第2部-夕闇の影-第11話

「レントゲンで見た限りでは骨折はしていないようだけど、痛みが続くようならもう一度検査しようね」

 医師の言葉に衣緒が頷く。

「良かったわね、処置が早くて」

 傍らの女性警察官が微笑んで言葉を添える。

「はい……」

「親御さんとは連絡が取れたんだっけ」

「はい。父が来てくれます」

 衣緒は医師に礼を述べると警官が添える手に掴まって立ち上がった。診察室を出ると、廊下に人だかりが。雄輔が一番最初に気付いて「あっ」と声を上げる。その隣には緋紗人。その他数人の大人たちが振り返った途端。

「佐倉さん!」

 悲鳴のような叫び。ひとりの女性が駆け寄ってくると驚いて身動きができないでいる衣緒を抱きしめた。と同時に、柔らかな花の香りにふわりと包まれる。

「ごめんね……! 私が、秋祭りに誘うよう言ったばっかりに……!」

 耳許で泣きながら訴える言葉にはっと目を見開く。綺麗なおかっぱ頭。すらりとした体型。雄輔の母親だ。

「……そんな、お、おば様のせいじゃ、ないです」

 小さな声で囁く。眼差しを上げると、肩越しに雄輔が少し困ったように微笑んでいた。その隣にいた男性が歩み寄ってくる。

「雄輔の父です。この度は災難だったね。捻挫の他に怪我はないかな」

 以前雄輔が見せてくれた家族写真に写っていた父親。人の好さそうな穏やかな顔立ちが印象的だったが、かけてくれる言葉も優しかった。

「はい、大丈夫です」

 その言葉にほっとした様子で広輔が「ほら、母さん」と声をかける。滲んだ涙を指先で拭いながら由紀がそっと顔を上げる。

「お父様になんとお詫びすればいいか……。大事なお嬢様に怪我を……」

「大丈夫ですよ。まさかこんなことが起こるなんて……、誰にもわかりませんし……」

 衣緒は少し緊張した様子で言葉を返す。そして、思わず体に残る感触に顔を赤くする。女性らしい、心地よい花の香り。柔らかな肌。これが、「お母さん」の温もり。

「息子さんの処置が早かったんで、治りは早いと思いますよ」

 付き添っていた女性警察官の言葉に由紀はようやく表情をゆるませた。

「やるじゃない」

 そう言って息子の頭をこつんと小突く。雄輔は肩をすくめて「ライスだよ」と返す。

「ライス?」

 不思議そうに聞き返す衣緒に雄輔は気恥ずかしそうに答える。

「安静(レスト)、冷却(アイシング)、圧迫(コンプレッション)、拳上(エレベーション)の頭文字。捻挫の基本的な処置だよ」

 なるほど、野球で得た知識か。衣緒はほんのちょっと表情をほぐして微笑んだ。

「佐倉さん、悪いけどちょっといいかな」

 スーツ姿の若い男性が控えめに声をかけてくる。

「まだ落ち着いてない時に申し訳ないけど、犯人の写真だけ見てくれないかな」

 刑事か。衣緒は顔を引き締めると居住まいを正した。

「はい」

「逮捕してから撮った写真なんだけどね」

 そう断ってから刑事は写真を差し出す。そこには、ぼんやりとした目付きで撮影された男の顔が。顔には少し傷があり、ばさばさの髪が汚らしい印象を与える。

「どこかで見かけたことはある?」

 衣緒は顔を歪めると首を横に振る。

「……知らないです」

「そう。ありがとう」

 恐怖に満ちた瞳で手にした写真を見つめる衣緒に気付いた刑事が懐に写真を仕舞う。

「犯人は今、呆然自失状態でね。本格的な取り調べは明日以降になると思う。また後日、君たちには話を聞くことになると思うけど、協力頼むよ」

 子どもたちは神妙な面持ちで頷いた。

「ひょっとして……」

 広輔が訝しげに言葉を挟む。

「クスリでもやってたんじゃないでしょうね」

 クスリという穏やかならざる言葉に緊張が走る。が、広輔の疑念ももっともだった。

「まだわかりません」

 刑事はきっぱりと答えた。

「ただ、それも含めて調べることになるでしょう」

 重苦しい空気の中、皆が押し殺した息を小さく吐く。

「薬物……」

「まだわかんねぇけどな」

 緋紗人と雄輔の会話に衣緒が青い顔で眉をひそめる。少年ふたりはともかく、少女の方がまだ完全には落ち着いてはいないと見てとった刑事は、話題を変えようと雄輔を振り返った。

