二節 紅の影を伴に連れ(前編)




 白翼海の遷潮流に乗って、時計で言うなら二時から七時ほどまで回ると、亜大陸……【眷属】の支配領海へと出る。

 踏み入った誰もがそれを肌で理解するだろう。


 本大陸の支配者たる紀元神群ゼオーティアンの加護が遠のき、亜大陸の過半を支配する【南東の脅威インパクター】の加護に切り替わる。

 空気は熱を孕みながらもからりと乾いた、亜大陸の温暖な風に。

 砂と岩を照らす火の加護が強まり、日差しが力を増す。

 霊境――信仰のせめぎあいが生み出す環境の変化だ。


 エッジールはそれを船室で感じ、目を覚ました。

 生まれ変わったような思い。体の奥にかかっていた重さがなくなる。民族的・社会的な故郷、つまり精霊種の霊的勢力圏へ帰還したことで、授かった加護や生まれ持った霊格が補強される。


 ふるり、と寒気が走る。

 風呂上がりに服を着るのも億劫で、裸のまま寝てしまったのだ。

 寝ているうちに蹴り飛ばしてしまったらしく、衣服が寝台の隅に丸まっていた。


 素肌を、故郷の風が撫でていく。

 海の上でさえ亜大陸の風は乾いていた。


 懐かしい風だった。

 かつてはよく経験した、越境の感覚。

 東奔西走、東方の竜やその巫女、本大陸の神の尖兵……遠く敵地へ遠征に向かう際、何度も霊境を跨いだ。

 呪力が満ちる。体が軽い。「帰ってきた」という感覚がある。

 ――これほど歪に変貌した自分ですら、祖霊様方は快く受け入れてくださる。

 エッジールはそれが嬉しかった。

 嬉しいと感じるのも久しぶりだった。


 懐かしい。

 くすぐったさに笑いあったし、疲れた体が軽くなって喜んだ。

 霊感力の高いミューネラは敵地に向かうたび暫くぐったりとして、いつも不平不満を漏らしていた。

 対してシャルセはほとんどいつもどおりで、羨ましく思ったものだ。


 郷愁に逆らえない。寝台の上で、エッジールは寝返りを打った。


 遠征の後、飛行船で休養を取る、なんて一度も成功したことがなかった。

 みんなはしゃいでばかりで、戦い疲れに騒ぎ疲れまで上乗せしていた。


 ルカ姉さんが音頭を取って、どこからかくすねてきた霊酒を片手に暴れ始めて。

 それに乗るのは大体シャルセで、人の体をべたべた触りだして。ハルマスラはいい子だったから、ずっとおろおろしていたせいで大体被害にあっていた。

 普段は引き止め役のカロル姉さんも、微笑みながら傍観するだけ。お酒に弱いミューネラを膝の上で寝かせながら、時折口を挟んで事態を引っ掻き回して。

 混ざりたいのにプライドが邪魔をするエメルザのことを、ラティニスがからかう体で輪に引き入れる。みーんなエメルザのことは分かっていたから、そんな態度を取った日には、すぐにもみくちゃにされていた。

 ウィルエラはそのどこにでも中心にいて、いつでも笑顔で。

 私はそれに引っ張られる形で、でもウィルがいつも手を握ってくれていて。


 命からがら逃げ出してきた時もあった。みんな傷ついてボロボロだった。

 沈んだ気分を振り払いながら反省会をして、そうでなければ喧嘩した。


 喧嘩になるのは大体ルカーリュ姉さんとカロルハーク姉さんだ。あんな痴話喧嘩、ほっとけばすぐ仲直りするのに、ラティニスは本当に優しい人だった。

 シャルセは反省点をぽろぽろこぼした。普段ぼーっとしててもそういう時は鋭くて、大体、言っていることは間違っていなかった。

 鋭い指摘を一番に受け止められたのは私と、ハルマスラだ。厳格なあのハグタイル師を父にもつだけはあって、自分の間違いから逃げることはしなかった。

 逆にそういうのが苦手なのはミューネラだった。純真だけどわがままな子だったから、よく人のせいにして逃げたりしていた。でも、そんな自分が一番嫌いなのは、やっぱりみんなよく知っていた。

