一節 青褪めた剣を握りしめ(前編)




 紀元神群治めるゼオート大陸から南西、白翼海を超えた先に、亜大陸はあった。


 ゼオート大陸と亜大陸の間には、反時計回りの潮流が往復しており、これを利用した定期船が沿岸各国を巡っている。

 大陸西端に位置する多民族国家ガロアンディアンの港にも、当然定期船は訪れた。


 この時代、賊に悩まされない海域は珍しい。

 ガロアンディアン近辺はその数少ない海域の一つだ。

 水域では滅法強い珊瑚の角を持つ蛙ジヌイービや、海の民である魚人種で構成される精強な海軍が、海域の安全を保証している。ここは船乗りにとっても憩いの場であった。


 日差しの厳しい一日だった。


 この日、ウィンガルの港で定期船の名簿係を担当していた男は、聖絶の火神ピュクティエトもかくやの太陽に毒づき、そんな日の真っ昼間に名簿係をやらされた自分の不運を毒づき、いつも通り人が多く休む間もないことに毒づいていた。

 いかな憩いの場といえど仕事はなくならない。小さなひさしの下で石畳の熱に炙られながら、男は額の汗を軽く拭った。


「予約を入れたい」


 おまけに客も奇妙ときた、と男は内心で聞くに堪えない悪態をついた。


 この炎天下、みすぼらしいローブで全身を隠した女だった。

 日除けにしたって暑苦しすぎるし、そのローブも端は擦り切れ、表は黒い染みや泥汚れで模様すら分からない。


 その中にいる女も厄介事の匂いを放っていた。体の線を隠すローブ越しでも分かる、折れそうなほど細い体。小さな背。声色からしても明らかに子供だ。少なくとも二十はない。

 フードの奥から僅かに覗く肌は病的に白く、髪色は青い。

 亜大陸出身の妖精種アヴロノに多い髪色だ。


「はいはい、いつどこまでだい」

「今日の最終便、トゥルサ経由でジャホラットまで。上等な個室を。風呂付きだと尚いい」

「国際呪力通貨基準値で片道六五〇〇〇点」

「ん」


 フードの奥から、物々しい革手袋に挟まれて、手のひら大の絵画が一つ差し出された。


「乗船は暮れの鐘の三度目まで?」

「ああ、そうだが……絵画貨幣か。ちょっと待て」


 目を瞠るほど美しい、精月アヴロニアの描かれた絵画だ。高額なことは男にも分かった。

 【南東からの脅威の眷属】やその勢力圏の妖精アヴロノは貨幣を絵画とすることがある。が、局地通貨の上に同じ絵柄でも画家によって額が異なるため、勢力圏外で金額が分かるものは少ない。

