第2話 素子との夏

 颯太そうたは竹刀を肩に担いで、気分よく道場からの家路についていた。

 いつも通り朝の激しい稽古をこなしてくたくただったが、道場師範からその腕前の成長を褒められたからだった。物事は上手くなることほど楽しいことはない。14歳の颯太そうたもその例外ではなかった。

 夏休みのど真ん中なので、外はとことん暑い。前の日の夜に激しい夕立があったせいか、綿菓子みたいな雲がやや出ているものの、この季節にしては空の青も透き通っていた。


「今日は何買って食おうかな……」

 目の前の角を曲がると、駄菓子屋がある。稽古のことははや忘れ、颯太そうたは駄菓子屋で何を食べようかで頭がいっぱいになっていた。


「カキ氷は昨日食ったばかりだしなー、ソフトチョコにしようかな」

 ぼやいているうちに駄菓子屋の前へ到着。まだ何を買うかも決めていないうちに、すっかり顔見知りの駄菓子屋のおばちゃんに声をかけられた。


そうちゃん、今日も稽古だったかね。頑張るねぇ」

「あ、おばちゃんこんにちはー。今日は師範から褒められたんだぜ」

「あら、それはよかったねぇ……今日は何買うんだい?」

 駄菓子屋のおばちゃんは、にこにこしながら聞いてくる。

「んー、じゃあ今日はソフトチョコに」

 颯太そうたが代金を懐のがま口から出しておばちゃんに渡し、ソフトチョコを手に取った刹那。


「ちょっと、何をするのですか!」

 女子とおぼしき悲鳴が聞こえてきた。


「えぇ!?」

 思わず左手のソフトチョコをまじまじ見つめる颯太そうた


「そんなわけないからそうちゃん。

 どうやら、角の向こうあたりかね。物盗ものとりかねぇ……」


 治安維持法ちあんいじほうなるものができてから、世間の雰囲気も殺伐としつつある。しかし夏の昼前、白昼堂々と物盗りとは、よほどの物好きか、それともよほど腕に自信があるのか。


「ちょっと見てくる。おばちゃん警察呼んで」

 颯太そうたはソフトチョコを懐にしまい、荷物から竹刀だけを持つと残りの荷物は駄菓子屋に置いたまま、悲鳴がしたほうへと駆け出していた。



 角を曲がると、この暑い季節に長袖などを着た男が、颯太そうたと同じ年齢と思しき女子の両肩を取り押さえるように捕まえて、右手に持った風呂敷包みを奪い取ろうとしていた。確かに物盗りで間違いなさそうだ。


「おいこら、何してんだよ! 警察呼ぶぞ!」

 颯太そうたは威勢よく啖呵たんかを切ると、竹刀を竹刀袋からさっと出して星眼せいがんに構え、慎重に相手との間合いを詰める。体格は同年代の中ではかなり大きい颯太そうたは、線こそやや細いが、大人の男にも大きく体格で劣ってはいない。徴兵検査を受けたらしっかり甲種合格だろう。


「た、助けてぇ!」

「ちっ、小僧。邪魔立てするようなら容赦はせんぞ。今なら何もなかったことにしてやるから、貴様も何も見なかったことにしておとなしく立ち去れ。あと、警察は呼んでも無駄だ」


 男が、颯太そうたに向き直ってふてぶてしく言い放つ。


「何だよ、物盗り風情が偉そうに! 叩きのめして警察に突き出してやる」


 最後の方の台詞はハッタリと決めつけた颯太そうたは、星眼せいがんの構えから一気に踏み込むと、目にも止まらぬ速さで一気に男へ竹刀を打ち込んだ!


「ぐわっ」

 一撃の後で間髪いれずに、相手に反応させる間もなく腕へ次の一撃を加える。


ッ! おのれ」

 反撃を見せようとした男は、腰から短刀を抜くと、第三撃を加えようとした颯太そうたの竹刀を受け止めた。

「げっ、刃物かよ」

「このガキめ!」

 組太刀で使う木刀なら一撃で致命傷を与えられるのだが、竹刀ではやはり一撃で行動不能の致命傷というわけにはいかない。男は痛みを堪えつつ短刀を構えながら、剣先を動かして隙を見計らっている颯太そうたとの間合いを、徐々に詰める。


「このっ」

 男が短刀を突き出す。しかし、颯太そうたの竹刀が一瞬軽く動いたかと思うと、短刀はするりと軌道を変えられたかのように払われ、そのまま颯太そうたの竹刀が綺麗に男の面へと入った!


