三節 緑の海の上で踊る(前編)
新ボロミア王国の王、シールロウ・フィーレバッハは精霊の加護を受けている。
旧ボロミア――ボロミア神義主義連邦王国の最後の国家元首、女王ボローム・フィーレバッハが名前の無い九つの精霊を宿していたというのは、有名な話だ。
亜大陸より現れた大機竜オルガンローデの大規模侵攻を退けるなど、「王位を退いた後の方が活躍した」などと言われるボロームだが、その力の根源は内に宿した九つの精霊だったと言われている。
その息子であるシールロウは母のように精霊こそ宿していないものの、代わりに母とは違う精霊たちの加護を受けていた。
九つの白き鳥の加護である。
生まれつき宿していたその加護を、彼はずっと疑問に思っていた。
それが創世竜と同じ紀元種たる白色九祖――即ち【南東の脅威】そのものの加護であると知った時、その疑問は更に深まった。
彼の母に宿った精霊たちは、肉体を失った際に霊媒として優れた存在であるボロームに導かれて内に居着いたのだという。
故に精霊はボロームに恩義を感じ、それぞれの権能を用いてボロームを助けた。その信頼は深く、ボロームが【眷属】が差し向けた大機竜オルガンローデに相対した時、かつての仲間を裏切ってでも味方したほどだ。
だが白色九祖は、彼に宿ったわけでも力を授けたわけでもなかった。
確かに彼の霊格は高まり、母より増して眉目秀麗な美貌を得て、健康で無病息災に育った。だがそれは教会で神々に祈りを捧げ、母親が生誕直後の赤ん坊の幸福を祈るような、ささやかな祝福だった。
そしてシールロウも母も、【南東の脅威】に何かをした覚えはなかった。
何故、本大陸の人間が、精霊の祖である白色九祖から祝福を得たのか。
そもそも母に宿る精霊は一体何者なのか。母は素性を知っているようだが、何故なのか。どうして肉体を失って尚魂だけが生存したのか。
疑問は尽きない。
シールロウ・フィーレバッハは、その疑問を解消するため――母のように職務を放り出して――度々亜大陸に向かうことがあった。
その過程で出会った精霊の少女たちがいた。
彼と同じ白色九祖の加護を、彼とは比べ物にならない程強く得た、九人の戦士。
勿論、敵対した。
当然の帰結だった。かつてほどの拡張路線は取らなくなったとはいえ、【南東からの脅威の眷属】は侵略者だ。白翼海沿岸の各国はオルガンローデの再来を警戒している。そうでなくても、彼はかつてオルガンローデを退けた者の子供だ。他にも彼らの祖の力を流用する盗人とも見れる。
だが一方で、精霊の全てと敵対したわけではなかった。
「久しいな、イア=テム殿! 壮健のようで何よりだ」
「勇者シールロウ、よくぞ参った。歓迎するぞ」
亜大陸中部、オリカブフ。
砂漠地帯の中心に位置する巨大なオアシスに座する大都市であり、白眉のイア=テムの居城だ。亜大陸北、砂漠地帯の水事情を支える重要なインフラ都市である。
その宮殿にて、王は大精霊と向かい合っていた。
雄々しき男だった。
褐色の肉体は筋骨隆々、ごつごつとした肉体は細部まで全てが太い。背丈は人の二倍以上あり、巨人と見紛うほどだ。積乱雲に例えられるのも分かろうというもの。
発する気は風となって、室内を穏やかに吹き抜けて外へと流れていた。
名を、白眉のイア=テム。
古代において英雄だった男は、祖霊――【南東の脅威】に認められ、今や【眷属】の精霊の中でも最も権威のある一人となって空模様を司っている。
対するシールロウも人間としては長身だが、彼の前では子供のようだ。
竜鱗で出来た篭手が目を引く、美しい青年だった。滑らかな金糸のような髪を後ろにひとまとめにしており、それがさらさらと風になびいている。
自信に溢れた力強い表情は、王のそれ。
骨格こそ細身だが肉体は鍛えられており、武人としての気迫も備えていた。
「お主が我を呼びつけるというのは珍しいな、友よ!」
剃りあげた白髪を撫で付けると、イア=テムは低く響き渡る声を発した。
「うむ……勇者シールロウよ。察していると思うが」