 勿論そのための国際呪力通貨基準だ、計測して照らし合わせればよいのだが。


「釣りは要らない」

「は? おい待て糞ガキ」


 少女はふらりとその場を離れた。


「クソが。足りなかったら乗せねえし金も返さねえぞ」


 庶民が半月遊んで暮らせるような額を、子供がぽんと支払えるとは思えない。

 去っていくフードの少女に男は悪態を吐きかけると、改めて呪力計測器に絵画を突っ込み、そして男は目を疑った。

 弾き出された数字は、ゆうに六桁の大台に乗っていた。

 男の喉がひきつけを起こしたような声を出す。


 慌てて顔を上げた時には、屈強な海男たちと市場の雑踏があるばかりで、みすぼらしいフードの姿はどこにもなかった。







「いらっしゃいませー! アウレリオ武具商店へようこそ!」

「剣を買いたい」


 戸を開けるなり飛び込んできた声に対し、少女は陰鬱にそう答えた。


「剣ですね。保護者の方はいらっしゃいますか?」

「いない」

「これは大変失礼いたしました。お一人様ですね」


 店員の女性は小さく唸り、扉から離れてフードの奥へ消える手をちらと見た。

 細い体に見合わない節くれた手は、長期間の修練を積んだものの手だ。


「別にいい」


 儀礼用の短剣が欲しいというわけではないらしい。

 明らかに、戦いのための武器を欲していた。


「では、お似合いの剣を簡単に見繕いますので、お召し物を」

「要らない」


 少女はぴしゃりと遮った。

 そしてフードを目深にかぶり直す。


「剣ならなんでもいい」

「は、はあ」


 取り付く島もない。


「どのような用途でしょう。護身用でしょうか。旅使いであれば取り回しのいい」

「要らない、そういうの」


 先とは違い、苛立っていることは店員にも分かった。

 少女は店員から離れると一直線に歩き出し、一番近くの剣を手に取った。


「これでいい」


 突き出したのは、安物の長剣だった。

 質こそ悪くはないが、あくまで数打ち。少女の細い身で扱うには重く長過ぎた。


「よろしいのですか?」

「鞘は?」

「……少々お待ち下さい」


 有無を言わせぬ口調に押されて、店員は硬革の鞘を手渡した。

 大人ならば腰に帯びるような剣でも少女にはやはり丈長なようで、少女は片手で剣帯を掴むと背にかけた。


 振って確かめることもしない。剣への興味は一切ないようだった。

 少女はローブの裏から絵画貨幣を差し出した。潤星の描かれた美しい絵画である。


「お預かりします……ツィター作の『望郷』ですね。国際呪力通――」


 通貨基準値で五一二〇〇点になります、言い終える前にドアベルが鳴った。

 彼女が顔を上げると、ガラス越しに少女が去っていくのが見えた。


「ちょっ、お客様!」


 一山いくらの剣に対しては明らかに不釣り合いだ。

 しかし店員が店を飛び出した時には既に少女の姿はどこにもなかった。

 全身をローブで隠し、剣を雑に背負った少女となれば目立つはずだが、人々の視線はまばらだ。


「……どうしましょう」


 あの剣をゆうに十本は買えるだろう大金を手に、店員は途方に暮れた。







 「喧伝者」ビファルと言えば、巧みな弁論と絢爛な姿で知られる亜大陸の政治家の一人だ。

 非常に珍しい孔雀系の妖精アヴロノであり、その点でも有名である。


 彼は大陸東部の支配者たる霊格【南東からの脅威の眷属】の庇護の下、「渡り鳥」としてジャホラットと大陸を往復して活動している。

 渡り鳥というのは、【眷属】圏における広告塔や外交官のことだ。


 港町ウィンガルの郊外は富裕層向けの住宅街になっている。

 中でも小高い丘にある一等地に、ビファル・シエラブリスの別荘はあった。


「遠路遥々お越しいただいた事を、まずは感謝致します」

「社交辞令はいりませんよ。うしおは巡る、それだけのことです」


 その応接室で、妙齢の女性はソファーに腰掛け、肩にかかった髪を後ろに流した。

 『緑の海』と呼ばれる西海とその穏やかな波を思わせる、長くウェーブした碧髪が、深く差し込む西日に当たって宝石のように煌めいた。

 豊満な身を飾る衣服は際どい水着のようなものだった。フィニと呼ばれる南西諸島の民族衣装だ。薄い布の上から金銀細工を帯びている。さらに上着として、ヴェールを纏っていた。