 私は控えめに言っても口下手で、何を言うべきか分からなくて黙っていた。

 場の空気が悪くなる度にラティニスが口を開いた。性格も嗜好もばらばらな九姫が一緒にいられたのは、あの子がずっとみんなの事を気遣っていたからだと思う。

 そして落ち込んだみんなを励ましたのはウィルエラだった。

 涙を見せても、膝をついても、ウィルエラがいつも一番に立ち上がった。失敗したって、負けたって、一度だってめげなかった。皆を繋いでいたのはラティニスだったけれど、皆を奮い立たせたのはウィルエラだった。


 そうやってずっと戦ってきた。

 私たちの結束はいつだって切れることはなくて、誰かが膝をついてもみんなで助け起こして、負けはあっても、撤退はあっても、必ず立ち上がって取り返した。

 みんな諦めなかった。


 勝てない相手にも。


 ――ヴェイフレイにも。


 砂塵の匂いがする。


 強大な【燎原の火ワイルドファイア】の猛火を前に、二人の先輩は身を挺して私たちをかばい、未来を託した。

 焦げ付いた荒野に倒れこんで崩れる、金と銀。

 ルカーリュ姉さんと、カロルハーク姉さん。

 繋いでいたはずの二人の手が炭になって崩れて消えた。


 メセルスの力を削ぐ力場から逃げ惑う中、緑の格闘家が一人囮を買って出た。

 十分の後現れた悪魔は、私たちの目の前でシャルセの頭蓋を握り潰した。


 恐慌する私たちの中で、唯一桃色の魔法使いだけが激怒していた。

 あらん限りの魔術で挑みかかったミューネラは、肉体を塵に変えられて消えた。


 アンチメセルスユニットを破壊するために、黄の弓兵が身を隠した。

 ラティニスは全力の一矢でユニットを破壊した。全身に風穴を開けながら。


 ようやく力を取り戻し、白の戦士は滅多に見せない怒りを発した。

 全力の一撃は軽く防がれ、ハルマスラは股下から脳天までを串刺しにされた。


 遅すぎた撤退を進言しながら、黒い戦士は一人私たちから離れていた。

 悪魔を誘き出したエメルザは、念入りに全身を切り刻まれてから刺し殺された。


「ウィルエラ……」


 残された二人――赤の戦士は、もう動ける体ではなかった。

 これまで散々味方を庇ってきたウィルエラは、私の腕の中で力尽きた。


「ウィル、ウィル……」


 覚えている。欠片も忘れてはいない。

 肉が腐り落ちようとも、魂が崩れ去ろうとも、この誓いにだけはしがみつく。

 みんなが愛した、みんなのことだけは、絶対に。


「かたき、とるよ……うぃる……」


 ――薬が切れてきた。


「だいそ、だい、だいようぶ……」


 ろれつが回らなくなる。意識が明滅していた。

 世界がとろけたように認識が歪む。心が崩折れそうになる。

 死神ハザーリャの忌々しい顔が見えるようだ。その面を見るのはまだ早い。


 エッジールは悲鳴の代わりに喃語を上げた。


「まあ、ま、まっ、うぐっ……」


 脱ぎ捨てた衣服にもぞもぞと這い寄る。手は上手く動かない。両手のひらで挟み込むようにして缶を掴み、中から錠剤を転がす。別の缶からもう一つ。

 シーツの上に転がった錠剤を、犬のように口に含んだ。


「ん、グ――」


 変化は劇的だった。


 意識が過剰なほどにクリアになる。閉じていた目を開いた時の眩しさ。

 腐りゆく心と体が強引に引き戻される。

 エッジールの意識と身体に強烈な負荷がかかった。


「うぎ……う、うえっ」


 感覚が暴走する。激痛と灼熱を感じ、寒気に身を震わせる。

 肉体はあらぬ形に蠕動し、拡縮を繰り返す。骨が折れる音がする。

 芯から皮まで一度綺麗に作りなおされていく。


 心が老衰し、誕生し、早熟し、流転の中で焦点を絞るべく試行錯誤を繰り返す。

 魂の溶鉄を型に流し込んで整形し、削り落とし、失敗して溶かし直す。

