二節 紅の影を伴に連れ(後編)






 うねる水竜を真正面から切り捨てる。

 紅の一太刀で竜は縦に割れた。その狭間を剣士は飛び抜ける。


 ヴァイオラは咄嗟に手をかざした。高圧水流が半ばつぶてのような短さで連射される。

 その全てを刀身を斜めに傾けていなすと、紅は真横に刀を振りぬいた。


「ちっ」


 ヴァイオラの体が上下に割れる。ただしそれは自発的にだ。

 刃が空を切った後、胴体が癒着する。


「分かっていたことでしょう?」


 水の体は物理的な破壊には強い。が、紅程の剣士であれば肉を抜けて魂を断つくらいは容易い。斬られれば魂が傷つくだろう。

 だが刃が触れなければ斬られる道理もなかった。

 星霜を生きた水の精霊は、戦いについても熟知している。


 納刀の音が凛と響く。返す刀、ヴァイオラは手を振り上げた。

 水流がり合わさって鞭となる。都合六本の鞭がひとりでに紅を狙い、代わりに歩道を破砕した。


 続いて高圧水流の刃。初め受けようとした紅は、直感的に横へ飛び退いた。

 水の刃は対岸の歩道の石畳に深く穴を穿つ。砕かれた歩道の石片を含んでいたらしく、殺傷力は先のものとは比べ物にならない。


 飛び退いた先に水の竜。抜刀で応じる。

 竜を超え、その向こうのヴァイオラを狙って刃が飛んだ。ヴァイオラは水流に乗って宙へと逃げる。


 水自体に高い殺傷力はない。質量に任せた打撃が主だ。

 だが攻防を両立した変幻自在さが決定打を与えさせない。

 そして一度でも殴打を喰らえば、水流に飲まれて身動きすら封じられるだろう。


 抜くか。紅は考える。

 背の【魔剣】を抜けば楽に勝てるだろう。だがその後に問題がある。

 これは私事。主命の遂行を妨げることがあってはならない。

 結論は一瞬、あくまで刀一本で仕留める。


「何故助けなかった、とは問わぬ。だが汚名を濯ぐ程度のことは出来ただろう」

「それが出来ていればと、私が何度願ったことか……!」

「何故だ。あれほど寵愛した娘たちが貶められるのを、どうして見過ごせた!」


 水の流れを、蹴って飛ぶ。

 紅の超人的な歩法が二人の地の利を零にした。

 繰り出す水流の一つ一つを足場に、紅は虚空を走る。


「貴様の願いは知っているぞ! 浅ましい己の欲のために、貴様は戦士の誇りを穢したのだ!」

「――違うッ!」

「違うものかッ!」


 光より早い剣は存在する。剣士紅のはまさにそれだ。

 抜刀の兆候が見えた時には既に斬られている。間一髪で間合いを外したヴァイオラの腹に、皮一枚の赤い傷が走る。

 こぼれた鮮血が色を失い、波飛沫となって石畳に散った。


 ただ技によって魂そのものを傷つける戦士は、第八階梯に区分される。

 それは、人間の到達しうる最果てだ。


「届くものか。空を飛んで精月アヴロニアを目指そうなどと!」

「黙りなさい!」

「息子がそれほど愛おしいか、貴様が彼女らに注いだ愛は所詮は代用だったとでも言うつもりか!」

「何も知らぬ者が、あの子たちの代言などとッ!」


 ヴァイオラは叫びと共にその身を削った。全身を構成する霊水を使っての、高圧水流の刃の乱射。全方位をくまなく貫く水の槍を紅は後ろへ飛んで掻い潜る。


「彼女たちは良き戦士だった。六位様の覚えもめでたい。名も知らぬ同胞のために恐れず戦い続けるその心意気、敵ながら天晴! 彼女たちの忠心は本物だった!」


 霊水が引き戻されるのを薙ぎ払いながら紅が迫る。ヴァイオラは大量の水を手繰ると、壁のようにして叩きつけた。

 一閃、分厚い水壁を刃が断ち切る。


「だがどうだ、貴様らはどうだ! それを裏切ったな!」

「それは、貴女がかつて裏切られたからでしょう! 貴女が属していた『社』が、貴女を裏切ったから! それを彼女らに投影しているだけです!」


 ヴァイオラが両手を振り上げる。水路から無数の水の槍が飛び出した。

 鎌首をもたげて次々と路上に突き立つそれを、紅は紙一重で躱し続ける。


「そうだ。だからこれは私事だ。そこに大義も名分もありはしない」


 紅は止まらない。


「私は忠義を踏みにじる者を許せぬ。これはそれだけの事だ。私の怒りなのだ。あれほど強く快い戦士たちが貶められるのを捨て置けぬ! そんな不心得者がのさばっているのを許せぬ! 故に、私が嫌う者共を物のついでで切り捨てる、それだけのことよ!」