「皆まで言うな。お主と我の仲だ。受けるとも!」
シールロウはドンと胸を叩いた。イア=テムはくぐもった笑みを漏らし、すぐに複雑な顔に戻った。
「勇者らしく晴れ渡るような気風よ。そんな汝を、我等の問題に付き合わせるのは心苦しくはあるが」
「気にするでない。お主には何度も助けられた。だから我もお主を助ける。当然のことだ! ……して、何が起きた? ウィータスティカの一族か」
イア=テムは頷いた。
【南東からの脅威の眷属】という組織は一枚岩ではない。
現在亜大陸を支配する者たちだけでも、三つの派閥に分かれている。
ひとつ目は、今は亡き戦精霊、早贄のラミニーフ率いた急進派・好戦派。
今はその息子たちであるウィータスティカの三兄弟がこれを率いている。
軍事を司っていると言っていい。機械技術を最も好み、また紀元神群への戦いを始めとし侵略にも積極的だ。一方、国防にも力を入れている。
麗躍九姫はこの派閥だ。なにせ彼女たちの上司だったテンボトアンは、とうの三兄弟の末弟である。
拠点はトルメルキア及びハーハーン。大陸北から東にかけてを治める。
亜大陸における最大派閥であることと、本大陸に最も接することから、本大陸における眷属のイメージそのものと言ってもいい。
続いて、大地の精霊たる怒号のペリクライワが率いる保守派。
彼らの故郷である南東海諸島から亜大陸への移住こそ賛同したものの、その後の拡大路線、侵略行動は控え、開拓や移住・帰化を進める派閥だ。
元は遊牧民に近いが、同時に農業なども積極的に行っている。第一次産業を担っていると言えるだろう。大陸南方は彼らの領域だ。
一方で【南東の脅威】とは全く関係のない機械技術を嫌っている。
最後に、白眉のイア=テムが率いる中立派。
眷属全体の発展、つまり祖霊――【南東の脅威】の霊格を高めることを第一とする。無駄な争いはせず、しかし軍備は怠らず、という考えが一般的だ。
第二次産業、インフラ、そして宗教を司ることで他派閥を牽制している。大陸中央部に陣取り、二派閥を遠ざけている他、事実上の首都オーリ・ハルムシオンや砂漠地帯の水インフラの心臓部であるオリカブフなど、要所の多くを抑えている。
何はなくとも信仰心に厚い者が多く、その点でも他派閥に影響力を持つ。
そして白眉のイア=テムを始めとする祖霊への信心が深い精霊たちは、シールロウを祖霊の選んだ勇者、昇位の資格を持つ者として認め、彼の探求を「人が祖霊と交信するための試練」として支援している。
シールロウが敵対したのはウィータスティカ派であり、イア=テム派は彼の味方だ。保守派であるペリクライワ派は、祖霊に選ばれた者と見るか外部の簒奪者と見るかで見解が分かれることが多い。
今回の問題は、ウィータスティカ派にある。
「ラミニーフの悪童たちが、新たな大機竜を生み出した」
「……侵攻があるか」
「嵐の気配だ。じき新たな戦が起きるだろう」
大機竜オルガンローデとは、唯一【眷属】に――特にウィータスティカ派に手を貸す、第九位の創世竜だ。
他の竜と違い、かの竜は確固とした肉体を持たない。完成されざるもの、文明の発展を象徴する
ウィータスティカの手により建造され、その対価としてウィータスティカ派の下で戦争を――特に侵略戦争を起こす。そして機能停止したならば、より強化された形で再建造される。ある種不滅の存在だ。
過去に幾度も建造され、周囲に甚大な被害を与え、英雄に討ち取られてきた。
現在の開発主任は、三男テンボトアン。
「そして、それに向けて奴はまた邪な企みを巡らせている」
「む」
「麗躍九姫の顛末は分かっておろう」
「……勿論だとも」
シールロウの表情に影が差した。
苦い顔で頷く彼に、イア=テムは小箱を差し出した。
無言で開封を促す精霊を見て、人の王は箱を開ける。
中には、
「桃のメセルス……テンボトアンが売り捌いたとは聞いたが」
「これを汝に託したい」
シールロウは困った顔をした。
「構わないが。何故だ?」