 正しい形を探して繰り返す。


「いっ、いあっ、いやっ……やだ……やだ、やだ……!」


 めっきの皮。鋼の骨。瀝青の血。

 魂の鋳型は魔女の肉。


 歯車。死。プリズム。七色。

 金色の電気回路と銀のソケット。


 完成――程遠いもの。郷愁。虹色。

 あるべき姿。望まれた形。


「ぐ、じっ……グゥ――」


 ――無数のイメージと最悪の酩酊感。

 揺さぶられた自我が現実に焦点を合わせるまで、たっぷり二十秒かかった。

 息を吐き出しすぎた。酸素が足りない。


「はっ、はっ、はぁーっ……うえ……」


 苦い味が口腔に充満している。苦いものを苦いと感じられている。感覚は良好。

 ベッドから飛び起きると、残った水差しの水を全て煽った。

 精神状態は正常。寸分の狂いもなく私だ。エッジールはまずそれを確認した。


 転がった缶からこぼれた錠剤を、混ざらないように注意して詰め直す。


 薬の名は「クーフィウルア」。変化剤だ。

 【眷属】の竜の研究の副産物だと言われている。

 竜が竜騎士に【化身】するように、また戻るように、変化させる。心と体を。

 心の有り様を書き換える薬と、体の形状を書き換える薬だ。

 惰眠にかまけて「一日一錠ずつ、日が落ちる頃には飲むこと」という黒衣の怪人の言いつけを忘れていた。


 エッジールの本来の肉体は、三割ほどしか残っていない。

 胸像を思い浮かべればそれが正しいだろう。

 そこに肉を継ぎ足して呪術義体を作り、クーフィウルアαと禁呪で繋いでいる。

 βは精神安定剤代わりだ。


 あの怪しげな黒衣の男がこれを果たしてどうやって手に入れたのか、エッジールは知らない。

 肝心なことは一つだ。薬の切れ目が命の切れ目。


 体がいないか確認しなくてはと、エッジールは鏡の前に立った。


 痩せ細った女だった。


 骨が浮くような体。背は低め。青い髪と瞳。青褪めた肌。髪の毛はやや伸びたか。

 筋肉はない。鍛える必要がなかった。化身したエッジール……メセルスクエルは非常に霊的側面が強いから、膂力は身に宿した呪力や霊格が生み出す。それでも生身で剣を振るう必要があったせいか、かつてよりはやや太くなった。


 精霊といえど、肉体の作りは人間と変わらない。

 二手二足、歩行し、手を使って様々な作業をし、食事をし、排泄をする。

 エッジールは孔雀を司るが、ビファルのように羽根があるわけでもない。

 その肉体は殆ど義体にすげ変わっていたけれど、見かけはあくまで人間だった。


 全身を覆う複雑極まりないタトゥーを指でなぞっていく。

 肩の付け根や胴体、胸像の切断面には、特に濃く紋様が刻まれていた。

 外見には見えないが、刻印は膣から子宮の裏、口腔や食道、眼窩、内臓から血管、皮膚の裏や骨にまで、偏執的なくらいに刻まれている。


 これは禁呪が作る霊的な輪郭だ。一度死んだエッジールは、魂が本来の形を失っている。力ある紋様でその身を囲っていないと魂が漏出してしまうのだ。

 口腔や膣も表皮と地続きだから当然に、内臓や血管は機能を保証するために、骨は魂を支えるために、エッジールの体は余す所なく手を入れられている。肉体に流れる血液すら入れ替えた。

 ただそれは、見ようによってはとても淫らなものに見える。

 エッジールは売り飛ばされた奴隷の女が男に媚を売っている姿を思い出した。


 変わったことはそれだけではない。

 欠片もなかった胸は、寄せれば谷間ができる程度に膨らんだ。シャルセに見つかったら一日中狙われるな、と思った。エメルザも恨みがましい目をするだろう。

 呪術義体は本体とのバランスの調整はしても、本体のようには成長しない。肉体の質量が減った分、残った部位……上半身はよく成長するようになった。毛髪が伸びるのもそのせいだろう。