「カラーボールを投げたのは君だったね。なかなかのコントロールだ」

 褒められた雄輔は恐縮して大きな体を縮こまらせた。

「いや、あの、まぐれです」

「まぐれじゃないだろう。きちんとダメージの少ない背中を狙ったな。たいした制球力だ」

「刑事さんも野球やってたんですか?」

 緋紗人が興味津々の様子で尋ねる。

「うん。甲子園も行ったよ。ベンチだったけどね」

「すげぇ!」

 かしこまっていた雄輔が感嘆の声を上げる。その場がほんの少し和やかになった時。皆の背後から高い靴音が響く。

「すみません、佐倉といいます。娘がこちらに……」

 皆が振り返ると、看護師の前に立ち尽くした草平の姿が。

「父さん!」

 衣緒の叫びに草平が振り返る。父の顔を見た瞬間、これまで我慢してきた緊張の糸が切れた。衣緒は思わず駆け出すが捻挫の激痛に倒れ込みそうになり、草平が抱きすくめるようにして駆け寄る。

「衣緒!」

「父さん……!」

 人目も憚らずに泣きじゃくる姿に皆が痛ましげに見守る。

「やっぱり……、我慢してたのね」

 そう呟く母親の言葉に雄輔は思わず唇を噛みしめた。せっかくの祭りが台無しになった怒りと情けなさ。衣緒にも緋紗人にも迷惑をかけてしまった。そんな息子の思いを感じ取ったのか、父親が力強く肩を叩く。

