第2部-夕闇の影-第10話
翌朝。衣緒と雄輔はいつもと変わらない朝を迎えていた。熊谷駅で落ち合い、他愛無い話で笑い合いながら学校へ向かう。強いて言えば、雄輔の方がややはしゃいだ感じではあったが。
「おはよう! ご両人!」
生徒玄関で待っていたのは、尾咲緋紗人。相変わらず澄ました笑顔。端正な顔立ちに涼しげな目許。その、綺麗すぎる笑顔が苦手なのだ。衣緒は思わず雄輔の背に隠れた。
「あれ?」
あからさまな衣緒の行動に緋紗人が目を丸くする。察した雄輔が、ちょっと緊張した様子で口を開く。
「あー、えっと、俺たち、付き合うことにした」
言っちゃった。衣緒が赤面して黙り込み、雄輔を凝視する。一方、緋紗人は。
「冗談!」
大袈裟に仰け反りながら絶叫する。
「まだ付き合ってなかったのか? 今まで何やってたんだよ、雄輔!」
「だから、付き合ったんだからいいだろが」
開き直り、憮然とした表情で言い返す雄輔に、緋紗人は笑いながら胸を指でつつく。
「おお! 一人前に彼氏っぽくなったじゃん! 良かった良かった!」
「やめんか」
つついてくる指を押しのけ、靴を下駄箱に仕舞う。
「良かったなー、佐倉ちゃん!」
「あ、ありがと……」
相変わらずな緋紗人のテンションについていけず、ぎこちなく返す衣緒に雄輔が声をかける。
「あ、そうだ。佐倉、今度の土曜日空いてる?」
「土曜日?」
「なんだよ雄輔、佐倉ちゃんのことまだ苗字で呼んでるのか」
「うるせぇな」
いい加減、いらいらした感じの雄輔に慌てて衣緒が割って入る。
「土曜日なら空いてるよ。どうしたの」
「ああ」
衣緒の気遣いに感謝しながら、気を取り直した雄輔が表情をゆるめる。
「うちの近くの商店街が秋祭りやるんだけどさ」
「秋祭り!」
反応したのは緋紗人だった。うんざりしながらも雄輔が苦笑いを浮かべる。
「わかってるって。おまえも来るか」
「行く行く! 友達と縁日で買い食いとかやってみたい!」
目をきらきらさせて喜ぶ緋紗人と、まだ戸惑い気味の衣緒を見比べ、雄輔は「どっちが女子だよ」とぼやく。
「佐倉、どうする」
「お祭りか……、いいね。行こうかな」
「行こう行こう! 大丈夫、ちゃんとふたりの時間は作るからさ」
余計なひと言に雄輔が緋紗人の頭を軽く叩く。
「うるせぇよ、おめぇは。連れていってやるんだ、感謝しろよな」
「なんだよー。余裕だな、里村クンは!」
そう言って小突き合うふたりを眺め、衣緒は困ったように苦笑を漏らした。
「秋祭り?」
夕飯の席で衣緒が口にした言葉を繰り返す。
「うん。里村くんの住んでる地域の商店街がやるんだってさ」
「秋祭りか。この辺ではやらないからなぁ」
熊谷の祭りと言えば熊谷うちわ祭。衣緒も夏休みの間にクラスメートたちと楽しんだはずだ。祭りなど、もう来年まで話題にならないと思っていたから、草平は不思議な感覚に囚われた。
「なんかね、夏休みが終わって客足が遠のいた商店街が始めたんだって。今では結構な規模になってるとか」
「なるほどね。たいしたもんだ」
感心しながら箸を進めつつ、言葉を続ける。
「いいねぇ、お祭りデートか」
すると、衣緒はデートという言葉に顔を強張らせた。
「……違うよ」
固い声色に草平は箸を止めた。同時に、あの言葉が脳裏に響き渡る。
「付き合えるわけないじゃない」
和やかな空気が、一瞬にしてぴんと張り詰める。草平はごくりと唾を呑み込んだ。衣緒はきゅっと唇を引き結んで目を伏せていたかと思うと、唐突に表情をほぐして顔を上げる。
「尾咲くんも一緒なんだ。三人で行ってくる」
「……そうか」
くぐもった声で返す。目の前の衣緒は、精一杯の明るい笑顔で再び食事を進めた。だが、草平の胸は不穏な叢雲に覆われてゆく。
「デートと言えば」
声を高めた娘に目を上げる。
「藤木先生、どうするの」
思いがけない言葉に草平は目を見開いた。衣緒は切れ長の瞳でじっと見つめてくる。
「いつまでも放っておいちゃ、先生が可愛そうだよ」