 少しだけ大人びた顔つき。彼女がきれいと言った瞳の青は、濁って見えた。


 よく見てみれば、記憶と違う。

 少しだけ肉がついて、少しだけ大人らしくなって、少しだけ色気が乗って。

 それがたまらなく怖い。みんなを置いて行っている気がして。


 エッジールは背中から股の内側、口の中までを念入りに確認して、深呼吸して胸に手を当て心肺を、水を飲んで食道を確かめ、問題がないことを認める。

 肉体の状態も良好。崩れて皮膚が爛れたり溶けたりということもない。

 エッジールは鏡から目を背け、寝台に倒れこんだ。


 あまり空腹を感じないが、時間的には夕食時だろうか。

 エッジールはもうまともに食事を楽しむことも出来ない。

 出された食事の殆どを残すことになる。あまり食堂へ行く気にはならなかった。


 人を気遣う余裕も、道理や道徳を気にする余裕も、まだあった。薬を飲んだ直後はまだ、人間らしい自我を保てる。

 ここから時間が経過すればどんどん心が腐っていく――機能不全を起こしていく。今のところ、戒律だけは守れているけれど。

 もうエッジールは慣れてしまっていた。


 エッジールは悩んだ末に、丸まった衣服に手を伸ばした。

 そっと傷跡の刺青を撫で、枕元のメセルスを咥えると、全身の呪印をローブで覆い隠して、部屋の外へ出た。




「クソが。ふざけるなよ、あのクソ悪魔め」


 夕食時、人々は食堂に集って思い思いに食事を楽しんでいる。

 だがそんな食堂の一角に空白地帯ができていた。

 その中心には、悪態を垂れ流す赤髪の魔女だ。陰気な顔に苛立ちばかりを貼り付けて、ぶつぶつと怒りを放出していた。


「何が託宣だ、もう沢山だ。くだらない言葉遊びが出るくらいに苛立っているぞ。私はこんな無用の長物のために遠路遥々やってきたというのか! 霊的根源への遡行なんぞ根源を異にする種が使えるわけがなかろうが!」


 魔女もまた、精霊と同じく人間とは別の生物だ。信仰よりも畏怖や悪名によって昇位する類、悪性に分類される種である。

 一般に「魔女と関わり合いになるべきではない」と言われる。

 ただし乗客が彼女に近寄らない理由は、その絶え間ない悪態のせいだろう。


「完全に無駄足だ。【かすかな生命】を引き寄せるのにこんなものに頼る必要もない……。これなら魔王城のいかれた書物庫に篭っている方がマシだった。【書なる書】の深淵が私を呼んでいる気がするぞ、それはそれとしてここのシェフは腕がいいな」


 赤髪の魔女は陰気な顔のまま岩の塊のようなそれをぼりぼりと口した。


甲鳥かも(※1)など久しぶりに食べたな。鋼玉の羽根を可食化しているのは食物神系統の神働術テウルギアか? 珍味と耳にしてはいたが、存外食べやすいものだな。この遠征の数少ない収穫と言えるだろう」


 言ってから、魔女はフォークで刺した肉を炎で消し炭に変えた。


「何が収穫だふざけるな、私は旅行に来たんじゃないんだぞ。豪華客船で優雅にクルーズ、夕食は珍味で大満足、私は頭の緩い上流階級のご令嬢様か。妹みたいな事を私にさせるな。ああクソ妹の話をするな! あのクソ、クソ、クソ悪魔め、次は念入りに維持した【オルゴーの滅びの呪文】を至近距離で喰らわせてやる!」


 愚痴は際限なく、ついには一人芝居の様相を呈してきた。

 人々はいっそう彼女を避けて、人混みにはテーブル二回り分の空白が出来た。


 一般客と魔女、その中間あたりに席を取った人物がいた。

 フードを目深に被ったエッジールである。


「なんでアレには【炎上フラッシュファイア】が効かないんだ。……クソ、落ち着け、発送の転換だ。とにかく何か収穫があればいいのだ。今までの空振りもそれで纏めて返済だ。邪視の基本に立ち返れ。私の見る世界だけが世界だ。終わり良ければ全て良し、私がそう感じればそうだったということになる、それだけの、むっ霊圧……なんだあの娘は」


