第2部-夕闇の影-第9話

 翌朝。衣緒はいつもの電車に揺られていた。思えば高校生になってから初めて学校を休んだ。友人たちからはこぞって体調を心配するメールが届いたが、その中には尾咲緋紗人も含まれていた。

「今日は学校来れるの? 佐倉ちゃんが休んだから雄輔が心配してたぜ」

 雄輔が心配していた。感情的になって激しい言葉をぶつけたのに、それでも彼は自分の身を案じてくれている。衣緒は心苦しい思いでいっぱいだった。いつまでも彼の優しさに甘えているわけにはいかない。でも、どうすれば。結論など出ない。それに、と衣緒は思い返した。父の「提案」が頭をもたげる。どうやって切り出せばいいのだろう。

 そのうち電車は熊谷駅に到着し、改札に向かう。雄輔に会える。だけど、どんな顔をして会えばいいのだろう。何と言って謝ればいいのだろう。そう気を揉みながら改札を抜けると。

「おーい」

 はっと顔を上げる。自転車に跨った雄輔が笑顔で手を大きく振っている。目に馴染んだいつもの風景。重苦しく閉ざされていた胸が一気に解き放たれたような感覚に、衣緒は思わず叫んだ。

「雄輔!」

 その叫びが届いた雄輔の表情が固まり、ハンドルにかけていた手が滑り落ちて前のめりになる。一瞬遅れて衣緒が口許を覆う。

「あ――、ご、ごめん……!」

 顔を真っ赤にして立ち尽くす衣緒をぽかんと見つめていた雄輔だったが、すぐに子どもっぽい無邪気な笑顔で自転車を寄せてくる。

「いいよいいよ! どしたよ、急に。なんか嬉しいな! 佐倉に名前呼ばれるなんてさ!」

「ご、ごめんてば……」

 耳まで真っ赤になって俯く衣緒の肩を気安く叩く。

「いいって! 他ならぬ佐倉だし! でも、どうしたよ、本当に」

 衣緒は怖々と顔を上げた。

「……尾咲くんからメールがあって……。『雄輔が心配してた』って。それ、思い出してたから、つい……」

「ああ、なるほどな!」

 雄輔は上機嫌に自転車から降りると押し歩き始めた。

「へへ、緋紗人にお礼言わなきゃな」

「い、言わないで! 恥ずかしいよ……!」

 慌てる衣緒の様子がよほどおかしいのか、雄輔は声を上げて笑った。が、やがてほっとした表情で吐息をつく。

「……良かった。機嫌が直ってて」

 ぽつりと呟いたその言葉に、衣緒の表情が崩れる。喉許まで涙がこみ上げそうになるが必死に堪え、怖々と口を開く。

「……一昨日は、ごめん」

 言われて雄輔はちらりと眼差しを投げかけてくるが、穏やかな表情で前に向き直る。

「いいよ。俺も、ちょっと大人げなかった。悪ぃ」

 そう言って雄輔が自転車を押し出し、ふたりは連れ立って歩み始めた。

「でも……、誤解されたままじゃ嫌だったからさ」

 雄輔が続ける言葉にそっと横顔を見上げる。

「俺がおまえのために何かしたいって思うのは、おまえの家庭環境とは関係ないから」

 そして、低い声で囁く。

「でも……、俺にとっては、特別な存在だ」

 衣緒はごくりと唾を呑み込んだ。駄目だ、それ以上言わせてはいけない。

「だからさ、俺、もう一度言うけど、おまえのこと――」

「あっ、そうだ!」

 雄輔の言葉を遮ってわざとらしく声を上げる。

「へ――」

「あ、あのさ、実は、父さんから伝言があって」

 どこかあたふたした表情でまくし立てる衣緒に雄輔が目を丸くする。

「お父さん?」

「一昨日は本当にありがとうって。助かったって」

「ああ、あれぐらい、どうってことないよ」

 特に気を悪くする風もなく答える雄輔にほっとしながらも、衣緒はさらに言葉を継いだ。

「それでね、父さんが里村くんにお礼がしたいって言ってて」

「いいよ。たいしたことじゃないし」

「一緒にご飯食べようって」

「大丈夫だよ、そんな――」

 と、そこでぴたりと歩みを止める。そして、真顔で振り返る。

「――はい?」

 眉をひそめ、両目を見開いて聞き返す雄輔に思わずくすりと笑う。

「ちょ、待っ……、ええ? ど、どういうこと!」

「だから、お礼も兼ねて一緒にご飯食べたいんだって。食事といっても、うちの近所の中華料理屋さんなんだけど」

「待って待って……!」

 片手で髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしり、すっかり落ち着きを失くして狼狽える雄輔。

「お、俺、そんな、お父さんと食事だなんて……! さ、佐倉から言ってくれよ! そこまでしなくていいって……!」

「え……」

 途端に哀しそうに眉根を寄せる衣緒に雄輔はぎくりと息を呑む。

「私も……、皆でご飯食べたいな……」

 いつも父親とふたりきりの食卓。衣緒にとってはひとり増えるだけでも大勢の楽しい食事となるのだ。雄輔は理解しながらも困惑を隠しきれない。

「小さいお店なんだけど、とっても美味しくてボリュームがあるの。きっと里村くんも喜ぶだろうって」

「そ、そう、なんだ……」

 まだどぎまぎした様子の雄輔にさらに追い打ちをかける。

「父さんすごく楽しみにしてるみたい。里村くんがどんな本読んでるのかとか、野球の話を聞きたいみたいだよ」

「勘弁してくれよ……!」

 天を仰いで絶望的に叫ぶ雄輔に、衣緒は再び寂しげな眼差しを見せた。

「やっぱり、駄目……?」

 そう言われれば、駄目だとは答えられないのが里村雄輔。惚れた弱みか、苦い表情で「わかったよ」と呟く。すると、不安そうだった衣緒の表情が見る見るうちに明るく華やいでゆく。