「汝の探求に何がしかの影響があろう、と思うた。そして、それを持つことが此度の企みに関わる近道でもある」
無言で続きを促す王に、精霊は瞳を閉じて答えた。
「青のエッジールは、生きている」
「な」
「そして、この大地の土を踏もうとしている」
王は暫く絶句し、その後小さく咳払いをした。
「……復讐、か」
イア=テムは重々しく頷く。
シールロウは暫く唸り、納得したかのように小さく頷き返した。
「なるほど。では、彼女と共にテンボトアンの企みを打ち砕けばよいのだな?」
「いや……少々違う」
男は怪訝な顔を浮かべる。
精霊は沈痛な面持ちを隠し、努めて威厳ある声を張った。
「知っての通り、彼奴は……テンボトアンは禁忌に踏み込んだ。麗躍九姫の結成それ自体がその第一歩であった。麗躍九姫は、初めから滅びるために作られた」
シールロウは歯ぎしりをしたが、口を挟まずに続きを待った。
精霊もまた同じ顔をしていたのだ。
「青のエッジールは、死の淵にそれを知ったのだ。そして死して尚、憎悪に滾り舞い戻った。その思いは計り知れん。あの娘は本懐を遂げぬ限り止まらぬだろう」
イア=テムはその巨躯を怒りに震わせている。
吐き出した息は、遠く嵐を聞くときの不穏な風音だった。
「……だが、それこそがテンボトアンの謀のうちなのだ」
その言葉を聞いた時、シールロウの中で一つの絵が出来上がった。
それはあまりに悍ましい、人を人と思わぬ計画だった。
「此度の一件、尋常の手段で止めることはもう出来ん。かの娘が、失った色を取り戻す事は避けねばならん。それこそが奴の狙いであるが故に」
精霊の瞳が決然と見開かれた。
イア=テムは、勇者に向けて冷徹に告げた。
「シールロウよ。汝は青のエッジールの復讐を止めよ。――殺してでもだ」
定期船はトゥルサを抜け、いよいよ亜大陸、ジャホラットへと舵を取った。
夕に出た船は半日後の朝にジャホラットにたどり着くだろう。
洋上、宵に
「――ビファル様が、殺害された?」
ヴァイオラは驚いたような声音を作った。
「は。衛兵の証言と目撃証言を合わせると、容疑者がこの船に乗りこんだことは間違いないかと……トゥルサでも検問を敷いておりますが、芳しくないところを見るに」
彼女の部屋を尋ねたのは女性兵士だった。
ヴァイオラは大理石の上質な浴槽から身を起こし、水を編んで衣服を纏う。その美しい肢体と、泉から湧き出る女神のような所作に、女兵士は見惚れていた。
水の精霊や海妖精は衣服を好まない。水変化の際に肉体が染みこんでしまうからだ。撥水性の素材で作られた衣服だけが例外である。
特にヴァイオラ程の大精霊ともなれば、人型は意識的に維持しなければならない段階にあり、常態は水そのものだ。祭殿では普段水桶に半ば溶けたような形で浸かっている、というのはそれなりに知られた事実である。
「そうですか……」
「惨い遺体でした。肉体を薄くスライスされており、目撃証言がなければ身元の特定は不可能だったでしょう。他、衛兵たちも数人殺害されています」
ヴァイオラは手に持った甘酒のグラスを空にした。
そして、まるで何も知らぬとばかりに問いかけた。
「……犯人は一体誰なのです。ビファル様は第七階位の邪視者にして第五階位の武闘家。それを一方的に殺害するとなれば、相当の使い手のはずです」
「それが……」
兵士は全く疑いも持たず、代わりに言葉を濁した。
「麗躍九姫の一人、青のエッジールだと」
ヴァイオラは驚いた顔をした。
「……蘇ったと? まさか……」
「全くです……見間違いだとは思うのですが。模倣犯だとしても、このようなことを祖霊様がお許しになるとは思えません」
女兵士は厳しい顔でそう言った。
「ともかく、お気をつけ下さい。犯人が船で暴れ始めるかもしれませんから」
「ふふ。お気持ちは嬉しいですが、大丈夫ですよ」
ヴァイオラは水のヴェールを編むとふわりと巻きつけ、磨石の浴槽の中で、いたずらっぽく身を翻して笑った。
「ここはどこで、私は何だと思います?」