 緋色の着流しをたなびかせ、剣士はついに怒涛の攻勢を抜け出た。

 水の檻の隙間を縫って、剣士が走る。


「もののふへの侮辱、天が許しても私が許さぬ――!」


 投網のように広げられた水の檻を両断し、その狭間を飛び越える。

 空中、ぎょろりと動いた水の竜を蹴りつけて飛ぶ。

 怒りが刃を走らせる。


 だがそれを振りぬく前に、紅は大きく飛び退いた。


「――切り裂け、アレイドッ!」


 一陣の風が吹いた。


 歩道の磨石に無数の線が通り過ぎる。

 極薄の溝が、目視も難しいほどの間隔で刻まれていった。


 見上げれば、屋根から飛び降りる青き戦士。


「まさか」

「……ああ、やはり」


 紅は驚愕した。

 ヴァイオラは、悲しげに目を伏せた。

 彼女は――青のエッジールメセルスクエルは、間髪入れずに紅へと打ちかかった。


「生きていたのか――青の!」


 抜刀。メセルスクエルも剣を振りぬく。

 目に見えぬ刃と刃が虚空で激突し、紅は地を蹴った。下駄の先すれすれを舐めていく風の刃。既に縦溝の掘られた歩道に斜めに切り込んだ無数の刃が、歩道の表面を粉々に切り刻み、砂に変えた。


「ヴァイオラ様から離れろ――それと」


 奇しくもその飛ぶ斬撃は、紅の操る剣術と似通ったものだった。

 メセルスクエルはアレイドを立てて、虚空を走る刃を受け止めた。


「私たちは、名誉なんて望んだことはなかった」


 エッジールは赤い剣士を睨みつけた。


「私たちがどうなろうと、守れるものがあるなら、それでよかった。誰に評価されなくてもいい。私たちは、民を守るために戦う。それがみんなの誓いだったんだ」


 紅が膝を弛めて、対岸の歩道に降りる。

 青の戦士は、ヴァイオラをかばうように前に出た。


「お前が、私たちの死を語るんじゃない」


「……おお……おお、やはり」


 紅は感じいったように声を上げた。構えは一時たりとも解かなかった。


「死して尚、もののふか……」


 紅。エッジールは知己の相手だ。

 東方遠征の際に幾度と無く戦った因縁の相手。主である矛盾竜の巫女は預言者だ。遠征の際には必ずこの剣士が先回りして、立ちはだかった。


「麗躍九姫は皆優れた戦士だった。中でも貴様と、赤き戦士よ……。強い意思は巨星の如くに【幽かな生命】を引き寄せる。貴様らの輝きは忘れられん」

「ならそれを、目に焼き付けて死ね」


 九人がかりで、ようやく撃退。そういう相手だ。

 力量で言えば悪魔ヴェイフレイに迫るだろう。

 人の身で【紀】に手を届かせんとする超越者だ。時代が違えば、歴史に名を残す程の大英雄になっただろう。


 幸い、相性は良い。


「私たちは、みんながいれば、それで良かったんだ」


 剣がその空色をより研ぎ澄ませてゆく。

 メセルスクエルの強靭な意思に、【幽かな生命】たちが集う。


「お前は邪魔だ。失せろ」


 少女は地を蹴った。

 目まぐるしい速度で、剣戟が始まった。


 