「良かった……!」

 その嬉しそうな笑顔に雄輔は溜息をつく。そんな無邪気な笑顔を見せられてはたまらない。

「今度の日曜日、大丈夫?」

「ああ……、わかった、空けとく……」

「楽しみだな」

 喜びを噛みしめながら囁く衣緒に、戸惑いながらも雄輔は顔をほころばせた。


 それから数日後の、日曜日。雄輔はパジャマ姿で朝から箪笥の服を盛大に散らかし、腕組みをして考え込んでいた。

「雄輔、入るわよー」

 そう言いながら母がドアを開ける。

「あんた早く着替えて……、って、何やってんの!」

 由紀は息子が服を床やベッドの上にまき散らしている様子に金切声を上げる。

「せっかく綺麗に畳んでおいたものを……!」

「母ちゃん」

 青筋立てていきり立つ母に、雄輔は真顔で呼びかける。

「俺の服で、一番きっちりして見えるのってどれだ」

「はぁ?」

 真面目くさった表情で尋ねてくる息子に顔をしかめながら、落ちている服を一枚一枚拾い上げる。

「どうしたのよ、デートでも行くの? こないだみたいな服でいいじゃない」

「……もうちょっと、きっちりした感じで」

 いつになく真面目な調子で返す息子に目を丸くする。

「やぁねぇ。お見合いでもするの?」

「ちが……!」

 途端に顔を真っ赤にして振り返る息子を尻目に、サックスブルーのシャツを見せる。

「こういうシャツにニットのベストでも合わせたら? カジュアルな素材だけどきちんと感があるでしょ」

「おお」

 雄輔は慌てて立ち上がるとシャツを受け取る。

「なるほど、ベストか……」

「どこ行くのよ」

 いぶかしげに問い質してくる母に、雄輔は少し迷ってから何かを決意するかのように頷く。

「……佐倉とご飯行くんだけどさ」

「あらまぁ、いいじゃない」

「お父さんもいるんだ」

「あらそう。――はぁ?」

 目を見開いて素っ頓狂な声を上げられ、雄輔は顔をしかめて耳を塞ぐ。

「うるせぇなぁ」

「ちょっと……! どういうことよ! なんでお父さんも一緒にいるの?」

 雄輔は少しふて腐れた様子でシャツに合わせるパンツを物色する。

「こないだ、学校の帰りに佐倉が気分悪くなって倒れてさ」

「えっ」

 途端に由紀の顔色が変わる。

「本人の携帯借りてお父さんに来てもらったんだ。それでお父さんがすごく助かったからお礼に食事をって」

「まぁ……。律儀なお父様ねぇ」

 眉をひそめながら感心したように声を漏らす。

「ふたりっきりの家族だもの。心配したでしょうねぇ。そりゃ、あんたにお礼を、ってなるかもね」

「まぁ、な」

 事の次第を知った由紀は神妙な顔つきで何度も頷くと、息子のために服をコーディネートしてやる。

「どこで食べるの?」

「佐倉ん家の近くの中華料理屋だってさ。ボリュームがあって美味いらしい」

「あら!」

 その言葉に由紀が目を輝かせる。

「美味しかったら教えてね! 場所覚えておくのよ!」

「わかったよ」

 めんどくさそうに返す息子にちょっと不満げな表情をしていた由紀だったが、やがて手を打つ。

「あ、そうだわ、雄輔」

「なんだよ」

「来週、商店街の秋祭りがあるでしょ」

 秋祭り。里村家がある住宅地に接した商店街が主催する祭りで、毎年それなりに露店が並び、人も賑わう。

「佐倉ちゃんと一緒に行ったら?」

 服を探す手が止まる。夜の商店街に並ぶ、賑々しい天幕で飾られた露店。綿菓子や林檎飴を頬張る子どもたち。祭囃子。雄輔の脳裏に走馬灯のように秋祭りの情景が走り抜ける。

「……聞いてみる」

「うん、それがいいわよ」

 満足そうにひとりで悦に入った表情で頷く由紀。そして、

「うち、連れてくる?」

「連れてこねぇ! 絶対に!」

 鬼のような形相で叫ぶ息子に、由紀は笑いながら部屋を出て行った。


 正午前。最寄り駅の改札口で、衣緒は落ち着かない様子で辺りを見渡していた。

「そろそろかな」

 視線を彷徨わせている娘に草平が声をかける。

「うん……」

 衣緒は淡いラベンダー色のカットソーにベージュのカーディガン。黒いスカートにハイソックスを合わせた装い。草平は白のポロシャツにダークグレーのパンツ。ベージュのジャケットを羽織っていたが、まだ少し暑さを感じる。

「あっ、来た来た」

 娘の弾んだ声に思わず微笑む。衣緒が嬉しそうに手を振る先に、緊張で固い面立ちの少年がいた。サックスブルーのシャツに薄手のチルデンニット。長身の雄輔にはデニムのパンツがよく似合う。お洒落だな、と草平は思わず呟いた。