「……足を怪我したって?」

 父の囁きに衣緒は震えながら頷いた。

「……捻挫」

「他には」

 無言で顔を振る娘に息をつくと肩を撫でる。

「お父さん」

 呼びかけに草平が顔を上げる。

「里村の父です。この度は、お嬢さんがせっかくこちらに遊びにきてくれたのに……、申し訳ないです」

「いえ」

 草平は慌てて立ち上がる。そして、まだ嗚咽を漏らす娘の手を取って立ち上がらせる。

「お招きいただいてありがとうございます。今回のことはどうしようもないことです」

「それに、先日はご馳走までしていただいて……」

 恐縮した様子の広輔に草平は表情を和らげさせた。

「いいえ。こちらこそ、あの時は里村くんにお世話になりました」

 父親ふたりが言葉を交わす様子を見て、刑事が緋紗人に目を向ける。

「親御さん、連絡ついた?」

「いえ……」

 緋紗人はポケットからスマートフォンを取り出す。

「電話も出ないし……。メールは送ったんですけど」

 少し寂しげに溜息をつくが笑って顔を上げる。

「親父、店やってるんで抜けられないんです。大丈夫です。ひとりで帰れます」

「緋紗人」

 雄輔が驚いた顔付きで声を上げ、草平が身を乗り出す。

「僕が送ろう」

 父の言葉に、涙を拭いながら衣緒が顔を上げる。思いがけない申し出に緋紗人は目を丸くしている。が、

「君が、噂の転校生?」

 そう尋ねられ、にっと笑みを見せた。

「はい。噂の転校生です」

 草平もつられて微笑むと、刑事に向き直る。

「もう、よろしいでしょうか」

「はい。結構ですよ。また後日お話を聞かせていただこうと思います」

 憔悴しきった様子の衣緒に「帰ろう」と背中に手を添える。そして、雄輔一家を振り返る。

「じゃあ、里村くん。君も今日はよく休んで」

「はい。ありがとうございます」

 雄輔の両親が深々とお辞儀をする。

「佐倉」

 雄輔が思わず名を呼んで身を乗り出す。父の手をしっかり握りしめた衣緒が振り返る。

「……ごめんな、今日は」

 衣緒は口許に微笑を浮かべると顔を振った。

「……またね」

 かぼそい囁きに雄輔は寂しげに頷く。そして傍らの緋紗人にも目を向ける。

「気ぃつけて帰れよ」

「ああ」

 緋紗人も笑って手を振る。ふたりの笑顔は雄輔の心を軽くした。

「オザキくん、だっけ。お家は?」

「家は上熊谷なんですけど、店は熊谷です。……店の方に帰ろうと思います」

 いつもの軽薄さが鳴りを潜め、しおらしく呟く緋紗人に衣緒も気の毒そうに眉をひそめる。さすがに心細いのだろう。

「じゃあ、ナビしてくれるかな」

「はい」

 草平がポケットから車のキーを探った時だった。反対側のポケットに入れていたスマートフォンが震える。はっと思わずその場に立ち尽くし、慌ててポケットからスマートフォンを引っ張り出す。画面には藤木の名が。着信に気付いて折り返してきたのだろう。振動を続けるスマートフォンを凝視する父親に衣緒が訝しげに呼びかける。

「父さん……、電話」

「……ああ」

 草平はごくりと唾を呑み込んでから画面に触れる。

「……もしもし、佐倉です」

 耳に馴染んだ声で名乗られる。草平は思わず息をついた。

「……すみません、先生」

 先生、という呼びかけに衣緒は察したらしい。息を呑み、表情が強張る。

「はい、お電話差し上げたのですが……、ちょっと今、立て込んでいて……、またお電話します」

 衣緒は黙ったまま父を見つめている。そのただならぬ様子に緋紗人がそわそわした顔つきで見守る。

「はい、すみません。また……」

 挨拶もそこそこに通話を終える。

「父さん」

 娘の呼びかけに弾かれるようにして振り返る。

「……藤木先生?」

「――ああ」

 娘の探るような黒眼を見ていられず、草平はスマートフォンをポケットに押し込んだ。

「大丈夫なの?」

「うん、また掛け直すよ」

 そして、居心地悪そうな様子の緋紗人に気付くと、申し訳なさそうに笑いかける。

「ごめん。さぁ、帰ろう」


 車に乗り込むと熊谷方面へ向かう。

「東京から引っ越してきたんだっけ」

 草平の問いに、後部座席に乗り込んだ緋紗人が身を乗り出す。

「はい。悪の組織に命を狙われまして、やむなく埼玉へ――」

「シートベルトしてよ、もう」

 疲れ果てた様子だったはずの緋紗人が待ってましたとばかりに軽口を叩き、助手席の衣緒は顔をしかめる。なるほど、こんな軽いノリの少年なのか。草平は苦笑いを漏らしながらハンドルを握った。

「佐倉ちゃん、じゃない、佐倉さんから聞きました。お父さん大学教授なんですか?」

「そうだよ」

 緋紗人は興味深そうに草平の横顔を見つめている。

「何の先生ですか」

「教えているのは近代文学だよ。研究は近世の説話と近代文学の比較なんだけど」

「へぇ。それで佐倉ちゃんも本好きなんだね」

 衣緒が「まぁね」と呟く。娘が転校生を少し苦手にしていることを覚えていた草平は、娘に代わって相手にすることにした。

「お父さんは何のお店しているの」

「バーです」

「へぇ」

「よろしければ、ご利用お待ちしています」

 思わず吹き出す父に、衣緒の方はどこか諦めの表情で溜息をつく。

「あ、そこを右です。……もうちょっと行ってから、左に」

 父親の店が近づいてきたのか、緋紗人の指示が細かくなってゆく。見渡せば、飲み屋が立ち並ぶ通りだ。普段こういった場所に立ち寄ることがない衣緒は興味深そうに眺め渡している。

「あ、あそこです。あの――」

 黒塗りの扉の店。「reddish」と書かれたレトロな看板がライトに照らし出されている。

「レディッシュ……?」

「はい、俺の親父も髪赤いんです」

 なるほど。草平は静かに停車させた。

「ありがとうございます」

 車を降りると、緋紗人は身を屈めて車内を覗き込んだ。

「ちょっと親父呼んできます」

 そう言って緋紗人は小走りに扉へ向かう。黒塗りの扉が開かれると、さっと一筋の光が路上に伸びる。衣緒は車窓から顔を出して店構えを眺めた。扉の両隣にはメタリックフレームの看板が出ており、ひとつの看板には英語でメニューが書かれている。だが、衣緒はもうひとつの小さい看板に目を丸くした。

[Fortune telling Tarot, Holoscope, Numerology, etc. 30min ¥3,000]

