの子らしい」

「いぬがみ?」

 眉をひそめて繰り返す。と、

「犬とは言うても、ちぃと違うよ」

 狐――野風の言葉にますます困惑の表情を浮かべる衣緒に、緋紗人が説明を続ける。

「うん。俺もよく知らないんだけど、犬神というのは生き物を操る力を持っているらしい。例えば……、さっきのカラスとか」

 緋紗人が背後を指差し、衣緒は思わず体を竦める。

「そんな……」

「俺は操られた野犬に襲われた」

 野犬。ごくりと唾を呑み込む。そんな衣緒に緋紗人は少し気の毒そうに目を細めると、やがて真顔で身を乗り出す。

「重要なのは、どんな生き物でも操れるってことだ。つまり――、人間も」

 蒼い空気に包まれ始めた社の境内に、冷たい秋風が吹き抜ける。衣緒は目を見開いたまま緋紗人を見つめていたが、やがて唐突にあっと声を上げる。

「まさか……!」

「そう」

 緋紗人は苦い表情で頷いた。

「秋祭りのコンビニで襲ってきた男。あいつも操られていたんだと思う」

 コンビニに突然現れた男。意味が分かる言葉は一切発することなく、ただやみくもに手あたり次第に商品を振り落とし、暴れ回った。が、そこまで思い出して衣緒は胸にひやりと冷たいものを感じた。

「佐倉ちゃん」

 緋紗人の呼びかけに跳ね上がるようにして顔を上げる。怯え切った小鹿のような表情で見上げてくる衣緒に、緋紗人は少し困ったように目を眇める。

「……思い出せたかな。あの時も佐倉ちゃんは悲鳴を上げた。その悲鳴で……、操られた男は一瞬動きを封じられた。そして、逃げ出したんだ」

 衣緒は、緋紗人の視線を受け止められず、黙ったまま背を向けると俯いた。

「佐倉ちゃん」

「違う!」

 呼びかけを跳ね返すように上がる声。背後から緋紗人の溜息が聞こえる。体の震えが止められない。忙しなく呼吸を繰り返す衣緒だったが、頬に流れる髪がついと掬い上げられ、ぎょっとして顔を上げる。

「……可哀想にのう」

 目の前に白い女の顔があり、衣緒は咄嗟に身を引こうとするが頬を両の手で包まれる。その、思わぬ温かさに声を失う。

「ほんに、なぁんも知らんとは」

 衣緒は震えながらも野風の眼差しを逸らせずにいた。黄金の瞳。縦に尖る瞳孔。だがその表情には慈愛とも取れる色が見えた。何も答えられずにいる衣緒の頭をそっと撫でると、野風は低い声で語り始めた。