「ご、ごめん、待ったかな」

「ううん、今来たところ」

 いつになくどこか子どもっぽいはしゃぎように雄輔は少し面食らった様子だったが、やがて草平に向かってぎこちなく頭を下げる。

「今日は、お、お招きいただきまして、ありがとうございます」

 いかにも親から教わってきたような挨拶に草平が微笑ましげに頷く。

「ごめんね、突然。君にお礼がしたくて」

「い、いや、本当に、こちらこそ……」

 恐縮してもごもごと呟くことしかできない雄輔を見かねると、衣緒が父の袖を引っ張る。

「行こう。早くしないといっぱいになっちゃうよ」

「そうだな」

 その一言で三人は連れ立って歩き出した。道すがら、草平は沿道のお店などを説明してやったが、その話の半分も雄輔の頭には入らなかった。

「ここだよ」

 衣緒が笑顔で春城飯店の看板を指差す。パンダが笹にかぶりついた絵が描かれた看板に、黄色い文字で『春城飯店』とある。

「こんにちは」

 草平がガラス戸を押し開けると、すでに何組か店内で食事をしている。奥の厨房で汗だくになりながら調理していた主人が聞きなれた声に顔を上げる。

「おっ! いらっしゃ――」

 だがそこに見かけない面子を認め、動きが止まる。

「ど……、どうしたの今日は? 衣緒ちゃんのお見合いかい?」

「マスター!」

 慌てた衣緒が悲鳴のように声を上げ、雄輔の顔が見る見るうちに朱に染まる。

「そうじゃないよ、マスター。衣緒の友達だ。美味しいのを頼むよ」

「おお! 任せといて!」

 威勢のいい返事に草平は満足そうに笑うと、若いふたりを並んで座らせる。

「里村くん、背が高いなぁ。何センチあるの?」

「あ、えと、今は、一七八です」

 一七八。その数字に佐倉親子が目を丸くする。

「小さい頃から大きかったの?」

「あー……、中学で急にデカくなりました」

「なるほど」

 主人の息子がお冷とお絞りを持ってくる。

「ご注文が決まりましたらお呼びください」草平は受け取ったメニューを雄輔に差し出した。

「ここの料理はなんでも美味しいから、安心して注文してね」

「あ、はい」

 雄輔はまだ強張った表情ながら、店内に漂う良い匂いに微笑が覗く。そして、隣の衣緒にこそっと囁く。

「佐倉はいつも何食べるの?」

「私は八宝菜がお気に入り。青椒肉絲も美味しいよ」

 しばらくメニューを睨んでいた雄輔は、鮮やかなオレンジ色のソースが際立つエビチリ定食の写真を指差す。

「エビチリ美味い?」

 が、衣緒は申し訳なさそうに眉を寄せた。

「ごめん。私たち、魚介アレルギーだから食べたことないの」

「そうなの?」

 少し驚いた顔つきで聞き返した時、雄輔の眼差しが寂しげな微笑を浮かべた草平の姿を捉えた。

「す、すみません……」

「いや、なに、謝ることはないよ。食べてごらん。ここのはきっと美味しいよ」

「じゃあ、俺、エビチリ定食……」

 草平はメニューを手にすると主人の息子を呼ぶ。

「彼はエビチリ定食。僕は麻婆豆腐定食。衣緒は?」

「私は青椒肉絲にしよ」

「かしこまりました」

 主人の息子が下がっていくのを見送ると、草平はテーブルに肘を突いて身を乗り出した。

「やっぱり野球やってたから力があるね。見てのとおり娘は細いけど、それでもあんなに軽々抱えてたもんね」

 父の言葉に衣緒は目を見開くと顔を赤くして雄輔を見上げる。

「……そうだったの?」

 あの時のことは記憶が曖昧なのだろう。雄輔も恥ずかしそうに頷く。

「今も野球は好きなんだろう?」

「はい……。弟とよく神宮まで観に行きます」

 雄輔は大きな体を縮こまらせ、おずおずと問いかけてみる。

「お父さんも、野球お好きなんですか」

「うん。プロ野球はあまり見ないけど、高校野球は好きだね」

 グラスの冷たい水を飲んでから息をつくと、問わず語りに呟く。