「……占い?」

「みたいだね」

 娘の囁きに草平が返す。

「お父さんがやってるのかな」

「さぁ、どうだろう」

 と、話しているうちに、扉が勢いよく開かれる。そこから現れたのは、黒いTシャツにジーンズを着こなした存外に若い男性だった。

「すみません!」

 男は張りのある声を上げると小走りに駆け寄り、頭を下げた。草平は慌ててドアを開けて外へ出た。

「こちらまで送っていただいて……。息子から連絡は受けてたんですけど、抜けられなくて……」

 そう言って申し訳なさそうに何度も頭を下げる男の傍らに緋紗人が寄り添う。

「いえ、お仕事ですから、仕方ないですよ」

 草平の言葉に安心したのか、緋紗人の父親は固い表情をゆるめるとほっと息をついた。

「あ、申し遅れました。緋紗人の父です。尾咲赤人あかひとといいます」

「佐倉草平です」

草平は、深々と頭を下げた赤人を眺めた。少し浅黒い肌。短く刈り込んだ髪色は目にも鮮やかな赤毛。息子よりも赤みが強く感じる。緋紗人はどちらかというと甘いマスクの爽やかな少年だが、父親はどこか野性味を感じさせるはっきりとした面立ちだ。三十代半ばぐらいだろうか。赤人は車内の衣緒に気付いて腰を屈めて覗き込む素振りを見せた。

「お嬢さんは、お怪我は」

「捻挫をしたようです」

「捻挫!」

心配そうに声を上げる相手に、草平は息をつきながら疲れた微笑を浮かべた。

「捻挫で済んで良かった。息子さんも、もうひとりの男の子にも怪我がなくて良かったです」

 神妙な顔つきで頷いていた赤人は、やがて思い出したように「ちょっと待ってて下さい」と言って店へ引っ込んでいった。草平は残された緋紗人に微笑みかけた。

「若いお父さんだね。男前だし」

 緋紗人は嬉しそうに照れ笑いを浮かべてみせた。こうしていると素直で好感を持てる少年なのだが、いかんせん言葉が軽い。すると再び扉が開き、赤人は手にした箱をおもむろに差し出した。

「お父さん、お家に帰ったら召し上がってください」

「えっ」

思わず受け取ってしまった箱を見ると、外国ブランドのリキュール飲料だ。

「それと、お礼に今度ご馳走しますよ。またいらっしゃって下さい」

 朗らかな笑顔に草平もつられて顔をほころばせる。

「じゃあ、お言葉に甘えて……、いただきます」

 草平の返事に嬉しそうな表情を見せると、赤人は車窓に顔を寄せた。父親たちのやり取りをぼんやりと眺めていた衣緒は慌てて居住まいを正した。

「お嬢ちゃん。捻挫、早く治るといいね」

「は、はい」

「大事に至らなくて良かった。今晩はゆっくり休んでね」

 衣緒はどぎまぎした様子で黙ってこくりと頷いた。

「じゃあ、僕らはこれで」

 草平の言葉に赤人がもう一度頭を下げる。

「はい。今夜は本当にありがとうございました」

 そう言って赤人は息子の頭をぐいと下げさせる。草平は会釈をすると車に乗り込んだ。

「じゃあね、佐倉ちゃん」

 緋紗人が相変わらず明るい笑顔で手を振ると、衣緒も小さく手を振り返す。やがて車が発進し、走り去ってゆく。その様子を見守っていた赤人が、ゆっくりと息子を振り返る。

「……あの子か」

「うん」

 調子良さそうに振る舞っていた緋紗人も、急に疲れが見える表情で頷く。

「……不思議な子だよ。どこまで自覚してるのかわかんないけど」

 息子の言葉に赤人は目を眇める。

「おまえ……、まさか惚れたんじゃないだろうな」

「違うよ」

 緋紗人は苦笑交じりに吐き捨てる。そして、溜め込んだ息を大きく吐き出すと右手で顔を覆って夜空を仰いだ。

「――それどころじゃないよ」


 秋祭りの翌日は日曜日ということもあり、衣緒はおとなしく家に引き籠っていた。が、さすがに地元で起きた事件のせいか、衣緒の許には友人たちから夥しいメールが押し寄せた。暴漢に襲われたこと。衣緒が怪我をしたこと。里村雄輔が一緒だったこと。どういうわけか尾咲緋紗人も一緒だったこと。それらすべてが漏れ伝わっていることに衣緒は驚くと共に怖さも感じた。そして、伝言ゲームが話に尾ひれを付けたらしく、暴漢は衣緒を人質に取った上で現金を要求した凶悪な強盗犯と化しており、塞ぎこんでいた衣緒をさすがに苦笑させた。