 ばしんっ


「ぐわっ!」

 ものの見事にカウンター同然で入っては、ひとたまりもない。男は短刀を取り落とし、頭を抱えもんどりを打って倒れる。


「ふうっ」

 颯太そうたは安堵したように息を吐き出す。組太刀では十分に稽古を積んでいても、短刀とはいえ真剣勝負で切り落としをつかったのは初めてだった。


「は、早く逃げましょう」

 女性の声に、颯太そうたはハッと我に返る。男は今は痛そうに倒れているが、また立ち上がってくるのにそう長い時間はかからないだろう。

 倒れている女性は何とか立ち上がり、反対の手で足元に落ちていた風呂敷包みを掴み上げた。


「とりあえず人目のつくところへ出よう」

 颯太そうたは女性の手を引くと、幾つかの角を早足で曲がり、大通りへと出る。

 大通りは暑いながらも、歩行者や道を走る自転車はそれなりに多く、黒煙を吐き出しながらバスやタクシーも走っている。暴漢が襲ってくる心配は少ないだろう。

 2人は大通りを少し歩いたところにあるミルクホールへと入り、通りからはやや死角になる席を取り、安っぽい木の丸椅子にそれぞれ座る。

 銀座などのミルクホールには、大人のカフェーのようにきらびやかな店構えもあったが、もともとは学生など向けの軽食店。2人が入ったミルクホールは、食堂に駄菓子屋がくっついて毛が生えたような、いかにも庶民的な店構えだった。

 幸い他のお客はいなかった。とりあえず颯太そうたは2人分の冷たい牛乳とシベリヤを注文する。


「あ、危ないところをありがとうございました」

 女性は颯太そうたに頭を下げる。やや線が細い印象だが健康的な身体を、水色地の夏着物に紺色の帯というこの季節らしい服装に包み、後ろで軽く結った黒髪が印象的な少女だった。


「こ、コホン。き、気にしないで結構っ。あんな暴漢、一刀流を稽古している俺の敵ではありませんっ」

 やや顔を赤らめて、たどたどしい話し方の颯太そうたを見ながら、ミルクホールの女将さんは2人分の冷たい牛乳とシベリヤを置いてゆく。堪えてはいたが、目元と口元が面白いものを見るように笑っているのが丸わかりだった。


「まぁ、変わったお菓子」

 女性はシベリヤをまじまじと見て目を丸くする。その様子に颯太そうたの方が少し驚く。


「え、まさかシベリヤ知らないの?」

 颯太そうたは冷えた牛乳を一口飲み、安カステラに羊羹を挟んだ庶民的スイーツの王様をぱくつき始める。


亜米利加アメリカにはないお菓子ですもの……シベリヤと言うのね、うん、おいしいわ」

 女性はおそるおそるシベリヤを食し、満足げな表情を見せた。


「えーっと、まさか亜米利加アメリカ人?」

亜米利加アメリカ在住よ、2世ってやつね。日本には両親の一時帰国についてきたの……申し遅れたわ、私は佐久原素子さくはらもとこ。あなたは?」

 素子もとこと名乗った女性は口元を白いハンカチでぬぐう。

「あ、あぁ、颯太そうた桑山颯太くわやまそうた

「ソータさんね。じゃあそう呼ぶから、私はモトコでいいわ」

 素子もとこはあっという間にシベリヤと牛乳を平らげると、風呂敷包みをテーブルの上に置いて溜息をついた。


「ソータさん、助けていただいたお礼は、改めてご自宅へお伺いしてさせていただきますけど、とりあえず私はこの風呂敷包みを、嵯峨さが様のお屋敷に届けないといけないから」