「僕の田舎にはプロ野球の球団がないからねぇ。だから毎年、高校野球は楽しみだよ。やっぱり郷土の球児ががんばってると思うね。母校は全然強くないんだけど」

 そこで衣緒が首を傾げて雄輔を見上げる。

「所沢の球場は行かないの?」

「ああ、神宮の方が行きやすいから。俺の親父、明大野球部の出身で、小さい頃からよく神宮に連れていかれてたし……」

「へぇ、六大学か」

「はい、レギュラーには定着できなかったらしいんですけど」

「でもすごいよ。たいしたもんだ」

 父と雄輔が野球の話で会話をつないでいる様子を見て、衣緒はおとなしく聞き役に徹していたが、そんな衣緒に雄輔が思い出したように眼差しを向ける。

「六大学ってのは、東京の大学野球リーグのことな」

「そうなんだ」

 雄輔のさりげない気遣いに草平が満足そうに目を細める。

「それで、里村くんは今は野球の代わりに読書に夢中というわけだね」

「はい」

 と、そこで。

「お待ちどう!」

 威勢のいい声と共にテーブルに盆が運ばれ、そのボリュームに雄輔が腰を浮かしかける。

「で、でかっ……!」

「はは、すごい大きさだな」

 食欲をそそる鮮やかな夕焼け色のソースが絡んだ巨大なエビがごろごろと盛られた皿に、雄輔はしばし無言で固まる。

「ほい! 先生と衣緒ちゃんの!」

 次々と盆が運ばれ、そのどれもが相当なボリュームであることに雄輔は呆然とマスターの背を見送る。

「……すげぇな、ここ」

「味も美味しいよ」

「じゃ、食べよう」

 三人は手を合わせて頭を下げると箸を手にした。

「うまっ……」

 エビを一口かじった雄輔が思わず声を漏らす。

「美味しい?」

「うん」

「良かった」

 草平も安心して蓮華で麻婆豆腐を口にする。相変わらず心地よい辛みが口の中に広がる。

「今は何を読んでいるの」

「今、ですか」

 エビを頬張ったまま少し顔を赤くする雄輔に、衣緒がさらりと漏らす。

「ポーの短編集読んでるよね」

「おま、見たのか……! って、あちち……」

 熱々のソースが唇に触れ、慌てる雄輔に衣緒がくすりと笑う。

「こないだ図書室で借りてたでしょ」

「ああ、うん……」

「へぇ、ポーか。なかなかいいセンスだ」

 感心した様子で声を上げる草平に雄輔は益々小さくなる。

「その前は何を読んでたの」

「ええと……、椎名誠の旅行記を……」

 予想外の名前が次々と挙げられ、草平は嬉しそうに身を乗り出す。

「また渋いものを。流行りの作品は読まないの?」

「読まないことはないですけど、なんかこう、そそられるものがあまりないというか……」

 照れ隠しに料理を掻きこむ様子を、衣緒が微笑ましげに見守る。

「ああ、それと……」

 口をもぐもぐさせてから言葉を継ぐ。

「本が好きになったきっかけは、入院中に暇だったから置いてある本を片っ端から読んだからなんですけど、今思えばその病院、やたら古い本がたくさんあって」

「なるほど」

 雄輔は少しの間口を閉ざし、記憶の箱を探った。

「確か……。ポー、ルブラン、ドイル、スティーヴンスン、ヴェルヌ……。面白くって、読み漁りました」

「それは良い出会いだったね」

「それからよく読むようになりました」

 微笑を浮かべながら頷いていた草平だったが、がつがつと食べていた雄輔の箸がふと止まる。

「……読んでる間は、野球のこと、忘れられましたし」

自らに言い聞かせるようなその言葉に衣緒がはっと息を呑み、草平は眉をひそめた。

「ああ……、野球で怪我をしたんだっけ」

「はい。頭を、やりまして」

「野球って怖いんだね」

 ぽつりと呟く衣緒に、草平は「スポーツはみんなそうだよ」と返す。

「でも、不思議だね。君が野球を続けていれば本好きになることもなかったかもしれない。怪我をしなければ今頃図書委員にならず、野球部にいただろう?」

「多分」

「今君が言った作家や作品とも出会えなかったろうね」