 赤と青のメセルスは【幽かな生命】を生み出して放つ。

 赤のメセルスはそれを流体や気体として噴射するが、青のメセルスは確固たる形状を与えて投射する。

 例えば、彼女がよく使う無数の斬撃。【幽かな生命】で限りなく薄い刃を形成、幾重にも重ねて放つそれは、触れたものを無数の薄切り肉に変えてしまう。


 ただその風の剣は、メセルスクエルにとっては牽制に過ぎない。


「ふっ――!」


 メセルスクエルは一息に剣の間合いへと踏み込む。青き長剣が唸りを上げる。

 対する剣士は尋常ならざるその速度にも容易く反応した。

 抜き打ちの刀を繰り出しながら、後ろへ一歩。


 彼女のいた場所を、四方八方から刃が切り払った。

 避けて尚、薄刃の刺突が僅かに紅の着流しに傷を作った。


 メセルスクエルが至近距離に敵を捕らえれば、繰り出されるのは同時に全方位から繰り出される斬撃の嵐だ。

 同時に、間断なく、隙間なく、無数の刃が魂と肉を纏めて断ち切る。刃に捉えたものを柑橘類の果肉のように切り開く。

 【幽かな生命】を極薄の刃として練り上げ、多方向から放つのだ。物体では不可能な密度の攻撃こそがメセルスクエルの強みだった。


 紅が溜めを作って剣を振るえば、同時に四度は斬りつけられる。

 それだけでも、人間を遥かに超越した技術だが――。


「逃がさない……!」


 メセルスクエルは、刺突すら織り交ぜて、百や二百の剣戟を刹那に圧縮する。

 そしてその能力に頼らずとも、メセルスクエルは紅に匹敵する剣士でもある。


 アレイドがまるで二つに分かれたかのようにぶれ、剣が袈裟に弧を描く。そして逆袈裟にも。剣の円弧は正確に鏡像、同時に二度の斬撃。


 紅がまだ第七階梯だった頃に編み出した技であった。

 メセルスクエルがひと目で盗みだした技でもあった。


「甘いッ」


 紅は応戦する。同じ動きで二度、加えて腰をひねって二度。

 両の切り上げを重ねて四撃。さしものメセルスクエルもオリジナルにデッドコピーをぶつけて勝てる道理はない。剣を弾かれたたらを踏んだ――時には既に、紅は後ろへ数歩の距離を開けていた。

 不意打ちの一閃、首をはねるべく打ち出した風の刃は空を切った。


 エッジールは唇を噛んだ。状況は不利に傾きつつあった。

 紅の精神が研ぎ澄まされていくのが見て分かる。あの剣士は立ち上がりが遅い。あれほど凄絶な妙技を見せて尚、意識が全力ではない。

 戦いの中で少しずつ、紅はトルクを上げていく。それは彼女が自分の肉体を守るために課した自己暗示だ。


 階梯一つの差は、二乗に比例して広がっていくと言われている。第九階梯を頂点に、人間が区分した「どれだけ人からかけ離れたか」の度合い。

 階梯が九つしかないのは、九つに至った者は既に神の一柱――【紀人】と数えられるからだ。第八階梯とは事実上人間の終着点。そこから一歩踏み出したならば、そこからは神の領域を歩むということだ。紅はその境地にいる。


