三節 緑の海の上で踊る
緑の記憶
「行くよ、シャルセ」
「さぁこい!」
エッジールは踏み込んで、左拳を軽く放った。
緑髪の少女はそれを掻い潜るのを見てから、左手を引き戻しつつ膝蹴りを放つ。少女は片手でそれを受け止めた。そこまでは予定通り。掴まれる直前にすっと足を引くと、少女の姿勢がやや崩れた。その勢いで右拳でアッパーカットを放つ。
「あまぁーい!」
少女はそれを片手で受け止め、勢いで後ろへ飛びのいた。
「拳は鋭く! 腰で打て! 上半身だけで打っちゃ遅いよ!」
指摘する少女へ、エッジールは更に距離を詰める。僅かに浮き上がった少女は今小のときだけは逃げられない。エッジールが間合いに捉え、拳を放ち始めてようやく、少女の足が土を踏んだ。
「いいね!」
命中を確信するエッジールに対して、緑髪の少女はにやっと笑って、エッジールの右腕を絡め取る。そして地を蹴った。
「でもっ」
「んな」
「どーかな!」
エッジールの腕を掴んだまま、少女は頭上を飛び越して背後へ降りようとする。腕を拗じられる前に、エッジールは少女の身のこなしに合わせて体を回した。
そこで少女がくんっと腕を引けば、エッジールは前のめりにつんのめる。
「ほらそこっ!」
「ぐっ」
腹にめり込んだ拳が、その勢いに反して不思議なほど柔らかな音を立てた。
「……っと?」
エッジールは僅かに浮き上がった体を咄嗟に丸めて、宙返りの形で地に降りる。
奇妙に軽い威力に、エッジールは目を白黒させる。
「動揺したなー? びっくりしても姿勢崩しちゃダメだぞ。打たせて受けるか掴まれた手を狙うのだ」
それらしく指を振るって、シャルセは助言を口にした。
エッジールはシャルセに頼み込んで徒手格闘の訓練をしていた。
「い、今のは?」
「んー? 友達にガチ腹パンはちょっとね。だから痛くないパンチ」
「痛くないパンチ」
エッジールは納得の行かない顔で腹を撫でた。
「……痛いパンチも、あるの?」
「もっと痛いパンチもあるよ。化身したらめっちゃ痛いパンチもあるー」
やってみよっか。シャルセは気軽にそう言って、木に吊るされた丸太目掛けて飛びかかった、ようにエッジールには見えた。
何をしたのかは分からなかった。目にも留まらぬ速度で拳が放たれて、丸太に突き刺さり、丸太は奇妙なほどに吹き飛ばされず、ゆらりと後ろへ振れた。
そして、どんっと音を立てて穴が空いた。
「え」
円錐状に穴が空いた丸太がふらふらと前後し、砕け散った木屑がぱらぱらとその後ろへ飛び散っていく。
「こんな感じ。痛そうでしょ?」
「……痛そう、というか……死にそう」
「熊でも即死するよー。生き物はお腹に穴が開くとショックで死んじゃうのだ」
頭の後ろで手を組んで、シャルセはのんきに笑った。
エッジールはその拳が自分に打ち込まれた所を想像してぞっとした。化身していてもただでは済まないだろう。
「侵入者をこれでぼっこぼこにするのがあたしの仕事だーらねー」
のんびりした性格とは裏腹に、彼女は生粋の狩猟者だ。
シャルセは霊峰都市ミューブランの守人にして狩人だ。俊敏で予測不可能な動きはしなやかに地を駆ける獣に似たもの。植物系の精霊と狼の精霊の混血であるシャルセは、生まれつき木々の頑丈さと獣の俊敏さを併せ持っている。
代々ミューブランの守人を継いできたシャルセは物心ついた頃から格闘技を学んできた。生まれた時から青のメセルスの担い手として訓練を続けてきたエッジールとは似ているようで少し違う。
彼女は純粋な格闘技の達人だ。
休憩にしよう。シャルセの提案を飲み、二人は倒木を椅子に腰を下ろした。
「ミューブランの守人って、何を守っているの?」
「お、エッジールから話題を振るのは珍しいな。ラティニスのおかげかなー」
「う……うるさい。答えて」
まったくの図星で、エッジールは真っ赤になった顔を背けた。
シャルセはにやにや笑ってその頬をつついた。
「エッジールはカタいなー。意表を突かれると固まるの、良くないぞ」
う、とエッジールは内心でうめいた。ちょうど先日、飛来神群の一つ『吹き上げられる大膜』プルフトアの奇妙な能力に苦戦させられたばかりである。度々指摘される柔軟性のなさは自覚していた。
「あたしみたいにしろとは言わないけど、発想は柔軟にだぞ。それと表情も!」
「……表情は関係ない」
「あるねー。わかんないけどきっとある」
「それで、守人の話」
「あ、逃げた」
シャルセはにやにや笑いを引っ込めて、頭の後ろで両手を組んだ。
「うーんとね。ティルブの森わかる?」
「……逆さの森のこと?」
逆さの森……ティルブ大森林とは、文字通り天井から生える樹木で出来た森だ。ミューブランの地下大空洞に存在する、現存する唯一のミューブランの原生林だ。
あそこの守り人なのか。エッジールは一人早合点した。