 その言葉に雄輔は神妙な顔つきで頷く。確かに、読書をすることで自分の心の世界は広く深くなった気はする。

「野球を続けていれば、それこそ別のたくさんの出会いがあっただろうけどね」

「そういえば」

 衣緒が控えめに言葉を挟み、雄輔が振り返る。

「父さんが福井を出た時に、熊谷じゃなくて別の街を選んでいたら、私今頃、皆と出会えなかったな」

「そうだな」

 しばし三人が無言で箸を進める。と、不意に草平が思い出したように顔を上げる。

「そうか」

「なに?」

 首を傾げる娘に、草平が上機嫌に笑いかける。

「ふたりには感謝してもらわないとな。僕が熊谷に移住しなければ、衣緒も里村くんも出会うことはなかったんだから」

 途端に、衣緒と雄輔が顔を見合わせる。そして、赤面した互いの表情に狼狽えて目を伏せてしまう。

「父さん……!」

 衣緒が非難めいた声を上げた時。

「ほい、お待ち!」

 割って入るように主人がテーブルにどんと何かを置く。見ればオレンジジュースの瓶だ。

「これは俺のおごり!」

「マスター」

 主人はにかっと笑うと片目を瞑ってみせ、颯爽と踵を返す。

「あ、ありがとうございます……!」

 慌てて礼を言う雄輔に、主人は手を振りながら厨房へ帰ってゆく。

「――でもね、感謝してるのはむしろ僕の方だよ」

 皆のグラスにジュースを注ぎながら、衣緒が父の言葉に顔を上げる。雄輔ももぐもぐと咀嚼しながら草平を見つめる。

「衣緒は毎日楽しそうに学校へ行っている。それだけで本当に嬉しいんだ。君やクラスメートのおかげだ。ありがとう」

 衣緒と雄輔は再び顔を見合わせた。そして、今度は照れながらもはにかんで頷き合う。

「それに、今回のこともそうだ。里村くんが一緒にいてくれたおかげで大事に至らなかった。助かったよ」

「お役に立てて……、良かったです」

 恥ずかしそうにぼそぼそと呟く雄輔だったが、少し顔をしかめて衣緒を振り返る。

「……結局、体調不良の原因は?」

 答えに詰まった衣緒だったが、なんとか頭の中で言葉を選ぶ。

「寝不足と……、食事抜いたせいだと、思う」

「気を付けろよ」

 低い声で呟かれ、衣緒は殊勝げに頷いた。

 そんな調子で、食事は終始和やかに行われた。予想外のボリュームではあったが、それでも雄輔はぺろりとエビチリ定食を平らげてみせた。

「ありがとうございました! またお待ちしとります!」

 元気のいい主人の声に送り出され、三人は春城飯店を後にした。

「ふぅ」

 雄輔はぱんぱんになった腹をさすって息をついた。

「腹いっぱい……」

「美味しかったでしょ」

「うん」

 衣緒の問いに満足そうに笑ってみせる。

「衣緒」

 父の呼びかけに振り返ると、手に何かを握らされる。

「駅前でお茶してきなさい」

「えっ」

 びっくりして手のひらを開くと紙幣が二枚。困惑の表情で雄輔を振り返ると、彼も慌てた様子で手を振る。

「い、いや、もう、お腹いっぱいですし……!」

「せっかくここまで出てきたんだ。ふたりで話をしてから帰っても罰は当たらないだろう」

 機嫌よく言う草平にふたりはおろおろした様子で立ち尽くす。が、

「じゃ、里村くん。これからも娘をよろしく。仲良くしてやってくれ」

「あ、はい……」

 草平は穏やかに笑うと手を振り、そのまま背を向けて帰途についてしまった。ふたりはぽかんとした表情で見送っていたが、やがて衣緒が困ったように見上げる。

「……どうしよう」

 再び腹をさすって黙り込んでいた雄輔は、やがて苦笑いを漏らす。

「じゃあ、なんか飲みにいこっか」

「うん」

 ふたりは駅前までやってくると、適当なカフェを見つけて入った。日曜日の昼過ぎだが、そこまで込み合ってはいない。雄輔はコーラ。衣緒はホットのレモンティー。テーブルに腰を落ち着け、飲み物が出されると雄輔は溜め込んだ息を吐き出してテーブルの上に伸びてしまった。