そのとおりだ。いつまでもぐずぐずと結論を先延ばしにしているわけにはいかない。わかってはいても、それでもまだ答えは出ていない。いや――、本当は、もう答えは出ていた。
「……うん、そうだな」
歯切れの悪い自分に納得いかないのか、衣緒は身を乗り出して囁いた。
「私、いいからね。藤木先生ならいいから。本当だよ」
「ああ……、ありがとう、衣緒」
そう言って笑ったつもりだったが、顔が引きつっていたのだろうか。衣緒はまだ心配そうに見つめてくる。草平は肩を落とすと溜息を吐き出した。
土曜日。衣緒は緋紗人と共に熊谷駅からバスに乗って雄輔の住む町へ向かった。夕焼けに染まり始めた時分。教えられたバス停で降りると、乾いた秋の風が顔を撫でる。辺りには明らかに祭りに向かう人々の姿がちらほらと見受けられる。遠くからは祭囃子のようなざわめきも風に乗って流れてきた。
「近くみたいだね」
「うん」
人の流れを眺めていると、そのうち雄輔が姿を見せる。
「よう」
緋紗人は人々の流れを親指で指し示した。
「結構集まってるんだな」
「毎年恒例だからな。行こうぜ」
そう言って先導しようと歩み出した時。頭上の鋭い鳴き声に三人がぎょっとして上空を見上げる。折しも、真っ赤に燃え上がる茜空を黒く切り裂く数羽のカラス。またカラスか。衣緒は眉根を寄せて溜息をつく。
「商店街はアーケードだからさ」
雄輔の言葉に振り返る。
「カラスは降りてこねぇよ」
衣緒はあっと小さく声を上げた。登校する時にカラスに襲われたことを覚えていたのか。自然と顔をほころび、嬉しそうに頷く。
「……ありがと」
「雄輔ー、早く行こうぜ」
「ああ、わかったわかった」
子どものようにうずうずして仕方がない様子の緋紗人に苦笑いをこぼしながら雄輔が早歩きで追いつく。と、緋紗人がこそっと耳打ちしてくる。
「見ろよ、佐倉ちゃん。めっちゃ可愛い私服じゃん」
言われて思わず視線を向ける。ボルドー色のカーディガンに清楚なベージュのスカート。すっかり秋の装いに雄輔は我知らず胸が躍る。
「……そだな」
「嬉しいくせに……!」
言ってる本人が一番嬉しそうに脇を小突き、雄輔は顔を赤くしながら振り払って頭を叩く。
「うるせぇよ……!」
小突き合っている男子ふたりに、衣緒が少し怒り口調で声をかける。
「ほら、騒がないの」
「はいっ」
ふたりが慌てて姿勢を正す。と、衣緒が足を止めて鼻をひくつかせる。
「――いい匂い」
「焼きそばだ!」
緋紗人が嬉しそうに駆け出す。商店街の入り口に吸い込まれるように大勢の人々が流れていた。赤々と照らされた屋台の軒先で、豪快にソースをかけられたそばが威勢のいい焼き音を立てながら炒められている。
「あー、焼きそばいいなぁ! いや、待て、焼きイカの方がいいかな!」
「落ち着けよ」
子どものようにはしゃぐ緋紗人に雄輔が呆れてたしなめる。そして、傍らの衣緒を振り返り、ふたりで苦笑しながら肩をすくめ合う。
衣緒は顔をほころばせて辺りを見渡した。季節外れの浴衣を着た幼児たちが歓声を上げて通りを走り抜ける。手を繋ぎ合い、楽しそうにそぞろ歩くカップル。時折、秋の花々をあしらった粋な単衣を着こなした女性も見かける。各商店も軒先にワゴンや屋台を出し、客寄せの声を上げている。衣緒は、アーケードのスピーカーから流れてくる音色に耳を傾けた。夏祭りと違い、そこはかとなく哀愁を感じさせる祭囃子。
「秋祭りもいいね」
思わず呟くと雄輔が振り返る。
「だろ。この辺じゃ最後の祭りだよ」
どこかせつなさも漂う空気にふたりが思わず黙り込む。が、その沈黙を破る存在が。
「雄輔、何食う、何食う」
「待てよ」
風情もへったくれもない緋紗人に呆れたように眉根を寄せる。
「先に何か遊ぼうぜ。食うのはそれからでもいいだろ」
「よし! じゃあ、射的! 射的やろうぜ!」
「おう、受けて立とうじゃねぇか」