 だが人を超えた技を身につけようとも、体は人だ。

 紅は、多数の呪的な強化や気功術による肉体の増強などを施してはいれども、人間でしかないのだ。体は脆弱で、意識は肉体を超越出来ない。

 そこに付け入る隙があり、そして隙を突かねばエッジールの負けだ。


 何れにしろ、彼女が【魔剣】を抜いた時点で勝ち目はなくなる。

 早期決着がメセルスクエルの勝利の道だ。あるいはそうでなければ――。


 紅は既に随分と集中を高めていた。

 あれほど継いでいた言葉がなくなった。口は半開きで、呼吸が不規則に変化する。呼吸法による身体能力の強化。東洋の呪術、内気功だ。

 曲がりなりにも人間らしく怒りや興味を覚えていた剣士が、それらを削ぎ落としていく。


 矛盾竜に仕える者には素質が要る。

 その本性が、かの竜の狂気に耐えるほどに狂っていること。

 ――彼女は【紀】に片足を突っ込むほどにソレ以外を削ぎ落とした、怪物だ。


 つまり、剣狂い。


 はっとした時には、メセルスクエルは間合いに捉えられていた。


「――くっ」


 受ける。切れる。二の腕と胸元に横一文字に浅い傷。

 体が宙を泳いでいる。剣の一撃で肉体が浮いていた。

 生身の剣士が精霊を吹き飛ばす――それも膂力ではなく技術で。

 紅が二の矢を番える。メセルスクエルは空中で剣を振りぬいた。


 打ち合いが始まる。

 金属音が、秒間に十では効かない数鳴り響く。

 あまりに間隔の早すぎる剣音は、擦過音のように連続した音になっていた。


 【幽かな生命】を堅く束ねて壁にする。それを一撃で打ち砕き、隙間を塗って刀が迫る。アレイドで打ち払う。剣が右に流れ、左から刀が迫る。薄刃がその手首を狙う。当然腕は引かれる。突きで返される。剣の根本で下から受け、体重をかけ、鍔迫り合いに持ち込もうとした時には刃が離れる。追いすがる不可視の薄刃は空を切った。飛び退く。眼球すれすれを刺突の先端が舐めた。

 一拍。お互いに構え直す。

 そこまで一秒もない。


 火花は散らない。代わりに【幽かな生命】たちの衝突が齎す霊的な衝撃が、物理的な青い光となってちかちかと瞬いていた。

 光の蝶が舞うような、幻想的な光景。


 物理的な抑制を超越した高位階の戦士は、時に術師よりも非現実的な事象を引き起こす。人の視線よりも早く動くなど出来て当然。全く同時に剣を二度繰り出すなど驚くような技ではない。

 だがどれほど手品を仕込もうとも、どれほど早く動こうとも、実力の拮抗した剣士の戦いは読みと単純な剣技がものを言う。


 手段は無数にある。だが結果は一つだ。

 相手を斬った方が勝つ。


 間合いに捉えたが最後受ける事は出来ない――それは無数の斬撃でなくとも、武器で受けるには重すぎる一撃や任意の対象を透過する技などで、幾らでも実現できる。だからメセルスクエルの強さはそこではない。


 青の戦士が踏み込んだ。大上段。あまりに隙の多い構え。

 しかし紅は斬り込めない。彼女の隙は見えざる薄刃が埋めている。


 紅は【幽かな生命】の刃を二、三打ち砕きながら、重い振り下ろしを半身になって躱す。メセルスクエルは身を屈めて、反撃から逃れる。窮屈な姿勢は剣士であれば致命傷だが、彼女にとっては誘いでしかない。

 メセルスアレイドを介して時間差で攻撃を「置ける」青のエッジールは、接近戦の常識を根底から覆した動きが出来た。


 紅は誘いに乗らない。風のように吹き抜ける刃を眉一つ動かさず受け流し、間合いから逃れる。メセルスクエルは縮めた体を勢い良く伸ばし、追いすがる。


「吹き荒れろ――アレイドッ!」


 刺突と共に、地を這う竜巻が放たれた。

 かつて飛竜を叩き落とした刃の嵐も、紅の前では無意味だった。後ろに飛びながらの縦一閃で竜巻は霧散していく。


 攻守が入れ替わる。


 メセルスクエルは連続して【幽かな生命】を放てない。溜めがいる。

 もっともそれは、人が剣を振り上げる一瞬に似た、僅かな時間に過ぎない。

 ただその刹那を紅は逃さない、それだけのこと。


 紅が踏み込む。目では追えない。

 その返し刀を見切るため、距離を開ける必要があったのだ。


 大上段。意趣返しか。いや。メセルスクエルは剣で受ける。鍔迫り合い――刃先が踊った。手首が返る。剣で捉えたはずの刀が不可思議な軌道を描き、精霊の首へと迫っている。何をされたか、見切る余裕はない。

 メセルスクエルは咄嗟に【幽かな生命】を開放した。

 曖昧な形のまま投射された微小霊媒たちが、放たれた直後には結びつきを失う。

 【炸撃ファイアクラッカー】にも似た衝撃波が、二人の間で炸裂した。


 体勢の崩れたメセルスクエルに対し、紅は半身になって後ろへ飛んで衝撃を受け流していた。復帰は当然侍の方が早い。


「お待たせしました」


 ――だが間に合った。

 エッジールの口元が吊り上がった。


 さしもの紅も身構えた。


 エッジールは一人ではない。

 彼女の後ろには、海の大精霊がついている。


「仮初の契約の下、その履行を求むる――白鳥よ、その力をここに」


 そしてメセルスが。白鳥の加護がついている。


 緑色の光が溢れだした。

 知性なき【幽かな生命】たちの歓喜の声。膨大なエネルギーのうねりがヴァイオラを渦巻く。彼女自身の呪力を遥かに上回る、祖霊種からの力の供給。明らかな上位呪術発動の気配だ。