 そう言いながら女将さんを呼んだ素子もとこは財布を取り出し、2人分の牛乳とシベリヤ代を手際よく支払う。


「あ、シベリヤ代は自分で」

「いいのよ、迷惑かけてしまったのはこちらなのだから……そういえばソータさん、ご自宅はどちらかしら?」

 素子もとこは静かに立ち上がりながら颯太そうたに聞く。


「そんなにここから離れてはいないけど……それより、その嵯峨さが様という人の屋敷まではお供しましょう……また暴漢が待ち伏せしていても危ないし。

 また来たら、俺が返り討ちにしてちゃんと素子もとこさんを守ってやりますよ。『女の子は大事にしろ』が師範の教えですし、日本に不慣れだとなおさらでしょう」

「まあ……」

 颯太そうたの言葉を聞いて素子もとこはわずかに顔を赤らめながら、頭を軽く下げたのだった。



 淡い青と白い入道雲が広がった空のもと、蝉の声に包まれたいかにも真夏らしい路地を、しかし2人は一言もしゃべらずに並んで歩いていた。


「あの……」

 颯太そうたは暑さにも耐えかねたのか、さすがに気まずいような気がして、おそるおそる素子もとこに声をかけてみる。


「俺、何か失礼なことしました?」

 問われて素子もとこは少し顔をうつむく。


「いえ、そいうわけでは……私、殿方とのがたと街を並んで歩くのはほとんど初めてで……公衆の面前にこうまじまじ見られながらはちょっと」

 風呂敷包みを両手で持ったまま、歩調を緩めずに、しかし楚々そそと歩く素子もとこ


亜米利加アメリカで私の属するコミニュティは、同年代の日本人の男性はいなかったので……」

「へぇ、集落に男子がいないっていうのも珍しいですね。まぁ俺も中学は女子いませんし、尋常小のときも女子には人気なくてからっきしでしたからねー、不慣れなのはお互い様ということでしょうハッハッハッ」

 颯太そうたは視線をあさってに向けながら、後半が半分棒読みの台詞をのたまう。剣術バカというわけではないが、小さい頃から稽古に明け暮れていた颯太そうたも、女子を横に街を歩くのは初めてだった。


 最初は気に止める余裕もなかったのだが、ちらちらと横目で素子もとこをよく見てみると、近所の女学校じょがっこうの無駄に華やかな女子連中よりも、顔全体の彫りがやや深めな印象で、実はかなりの美人だったことに颯太そうたは気づく。

 着痩せしているせいかやや線は細いが、それでも身体の凹凸おうとつはきっちりと出ていて、夏着物の下の姿を思わず想像してしまうほどだった。一言でいうと青少年には目に毒なほどの美少女といえるわけで、青少年真っ盛りの颯太そうたは、意識すると歩数を重ねるごとに緊張度を増してしまう。呼吸が乱れないようにするのに精一杯だった。


「ソータさんは、小さい頃から剣道を?」

「はい、剣道というより古流剣術ですが、祖父に連れられて四歳からずっと。師範によると祖父はすごい使い手だったそうですけど、俺はまだまだ……」

 素子もとこが慣れた話題を振ってくれたおかげで、颯太そうたは話しながら徐々に心の平静を取り戻すことができた。


「まあ、四歳から。それで、先ほどのお姿もかっこよかったわけですね」

 素子もとこ颯太そうたの方をまじまじと見る。


「は、はあ……ありがとうございます」

 颯太そうたは視線を合わせずに、顔をやや赤面させてうつむいてしまう。強いと言われるのではなく、かっこいいと言われるのは颯太そうたも生まれて初めてだった。


「しかし仕方がないことだったとはいえ、剣士として試合以外で剣を人様相手に振るうのは本来恥ずべきことですから、かっこいいものではないと思います」

 颯太そうたは少し声を強めて素子もとこに向き直る。しかし素子もとこは、颯太そうたの瞳を真っ直ぐ見つめ返して毅然と告げた。


「いいえ、暴漢に剣を振るったことではありません。正しきことをしようとしたその行いがです。ソータさん、あなたはとても素敵な男の子だと思うわ」

 


 大通りから幾つか角を曲がり、人通りもまばらな細い路地に入る。素子もとこによるとどうやら嵯峨さが様のお屋敷とやらはもうそろそろらしかった。


「ほら、あの壁に囲まれた家がそうですよ。訪れるのは5年ぶりですけど」

 素子もとこが指さした先には、古そうな板塀いたべいに囲まれた、敷地の大きそうな屋敷があった。どうやら華族かぞくか何かの家なのだろう。

 素子もとこ亜米利加アメリカでもそれなりの名士の家の娘なのかな……などと颯太そうたが考えていた矢先、その鍛えられた感覚は、颯太そうたにただならぬ殺気を感じさせた。


「ソータさん」

「分かってる。素子もとこは後ろに下がっていて」


 颯太そうたはゆっくりと竹刀袋から竹刀を抜き、もたれていた板塀から身を起こした、洋ズボンに白いワイシャツを着て、木刀を下げた男を睨めつける。

 先刻素子もとこを襲っていた暴漢ではない。体格は一回り大きく、そもそも動きに微塵の隙もない。一言で言えば、格が違う雰囲気だった。


「小僧とその娘さんに怨みはないが、先刻せんこく知人から泣きついて頼まれたものはやむを得ん仕儀しぎのため、この暑い中待たせてもらった……その風呂敷包みかな? 中身はよく知らぬが、おとなしく渡してもらえると助かるのだが、如何いかがか?」