 彼女は「空いていた。運がいい」くらいの心持ちで、ぶつぶつと怒りを垂れ流す魔女を意にも介さず、トレイを机に置いた。


「馬鹿げた引力だ。【かすかな生命】たちが余さず隷従していく……あんなものが歩いていて誰も気付か、いや、ローブにかかっているのは隠蔽と擬似的な異空間形成に……認識阻害と、霊格の秘匿? ふむ。汚れは関係ないな、端の欠損で機能が止まりかけているのか。普段はアレで抑えていたのだろうな。ローブが邪魔で底が見えん」


 エッジールは無言でトントロポロロンズ(※2)をスプーンですくって口に運んだ。表情は外から窺い知れないが、満足気であった。


「何重もの加護を感じるぞ。本人の霊格も高いがそれ以上だ。何者だ……? 紀元レベルの霊的存在から加護を得るような存在があんなみすぼらしい姿で。いや待てあの指、義体ではないか。いや指だけではないな……肉体の殆どか」


 彼女が撃鉄鳥にわとり(※3)のステーキにナイフを差し入れると、小さく火が溢れ出て、ついでじわりと肉汁が溢れ出た。火で熱されたソースから水分が飛び、どろりと粘性を帯びる。エッジールは肉を切り分けるとフォークで突き刺し、フードの奥の小さな口でふうふうと熱を冷ますと、それを口に運んだ。


「素晴らしい出来栄えの呪術義体だ。アレほどのものは中々見んな。人形……というわけではない、キュトスの霊性を帯びているわけでもない……完全な生体の模倣? 作りとしては天使フェーリムに近いが、しかし天使のゆりかごクレイドルも白衣の神々も、とうに失われて久しい……何者だ……むむ?」


 エッジールは口元についた肉汁をナプキンで拭き取ると、穀物酒に口をつけた。辛みの強烈な酒だったが、エッジールは平気で三分の一ほどを一気に飲むと、パンを一つ手に取った。

 そのパンを千切ろうとして手を止めた。それきり暫く、少女はじっと皿を睨んだまま止まっている。


「指の呪印……いや……見えるぞ、おい、なんだあの呪印は、全身どころか皮膚の裏まで、いや、いや、いや、違う、違うぞ、知らないぞアレは!」


 魔女は思い切り立ち上がった。


 ウェイターがやってきて、味に不満があったか、と問いかける。少女は小さく首を横に振り、何かをぼそぼそと答えた。ウェイターは当惑しながら何事かを答えようとした。そこで魔女が割り込んだ。


「おいっ、いや、失礼、すまない。お前、少々いいか」

「……誰?」


 赤毛の魔女は、陰気な顔を興奮で紅潮させていた。


「ザリスだ。魔女だ。それはいい。その腕、いや全身よく見せろ」

「……同性愛者?」

「たわけが。いや、誤魔化そうとしても無駄だぞ。その全身の呪印だ。決まっているだろう。詳しく見せろ、まだ力の僅かも働いていないだろう」

「嫌だ」

「タダとは言わん。あぁおいウェイターお前は邪魔だ、失せろ。ついでに人払いを、いやこの場を退いたほうがいいか? ああ嫌に興奮しているのが自覚できる。今私はとても気分がいい。よし、先に見せるだけ見せるとしよう、ちょっと待て」


 魔女――ザリスはウェイターを追い立てると、指で二三と印を結ぶ。怪訝な顔をしたウェイターが言われたとおりに下がっていくのを確認し、人払いの印が効果を発揮し、人々の視線が途切れたのを執拗に確認してから、ザリスは赤褐色のローブを広げて念入りに周囲の目を遮った。