「光よ、空を塗り潰せ。輝きと、影と形を、掻き消し轟け」


 朗々たる呪文の詠唱。

 故に紅は機先を制する。


 無拍子に放たれた刺突は、ヴァイオラの喉元――呪文を紡ぐ器官に届こうとした。


「【目眩デイズ】」


 閃光が目を灼いた。


 しかしあまりに軽い圧力。

 それは強力な呪術の一撃ではなく、ただの目眩ましだった。


「チッ――」


 囮だ。ヴァイオラは呪文を控えてなどいなかった。

 メセルスを励起するだけして、それを行使する契約はしていなかったのだ。


 そして勿論、それらの派手な陽動は。

 今背後へぴたりとつけた、メセルスクエルのためのもの。


 赤き剣士は身を翻す。目が潰れた程度で、紅は止まらない。

 急激な反転で黒髪が渦を巻く。


 紅が身に纏った【幽かな生命】たちが開放される。

 鬼気迫る一閃。その刃先は得体のしれない何かに鳴動している。

 しかしメセルスクエルの剣は振り下ろされている。絶望的な出だしの差。

 絶対に覆らない、時間という壁。……その程度で紅は止まらない。


 剣の真理は何処に在る――斬れないものを斬るには、どうすればよい?


 間に合わない剣を間に合わせるための、彼女の解。

 時の流れに先んじればよい。


 紅の動きが

 動きの先があり、後があり、ただ中がなかった。


「【陥穽エンスネア】」


 振る過程を時の流れに置き去りに、彼女の剣が現出する。

 振り上げた時には、振り下ろす動作が終わっている。


 過去より出て未来を断つ剣。


 その剣は時すらも断つ――その手首が固まっていなければ。


「っ――貴様ッ」


 振り抜いた姿勢はとても窮屈で、剣を振るったとは思えないようなもの。


 【陥穽エンスネア】は単純な行動阻害の呪術だ。動作を封じる。

 封じる動作を小さく、封じる時間を短く、絞れば絞るほど発動は早い。


 剣を振る直前、ただ手首の返し、筋の一つを一瞬「縛る」。精妙な呪術の行使。

 ヴァイオラは単純な呪術のただ二つで紅を完封していた。


「邪魔だと、言っている」


 そして、青風がその肉を断った。

 紅は胸を真っ二つに切り裂かれた。


 メセルスクエルは手を抜かない。念入りに、切り刻む。

 風の刃ではなく、清冽なる青の剣によって。

 一つ、一つ、鋭い刃が肉を切り分けていく。

 骨ごと滑らかに切断し、胴を断ち、腕を裂く。


 あまりに鮮やかな人体解体。肉体は瞬く間に原型を失っていく。

 担い手が剣を振り払う頃には、その背後には肉片だけが転がっていた。


 ……だが。


「まだです」


 ヴァイオラの叱咤。エッジールも分かっていた。

 遠く、竜の咆哮が響いた気がした。



『矛盾竜ロワスカーグが問いただす――汝は真に死んだのか?』



 ――いいや、まだだ。まだ戦う。



「ははっ、してやられた……!」


 突き出された剣を後ろ手に受け流し、メセルスクエルはそれを横薙ぎに振り払う。

 紅は遠く飛び退いた。剣の刃先が、衣服だけを掠める。


 バラバラだったはずの肉体は形を取り戻していた。


「往年の貴様らを思い出すぞ、青の!」


 ヴァイオラは見ていた。肉片が肉体にすり替わる姿を。


 死も因果も、かの竜の前では無意味なもの。

 矛盾竜ロワスカーグは万物の矛盾を問いただし、また正しきものを錯綜させる。

 汝が感じたものが事実だ。その一言で、錯視の竜は世界を狂わせるのだ。


 かの竜の庇護下にあるものは、受け入れられない事実を拒絶する資格を持つ。

 どうしようもない死すらも、死んでないと確信するなら否定できる。

 生きているという自覚を死の事実と矛盾させ、自覚の方を正しくする。


「矛盾竜の加護……一体何度目だ、紅」


