第8話 振り出し
ガチャッ、ゴトン
と硬いものがぶつかるような小さな音が1度だけ聞こえた。
「お客さんかな」
不在にしていた後ろ暗さもあり、環は階下の店舗スペースに下りていった。
昨日、半分開けて出かけたカーテンは全部ひかれており、引き戸もぴったりと閉じていた。誰かが気を利かせて戸締まりをしてくれたらしい。
店内は薄暗いが、なにも見えないほどではない。
「坂下のおばあちゃんかな、いらっしゃい、いま開けるね。」
いいながら、カーテンを全開にし鍵のかかっていないガラス戸も開ける。ガラガラというやかましい音と一緒に、暖かく緑の香気を帯びた風がさっと入ってくる。
日差しの中で振り返って、客を探したが気配はない。店内を一回りしてみたが、誰もいない。
気のせいか。
ネズミでも出たのか。
ふと、手前の商品棚を見下ろしたとたん、総毛立つような寒さが全身に走った。
弁当箱が、ある。
昨夜届けたはずの坤便が、なぜか戻ってきている。縞田由香里にここの住所は教えていない。一介の高校生にここを知る術はないはずだ。
「だかラ言ったロウ。一筋縄ジャいかない事案なのサ」
いつの間にかライが足下にいた。こざかしくも,店頭に出る際は柴犬くらいの白い犬に化けている。同じ動物でも、白いだけで人間はかわいがるからそうだ。嫌なヤツ。
「あんた、なんか知ってるの?」
「教えてやったら、食わせてクレるかい」
「馬鹿言わないでよ。あんたに食べさせたら、仕事が終わらないじゃない。いいから、教えなさいよ。ぶん殴るわよ」
「冗談さ。アンタにワ世話になってるから、少し教えてヤルよ。その荷物、届けたらしばらく見張っていてゴランよ」
「まさか、この弁当箱が飛んで帰ってくる訳じゃないわよね」
「さあ、当たらずとも遠からズかもしれないよ」
ライは思わせぶりな口ぶりで言うと、スーッと朝日に溶けるように消えた。
呆然としつつも、どうなっているのか思考を巡らせていると「あいてるわね」という声でわれに返った。
「あ、小宮さん。おはようございます」
通りの向かいに住む主婦だ。オッチョコチョイな性格らしく、買い忘れを補充するために営業時間を無視して頻繁に買い物に来る。
「よかった。環ちゃん帰ってたのね。朝からのぞいてたんだけど、カーテンが開かないから、家の前を掃除しながら待っていたのよ。あのね、クレンザーあるかしら」
「すみません。昨夜は遅くまで配達だったんです。勝手に入ってもらって構わなかったのに」
「いつもならそうするんだけど、今日は注文したい本もあったから、環ちゃんを待っていたのよ」
環の母親くらいの世代では、本はわざわざ注文しなくてもインターネットで買えることをあまり知らない。知っていても、相手の見えない買い物は怖いから、本屋で注文するものだと思っている。
「はいはい、承りますよ」
昨夜テレビで紹介されていたらしい健康関連の本の注文を受け、クレンザーと共に会計を済ませてから、ふと尋ねてみた。
「小宮さん。今朝は何時くらいからウチの前にいました? 誰か入ってきませんでした」
「そうね、30分以上は掃除していたわよ。その間人っ子ひとり通らなかったわよ。ま、ずっとお店を見ていたわけじゃないけど……。もしかして、何かなくなったの」
「あ、いえ。誰か来たような感じがしたので」
先ほどの物音は例の弁当箱の音だと思われるのだが、その音がしたときには来客はなかった、ということが小宮さんの証言からわかる。
それ以前に、もし誰かが入ってきたとしたら、弁当箱の音だけでなく、ガラス戸を開ける音がするはずだ。
弁当箱は夜中から早朝の間に置かれたのか。
不思議そうにしているお向かいさんを送り出してから、店先の不在札と料金箱を回収する。
昨日は、あれから数人の客が来たようで、客が入れたメモと、小銭、札が数枚入っていた。
料金箱の金額をゆっくり確かめてから、仕方なく弁当箱に向き直る。
認めたくないが、同じ弁当箱だ。
触りたくないが、また届けなければならないだろう。
弁当箱は昨日と同じ重さで、結び目1つ変わらないようすで環の手の上で鎮座している。
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