「疲れたあ……」

「ごめんね、付き合わせちゃって……」

 申し訳なさそうな衣緒の声に、雄輔は疲れ果てながらも笑顔を見せる。

「いや、それはいいけどさ……、とにかく緊張したよ!」

 それはそうだろう。理由があったとはいえ、クラスメートの父親と食事をする羽目になったのだ。

「でもさ」

 雄輔は体を起こすとストローでコーラを一口飲んでから身を乗り出す。

「今日の感じだと、仲直りできたのか」

 衣緒は寂しげな微笑を浮かべると目を伏せ、頷いた。

「……なんだ、嬉しくなさそうだな」

 腕を組み、テーブルに突くと上目遣いに見つめる。衣緒は少し迷ったが、思い切って口を開いた。

「……女の人とご飯に行ったって、言ったでしょ」

「うん」

「告白されたんだって」

 その言葉に雄輔はがたんと音を立てて身を乗り出す。

「本当かよ……!」

「うん。……そうなるんじゃないかって、思ってた」

 寂しげな声音に雄輔は眉をひそめた。衣緒は溜息をつくとレモンティーを口にした。

「それで、お父さんどうしたんだ」

「それがさ、聞いてよ。父さん、怖気づいちゃって」

 急に明るい口調で答える衣緒に、雄輔はひそかに痛ましそうに口をつぐむ。

「ちょっと待ってほしいって保留しちゃったんだって。本当、かっこ悪いったら」

「佐倉」

 たしなめるように呼びかけられ、衣緒はきゅっと唇を引き結んだ。テーブルの上で握った拳が小さく震えている。ぎこちない沈黙の後、重い口を開く。

「……いつか、こんな日が、来るんじゃないかって思ってた」

 寂しさに満ちた言葉がひとつずつ零れ落ちる。雄輔は目を逸らさず、真っ直ぐ見つめながら頷いた。

「……でも、しょうがないよね。父さんは独身なんだからさ、そういうことがあっても当然なわけで」

 そこで言葉を切り、長い溜息を吐き出す。

「お父さんは、どうするって?」

 雄輔の問いに首を振る。

「わからない。迷ってるみたい。私は、反対しないから付き合ってみればって言ったんだけど」

「そっか」

 衣緒の言葉に雄輔は微笑んだ。

「偉かったな」

 思いもよらない言葉に、衣緒は胸を突かれて目を見開いた。これでよかった。自分がしたことは間違っていない。そう思うと安堵の気持ちに満たされてゆく。衣緒はほっとした表情で息をついた。だが、

「おまえも……、迷ってるのか?」

「えっ」

 目を瞬かせると、雄輔は真顔でじっと見つめてくる。わずかに困惑の表情を浮かべる衣緒に、雄輔はおどけたように肩をすくめてみせた。

「こう見えても、あれからずっとドキドキしてるんだぜ。いつか、おまえが俺を避けるようになるんじゃないかって」

 衣緒ははっとして口許を覆った。夜の公園で告げられた言葉。その後に交わされた口付け。あの日の出来事が一気に鮮明に蘇る。その翌日、これ以上雄輔と一緒にいてはいけないと思った衣緒は、彼と距離を置こうと敢えて冷たい態度を取ったのだ。雄輔は傷ついたに違いない。彼は穏やかな表情のまま言葉を継いだ。

「俺のこと嫌いじゃないって言ってくれたけどさ、次の日あんなに機嫌が悪くて。やっぱ俺嫌われたんだなって。でも、やっぱり放っておけなくて」

 店内の潮騒のようなざわめきが一瞬にして聞こえなくなる。この空間に雄輔とふたりきり。雄輔の胸の内を思うと心が苦しい。今更ながら、自分の弱さを思い知らされる。衣緒は胸許のカットソーを握りしめた。しばしの沈黙。雄輔はやや強張った表情で居住まいを正した。