 エッジールの声には恐れが混じっていた。


 死の否定。ただしそれは口だけのものではない。

 確信を持って事実を否定するからこその呪術だ。つまり、「自分は死んだ」と一度でも感じてしまえばもう死ぬしかない。

 その身を貫かれておきながら、その身を切り刻まれておきながら、体の隅々まで余さずバラバラに切断されておきながら……。

 その事実を超えて尚自身の生存を確信し続けるなど、正気の沙汰ではない。


 一度ならばあるだろう。二度目も、出来るかもしれない。

 だが三度となれば苦しくなり、四度も続けば知ってしまう。

 死を経験する度に、積み重ねた過去が実感を補強していく。

 そして一度でも「これが死だ」と知ってしまえば、心と体に矛盾は起きない。


 邪視者が死を否定出来ないのと同じ。

 直感を原動力とする以上、それは自身の経験や感覚とは不可分なものだ。


 紅はそれを切り分けられる。

 実感したものを否定できる。


 肉をバラバラに切り開かれる、その死をまやかしと確信できる。


「敵に相対して、傷を負うのは当然だろう?」


 最後の一閃で破れた胸元を押さえながら、紅は言った。

 エッジールは改めて目の前の剣士に恐怖した。


 一度死んだ――それも、肉体と霊魂の限界まで振り絞ってから死んだエッジールは、よく分かっている。

 死とは絶対で、抗えないものだ。

 憎悪も激怒も死ねば抜け落ちていく。肉体の損壊が増えれば増えるほど死の実感は強烈だ。だからエッジールは念入りに肉体を切り刻んだ。

 それでも尚、当たり前のように死を否定する。


 矛盾竜の寵愛を受けるのも当然だ。ともすれば、仕える巫女より狂っている。

 実感とは否定できないから実感なのだ。そうでなければ、世界はどれほどあやふやで不確かなものだろうか。

 紅は、剣の境地を求めるあまりに、最低限の心的機能すら削ぎ落とした怪物だ。


「化物」


 だが、当然それもただではない。

 紅は決して不死ではないのだ。もしまかり間違う事があれば紅は死ぬ。


 だから復活の後、紅は撤退を選ぶ。

 ……復活を肯定するのに、その前にあるはずの死は否定する。

 そんな矛盾もかの竜の前では正当化されるのだ。


 一度死んだら撤退しろ。それは矛盾竜の巫女がつけた命令という首輪だ。

 紅は主意には逆らわない。


 この場は勝ちだ。

 エッジールは恐怖を飲み下して、言った。


「しつこい。いい加減失せて」


 切り裂かれた胸元からこぼれた乳房を隠しながら、女剣士は曖昧に笑った。


「そうさせてもらおう。露出のケはないからな」


 胸を隠していたさらしが切れて、大きな乳房が布地を押しのけ始めていた。東洋魔術のかけられた男装用らしいが、切れてしまえば意味は無い。

 紅は男物の着流しの胸元をどうにか引き合わせて隠そうとするが、あまり上手くいっていない。紅は諦めて片手でどうにか胸を抑えた。

 僅かに入った傷から血が溢れだし、その手を濡らす。


「勝負はおあずけだ。楽しかったぞ」

「うるさい。私の邪魔をしないで。そして私のものに手を出すな」


 建物の上に飛び乗った紅に、エッジールは苦々しい顔で悪態をつく。


「……ああ、それと」


 去っていく紅に、エッジールは思い出したように付け加えた。胸を指差して。


「見ないうちに大きくなった?」

「ちっ……貴様もだろうが」


 男装の麗人は苛立たしげに眉根を寄せた。

 一言返して満足したエッジールは、撤退する紅を黙って見送った。


 このまま戦闘継続は無理だ。紅はまだ【魔剣】を抜いておらず、瞑想を十分に深めたわけではない。何より、紅が主命を振りきって尚挑んでくるとして、何度殺せばいいのかも分からない。消耗戦となれば勝つのは恐らく向こうだ。