ふたりは赤いひな壇に景品が並ぶ射的の露店に向かった。衣緒も興味津々についてゆく。料金を払い、コルク銃を受け取った緋紗人が不敵に笑って言い放つ。
「負けた方が焼きイカな」
「なんだとっ」
雄輔の闘争心に火が付く。ふたりは真剣な眼差しでコルク銃をひな壇に向けた。そのおかしいほどの真顔に衣緒が人知れず笑いを堪える。やがて、ぱん! という乾いた破裂音と共に銃口からコルクが発射される。
「っしゃあ!」
「うあー!」
雄輔がガッツポーズを決め、緋紗人が頭を抱える。
「まだまだ……! あと四発あるからな……!」
口を歪めてそう吐き捨てると、緋紗人はもう一度コルク銃を構える。しばらく乾いた破裂音が響き渡っていたが、終わってみれば緋紗人の圧勝に終わってしまった。
「いやー、悪いなぁ! 雄輔!」
「くっそ、おま、覚えとけよ……!」
苦々しげに毒づきながらポケットから財布を取り出す雄輔に衣緒が気の毒そうに笑いかける。
「負けちゃったね」
「ああ、くそ、悔しいな!」
自棄気味に声を上げ、焼きイカの屋台に向かい、二人前の焼きイカを注文する。その様子を見守っていた衣緒に、気を取り直した雄輔が振り返る。
「佐倉も食うか?」
「いや、私は……」
眉をひそめた彼女に思い出したようにあっと声を上げる。
「そっか、魚介アレルギーだっけか」
「うん」
悪ぃ、と囁いてくる雄輔に笑顔で顔を振る。
「私、りんご飴買ってくる」
そう言ってその場を離れる衣緒の姿を見送る緋紗人に雄輔が焼きイカを差し出す。
「ほらよ」
「佐倉ちゃん、魚駄目なの?」
「ああ、アレルギーだってよ」
ふぅん、と鼻を鳴らしながら焼きイカをかじりつく。屋台の明かりで赤毛が一層燃え立つ緋紗人は思慮深げな深い茶色の瞳を見開き、衣緒の後ろ姿を凝視した。
りんご飴の屋台では、つやつやと光沢を放つ赤いりんごが並んでいた。その光景だけでどこか夢々しい雰囲気に包まれる。口が小さい衣緒は小ぶりな飴を選ぶと雄輔たちの許へ戻った。
「佐倉ちゃんが持ってると白雪姫の毒りんごみたいだね!」
「それってどういうこと……」
眉をひそめ、唇を尖らせる衣緒を見てとると、雄輔は緋紗人の後頭部を叩く。
「ってぇ……!」
「毒りんごはねぇだろ」
「いや、褒め言葉だよ。佐倉ちゃん色が白いからさ、りんごの赤が際立つっていう……」
不本意そうな表情で必死に説明する緋紗人を尻目に、雄輔は衣緒を手招く。
「行こうぜ、佐倉」
「うん」
「あぁ、悪かった、俺が悪かったよ!」
慌てる緋紗人に衣緒が堪え切れずに吹き出し、雄輔も諦めたように溜息をつく。
「ったく、本当におまえはお調子者だな」
「そんな、褒めても何も出ないぜー」
「褒めてねぇっての……」
そうぼやきながら周りに目を向けた雄輔が思わず目を見開く。地元だから当然なのだが、小学校や中学校時代の同級生の姿がちらほら見受けられたのだ。そして、相変わらず衣緒から冷たい視線を受けながらもおどけた様子の緋紗人を見やる。衣緒とふたりきりで歩いていれば、明日には自宅周辺で噂が広まっていたかもしれない。緋紗人を呼んでおいてよかったかもしれない。本人には悪いが、雄輔はこっそりそう思った。そうするうち、
「射的の景品は?」
りんご飴を舐めながら上目遣いに尋ねてくる衣緒に一瞬どきっとしながらも、ビニール袋を持ち上げる。
「えーと、これ、ミニカーか。弟にやろうかな。車バカだから」
「良かったね」
「ああ」
言葉を交わすふたりの後ろで、緋紗人が声を上げる。
「なぁ、ちょっとコンビニ寄っていい?」
顔を上げると、右手にコンビニが見える。
「いいぜ。俺も水買おう」
三人がコンビニに入る。と、商店街の喧噪が一瞬遮られ、少しほっとした心持ちになる。店内には数人の客と店員。控えめに邦楽のBGMが流れている。衣緒は特に必要なものもなく、棚に並ぶ商品を何気なく眺めていると、「佐倉」と声をかけられる。振り返ると、雄輔が「辛っしー」という名の菓子を指差している。
「あ、これCMの?」