「何かお飲みになられますかな、ヴァイオラ様」


 海の精霊、ヴァイオラは首を横に振った。


「残念ですが、今日中に帰らねばなりませんから。貴方に会うのはあくまでついでですからね?」

「これは手厳しい。二十年ものの葡萄酒を手に入れたのですが」


 ヴァイオラはそれを聞くと名残惜しげな顔をした。

 亜大陸南部の温暖湿潤な気候では醸造酒の質を保つのは難しい。飲むならばここか、せめて大陸北部の乾燥地帯でだ。


「次の機会に致しませんこと? 太月アセリスの失せる頃に」

「ではそれまで厳重に保管しておきましょう。私的な飲酒は空の目に咎められてしまいますからな」


 お互いはからからくすくすと笑い、ふと話題が途切れた。


 ビファルは鍛えられた肉体を鳥態バーディアン用の深く三叉に割れた背凭れに預けた。

 ヴァイオラは、そっと頬に手を当てた。


九姫ノウェムの件は、悲しい結果となりました」


 ビファルは小さく頷いた。


「全くもって。レストロオセの悪魔に因縁をつけられるとは、テンボトアン様も思いも寄らなかった様子」

「いえ、それだけではなく……その後です、喧伝者様」


 彼女は目を伏せて、躊躇いがちに口にした。


「彼女たちの尊厳は貶められました」


 ビファルは小さく息を吐いた。


「……ダワティワ様よりの託宣です。私としても、それが最善だったと思いますが」


 彼らが属する【南東からの脅威の眷属】は、ほとんどが顕在化した精霊だ。

 民に信仰される存在である彼らがしかし、更に奉ずる物がある。


 世界を運ぶ九つの白き鳥――白色九祖。


 精霊すら敬う最上位の霊格、ただ九つの祖霊種。

 リーグスの紀元神群ゼオーティアン紀竜エルダードラゴンたちが【南東の脅威インパクター】と呼ぶもの。

 その加護を得て、その力を振るう、九人の巫女にして戦士――。


 ――を騙った愚か者。

 今現在そう呼ばれる者達を、麗躍九姫と言う。


 そう喧伝したのは、他ならぬビファルだ。


「彼女たちは、誉れ高い戦士でした。東方の竜神信教とも、忌むべき飛来神群とも、臆すことなく戦った英霊たちです」

「ですが彼女たちは敗北しました」


 ビファルは冷たく言い切った。


「彼女たちが振るっていたのは祖霊の力。その一分も引き出せなかったとしても、彼女たちが無残に蹂躙されたことは、祖霊の霊格を貶めてしまう」


 故に、それは祖霊の加護「ではなかった」。

 そうする必要があると、少なくとも【眷属】の権力者の一派――ウィータスティカの三兄弟たちは考えた。

 そして、それを実行した男も。


「敗者の価値は貶められる。守るべきはより強いものの権威。当然のことでしょう」

「それは、貴方の逆恨みです」


 だがヴァイオラの切り返しに、彼は喉をつまらせた。


「貴方が――貴方の主が、そして我等が皇帝が、そう貶められたから。違いますか、孔雀の末裔よ」


 無残にも轢殺され、球神の威光の踏み台にされた、孔雀の戦士。

 遥か天の彼方へ隔離され、魔王にすら貶められた、妖精の主。

 ――むかし、むかしのおとぎばなし。


「ならば貴女様はどうなのです、ヴァイオラ様」


 しかし、長命種にとっては、どれだけ遠くとも記憶の一つだ。


「失われた地を遥か幾星霜に渡り守り続ける心は、私と果たして違うものですか」 

「いいえ。それは違わず未練です。それは私たちを縛る重いしがらみです」


 ヴァイオラの答えは明瞭だった。

 場数が違った。幾星霜を生きて尚、ヴァイオラとビファルの間には埋めがたい差があった。妖精の戦士と、海を統べるもの。霊格からして違いがあった。


「ですから私が問うているのは、その柵が歪ませたものについてですよ」


 ヴァイオラの言葉には一切の淀みがない。


「戦士としての誇りを、貴方はまだ持っていますか」


 長い沈黙が降りた。

 男は瞑目し、じっと口をつぐみ、それでも女が二の句を継がないのを見て、諦めたように答えた。


「【眷属】に属している以上、その方針に逆らうことは出来ますまい」

「……そうですか」


 彼女は冷たく厳しい声を返した。


「ではその柵から、貴方が逃れられることを願いましょう」


 ヴァイオラは流水のヴェールを手繰り寄せると、そのヴェールのうちのどこからか、上質な細工の施された小箱を一つ取り出した。