 その姿が完全に見えなくなり、【幽かな生命】のざわめきが落ち着いた頃、エッジールはようやく剣を下ろすことが出来た。


 改めて。エッジールは振り返って、かつての恩人の姿を見た。

 ヴァイオラは、複雑な表情を曖昧な笑みで塗りつぶしていた。


「……お久しぶりです、ヴァイオラ様」

「ええ、お久しぶりです。エッジール」


 その手に、白鳥の羽根――。

 メセルスクエルは、迷いを振りきって口に出した。


「……メセルスを、渡してください」


 碧海の女王は、一度強く目をつぶった。そして答えた。


「――申し訳ありませんが、それは出来ません」





 路地裏。

 紅は切られたさらしを結び、胸に巻きつけてどうにか隠した。

 本来裸など見られたところで構わないのだが、今そうなれば主の名に泥を塗る事になる。己の恥は主の恥。それは許されない。

 紅は、代わりに恨み言を口にした。


「やはり邪魔だ……今度こそ、六位様にどうにかして削ぎ落とす許可を貰わねば……任務に支障が……」

「隠蔽と体積減少の魔術紋か。晒布ごときに良い物を使っているな」


 はっとして紅が振り返る。刀が抜かれる前に、【火炎縛フレイムバインド】の炎の輪がその動きを封じた。

 鼻につく、紫煙の匂いが立ち込める。


「いい加減男装は諦めたらどうだ。陰陽の気の調和なら外見ではなく内で取るのがよかろうよ。再生の難しい衣服ですることではない」

「貴様……ザリス?」

「いかにも、いかにも。私こそがザリスだ」


 陰鬱な魔女ザリスは、やや得意気にパイプをふかしてそう答えた。


「こうして突然現れて名前を呼ばれるというのも中々気分がいいな。ああそれと、さらしはきつく巻き過ぎると胸の形が崩れるぞ。垂れ下がった巨乳など醜いだけだ。やめておけ」