「……失礼しました。名高き海の大精霊が、祖霊の加護の届く海の上で、遅れを取るはずはありませんね……」
悪戯っぽく微笑むヴァイオラに、女兵士は決まりが悪そうに視線を逸らした。
窓の外では、夜の海が静かに波音を立てている。平穏そのものだ。
「もし船の危機となれば、手を差し伸べたいと思います。役目ですから」
「おお……! 助かります。ヴァイオラ様のお力添えがあれば、この航海は無事が保証されたも同然です」
大げさでも何でもなく、ヴァイオラにはそれだけの力があった。船が真っ二つに折れようが、誰一人傷つけずに港まで運ぶだけの力が。
海はヴァイオラの目であり手足だ。女兵士が安堵するのも当然だった。
生真面目な兵士が一礼して次の部屋へと向かうのを、ヴァイオラは微笑みと共に見送った。
ドアが閉まる。ヴァイオラは浴槽に座り込むと、縁に深く身を預けた。
胸元の白鳥の羽根にそっと触れ、瞳を閉じる。
メセルス……少女たちの遺品。
「これを……渡すわけにはいきません」
そして窓を見た。
「どうか諦めてはくださいませんか、エッジール」
青い幽鬼は窓枠に腰を預け、フードを下ろした。
潮風が青い髪を遊ばせる。
砂を零すような髪のたなびく音が、波間に紛れて消えた。
――あの後、魔女と合流した二人は、問題を保留して定期船に乗船した。
ヴァイオラは肉体の消耗が激しく、海を渡るのに多少の不安があった。
本来船に乗る必要のないヴァイオラが乗船しているのはそのためだった。
そして今、先送りした問題に向き合う時が来た。
「出来ない」
少女は胸元の、孔雀の羽根を握りしめた。
「……出来ません、ヴァイオラ様」
お互いに、メセルスを必要としていた。
沈黙は、お互いに最悪の事態を予感させた。
エッジールは唇を噛み締め、目の奥に力を込める。
毟り取るようにして掲げた羽根が、吐息に震えた。
ヴァイオラは瞳をきつく閉じた。閉じて、両手を開いた。
水桶に張られた水が、意思を持ったかのように動き出す。
ぽたぽたと雫をこぼしながら、水竜が少女を見た。
二人の視線が、正面からぶつかり合う。
緊張の糸が張り詰める。
言の一葉で切れるだろう。
「……ちっ。どいつもこいつも私の邪魔ばかりをする。お前らが頼みにする大精霊様に霊水を精製しそれを運搬しているんだぞ。何故道を塞ぐのだ。愚かにも程がある。クソが。何もかもがなっておらん」
――ドアの向こうから雑音が漏れ聞こえてきた。
だんだんと近づいてくるそれは、不機嫌そのものを固めて打ち鳴らしているかのような声だった。
「何が代わりに運ぶから帰れだ土に還れ。霊水はいわば爆薬だぞ。薬品の扱いの何たるかも知らぬ粗暴で無知で蒙昧な連中ほど私の歩みを妨げる。腹立たしい。何故人間は愚かな者ばかりなのだ。教育くらいきちんとしろ――おい精霊、私だ。ザリスだ。早くドアを開けろ。生憎手が塞がっていて、おまけに私は気分が悪い」
どちらともなく、手を下ろした。
溜息がこぼれる。エッジールは呆れたようにドアを見た。
ヴァイオラが水を伸ばし、ドアノブを回す。
いつもの陰鬱な顔を、いつもの苛立ちで歪めて、ザリスが部屋に入ってきた。
一抱えもある大きな水槽には、見て分かるほどの霊力を蓄えた青白く光る水が一杯に注がれている。
「うむ。ほら、お前御用達の霊水だ。何の持ち合わせもない中で、僅か半日で高純度の霊水を用意できるのは私くらいのものだろう。運か縁か祖霊の導きかにでも感謝するんだな」
「ええ、はい、ありがとうございます」
「心が篭っておらん。もう一度」
などと言いつつ、ザリスはヴァイオラに水槽を押し付けた。
ちなみに水槽は客船のものだ。丁度いい水桶がなかったためである。
ヴァイオラは指を浸して驚いた顔をした。
非常に純度の高い霊水だ。殆ど【幽かな生命】そのものと言っていい。劇物というのはその通りで、これほどの霊水に不用意な霊的・呪的刺激が加われば、船ごと吹き飛びかねない程の代物だ。
「ありがとうございます、魔女様」