 そして、懐から取り出した小箱を開けた。

 エッジールは目を剥いた。


「お前の欲しがっているモノだろう」

「少し待って。いくつか条件がある」

「いいだろう、物によっては飲んでやる。悪魔でも呼ぶか? 魔術でも授けるか? 薬か? それとも知恵か。呪い殺したい奴でもいるか」


 収められていたのは、歯鳥ハトの羽根――メセルスだった。

 エッジールはフードの裾を僅かに持ち上げると、ザリスの顔を見た。

 そして、目の前の食事を指差した。


「これ、全部食べて」




「うむ、満腹だ。私は満腹だぞ。こんなに食べたのは久しぶりだ。たまには趣向を変えるのもよかろう。魔王城では概念的に栄養を摂取していれば済んだからな」

「そう」


 食事の度に、エッジールは自分が惨めな死体であることを思い出す。


 元々物理世界に強く比重を置く人間や妖精に対し、精霊は根本的に生態が違う。呪力や霊力――それを媒介する【幽かな生命】を摂取するだけでも生きていけてしまう。究極的には、霊格に付随する霊力だけでも死にはしない。

 まして精霊の呪術義体ともなれば、霊的なエネルギーのみで稼働する。体の七割をそれに置換した以上、エッジールはパン一つあれば三日は生きていけた。

 だが逆に、一般的な精霊向けの食事ですら量が多すぎるということでもある。


 彼女の体は最早排泄もしない。高効率の呪力変換体である呪術義体は摂取したものを余すところなくエネルギーに変えてしまう。

 今やエッジールの肉体を支配するのは生者の持つ芸術的な複雑系ではなく、機械と死者の無機質で単純な論理だ。


「撃鉄を食うというのも中々乙なものだ。更新前の塔でのあの戦いを知っていて尚という私だけの楽しみだな。これはいい。優越感だ。うむ」

「……満足?」

「たわけが。腹がはち切れそうだから必死に消費しようとしているんだ。今まさに【燃焼】でエネルギー体に圧縮中だ、ふざけるな吐きそうだぞこっちは」


 交換条件を出したのは自分とはいえ、律儀に食べきる方にも問題が有るのではないか、エッジールは思ったが言わないでおいた。


 魔女ザリスが人払いの魔術を念入りにかけた、客船最上階の談話室。

 フードを脱いだエッジールはグラスの水を含むと、すぐ本題を切り出した。


「それで、貴女の持つメセルスだけど」

「二度も言わせるな。お前にくれてやる」


 魔女はあっさりとそう言ってのけた。


「……本心?」

「こちとら本大陸の、しかも人間由来の魔女だぞ。【南東の脅威インパクター】由来の器物をどう使えというのだ」

「外部的な魔力増幅装置とか」

「たわけが。こんなものに頼るような非効率をする愚か者は魔女になどなれん。まだ体内に海やら擬似太陽やら飼う方がマシだ。学術的な興味はあるがあくまで興味で、私を衝き動かすものではない」


 ザリスは吐き捨てた。


「【南東の脅威】の加護厚き麗躍九姫メセルスノウェム、青のエッジールよ。私は死したはずのお前を活かすその肉体の秘術を欲している。……これよりは使えそうだからな」

「まずメセルスを渡して」

「いいや、これは事後報酬だ。生憎と私は歩くのが苦手でな、お前が持ち逃げしたら私は追えん」

「……分かった。けど」


 エッジールは窓の外を見た。

 波は小さく、海は静かだ。船旅は実に順調だった。

 水平線の向こうに、白い点。トゥルサを象徴する遺物、巨大な白亜の城壁が小さく見えていた。もう朝にでも到着するだろう。


「これは……この呪は、まだ使わない」

「ふむ」

「私が目的を果たす時まで、誰かに見せるつもりは――ちょっと」


 ザリスは視線を外へ向けたエッジールの手をさっと取ると、表面を一撫でした。


「血か」


 端的な言葉に、エッジールは目を見開いた。


「ふむ……精霊を始めとする霊的素養の高い種のこぼす血は、体液という形質こそ伴うものの本質は別のものだ。流血とは宿主に帰化し肉体を構成する【幽かな生命】たちの剥離の光にすぎん。精霊の血は霊的な損傷により失われる……やはり薬の類ではないな。原初、肉体というものの理解が浅かった頃の呪術か? 魂を血流として表現している……いや違うな。ふむ……」


 ザリスはもごもごとひとりごとで解析を口にする。

 突如顔をあげると、魔女は喝采した。


「分からん! 素晴らしい! これは古代の体系が、秘匿されたまま現代まで連綿と繋がれ、そして洗練されてきた、そういう呪術だ! 素晴らしい、これは書には残っておらん正真正銘の太古の神秘だ!