 表面を濡らす水も、木箱に染みこんだはずの水も、彼女が指を一振りすれば全てが宙を飛び、ひとりでにヴェールへと巻き戻った。

 流水のヴェールは形を戻し、彼女の豊満な体を羽根か衣のように包んだ。


「こちらが件の品です」


 妖精アヴロノと精霊は、似てはいるが明確に別種である。

 妖精は人の近似だが、精霊は強い霊格を持つ――即ち神性、信仰の対象である。

 故に信仰や霊格の獲得に合わせて後天的に昇位アセンションすることもある。

 わけてもヴァイオラは、妖精郷アヴロニアが月に召し上げられた跡である『緑の海』を守り続けた、最も古き海の妖精にして大精霊だった。


「誉れ高き孔雀の戦士の裔、ビファル・シエラブリス様――お受け取り下さい」


 だが妖精アヴロノもまた、人間と比べれば遥かに強大な神秘を有している。

 ビファル・シエラブリスは妖精の中でも特段優れた力を持った戦士でもあった。


「確かに拝領致しました。大海の精霊、失われた妖精郷の守り手、ヴァイオラ様」


 ビファルは小箱をそっと撫でると、慇懃に一礼した。

 鍛え上げられた肉体が僅かに震える。孔雀の翼がふわりと小さく広がり、閉じた。

 女はそれを冷たく見つめている。男はもうそんなことすら意に介さない。


 ビファルは上質な木製の蓋をそっと取り外す。


 中に収められていたのは、一枚の孔雀の羽根だった。


「おお……これが」


 ビファルは微かに震える手でそれをつまみ上げる。

 にわかに赤みを帯びてきた黄昏ををはねのけ、孔雀の羽は極彩色に輝いていた。


「白色九祖の加護の結晶、新世代の神器――【メセルス】」


 男は感極まったようにそれを掲げて、光に透かした。


「孔雀の加護を有する、最も優れた【青】」


 彼女は胸元に留めた白鳥の羽根にそっと触れた。

 それもまたメセルスであった。


「無論我々では、祖霊に化身することは出来ませんが」


 夜の海の如く、刺すような声。

 女は嫌悪すら滲ませて言い捨てた。


「ただそれは貴方には関係のないことでしょうね、孔雀の末裔様」


 だが糾弾は届かない。

 男の体は震えていた。

 それは、遥かに千年を超える悲願だったからだ。


「おお、おお……」


 ビファルは嗚咽を漏らした。

 その鮮やかな輝きに、彼は、在りし日の主の姿を見ていた。


「ブリシュール様……!」


 屈強な長身が打ち震え、鋭い眼光は滂沱に歪んだ。


 孔雀のブリシュール。

 上古の時代、妖精皇帝エフラスの下、【紀元槍】有するゼオート神群に反旗を翻した妖精の一人にして、アヴロニアにおける大将軍。

 配下共々相対した球神ドルネスタンルフによって轢殺された、神話の英雄だ。


 もっともそれは、彼にとっては何よりも身近な話だった。

 かの【ドルネスタンルフの騎行】の唯一の生存者たる孔雀兵ビファルにとっては。


「祖霊のお力をお借りすることを、貴方様は咎めるでしょうか……」


 ビファルは懺悔するようにくずおれると、孔雀の羽根を両手で包み、祈るように胸に抱いた。


「ですが……どうか、ご理解ください……」


 死者蘇生は不可能な事ではない。妖精種であればなおのことだ。

 だがそれは途轍もない難事であり、故にそれを、かつて彼の主が得ていた加護をもって成そうという。


 眷属の手先に堕した「ブリシュールの継嗣シエラブリス」の、それが唯一の悲願であった。


 ヴァイオラはむせび泣く男を暫く眺めると、小さく一礼して、席を立った。

 その美しい身体がはらりと解けて水に変わり、水場に混ざって消えていく。

 去り際、その肉体の輪郭が崩れる前に、ヴァイオラは一言だけ言い残していった。


「その執念が、他の誰より深いなどとは……思わないことです」


 残された男は、暫く、椅子の上で涙を流し続けた。




 ……夕日が赤を示し、空が紫がかる頃。

 ビファルはゆっくりと顔を上げた。

 主を思い涙する、ただ一人残された忠臣のそれではなく……鋭敏に争いの気配を嗅ぎとった、古強者のそれを。


 窓に寄る。


 私兵たちは厳重に警備を続けている。静かなものだ。戦の音もなければ敵意の混ざった声もしない。どこにも異常はない。いや、あった。

 目深にフードを被った何者かが、中庭の中央に立っていた。


「見つけた」


 そして剣を抜いた。



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