「うむ」
ヴァイオラは先の一件で失った水の体を補充する。
足を形作ったヴァイオラは、ようやく浴槽から出ることが出来た。
肉体全てを正しく構成するには霊水が足りていなかったのだ。
エッジールはそれを不思議な顔で見ていた。
「どうかなさいましたか」
「いえ……」
「混ざらんぞ」
ザリスが口を挟む。
「霊水は本来【幽かな生命】の構造物、つまり霊体だ。高純度の霊水は物理存在である水とは混ざらない。水をどれほど撹拌しようとも、霊水自身が水を取り込まぬ限りは分離する。水に溶けるというのは外見上の話で、実際は形を代えて水の内側に潜っているだけにすぎんのだ。逆に言えば、水を主軸に【幽かな生命】をより集めると低純度の霊水が出来る。世で言う霊水はこちらが主流だな」
「そうじゃなくて……」
「お詳しいのですね」
「当然だ。それでなんだ。メセルスの処遇について意見が対立したか」
エッジールの身が強張る。
魔女はソファに腰を下ろすと、ヴァイオラの葡萄酒をひったくって勝手にグラスに注ぎ始めた。
「グランツェか……トゥルサに来たからには飲んでおけとよく言われるが、この甘さが酒を飲んでいる気にさせん。ワインより尚甘いとなるとどうも苦手だ」
「だったら飲まないで下さい……」
「お前の頼みで呪力をかなり消耗したんだ、補充させろ。室のいい文化的生産物は呪力源として申し分ない。……ふむ、薬酒でも作るか。丁度水の精霊もいることだし」
「あっそれお飲みしても?」
「え、えっと、あの」
突然和やかに酒盛りを始めた二人を、エッジールはおろおろと見回した。手に持ったメセルスが彼女の狼狽に合わせて力なく揺れる。
ザリスは早速グラス二杯ほど空にすると、呆れた顔でエッジールを見た。
「お前、血の気の多い割に気は小さいのだな」
「うるさい……! それより、今は真面目な話を」
「たわけ。柄に手をかけながら真面目な話とは片腹痛いわ。会話を望むならまず相手の事情を聞け、間抜け」
エッジールははっとした。
「……何故社会の外に住まう魔女が精霊に社会常識を教えてやらねばならんのだ? ふざけているのか? 勘弁してくれ。私は教師でも司祭でもないんだぞ。魔女が常識を説くレベルの愚かさなど最早罪だ、罪」
ザリスが目で促すと、ヴァイオラは空にしたグラスを手に、語りだした。
「
「……キュトスの、魔女?」
「はい」
創世記に曰く。
不死なる女神キュトスは、夫である槍神アルセスの振るう創世の槍――紀元槍により、七十一の欠片に引き裂かれた。
キュトスの神としての権能を分けあって持ったそれら欠片は、それぞれが力ある女となって、独自の人格を得た。不死性はそのままに。
それが、七十一の神性を持つ生まれながらの魔女、【キュトスの姉妹】だ。
「それが、緑の海にいます」
ザリスが口を挟んだ。
「干魃の魔女ハルシャニア。海の大敵だな。体内に宿した海を、文字通り海を飲んで拡大しようとしている魔女……というか奇人だな。一緒にされては困る」
「飲む?」
「二度も言わせるな。文字通りだ。海に頭を突っ込んで、飲むんだよ。――湖程度ならば一日で飲み干す。恐らく体内の海とは【
【
第九階梯――【紀】に至った邪視者だけが行使できる、神の力。
はじまりの時代に生まれた、世界創造の御業の一つ。
キュトスの姉妹は、元であるキュトスが【紀神】であることからも分かる通り、全員が何かしらの形で【紀】に関わっている。結びつきが深ければそれも容易いのだとザリスは言った。
ヴァイオラは溜息を付いた。
「私は西海を守る者として、彼女に立ち退きを要求しましたが、彼女が飲むのは海水ばかりでした。既に見て分かる程に水位が下がっています……。ですからより上位の魔女に抗議を行いました」
エッジールは話の内容に察しがついた。
「メセルスを……求められた」
「はい。一時的な貸出に留めましたが……」
ヴァイオラは胸元の白鳥の羽根に触れた。
それは今や、彼女の故郷を守るための大事な鍵となっていた。