 なるほど今お前が身に秘めているうちは、これは判別不能だ。誰一人正体を知らない、死者エッジールを活かす血の秘術……何が起きるかも分からなければ、何を出来るかも分からない。暗器ならぬ暗呪、かつて敗れた者へ復讐するのにはおあつらえ向きだな」

「分かるの……見ただけで?」


 少女の狼狽を鼻で笑うと、魔女は手に取った白魚のような手に顔を近づけた。


「血管の裏にまで呪印が刻まれているな。それは内外を隔てるものだろう。つまり血を代替する「肉体と隔てなければならないもの」が内部を流れている。遠目に見たのでは分からなかったが……」


 エッジールが手を引き抜く。ちらと手の甲に視線を落としても、血管の奥の呪印の様子など全く見えない。知覚を強化された義眼でもだ。

 ザリスは顎を一撫でした。


「どれだけ目がいいの、貴女」

「魔女を舐めるな、死した精霊よ。世界はお前が思うよりもずっと容易く紐解けるのだ。世界を解読不能たらしめるのはその物量でしかない」


 ザリスは高揚を陰鬱な顔の裏に戻すと、精霊の少女を眺めた。


「お前が今私をこの場で殺そうとしていることも、その方策を練っていることも、私の力を計りあぐねていることも、手に取るように分かる」

「――ちっ」

「懐に短剣、化身せずに【剣師】の技に頼るかね? 悪いがそれらには縁がある。通じるとは思うな」


 エッジールはローブの裏から手を引き抜くと、僅かに距離を置いて魔女を睨む。目の隈の濃い不健康そうな魔女は、表情一つも変えずにエッジールを見返した。


「叡智は何者をも飲み込む深淵だが、覗き慣れた者ならばその内を撹拌し望むものを垣間見ることも出来る。ましてや小娘の拙い思考など、書を紐解くよりなお容易い」


 ザリスの語り口は淡々としていた。

 言葉でこそ優位を明らかにしていても、彼女はそれに執着してはいない。

 お互いに敵対はあり得ないと、敵対的な態度で告げていた。


「お前の復讐なぞ微塵も興味はないし、手伝う気もさらさらないが、お前がその血の呪術を解き放つまで同行しよう。都合のいいことに運命やら縁やらも味方している。お前の復讐の、その終着点に用事があるのだ。引っ叩きたい奴がいてな」


 ザリスはローブの裏から分厚い本を一冊取り出した。


「……まだ連れて行くと言ったわけじゃ」


 睨むエッジールの鼻先に、ザリスは本の中身を突きつけた。

 悪魔召喚の本。描かれるはフレウテリスニガヨモギの紋章、呪祖レストロオセに使える四十四の悪魔の一人。破壊と再生を司る悪役の類型――。


「私が契約したクソ悪魔の名を、ヴェイフレイと言う」







※1 かも

 甲鳥。鉱石で出来た姿を装甲に見立てたため。

 吉鳥、益鳥、幻獣に分類される。

 非常に高い物理・霊理硬度を持つ鉱石の羽根を持ち、傷つけることすら難しい。

 紀元神群の【無銘たる軍神】と関わりが深く、かの神が象徴として持つ他、その御使いであるともされる、非常に霊格の高い鳥。

 くせのある匂いを持つが美味。


※2 トントロポロロンズ

 豆腐。木になる正方形の果実。パンゲオン世界ではメジャーな食料。

 熟したり樹木から摘んで暫く経つと非常に脆くなる。

 柔らかく栄養価が高いが味は薄い。

 硬さは最初はナタデココ、熟すと豆腐。


※3 にわとり

 撃鉄鳥。頭のとさかが【銃】の撃鉄に似ているため。コック。

 怪鳥、魔鳥、幻獣に分類される。

 猛烈な炎を放ち、あらゆる物体を見境なく燃やし尽くす炎の化身。

 強大な火と光の塊である太陽を好み、日の出を迎えるとけたたましく嘶く。

 時を焼き尽くした逸話すらあるほど霊格の高い鳥。

 淡白ながら非常に美味な肉質を持ち、最高級の食肉に分類される。

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