ミューブランという山は禿山である。炭と灰がかさなってできた滅びの山だ。地表には植物の一つも生えておらず、生物が住める環境ではない。
それでもミューブランが霊峰と呼ばれるのは、そこがかつてティリビナの樹木神たちが住んだ神の居城であり、紀元神群の火神ピュクティェトの【聖絶の火】によって焼き払われた廃墟だからである。山を染める灰は神の遺灰であり、山は神の墓標でもある。故にそこには未だにティリビナの神々の力が残っているのだ。
その証拠として、山は未だに樹木の生育を受け付けず、麓ですら外来種は淘汰されティリビナに連なる樹木だけが生存している。
そして都市としてのミューブランは、ティリビナ神群の信者たちが聖絶の後に山の麓に築いたものなのだ。彼らが現存するティリビナの樹木を崇めないわけがなく、ティルブ大森林は今現在立入禁止の聖域とされている。
「あそこね、ティリビナの神様がまだ残ってるんだ」
「……は?」
「あ、これ秘密ね」
シャルセは指を口元に当ててにへっと笑った。
聖絶とは即ち神格の否定だ。
炎の紀神ピュクティェトの権能の最も恐ろしいものは、浄化と価値の消滅だ。少なくとも亜大陸ではそうなっている。全てを無価値な灰に変える力、邪と断じたものを消し去る聖なる炎……紀元神群の敵、彼らの定めた規範に逸脱するものであれば、神であろうと何者でもなくなる。
「だから聖域なんだ。レルプレア様たちが生きてるって、誰かに知られる訳にはいかないよね。バレたらきっとまた来るよ、あの火神さま」
握りしめた拳から血の気が失せる。
その前向きな笑みの失せたシャルセの顔は、冷たく鋭い猛獣のそれだった。
「だからそうなる前に、あたしらが殺す」
ミューブランの守り人とは、つまり処刑人なのだ――エッジールはずっと胸に秘めていた少女への印象にようやく得心がいった。
明るく優しい少女でありながら、皆の誰よりも獰猛なその性格……それは彼女の境遇から来るものだったのだ。
「格闘技を収めるのは、武器によって神聖なる樹木を傷つけないため。そして木々を静かに飛び渡るため。……生物の血肉は木々にとって良い栄養だからねー」
そう言って浮かべた笑みが取り繕ったもののように見えて、エッジールは返答に窮した。言うべきことが幾つもあるように思えて、それが何一つ言葉にできないことにエッジールは苛立った。
シャルセはそんなエッジールの事を見て、喉の奥で笑うと、倒木からひょいと立ち上がってエッジールに抱きついた。
「ちょっと」
「あんま気にしないでよ、エッジール。別に間違った事してたわけじゃないし」
「でも、嫌だったって顔してた」
嫌なことを喋らせてしまった。
そう思って俯いていたエッジールは、ふと顔を上げさせられた。喜色満面のシャルセが、泣き出しそうなくらいに感動した目で、エッジールを見ていた。
「な、なに」
「……エッジールが、人の表情を読んで気遣うなんて。おねーちゃん嬉しい」
「ば……馬鹿なこと言わないで。私だってそれくらい出来る」
「うおーっジルりんかわいーっ」
「うぎゃっ、やめて、やめてってば」
思い切り抱きついて頭を撫で回しにかかるシャルセをどうにか引き剥がそうとするエッジールだが、格闘技術の差がここでも
「あたしはさ、みんなと違って、高尚な理由でここにきたわけじゃないんだ」
その最中、シャルセはエッジールと頬を合わせて、ぽろぽろと囁いた。
「ミューの付き人とか、緑の適格者とか、そういうのどうでもよくて……森の外のこと、あたしが殺してきた奴らのこと、なんにも知らないなって思っただけなんだ。別に神様を裏切るわけじゃないけど……ないけど、疲れたなあ、って」
エッジールがシャルセの顔を見ようと首を回すと、シャルセはその首筋に顔を埋めて顔を隠した。
「何も知らずに迷い込んだ人も、助けを求めてきた人も、誰も彼も、一人で殺して、そういうの、もう……疲れたな、って思っただけなんだ」
エッジールは。
「あたし……逃げてきただけなんだよ」
「……大丈夫」
シャルセの頭に、そっと手を置いた。
「大丈夫だよ、シャルセ」
「……ほんと?」
「うん」
「あたしがいなくたって、大丈夫?」
「うん」
冷たいものがエッジールの肩に落ちて、鎖骨のくぼみへ流れ落ちた。
「もしあなたがそこにいなくても、そこに悪いやつがいたら……私が代わりになんとかするから」
エッジールは言うべき言葉をようやく見つけたのだ。
「嫌になったら、ダメになったら、みんながいるから」
ぼろぼろと大粒の涙がエッジールの肩に降り注ぐ。
泣きじゃくるシャルセの頭を抱えて、エッジールは自分の冷たい声音が少しでも優しくなるよう祈りながら、彼女に言い聞かせた。
「大丈夫だから」
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