「食ったことある?」
「ううん。辛いんでしょ、これ」
雄輔が会計を済ませた緋紗人を手招く。
「緋紗人、辛っしー食ったことある?」
「あー、これね」
財布をポケットに突っ込みながら緋紗人が歩み寄った時だった。
チャイムと共に入口のドアが開く。が、開き切らないうちにがん! と大きな音が響き、皆が何事かと振り返る。その場にいた全員は、すぐに異変に気付いた。入口から入ってきたのは、一目でわかるほど異常な男。
「あ……!」
衣緒が顔を引き攣らせて後ずさる。割れたメガネがLEDの照明に白く照らされる。薄汚れた鼠色の作業服を着た長身の男は、わけのわからない唸り声を上げながら両腕を振り回した。
「きゃ……!」
「うわぁっ!」
口から涎を垂らした男は獣のような雄叫びを上げながら手当たり次第に棚の商品を振り落とし、客たちは皆パニック状態になった。声も上げられず硬直した衣緒の肩を雄輔が掴んで後ろへ追いやる。
「何だよこのおっさん!」
「警察!」
客や店員が騒ぎ始めた瞬間。男は動きを止めたかと思うと喉が潰れるほどの絶叫を上げ、皆が悲鳴を上げてしゃがみ込む。衣緒も声を押し殺し、頭を抱えてその場に蹲った。悲鳴が飛び交う中、
「おい! おまえ、いい加減に……!」
怒気を込めた叫びを上げて雄輔が男に掴みかかる。
「やめろ、雄輔! 危ない!」
緋紗人の絶叫に衣緒が顔を上げる。すると、男は手近にあった飲料のボトルを両手で掴み、髪を振り乱して大きく振りかぶり――。
やめて!
渾身の力を込めて叫ぶ。その響きは雷鳴のような破裂音となってガラスを下から上へと突き抜けた。強い地震のような、高周波のような鋭い鳴動に皆は耳を押さえて床に伏せる。が、一瞬の後、ひとりだけ顔を上げた。
赤毛の少年は腰を落としながらも胸を反らし、暴漢を見上げた。男はくぐもった唸りを上げて身を捩っていたが、赤毛の少年と視線がぶつかる。瞳孔が縦に尖り、金色の光を帯びる。赤毛が逆立ち、歪めた唇からは鋭い歯が――。
緋紗人の口から咆哮が迸る。と同時に店内に青白い閃光が走る。
暴漢が耐え切れず悲鳴を上げると背を向ける。陳列棚にぶつかり、商品が落ちる派手な音を立てながら男は入口から飛び出した。
「に、逃げた……!」
客のひとりが譫言のように口走り、皆が顔を上げる。
「店長……!」
バイトらしき少女が甲高い声を上げる。
「か、カラーボール……、カラーボール!」
「だ、駄目、無理!」
中年の女性の切羽詰った叫びに、雄輔が振り返る。レジの前に、蛍光ピンクのボールが転がっている。考える余裕はなかった。雄輔は床を蹴って立ち上がるとカラーボールを掴んで店を飛び出す。
コンビニを出て左右を鋭く見渡すと、右方向で悲鳴や怒号が上がっている。見ると、男が通行人を突き飛ばしながら駆け抜けていく後ろ姿が。雄輔はカラーボールを両手で握ると、わずかに前屈みに構えた。
「あいつ――、投げる気か」
緋紗人の言葉に、震えていた衣緒が顔を上げる。その視線の先。雄輔は暴漢に眼差しを据えたまま上体を反らし、ボールを握った両手を高々と振りかぶる。左足を引き上げると、前へ倒れ込むようにして鞭のようにしなる雄輔の右腕はカラーボールを投げ込んだ。
美しい投球フォームで放たれたカラーボールは真っ直ぐに暴漢の背を捉えた。ぱん! と乾いた音と共に派手な蛍光ピンクが飛び散る。男は呻き声を上げて動きを止めた。すると、通行人が数人飛びかかると取り押さえる。
「おとなしくしろ!」
野太い男性の声。そして、暴漢が完全に押さえ込まれたことがわかると、その場にいた人々が雄輔に向かって拍手を贈る。
「すごい! 命中だよ!」
「お兄さんすげぇ!」
商店街中から喝采を浴びた雄輔は呆然と立ち尽くしていたが、コンビニから緋紗人が駆け寄ってくる。
「雄輔! すげぇ、当てたのか!」
その叫びに雄輔の意識が戻る。
「おまえ、まだ野球できるじゃん!」