「俺、やっぱりおまえのこと好きだ」

「里村くん……」

 思わず怯えた声を漏らす。

「おまえは、俺のことどう思ってる?」

 肝心な問いには言葉が出てこない。何と答えれば良いのだ。自分にとって雄輔はかけがえのない大事な存在だ。大事だからこそ、傷つけたくない。何より、自分の本当の姿を知られたくない。衣緒の脳裏に様々な思いが浮かんでは消えてゆく。どうしよう。衣緒は顔を伏せてしまった。

「……佐倉」

 穏やかな声色。

「おまえ、言ったよな。自分は人と違うって」

 ぎくり、と体が揺れる。

「違ってて当然だろ。誰でもいいわけじゃない。佐倉だから……、好きなんだし」

 さすがに照れがあるのか、声のトーンが落ちる。

「そのままでいいよ」

 はっと顔を上げる。穏やかな表情で自分を見守る雄輔が、そこにいた。

「変わろうとしなくていいよ。今のままでいい」

「里村くん」

 震える声に雄輔は口をつぐんだ。雄輔の顔が見ていられず、顔を伏せると小刻みに呼吸を繰り返す。変わりたくない。今のままでいたい。このままの自分で、一緒にいたい! こみ上げてくる言葉。なのに、喉許に引っかかり、外へ連れ出せない。衣緒は苦し気に顔を歪め、震えながら囁いた。

「……里村くん」

 衣緒はぎゅっと目を閉じた。

「私、優しい里村くんが、大好き」

 ひとつひとつ噛みしめるようにして囁いた言葉に、雄輔が息を呑んで身を乗り出す。

「佐倉」

「でも、私」

 目にいっぱいの涙を溜めて顔を上げるとそこには、眉をひそめて両目を見開き、衣緒が続ける言葉に不安でいっぱいの表情の雄輔がいた。こんなに不安にさせてしまった。衣緒は申し訳ない気持ちで胸が張り裂けそうだった。

「……ごめんね、私、人と、違いすぎるの。違うところが、多すぎて……」

「何が駄目なんだ?」

 どこか切羽詰った声色で雄輔は問いかけた。

「何が不安なんだ? 何が心配なんだ? ひょっとして、お母さんのことか?」

 衣緒は震えが止まらない両手で口許を覆い隠した。その、指と指の隙間が目に入らないように目を閉じる。と、ぽろぽろと涙が頬を伝う。

「佐倉」

 慌てた雄輔が体を乗り出すと、そっと肩を撫でる。

「お、俺さ、馬鹿だから、この間みたいに無神経なこと言っちまうかもしれない。でも、がんばるよ。おまえの気持ち、ちゃんとわかるようにがんばる」

 カーディガン越しに伝わる雄輔の手の温もり。大きな手。その温かさだけで、衣緒は胸が詰まる。がんばるという、その言葉が心強かった。彼の側にいれば、同じように強くなれるだろうか。衣緒は瞳を開いた。

「……里村くん」

「うん」

「……て、くれる?」

「え?」

 眉をひそめ、耳を傾けてくる雄輔に囁く。

「一緒に……、いてくれる?」

 驚きの表情が広がり、口を半開きにして凝視していた雄輔は慌てて頷いた。

「私、これからも、里村くんと、一緒にいたい」

肩を撫でる雄輔の手が止まる。

「……付き合って、くれるか?」

 無言で頷く衣緒に、雄輔はがっくりとテーブルに手を突いて項垂れる。

「……良かった!」

 今まで聞いたこともないような情けない声に、思わず衣緒は泣き笑いの表情になる。自分がこんなにも人の心を揺り動かしていた。そのことに戸惑いながらも、衣緒は不思議な温かさを胸いっぱいに感じていた。やがて雄輔はコーラを飲み干すと大きく息をつき、辺りを見渡した。周りの客には気付かれてはいなかったようだが、スタッフは何事かとそわそわした様子でこちらを覗っている。

「……出ようか」

「うん」

 衣緒もレモンティーを飲み干すと席を立った。

 カフェを出ると、すでに陽射しは夕焼けの色に染まろうとしている。駅へ向かう人々と、駅から出てきた人たちが往来する沿道で、衣緒が西日に左手をかざして目を細めた時だった。雄輔が右手をそっと握ろうとしてきた。が、衣緒は反射的に息を呑んで手をひっこめると胸に押し当てる。