「貴方の戦友の遺品であることは、分かっています。得体のしれない魔女に触れさせることが許せないという気持ちも。ですがどうか、お待ちいただけませんか」
「期間は」
「……一年」
エッジールは首を横に振った。ザリスが嘆息する。
「出来ない」
「……これが、誰も傷つかぬ方法なのです」
「いいや海の女王よ、それは正しくないぞ」
見かねて魔女が口を挟んだ。
「それは、どういう……?」
「分かっているだろう、いや……なるほど、そうでもないのか?」
全てを言いかけて、魔女は一度口を切った。
そしてグラスに口をつけてから、エッジールに顎を使った。
妙な所で律儀な女だ、とエッジールは思った。
――ヴァイオラは薄々気付いているようだった。
痩せ細った少女は、一度大きく息を吸って、吐いた。そして言った。
「……一月です」
「エッジール……それは」
「寿命です。この体の」
肉体を維持する薬物の残数からして、あと一月。
それが解決したとしても、死者の魂の劣化は早い。
一月を過ぎれば魂は腐りだす。半年もすれば間違いなく、全て失われる。
肉体だって、一月もすれば継ぎ目に問題が出始めるだろう。
エッジールは死者だ。
今こうして立っているのは、あくまで死神がよこした執行猶予にすぎない。
「だから出来ません。……やることが、あるから」
それ以上は続けなかった。代わりに、メセルスに手を触れる。
ヴァイオラの顔は青褪めていた。
「……そこまでして、復讐を望むのですか」
「はい」
「死に抗い、肉と魂を磨り減らしてまで……」
「そうです、ヴァイオラ様」
答えは打てば響くようだった。
「私は、殺します。何があっても。どうなっても」
そのためならば、かつての恩人を手にかけることも厭わない。
言外にそう告げていた。
「そんな……」
ヴァイオラは迷っていた。エッジールにもよく分かった。
エッジールの顔と、窓の外を、視線が何度も行き来する。その過程でエッジールの瞳が義眼であることに気付いて、また驚愕を覚え、苦い顔をした。
青の少女は黙ってそれを見ていた。
ヴァイオラはきゅっと唇を引き結ぶと、覚束ない手つきでメセルスを手に取り、そこからまた、何度も視線を往復させた。
エッジールは黙ってそれを見ていた。
「……止める、べきだと……思っていましたが」
白鳥の羽根。海。かつて加護を授けた少女。
メセルス。郷愁。英霊の一人。
「けれど、けれど……出来ません」
――ヴァイオラは、白鳥の羽根を、少女の胸に押し付けた。
「ヴァイオラ様」
「受け取ってください。これは、貴女が持つべきものです」
彼女は歯を食いしばった。ともすれば守るべき故郷を危険に晒す行為だった。分かっていて尚、ヴァイオラは選んだ。
「私は……選べます。まだ。その選択で、海を赤く濁すとしても。でもあなたは」
戦う手はある。ヴァイオラには力がある。
だが相手は干魃の魔女、容易いことではない。それでも、不可能でもない。
兵を……民を犠牲にすれば。
エッジールは、そっと白鳥の羽根を手のひらで押さえた。
押し付けられた両手の震えを抑えるように、抱きとめるように。
「……優しすぎます、ヴァイオラ様は」
「私は、もう貴女たちを見捨てたくない」
ヴァイオラは半ば引っ張るような形でエッジールを抱きしめた。
抱きしめて、その青い髪に頬を埋めた。
「……全部、私たちの頼みの通りでした」
「それでも、それでもです。私はきっと、貴女たちを助けるべきだった」
そうするだけの力はあった。悪魔の凶手から一時彼女たちを匿うくらいは。
ただしそれを、九姫たちが自ら拒んだ。
そうすれば、彼女の土地が戦場になる――多くの民を巻き込むことになるから。
単独でどれほど強大な存在であっても、【眷属】の方針には逆らえない。
ヴァイオラには守るべき地があり、それは彼女の力をもってしても、一人では手に余った。大きな組織の庇護は必要不可欠だった。
そして望みがあった。月へと向かう、一縷の望みが。
