二節 紅の影を伴に連れ

赤の記憶





「……ねえねえ、エッジールはさ、どうして強くなろうと思ったの?」


 ウィルエラの言葉に、エッジールはいつものように沈黙を返すつもりだった。


 戦いがあった。まだ実戦に出て何度めかの、ぎこちない彼女たちの戦いは、しかしかろうじて大きな被害もなく勝利できていた。

 立役者は、優れた剣士である青のエッジール。

 そして、皆を一声で奮起させた、赤のウィルエラ。


 エッジールは己の手を見た。がさがさでたこだらけ、剣を振り続けた戦士の手だ。


「……取り戻したいものがある」


 そして、いつものように簡潔に答えた。


 足取りは決して軽くはないが、さりとて引きずるようでもない。

 激しい戦いの後でも目立った傷を残さないその体は、エッジールという戦士が積み重ねてきた修練の証明だった。


 乾いた風が手のひらを撫でる。寒空はエッジールの手から体温を攫っていった。

 エッジールは両手を懐に隠して、また歩み始めた。


「そっかそっか。だから……ずっと修行してきたんだね」


 ウィルエラの体はぼろぼろだった。


 技術も能力もない彼女が張れるのは命だけだった。だから彼女はそうした。

 彼女は文字通り立ちはだかった。何度でも立ち上がって、果敢に挑みかかった。

 それがなければずっと苦戦しただろうとエッジールは思う。


「私はさ、ふつーの妖精だったんだ」


 荒れた農園をエッジールは歩き、それにウィルエラがついていく。

 戦場跡は何処もかしこも傷だらけだ。悪しき飛来神群は麗躍七姫の手で討滅され、しかしその傷跡は、彼女たちでは癒せない。

 この土地が復興するまで、何年かかるだろう?


「強くなりたいとか……思ったこともなかった。平和に、陽気に、だらだらして……それでよかったんだ。それが、ずっとずっと続けばいいって思ってた……」


 エッジールは答えない。なぎ倒された果樹園へと、エッジールは分け入っていく。ウィルエラはその後をせっせと追いかけた。


「でも、でも……ね。今は、ぜんぜん違うの」


 ウィルエラの言葉を背中で受けても、エッジールは言葉を発さなかった。けれど、いくらかの月並みな言葉たちの代わりに、彼女は振り向いた。

 ウィルエラは立ち止まって、薙ぎ倒された木々の一角をじっと見ていた。


 先程彼女が吹き飛ばされて追突した、その時の跡だった。

 果樹は根本からへし折れていて、もう実をつけることはなくなっていた。


「悔しいの」


 その綺麗な手は、握りしめすぎて血の気が失せてしまっていた。


「みんなが笑顔でいられるようにって。平和で、呑気で、だらっとして、それでいい世界を、守りたくて……そう思ってたのに」


 彼女は誰かを思い出している。エッジールは知っていた。果樹園の男性だ。

 死んだ娘を抱えて呆然としたまま、身動きもしなくなった被害者だ。

 守れたはずの命だった。ウィルエラが、もっとうまく戦えていれば。


「悔しいんだ……悔しいよ……私のせいだ」

「貴方」

「私が弱っちいから、めちゃくちゃになっちゃった」


 エッジールは口を開こうとしたが、出来なかった。

 ……あれほど勇猛に声を張り、死に物狂いで悪しき神を押さえ込んだ赤き戦士は、しかし今や涙をこらえて立ちすくむことしかできなくなっていた。


 麗躍七姫メセルス・クラウドは戦士団。戦う以上の力はない。

 破壊されたものを作り直す力はない。

 失われたものを取り戻すことは、彼女たちにはできなかった。


「強くなりたい」


 ウィルエラの言葉は、何より弱いウィルエラ自身を突き刺した。


「私は、強くなりたい」


 赤の少女はかすれた声で叫んだ。己の無力を嘆いた。悲鳴を上げた。音もなく。

 それができる立場にないからと彼女は己を罰し続けた。

 誰もいないこの場所で、彼女は一人、溢れ出る感情の中で耐えていた。


 俯いた顔にかかる赤髪を、エッジールは見た。

 戦いを知らぬ町娘の健康的な体躯に、溢れんばかりの力がこもるのを見た。

 行き場のないそれらが、彼女自身を打ち据えるのを見た。


「それは、何のために?」


 自然と出てきた問いかけに、エッジールは自分で驚いた。


 ウィルエラはぱっと顔を上げた。

 その燃え上がる瞳は、涙におぼれて消えかかっていた。



「みんなのために」



 ――それを、美しいと思ったから。


 エッジールは気付けば、ウィルエラの手を取っていた。


「なら、手伝う」


 固く握りしめられたその手をそっと解いて、赤く腫れた手のひらを擦る。


 その願いに負けた気がした。

 尊いと思った。彼女が願うことは、とてもすごいことだった。

 きっと誰も、彼女の願いには叶わないなと思った。

 今その時だけは、自分の願いさえも放り捨ててしまえた。


 エッジールは、生まれて初めての気持ちを抱いていた。

 自分の心が真っ赤に染められるのを感じていた。


「強くなろう。一緒に」


 なくしたものを取り戻す力は、どこにもなくて。

 だから、今、二人でできることは――。



「――もう失わなくていいように」



 赤い瞳から涙が溢れた。その奥に宿る炎が消えていないのを、エッジールは見た。

 それでいいと思った。そうしたいと思ったのだ。


 食い込んだ爪で傷ついた手を、冷たく荒れた両手で包み込んだ。



 ――それがきっと、二人にとってのはじまりだった。



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