「うるさい余計なお世話だ魔女め、こら触るな!」


 無遠慮に胸に手を伸ばしたザリスに対し、紅はそれを隠して威嚇した。

 魔女は苛立たしげに眉尻を釣り上げた。紅の手は血で赤く濡れていた。


「おい手をどけろ。回復術は非感覚対象への遠隔施術が一番難しいんだ。こんなところで高等技術を使わせるな」

「いらん!」

「なんだと? ふざけるな私の施しの邪魔をするんじゃない。金は取らんから感謝の念を覚えろ。礼を言うだけで傷も衣服も治るんだぞ? 早く私を承認しろ」

「魔女の手は借りん! 特に貴様のはだ!」


 ザリスは不愉快そうに手を引っ込め、咥えたパイプを指に挟んだ。

 紅は何かの軟膏を傷口に塗り込み、呼吸を不規則に変化させた。

 気功法だ。東洋の呪術をザリスはしげしげと眺め、紫煙を吐き出した。


「また死んだか」


 端的で含みのない問いかけに、紅は鼻を鳴らした。


「死などまやかしだ。私が知る死は一つだけだ」

「【ロワスの真理の長耳ロワスカーグ】……まぁ、そうだろうな」

「それよりも」


 紅は胸元をきつく隠し直して、一つ咳払いをした。


「貴様か? 人払いの結界を解いたのは」

「ああ、そうだった。私はその話をしに来たのだ」


 途端、ザリスの顔に先程よりも深く苛立ちが走った。

 紅は一歩身を引いた。


「ブチ転がすぞクソ間抜けが。こんな街中で大掛かりな【人払いワーディング】など使うな。解除する身にもなれ。お前の都合に他人を、特に私を巻き込むんじゃない」


 怒りを露わにするザリスだが、彼女も同じ呪術を使ってここまで来ていた。


「私とあの大精霊で打ち合ったら死人が出るだろう」

「そんなもの知るか。お前のせいで道中人だらけだ。私は人混みがこの世で何番目かに大嫌いなんだ。お前のくだらない都合で私を煩わせるな」


 あまりの横暴さに紅は頭を押さえた。ここで何か言い返しても話は始まらない。

 長い付き合いではない。だがザリスと関わった者は皆同じ結論を抱く。


 彼女は概ね、道理を外れた、間違った事は話さない。

 確かに紅の張った人払いの呪は、トゥルサの経済を乱していた。

 職場を追い出されたもの、運送を諦めたもの、遠回りして遅れたもの。人口密集地に突如として侵入不能地帯が出来上がれば、必然そういった人間が増える。


「……分かった。悪かった。それで?」

「うむ。詫びとして頼まれろ。【レストロオセの四十四騎】が亜大陸にいる。破壊と再生のヴェイフレイではないぞ。もう一騎だ」


 紅の表情が更に嫌そうに歪んだ。

 レストロオセの四十四悪魔――フレウテリスの四十四騎士――呼び名は様々あるが、地獄の支配者である呪祖レストロオセに付き従う四十四の悪魔たちだ。

 ザリスの契約先にしてエッジールの仇敵ヴェイフレイも、その一柱だ。


「何が来ているかまで特定出来なかった。契約に寄る召喚ではない」

「自身の意思で現れた悪魔? どんな厄介事だ」

「分からん。だからそれを調べてこい。何が来たか分かればそれでいい。期限は曖昧にしておいてやるが、私が欲しくなるまでには寄越せよ」


 紅は壁に背を預けて溜息を付いた。

 普段の紅であれば一言で跳ね除けただろうが、ザリス相手ではそうもいかない。


「何か問題でもあるかね――


 紅は痛みに耐えるように、強く瞳を閉じた。

 ザリスはそれ以上を口にはしないが、代わりに態度で物語っている。

 剣士は深く息を吸って、吐いた。


「……ロワスカーグ討伐戦。あの日のことを、忘れたことはない」

「そうか」


 ザリスはパイプのボウルに指を突っ込み、煙草を叩いて均す。

 炎術師である彼女は火や熱に強い。竜の息吹程度では焦げ付かない。

 魔女であり知識の蒐集者であるザリスは、矛盾を指摘し正すことも得意だ。魔を紡ぐ猶予があれば、狂った空間さえ均してしまう。

 言語魔術師でもある。名付けも権能の範疇だ。


 それゆえに、魔女はロワスカーグ討伐の戦に参加したことがあった。

 それが二人の出会いだった。


 ――だが紅は、それを恩と感じたことはない。

 紅の瞳に暗い殺意が灯り、ザリスはそれを鼻で笑う。


「毒を貰ってやっただけだろう。今この場で返してやってもよいのだぞ」

「貴様……」

「どうした。お前の大事な義とやらだろう? おお、どうか報いあれ!」


 ザリスは丁度吸い切ったパイプから口を離し、横柄に両手を広げた。


「私はお前を、救ってやったのだ――違うかね、タナスティア」


 その名を呼ばれる度に、紅はかつての苦痛に苛まれた。

 同じ存在は世に二つあってはならない。

 時を遡る事は出来ても、過去の自分と未来の自分が同居することはあり得ない。


 【ロワスの真理の長耳】に触れたタナスティアは、時のはたてに消えるはずだった。過去に辿り着き、時の矛盾の中で、幼い自分によって魂と肉体を上書きされるはずだった魂――それを魔女が縛った。


 紅という新たな名を与えられることで、彼女は消滅を逃れた。

 かつての自分であるタナスティアは、大陸の中東で健やかに暮らしているだろう。もう二月もすれば、剣術を習い始める頃合いだ。未来になれば何度めかのロワスカーグ討伐戦に参加し、そして【長耳】に触れ、過去へと戻り、存在の矛盾に苦しむ。そしてザリスに名を与えられる。

 ザリスの言は間違っていない。助けられたと、そう見ることは出来る。


 だが名前魔女に真名を握られるというのは、隷属を意味する。

 それによって、紅の魂は逃れようもなく縛られた。魔女の手に。


「……出来る範囲でやってやる」

「うむ。それでよいのだ、よ」


 ザリスが不機嫌に紫煙の残滓を吐き捨てた時には、紅の姿はどこにもなかった。


「死に損ないめ」


 パイプの中身を傾ける。一摘みほど残った煙草の燃え滓を空に払い捨てて、ザリスはそれを懐にしまった。

 そして僅かに噎せた。ザリスは元来嫌煙派である。


「しかし一悶着あるかと思って準備したが、吸っただけ損だったな。煙草もタダじゃないんだが……。不味い上に高い、こんなものを趣味で常喫する奴はなんなんだ? 依存症でも患っているのか?」


 ザリスは踵を返した。

 いつも通り、ぶつぶつと悪態を漏らしながら。


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