蝉の声が聴こえない
鳥辺野九
蝉の声は聞こえない
僕らの親がちょうど僕らの年代の頃は、夏に摂氏30度を超える日なんて珍しくもなかったらしい。と言うか、当然の事だったらしい。
夏休みの補習授業後、僕は誰もいない教室でぼんやりと窓の外を眺めながら、古い映画の中でしか聞いた事がないセミの鳴き声を探していた。やはり、それは聴こえない。セミはすでに絶滅したからだ。夏の平均気温が摂氏18度を割り、日本の夏から昆虫達が消えた。
僕が生まれる前から夏は徐々に温度を下げ、地球はどんどん冷えていった。
「ようっ、少年よ。何を窓辺で黄昏ているんだ?」
校則ギリギリの栗色の髪をショートボブにまとめた霧子が僕の真横に飛び出してきた。窓から身を乗り出すようにして、少しひんやりと冷たく感じられる外の空気に上半身を晒す。
「黄昏ているって何だよ」
「いやあ、今日もあっちいね。よくこんなとこで黄昏てられるわ」
霧子は大きく開いたシャツの胸元をパタパタとはためかせて冷たい空気を胸に送り込んだ。シャツがひらめく度に、霧子の胸元にチラリと肌色と白いレースの布地が覗き見え、僕は思わず顔を背けてしまった。
「黄昏てなんかいないよ。スマホの充電だ」
霧子から見えない角度でこっそりとスマートフォンの背面ガラスをスライドさせて充電パネルを引き出す。今日の太陽の照り具合なら十分もすればフルチャージ出来るだろう。
ヒートストレージデバイスが熱をぐんぐん溜め込んでいるのが、スマホを持つ手がじわじわと冷えてくるのでよく解る。霧子は僕の手元を覗き込み「私も充電しよっ」とスカートのポケットからスマホを取り出し、僕のスマホの隣に並べた。
「暑いからすぐチャージ出来るね」
天気予報では今日の最高気温は15度のはず。僕にとってはワイシャツにもう一枚羽織ってもいいくらいだが、霧子は相変わらず暑そうに胸元をひらひらとさせている。
「ね、蓮二」
「何だよ」
「見えちゃった?」
「何が?」
霧子が胸元をパタパタと扇ぐのをゆっくりとさせて、身体をよじるようにして僕へ肩を寄せてきた。
「ブラ」
「知らねーよ」
しっとりと汗に湿ったなだらかな胸の谷間なら見えてしまったが。
僕にとっては涼しいなんてレベルじゃない八月の直射日光が降り注ぐ校舎だが、霧子にとっては蒸せるような汗ばむ暑さのようだ。汗でシャツの薄い生地が地肌にぴったりとくっついてしまって、霧子の身体のラインが手に取るように見えてしまっている。
「ウソ。ガン見してるくせに」
いつの頃からだろう。地球がこんなに、狂ったように冷えてしまったのは。
ちょうど今日の補習授業の物理でやったところだ。熱量保存の法則、その応用だ。
ネットの受け売りだが、30年ほど前にかつて存在した中国と呼ばれた国で科学技術的特異点のブレイクスルーが発生したと言う。
それがヒートストレージデバイスだ。周囲の熱を吸収し電気を生み出す革命的新素材だ。そのデバイスがそこに存在するだけで熱が電気へと変換されると言う奇跡のような発見で、まさに技術的ブレイクスルーが起こったのだ。
しかしその無尽蔵に電気を生み出す新素材を奪い合い、中国は激しい内戦状態に陥り、七つの国と地域に分断され、そして何かが起きて、かつて中国があったとされる大陸は広大過ぎる砂漠地帯となっていると言う。
その後、新素材は各国が慎重に解析し、現在の形に至る。一般人のスマホに搭載される程に小型量産化され、人類は無限の電気エネルギーを獲得したのだ。石油、原子力、メタンハイドレート、ヘリウム3に頼る事もなくなり、無尽蔵の電気エネルギーは世界中の人々に豊かさを与え、そして、暖かさを奪っていった。
それからだ。地球が少しずつ冷えていったのは。今ではロシアやカナダ、北欧地方はもはや人が住める気温ではなくなった。赤道直下のアフリカですら気温低下現象が起こって、温暖な気候となって砂漠が緑地化され、地球規模での食糧生産プラント建築ラッシュが展開した。北極と南極の海はさらに凍り付いてその氷の体積が増えた分だけ海面上昇現象が発生し、南太平洋に浮かぶ小さな島国に致命的なダメージを与えている。
ネットの都市伝説だ。ヒートストレージデバイスは外宇宙よりもたらされた技術であり、それによって地球は侵略されているんだ。冷却された地球を狙っている宇宙人がいるんだ。もしもその素材の使い方を誤れば、中国のように砂塵と化すだろう。
それでも僕らはヒートストレージデバイスでスマホを充電し続ける。少しくらい寒くなったって、便利なんだからしょうがない。
「若くて健康な男子が女子のブラチラを見逃す訳ないじゃない。どう? ムラムラしちゃう?」
「推定Aカップが何を言ってんだよ」