だが、雄輔は「佐倉」と呟くとふらふら歩み出す。緋紗人も思い出したように慌てて後に続く。
「佐倉……!」
衣緒はレジ前で蹲っていた。涙でくしゃくしゃになり、まだ恐怖の色がありありと浮かぶ面立ちに雄輔の表情が崩れる。
「大丈夫か、怪我は――」
腕を取って体を起こそうとした時。「痛い……!」と衣緒が声を上げる。雄輔が目を落とすと、衣緒の右足首が不自然に膨れ上がっている。彼は咄嗟に腰を屈めると衣緒のハイソックスを引き下ろした。と、抜けるように白い細足の先が紫色に染まっている。緋紗人が思わず絶句して足首を見つめる。
「足首が――」
雄輔が口にした瞬間。衣緒は目の前が真っ暗になった。
「駄目!」
鋭い叫び。
「見ないで――! 駄目……!」
半ば半狂乱になりながら両手で必死に足首を隠す衣緒に、雄輔が顔をしかめる。
「佐倉、落ち着け」
そして、レジの奥でまだ放心状態のままの店員に呼びかける。
「すみません! 氷ありますか! この子、捻挫してます!」
その言葉に店員たちが我に返る。
「冷凍庫に、氷が……!」
店員たちが慌ただしく動き始め、衣緒はようやく自分の状況に気付く。
「……ね、捻挫……?」
うなされたようにたどたどしく呟く衣緒に、雄輔は手早く足を持ち上げ、傍らでおろおろしている緋紗人を見上げる。
「緋紗人、ハンカチ」
「え」
雄輔は自分のハンカチを衣緒の足首に掛け、緋紗人が差し出すハンカチも重ねる。そして、虚ろに視線を彷徨わせる衣緒の耳許で必死に囁く。
「佐倉、頼むから言うこと聞いてくれ。足を高く上げて冷やすんだ。……生足は、絶対見ねぇから」
雄輔の冷静な言葉に、衣緒はようやく頭がはっきりしていくのを感じるのと同時に安堵の気持ちが広がり、ぐったりと雄輔に体を預けた。体がかすかに震えている。雄輔は眉をひそめ、その肩をそっと撫でた。
大学の会議を終えて帰宅すると、すでに辺りは暗くなっていた。誰もいない家は寂しい。そうだ、衣緒は秋祭りに行っている。草平はブリーフケースを下ろすとリビングの椅子に体を預けた。小遣いを渡すと嬉しそうに家を出て行った衣緒の様子が思い出される。草平は吐息をつくとポケットからスマートフォンを取り出した。画面をタップし、アドレス帳を呼び出す。そこから「藤木先生」の項目を選択する。
「藤木先生、どうするの」
衣緒の問いかけが脳裏に響く。次いで、いつも溌溂とした藤木の笑顔も浮かぶ。彼女に会えた日は心が軽やかでいられた。彼女と一緒にいられることが心地よかった。それは紛れもない事実だ。できることならば、このまま共に時を過ごしていきたいと思える女性だった。
だが、と草平は眉根を寄せた。
「雄輔とは付き合えない」
衣緒の言葉を耳にした以上、自分は藤木とは付き合えない。衣緒は、自分は人とは違うという意識に縛られている。体の異変がおさまらないうちは、ずっと。そんな娘と一緒にいながら、自分だけ伴侶を得ることなどできない。草平は眉間に皺を寄せると目を閉じた。これまでのことが次々と瞼裏に浮かんでくる。仰浜で出会った人魚、珠波。寒天質の卵から生まれ出た衣緒。平穏な生活が始まってから出会った藤木。草平は苦しげに薄目を開けると、スマートフォンを見つめる。
「……すまない」
そう呟いてから通話ボタンに触れる。耳許に呼び出し音が響く。だが、相手が出る気配はなかった。出ないでくれ。そう願っている自分に気付いてぎくりとする。やがて、十数秒のコール音の後、草平は呼び出しを止めた。そして、溜め込んでいた息を吐き出す。掛け直そう。そう思ってスマートフォンをテーブルに置いた瞬間、バイブレーターが振動音を発してびくりと跳ねあがる。反射的に手に取るが、画面に現れた見知らぬ電話番号に顔をしかめる。しばし画面を凝視してから電話に出る。
「……もしもし?」
耳を澄ませる草平の表情が強張る。
「……警察?」
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