「みっちは骨折したって本当? って」

「話が大きくなりすぎだな」

 眉をひそめる父に、衣緒も暗い表情で溜息をつく。

「皆に心配させちゃった」

「それはおまえのせいじゃない」

その言葉に安堵の表情を浮かべ、衣緒は「うん」と頷いた。


 翌日の月曜日。衣緒は早めに家を出た。いつもは革のローファーだが、湿布を包帯で巻いた足では履くことができず、スニーカーでゆっくり歩む。歩くたびに鈍い痛みが響き、衣緒は溜息をつきながら駅へ向かった。それでも、改札を抜けて雄輔の顔を見るとほっとした心持ちになる。

「よう」

 雄輔は自転車を押しながら衣緒の足許に視線を向ける。

「足大丈夫か」

「痛い」

「しばらくは我慢しねぇとな」

 と言いながらさりげなく衣緒の鞄を取り上げる雄輔に、衣緒ははにかんで「ありがとう」と囁く。

「皆からメールあった?」

「あったよ。強盗犯が私を人質に取って、里村くんが果敢に立ち向かったんでしょ、って」

「俺、めっちゃ強いじゃん!」

 吹き出しながら突っ込む雄輔に衣緒も笑い声を上げる。

「俺に来たメールはさ、可愛そうに緋紗人の存在が消されてたりさ。人伝えって本当に当てにならねぇよな」

 歩きにくそうにしている衣緒を気遣いながら、雄輔はいつも以上にゆっくり自転車を押しながら歩いてゆく。やがて学校へ着くと見知った生徒たちに次々と声をかけられる。ほとんどがふたりの無事を喜ぶ声だったが、衣緒たちは奇妙な心持ちで教室に向かった。そして、ドアを開くと。

「来た来た! トレンドの人たち!」

 クラスメートたちの歓声に衣緒たちはびっくりして立ち止る。と。教室の奥から衣緒の友人たちが駆け寄ってくる。

「さくらん! 怪我大丈夫?」

「怪我で済んで良かったぁ!」

 友人たちの安堵の言葉に衣緒は申し訳なさそうに声をかける。

「心配かけてごめんね。メールありがとう」

一方雄輔の方にはひとりの男子生徒がすがりつくように何やら掻き口説いている。

「里村! おまえのピッチングは聞いたぞ! 野球部入らないか。期待されてた一年のピッチャーが秋季大会で打ち込まれてさ……。このままじゃ来年はピンチだよ……!」

「馬鹿野郎」

 雄輔は毅然とした態度で言い放った。

「野手はピッチャーを信じろ。ピッチャーも信頼に応えようとする。それがチームだろが」

 一瞬の間をおいて、男子たちが「おお」と感嘆の声を上げる。

「さすが、言葉の重みが違うね、里村先輩!」

「先輩じゃねぇし」

 クラスメートからの突っ込みを軽くいなす雄輔の背後から「よっ」と声がかけられる。振り向くと、いつものように廊下に面した窓から赤毛の少年がにこやかに顔を出していた。

「すっかりクラスのヒーローじゃん、雄輔」

「からかうなよ」

 迷惑だと言わんばかりに鞄を机に置く雄輔に、緋紗人は目を輝かせながら前のめりに身を乗り出す。

「でも、素人目から見てもあの投げ方は堂々としたものだったぜ。まさにエースの風格ってやつだよ」

 それを聞きつけた男子たちが周りに集まってくる。

「尾咲、その場にいたのか」

「ひどいなぁ。俺も一緒にいたんだよ。被害者だよ」

 男子たちが盛り上がっているのを横目に衣緒が小さく溜息をつく。

「怪我、捻挫だって?」

 友人の言葉にこくりと頷く。

「でも、捻挫で済んでよかったよ。里村くんや転校生が一緒だったのか不幸中の幸いだったね」

「そうだね」

 皆の言葉に衣緒は感謝の念を抱きつつも、衣緒は思い詰めた表情で俯いた。コンビニで暴れたあの男の姿が瞼の裏にこびりついて離れない。LEDのライトを受けて真っ白に反射したメガネ。尋常ではない表情。獣のような唸り。衣緒は急に震えを感じると思わず自らの腕を抱いた。もう、あんな場面に遭遇したくない。もう二度と。