ヴァイオラは思う。自分の選択は、結局自分の願いのためなのではないかと。
だからずっと後悔していた。
「誰が止められるというのです。誰が貴女を止められるでしょうか。ただ復讐のために蘇ったというのです。友の仇を討つためだけに。ほんの僅かな命の時間を、そのためだけに燃やそうというのです」
優しすぎる。エッジールは思った。いつもそうだ。この人は情が深すぎた。
いくらでも冷酷に振る舞えるのに、あまりに身内に甘すぎる。
「帰ってきたと……思ったのに……」
エッジールの胸が締め付けられる。
ヴァイオラはぼろぼろと泣いていた。
「さぁ、お行きなさい。私が大陸まで送りましょう。この船はもうダメです。拿捕されている余裕はないでしょう?」
優しすぎる。いつもそうだ。
だからみんな懐いていた。母のように思っていた。
エッジールは何かを言おうとして、口をつぐんだ。
そうするべきだ。時間はない。復讐に堕ちた女が、今更他人に何かを譲るなんて
理性では分かっていた。だが、目の前にいるのは恩人だった。
選べない。エッジールは選べなかった。
言葉が出ない。何かを口にしてしまえば、そうなってしまう気がして。
母と子のように抱き合う二人は、それ以上口を開けずにいた。
「芝居はそろそろ終わったか?」
代わりに、ザリスが口を開いた。
酷く呆れた顔で。
「どうして見えている解に目を背け、自ら選択肢を狭めるのか。全く理解できん。愚かしいことだよ。お前たちの持つ知性とやらは私の知るそれとは違うのだろうか」
「……何が言いたいの」
「お前は、血の気の多いわりに慎重派なのか、それとも馬鹿か? そもそもその命題は二者択一でもなんでもなかろう」
ザリスは勝手に
「まだ分からんのか。魔女が海を脅かし、その対処にメセルスが必要で、お前もそれを欲するならば、議論すべきはメセルスの所有権ではなく
「……あ」
エッジールは再三間抜けな声を上げた。
ヴァイオラは目を伏せた。まるで初めから分かっていたかのように。
それをザリスは見逃さなかったが、何も言わずに青い少女への悪態を続けた。
「たいそれた望みの割に頭の労働量が足りておらんな、お前は。……くそ、こいつははずれだ。雑味が多い。飲むだけ無駄だな。おい女王、こいつはくれてやる」
「は、はあ」
別の酒瓶を手に取り、魔女は吐き捨てた。
指を一振りして麦酒を冷やして、それをグラスにあけながら、未だに固まっているエッジールに侮蔑の視線を投げかける。
「もっと焚き付けんと動けんか? む、これはいいな」
まるで頭の回転の遅いやつだと言わんばかりの仕草。
ザリスは次々酒を注いでは飲み、合間にエッジールに問いかけた。
「考えても見ろ――お前の大事なお友達ならどうするんだ?」
その言葉は、エッジールの胸の奥に深く刺さった。
「みんな、なら」
その想定は、とても鮮明に思い描けた。
「ザリス様、エッジールには時間がないと……」
「何を言うかね海の女王よ、【眷属】の領海などお前にとっては一歩で跨げる距離だろう。多少寄り道を挟んでも、お前の権能で渡るなら予定よりもずっと早い」
「それは……そうですが」
「遠ざけようとしても無駄だよ。何を隠しているかは知らんが、死者の縁は根深い。生前の因縁は向こうから喜んでやってくるさ。……腹立たしいことにな」
「貴女は――どこまで」
「死者が望んで墓石を押しのけたのなら、訪れるのは死だけだ、旧き精霊殿」
ハルマスラなら、ミューネラなら、なんと答えるだろう。
ラティニスならばどうするだろう。
シャルセとエメルザはどこへ行くだろう。
ルカーリュ姉さんはどう決断するだろう。
カロルハーク姉さんならば何を選ぶか。
決まっている。
ウィルエラは。
「――ヴァイオラ様」
ウィルエラはきっと、こうするに決まっている。
迷いは綺麗に晴れた。この時ばかりは、魔女に感謝した。
「送ってください。私を、『緑の海』に」
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