第7話 ライ

結局その日は、実家に寄らずに乾坤一擲の2階に戻った。

なぜか手足が異常に重だるかった。

やっとのことで単車を元に戻し、明日からの雨に備えて、適当にカバーをかける。

裏口に、注文しておいた食材などが入っている発泡スチロールの箱がぽつんと置いてあった。これがあれば、少なくとも数日は買い出しに行かなくてもなんとかなるだろう。


「あーあ。なんか後味悪い初仕事だけど、こんなものか」


また大きな独り言をこぼしながら階段を上がると、暗闇に薄ぼんやり光るものがある。


「久しぶりじゃん」


今度は独り言ではない。

光源に話しかけた。

光はぼうっと大きくなり、オオカミほどの犬の姿になった。


「アンタ、ずいぶん美味シイ匂いさせてるじゃナイ」



「ああ、実家で鍋をつついたよ。何年ぶりかねえ、家族団らんってやつ」


環の乾いた笑いを遮って、犬は独特のイントネーションで話す。


「人間ノ食いモノなんかに興味はナイね。アンタの体にまとわりついているのハ、腐った魂の残り香ダ。いい感じに熟れてるじゃないカ。ヨコシナヨ」


「ずいぶん意地汚い犬だね。残念だが、お届け物でね。もう渡してきちゃったよ。腹が減ったんなら、外にたくさんうろうろしてるだろうに」


この犬の形をしたものは、ライという。姿は犬のようだが、やけにしっぽが太いので狐かもしれない。

環がこの店を継いだ頃に急に現れた何らかの霊体だ。環に吸い寄せられるまつろわぬ者と違い、店内ばかりか2階の住居スペースにも勝手に上がってくることができるので、うっとうしい。

まつろわぬ魂ではなく、狐狸妖怪の類いなのかもしれない。

その気になれば一般人にも姿を見せることができるらしく、近所の人は、店の飼い犬だと思っている。しかし、飼い犬なんて可愛いものではなく、牝狐のような嫌みったらしい、したたかなヤツだ。

腹が減ると、気が向いたようにやってきて、環に食事をねだったり、外をうろうろする者をいくつか吸い込んでいったりする。

まとわりつく奴らを間引くのに便利なので、追い払いはしないが、勝手すぎるのが困りものだ。


「おや、初仕事カイ。アンタのオヤジも仕事の後ハそんな顔をしていたンダ。あれは魂の力ヲ吸い取るからねえ。それにしてモいいにおいダ。相当な上玉ジャないか」


「においをかいでいたって、私を食ったって腹はふくれないよ。それにもう仕事は終わった」


環は精一杯、迷惑そうに言ってみた。


「サア、どうかね。この魂は意外とやっかいカモしれない。混ざりモノもあるようダ」


「なに? もっと具体的に言ってくれないとわからないよ」


「初仕事にしチャア、骨が折れそうだが頑張るんダネ」


「ちょっと! ライ! ……くそっ」


壁を抜けてスタスタと歩いて消えてしまったライに毒づいた。

しかし追いかけるのも、考えるのも、何かをするのもおっくうだった。

環はシャワーだけをさっと浴びて、寝ることにした。

あんなに食べたのに、妙に空腹だった。

しかし、昼に握ったおにぎりを食べる気がしなかったので、ライのために食卓に放置しておいた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「ぬうー、腹が減った!」


空腹で目を覚ますのは何年ぶりだろう。

今すぐ何でもいいから食べたい気分だが、ごはんも炊いていないし、着替えて外に出る気もない。

こういうときに限ってあり合わせで腹を満たすのは負けた気がする。体が欲するものをしっかり食べるべきだ。


環は米をとぎ、炊飯器にセットしてから、昨夜届いたまま冷蔵庫に突っ込んでおいた発泡スチロールの箱を開けて、食材を取り出した。


この間も腹はグウグウ、ギュルンギュルンとBGMを奏でる。


シメジは手で裂き、インゲンは細く切る。オリーブオイルを引き、みじん切りにしたニンニクと塩で炒める。味付けはこれだけ。

次に、塩鯖の皮に切れ目を入れて、焼き魚コンロにセットする。

その間に、ジャガイモをクシ切りにして軽くレンジで火を通した後、バターとベーコンとともに炒めクレイジーソルトで味付けし、盛りつけたらバルサミコ酢を少しとパルメザンチーズをたっぷり振る。

水をよくきったキャベツは手でちぎり、ごま油と塩昆布とあえる。飾りにプチトマトを乗せる。

ちょうど、早炊きしていた米が炊けたので、焼きたての塩鯖を皿に乗せ、食卓に運んだ。


「よし。いただきます」


気合いとともに一礼した環は、猛然と食事をかきこみ始めた。

リビングには、環がリズミカルに咀嚼する音だけが静かに響く。

テレビも新聞も、雑誌も読まずに無心で食べ続けるのも久しぶりだった。改めて体に染み渡っていく食べ物という力強さに、畏敬の念を覚えた。


3膳おかわりしたところで、おかずがなくなったので、作り置きしておいた大根の葉とジャコの自家製ふりかけを取り出してきて、ゆっくりと腹に収めた。


満たされた幸福感を麦茶で流し込んでいいると、階下で音がした。

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