 その日の放課後。衣緒と雄輔、そして緋紗人の三人は図書室に集まると秋祭りでの出来事を語り合った。それぞれの家庭に警察から連絡があったこと、犯人は容疑を否定も肯定もしておらず、取り調べに対して今も上の空で捜査は遅々として進んでいないこと。こういった情報が交わされた。

「迷惑な話だぜ、まったく」

 憮然とした様子で吐き捨てる雄輔に緋紗人も頷く。

「結局、クスリをやってたかどうかは警察教えてくれなかったね」

「どっちでもいいよ……」

 緋紗人の言葉に衣緒が憂鬱そうに呟き、雄輔が「まぁな」と相槌を打つ。静かな図書室で三人は声をひそめて話し込んでいたが、やがて下校を促すチャイムが鳴り、校舎を後にする。

「お父さんびっくりしてたんじゃないのか」

 雄輔の問いかけに緋紗人は苦笑いを浮かべて肩をすくめて見せた。

「息子が事件に巻き込まれたって言ってんのに、お客が信じてくれなくて離してくれなかったんだとさ」

「えっ」

 思わず顔をしかめて声を上げる衣緒に、緋紗人は同意を求めるように唇を尖らせる。

「な、ひどいだろ。皆、酒も入ってるしさ」

そうこうしているうちに、三人は熊谷駅に行き着いた。

「じゃあな。佐倉、気を付けて帰れよ、足」

 雄輔が足許を指差し、衣緒ははにかみながら「ありがとう」と返し、手を振る。緋紗人にも手を上げると雄輔はサドルに跨り、颯爽と自転車を走らせていった。その背を見送った衣緒は、小さく息をついてから緋紗人を振り返った。

「じゃあね」

 そう言って踵を返そうとする衣緒に「待って」と遮る。

「あのさ、今日、時間ある?」

 思いがけない言葉に衣緒は眉をひそめて首を傾げる。緋紗人はいつもと変わらない表情で言葉を続けた。

「佐倉ちゃんに、ちょっと話があるんだ」

 話。衣緒は顔を強張らせた。

「話って……?」

「ちょっと込み入った話でさ」

 そう言って緋紗人はロータリーで停まっているバスを指差した。

「うちの近くの神社で話しておきたいことがあるんだ」

 神社? 話しておきたいこと? 衣緒はますます困惑する。一体何を言い出すのだ、この転校生は。

「ここじゃ駄目なの?」

 警戒心がありありと見える表情と声色に緋紗人は困ったように微笑む。

「うーん、神社の方が話が早いというか、説明しやすいんだ」

「何の話?」

 じれったそうに問いかける衣緒に根負けしたように、緋紗人は仕方なさそうに溜息をつく。

「大事な話なんだ」

「だから何?」

 畳みかけてくる相手に、緋紗人はかすかに目を細め、声を低めて囁いた。

「君と……、お父さんの安全に関わる話」

 瞬時にして満ちるキナ臭い空気。衣緒は言葉を失って立ち尽くした。緋紗人は穏やかに言い添える。

「場合によっては、雄輔もかな」

「どういうこと……!」

 思わず身を乗り出す衣緒に手を上げて制する。

「だから、きちんとゆっくり説明したいんだ。来てくれるかな」

 衣緒は落ち着きを失くして緋紗人を凝視した。彼はもう一度息をつくと一歩足を踏み出した。

「取って食いやしないよ。それに、俺は雄輔を裏切るようなことはしない。約束するよ」

 そんなことを言われれば余計に警戒心が増す。だが、父と雄輔の安全とはいったい何のことなのだ。それを聞きださないことには。意を決すると、固い表情で尋ねる。

「……どこまで行くの?」

「バスで二駅。すぐだよ」

 緋紗人は、少しほっとした表情で答えた。空が焼けたオレンジ色に染まり、乾いた風が頬を撫でる。巣へと帰ってゆく雀たちのけたたましい鳴き声が不安を掻き立てる中、奇妙な転校生はにっこりと微笑んでみせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る