「磯の妖は、『声』を持つ者が多い。唄うて人を招く者もおるし、舟を沈める者もおるとな」

「なるほどね」

 母の言葉に納得したように鼻を鳴らしながら呟く緋紗人。

「ぬしはどこで生まれた」

 野風に問われ、衣緒は眼差しを彷徨わせながらも唇を湿し、絞り出すように囁いた。

「……福井の……、仰浜あおがはま……」

 野風は意味ありげに頷いた。

「仰浜……。若狭には人魚がおるな」

「ああ、やっぱり。佐倉ちゃんのお母さんは人魚か」

「やめて――」

 項垂れて呟く衣緒をそっと胸に抱くと、野風はふぅと息をついた。

「……緋紗人。この姫さん、守っておやり」

「うん。こっちが巻き込んじゃったしね」

 巻き込んだ。その言葉に顔を上げ、緋紗人を振り仰ぐ。緋紗人は表情を引き締めると居住まいを正した。

「多分……、あの悲鳴であいつは佐倉ちゃんの存在に気付いたと思うんだ。俺の近くに、別の合いの子がいる、ってね。きっと、狙ってくる」

 なるほど。だから、危険が及ぶと判断したのか。衣緒はまだ混乱する頭を振るとゆっくりと体を起こした。

「……どうしたらいいの」

「そうだな、まずは……」

 少し間を置くと緋紗人は少し明るい表情で声を高めた。

「お父さん、親父に会ってくれないかな。ふたりで今の状況を知ってもらって、守りを固めてほしいんだ」

 秋祭りで襲撃された夜に会った、緋紗人の父親。同じく赤い髪をした若い父親の姿が脳裏に浮かぶ。

「危険な男が近くに迫っていることを知ってもらいたいんだ。せっかく知り合った佐倉ちゃんやお父さんに、危ない目に遭ってほしくないからさ。……もちろん、雄輔もね」

 雄輔の名にはっと息を呑む。そんな衣緒に緋紗人は嬉しそうに微笑む。

「ね。だから、今度お父さんを連れてきてよ」

 押し切られるようにして、衣緒は「うん」と呟く。

「ああ、それと」

 緋紗人は思い出したように声を上げた。

「そいつの名前、言っておくよ。くすせ。楠瀬高彦」

 くすせ、たかひこ。

 衣緒は口の中で繰り返した。


 蒼い空間に浮かび上がる赤い鳥居を背に、白狐が和服姿の女へと変じる様が何度も目の裏で蘇る。瓜実顔の物憂げな美女。緋紗人の怪しくも美しい赤毛も思い出す。あの赤毛は母親に由来するというのか。いや、父親も赤毛だった。それはどう説明するのだ。

 帰り道、衣緒の心は千々に乱れていた。とりとめのない思いが浮かんでは消え、不安を掻き立てる胸騒ぎが止むことはない。父親に会ってほしいと言っていた。父に、何と言えばいいのだろう。

 納めておくには大きすぎる出来事を抱え、帰宅するとすでに草平が帰っていた。

「おかえり」

 娘の顔を目にした草平は眉をひそめて首を傾げる。

「顔色が良くないな」

 何と答えればいいのかわからず、ただ頷く。

「足は? 痛かっただろう」

「うん……」

「病院でもらった湿布、かぶれてないか」

 甲斐甲斐しい言葉に思わず胸が締め付けられる。人と、人ならざる者の間に生まれた自分と同じ出自の者と出会ったのだ。仲間、なのだろうか。同志? だが、この不安と寂寥感はなんだ。結局、自分は一人ぼっちでこの問題と向かい合わなくてはならない。わかってくれるのは、きっと、父だけ。

「――ねえ、父さん」

 思い切ってかけた声に振り返られる。

「あのね、尾咲くんのお父さんがね、お店に来てくれないかって」

 言葉を選びながらなんとか口にする。草平は少し怪訝そうな表情で「ああ」と声を漏らす。

「また来てくれって言ってたもんな」

「うん。お礼が、したいんだって。色々、話もしたいみたいで」

 どこか様子のおかしい娘に気付いたのか、草平は思慮深げに眉を寄せる。衣緒は慌てて言葉を付け足す。

「尾咲くんの家もね、お母さんいないんだって。だから、お話したいみたい」

「そういえば、そんなことを言っていたな」

 気にはしながらも衣緒の言葉を疑うことはせず、草平は表情をほぐして頷いた。

「占いの看板も気になるし。行ってみようか」

「うん、ありがとう……」

 ほっとした衣緒だったが、洗濯物を手にしたままどこかぼんやりとした表情の父に心配そうに声をかける。

「父さんこそ大丈夫? 疲れてるみたいだけど」

「え?」

 言われて目を見開いて振り返る父。

「ああ――、大丈夫。今日は、色々寄って帰ったからな。それで、ちょっと疲れただけだ」

「仕事?」

「うん」

 自分にも父にも日々の暮らしがある。悩みも心配事もある。それに加えて、正体のわからない脅威が迫っているとしたら。疲労を背負った父の背を見つめながら、衣緒は心のどこかで何かを決めていた。

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