「Aカップ言うな。微乳って言うの」
「意味変わってねーよ」
「見たいって言うなら別に見せてあげてもいいけど、ちょっとゆうべ脱皮に失敗しちゃってさ、背中がザリザリだから後ろはダメよ」
「……脱皮?」
不意に耳慣れない言葉が飛び込んで来て、僕は思わずその言葉を霧子へと打ち返すように言った。霧子も自分自身がその単語が口をついて出たのにびっくりしているようで、アヒルみたいなまん丸い大きな黒目をパチクリさせて、たっぷり数秒間僕と見つめ合い、今さら慌てて小さな手で口を塞いだ。
「霧子、何言ってんだ?」
霧子は黙ったままいかにも恐る恐ると言った具合で両手で僕の頬に触れた。その両手はやけに冷たかった。
「蓮二って、ひょっとして、まだなの?」
両方の頬に触れている霧子手のひらが、細い指先を使って僕の耳の方へにじり寄ってくる。自然と霧子の顔も僕に近付く。吐息が感じられるほど近くに霧子がいる。その大きな瞳に僕が映っている。
霧子の指が僕の耳たぶに届いた。そのままか細い指は耳の裏側に回り込み、何かを探すように丁寧に頭皮まで指を這わせた。それでも目的の物が見つからなかったのか、霧子は片手を僕から離し、自分の耳元へと持っていく。
「これ、わかる?」
まるで自慢のピアスを見せびらかすように、霧子は自分の耳をめくって裏側を見せてくれた。栗色の髪がわずかにかかって、柔らかそうで噛んだら美味しそうな耳の裏にはたくさんのひだひだがあった。
「これはね、冷却器官。地球は私達には暑過ぎる惑星なの」
冷却器官。それは言うなればラジエターのようなものか。体外に出た器官で血液を冷却して脳に送り込む訳か。霧子は、いや、霧子の形をしたそいつはまた僕の耳元を覆うようにしていた片手を頬までずり落として言った。
「少しずつ、少しずつ、私達は浸透していったの。まだ身近に手付かずの人間がいたなんて、気付かなかった」
自分の耳を摘まんでいた手を首に持っていき、ワイシャツのリボンタイを解いて胸のボタンを外す。汗ばんでしっとりと濡れた肩が露わになった。
僕と霧子以外誰もいない教室で少しの間見つめ合う。
それを僕は自分でも驚くくらい冷静に客観的に見ていた。ヒートストレージデバイスはやはり侵略者がもたらしたものだったのか。地球の熱を奪い、自分達の棲みやすい環境へと変える。テラフォーミングが行われていたのだ。ここまで用意周到にやられては、もはや太刀打ちなんて出来やしない。
「私ね、蓮二の事、好きだから、生まれたての私をみせたげる。ね」
それが霧子の形をしているから、僕は動けずにされるがままなんだろう。この冷え切った地球がどうなろうと知った事じゃない。誰が棲もうと関係ない。霧子がいるか、いないか。問題はそれだけだ。
「大丈夫。私は霧子。本質は変わってないよ」
僕の心が霧子の中に流れ込んだのか、霧子はにっこりと笑ってくれた。
「スマホとSIMカードみたいなもの。私達の関係って。ただちょっと、暑くて大変なの。もうちょっと冷やさないと、ね」
濡れたキャベツが破けるような音がした。柔らかく裂けたそいつは、大きく目をしばしばとさせてくしゃみを我慢するように鼻の頭をしわくちゃにした。むず痒い背中を何とか壁に擦りつけて掻こうとしているように身をよじらせて、手を使わずにシャツを脱ぐように、小刻みに細い撫で肩を揺らした。
新しい皮膚と古い皮膚との間に空気が入ったのか、霧子の顔が少しだけ膨らんで見えて、すぐに濡れた頬の輝きが濁って消えて、薄皮の向こう側に目を閉じた霧子がいると解るくらい皮がゆるゆるになった。
「感覚が鋭敏になるって言うか、あっ、脱皮すると、敏感になっちゃうの」
両手を僕の頬に添えたまま、くぐもった声で霧子は言う。腕の皮の中でうごめく新しい腕がよく見える。
霧子の背中が大きく裂けたようだ。風呂上がりみたいな艶やかな桃色に染まった細い肩が現れた。ぬらぬらとして薄皮がまとわりついた黒髪が頭をもたげる。べりっと、すっかり薄っぺらくなってしまった古い霧子が剥がれ落ちる。古い霧子を脱ぎ捨てた新しい霧子が生まれたての姿で僕の前にいた。
新しい霧子が目を開ける。僕を見て、ゆっくりと微笑む。霧子がペロリと舌を出すと、そこにはチップ状のヒートストレージデバイスがあった。
それが霧子の、奴らの本体か。いや、違う。あれは僕だ。新しい僕になるヒートストレージデバイスだ。僕は熱を電気へと変換して生きていくんだ。
漠然と、人類はもう蝉の声を聞けないんだな、と思った。
蝉の声が聴こえない 鳥辺野九 @toribeno9
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