「あ――」

 瞬間、雄輔の困惑の表情が目に飛び込み、衣緒は慌てて弁解の言葉を探した。

「ご、ごめん……! あ、あのね、私、その、昔、手を怪我して……、触られるとびっくりしちゃって……」

 怪我という言葉に雄輔は顔をしかめた。

「それで、緋紗人の手を振り払ったのか」

「えっ」

 今度は衣緒が眉をひそめ、雄輔は「あっ」と口を押えた。

「……見てたの?」

 低く問いかけると、雄輔は悔しそうに天を仰いだ。

「……ごめん。見ちまった」

 重い溜息を吐き出すと、肩を落とした様子で呟く。

「……白状するよ」

「里村くん……?」

 ただならぬ様子に、何を言いだすのかと衣緒は怯えた面立ちで見守る。

「……俺、臆病だからさ。おまえとは、友達のままでいいって、思ってた」

 そこで言葉を切り、息を継ぐ。

「一緒に登下校して、一緒に図書室でしゃべってさ。それだけで、俺、幸せだったんだ。余計なこと言ってぎくしゃくするぐらいなら、友達のままでいい」

 思い詰めた表情で、一語一語ゆっくりと語る雄輔に、衣緒は息をひそめて耳を傾ける。

「……でもさ、緋紗人が来てから」

 再び挙がった緋紗人の名に、思わず眉根を寄せる。

「初めて、思ったんだ。おまえを取られたくないって」

 これまでずっと隠してきたことをようやく口にし、雄輔は肩の荷を下ろしたような表情で息を吐き出した。

「……そういう意味じゃ、あいつに感謝してるよ」

「里村くん……」

 雄輔は疲れた笑みを浮かべて肩をすくめた。

「あいつさ、俺たちのことくっつけようとしてたろ。それでも、心配で心配で……。だってあいつ、見てくれもいいし、面白いし、いい奴だし」

「私は」

 衣緒は思わず強張った声色で口を挟んだ。

「里村くんが好きだよ」

 やや唇を尖らせ、どこか必死な表情で見上げてくる衣緒に雄輔は気圧されるようにごくりと唾を呑み込んだ。

「尾咲くんは確かに面白い人だけど、私は優しい里村くんが好き」

 カフェの軒先で見つめ合うふたりを、西日がオレンジに染めてゆく。やがて、自分の言葉に今更ながら赤面した衣緒が両手で顔を覆う。

「……ごめん」

「あ、謝ること、ねぇよ……」

 雄輔は髪の毛を掻きむしると顔を上げ、駅に目を向ける。

「……行こっか」

「……うん」

 ふたりは連れ立って駅に向かった。いつも登下校の時にはふたりの間に雄輔の自転車がある。が、今はふたりを隔てるものは何もない。なのに、このもどかしい距離はなんだろう。衣緒はそっと雄輔の横顔を見上げた。夕日に染まった横顔。どこかまだ戸惑い、だがそれでも達成感も見え隠れする表情。そして、いつもと変わらない、幼い子どものような面立ち。衣緒はおずおずと手を伸ばした。思い切って雄輔の指先を握る。と、ぎくりと全身を跳ねらせる彼にくしゃりと顔がほころぶ。しばし緊張感をみなぎらせた顔つきをしていた雄輔だったが、いきなり彼女の腕をぐいと引っ張った。

「あっ……!」

 引き寄せられたかと思うと、腕を組まれる。二の腕に雄輔のたくましい腕が触れ、温もりが伝わる。衣緒の胸が早鐘のように打ち鳴らされる。

「……腕なら、大丈夫?」

 耳許に降り注ぐような囁き。衣緒はこくりと頷いた。雄輔はほっとして顔をほころばせると、ゆっくりとした足取りで歩みを進めた。

 このまま、ずっと一緒に歩いていたい。

 衣緒は両手で雄輔の腕を抱いた。ちょっと驚いたように振り返る雄輔だったが、すぐに嬉しそうに笑顔を見せる。ふたりの横顔を、赤みの増した夕焼けが染め上げていく。優しい温もりに全身を包まれながら、衣緒の胸にはどこか懐かしさを感じていた。そうだ。こんな風に、柔らかな温もりにいつも包まれていたのだ。小さい時から、ずっと。雄輔は、父に似ている。ぼんやりとした感覚は今、確信に変わった。

 ふたりの頭上に広がる夕空のはるか上空。オレンジに染まる空間を黒く裂く者がいた。一匹のカラスが空を大きく旋回し、やがてビルの屋上へ向かって降下する。カラスは差し出された白い腕に留まると羽を揺すって納める。頭と背を撫でられ、カラスはその鋭い目を細めるとおとなしく体を預けた。カラスを撫でながら、男は眼差しを空へ投げかける。焼けるような陽の名残りをいっぱいに受けたビルの屋上で、男は眼鏡越しに目を眇めた。

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