 男は進み出て冷たく言い放つ。昼から冷酒ひやでも引っかけてきたのか、顔がほのかに赤く、息は酒臭いのが少し離れていても分かる。


「断る。いい大人が昼酒飲んで、さらりと強盗紛いのことして恥ずかしくないのかよ」


 颯太そうたは竹刀を星眼せいがんに構えるが、暑さによる汗ではなく冷や汗が背中を伝う。剣士であるが故に分かる。この男は恐ろしく強い。


「フン、子どもの剣道形など話にもならぬ……ん?」

 鶺鴒せきれいの尾のように剣先を巧みに動かしながら、じわりと間合いを詰める颯太そうたに対し、男は急に酔いから覚めていくような様子になり、数歩後ろに下がる。


「小僧、遣うのは剣道形ではなく古流か、感心だな。なるほど、酔い覚ましには丁度良さそうだ」

 男は手にした木刀を、やはり青眼せいがんに構える。眼光鋭く、全身から闘気が噴き上がったような錯覚を颯太そうたは覚える。


神道無念流しんとうむねんりゅう羽島順次郎はしまじゅんじろう。身分は訳あって明かせぬが容赦せよ。小僧(こぞう)、貴様は?」

「く、桑山颯太くわやまそうた、一刀流だっ」

「ほう、いい構えだ。北辰ほくしんか。となると道場も師範も限られるが……まあ、無駄な詮索はすまい。北辰なら後で皇道義会こうどうぎかいにでも寄って聞けばいいことだからな」


 2人の剣士がじわりと慎重に間合いを詰めてゆくのを、素子もとこは後ろで固唾を飲んで様子を見守る。


 先に屋敷へ行って助けを求めた方がいいのは、素子もとこも頭で分かってはいるのだが、直感的に羽島はしまと名乗った男がそれを見逃してくれるとは、どうしても思えなかったのだ。


「たっ!」


 パシィンッ!

 先に颯太そうたの方が竹刀を鋭く打ち込むが、颯太そうた渾身の一撃は、しかし羽島はしまの木刀に難なく受け払われる。


「てやっ」

 羽島はしまが今度は木刀を返して、上段から颯太そうたに打ち込もうとする。


 ――来たっ!


 颯太そうたは反射的に横へ受け止め……ようとはせず、そのまま木刀のしのぎを削るようにして竹刀を繰り出す。一刀流剣術の極意ともいうべき、相手の太刀のしのぎを削りながら軌道をそらせ、そのまま相手へと打ち込む一種のカウンター技、切り落としの太刀筋だ。


「ぬっ……!」

 羽島はしまは少し驚いた様子を見せると、大きく体を横に裁きながら、腕力の差で跳ね上げて難を逃れる。


「驚いたな。一刀流の極意といわれる切り落としをその歳で……軟弱に竹刀をたしなむ連中とは違い、かなり真面目に修練を積んだようだな。大したものだ」

 羽島はしまは何事もなかったかのように、再び木刀を構える。颯太そうたは明らかに動揺した様子ながらも竹刀を構える。


「しかし、鞘のうちにて悟り決するのが剣の極意。技量が上と分かる相手に敢えて剣を向けるのは愚の骨頂……まだまだ未熟だな小僧」


 羽島はしまはさらに間合いを詰め、颯太そうたは無意識的に間合いを外そうと後ろに下がる。とっておきの切り落としの技だったが、まさか簡単にいなされるとは思ってもいなかった。体格差や体裁きだけではなく撃剣の鋭さもまるで違う。他流を見るのは初めてだが、それにしても強いなどという生易しい次元を超えている。道場の師範と同等か下手するとそれ以上の遣い手だ。


「てやっ!」

 羽島はしま裂帛れっぱくの気合いとともに、颯太そうたの小手に木刀を振り下ろす。


「うっ……」

 颯太そうたは諦めずに再び切り落としを試みようとするが……しかし羽島はしまが本気で打ち込んだ撃剣の鋭さは、颯太そうたの想像を遙かに超えていた。


 ばぐっ!


 鈍い打撲音が、素子もとこには確かに聞こえたような気がした。


「うっ……ぐわあぁぁぁっ! いってえぇぇぇッ!」

 竹刀を地面に取り落とし、颯太そうたは打ち込まれた右手を左手で押さえてうずくまり、痛みに耐えかねて思わず大声を上げる。


 羽島はしまはゆっくりと木刀を上段に構えたと思った瞬間、素子もとこは何も考えずに前へ駆けていた。


「も、もうやめてください!」


 青ざめた表情で駆けてきた素子もとこは、右手を押さえてうずくまっている颯太そうたの背中に覆い被さるように庇う。

 木刀の空気を切り裂く音が、素子もとこの耳にははっきりと聞こえた気がした。


 ビュッ!


 襲って来るであろう自らを死へといざなう激痛に、目を閉じて歯を食いしばった素子もとこだが……木刀は、素子もとこの髪に触れるか触れないかの空間でピタリと静止していた。


「縁者でもない行きずりの小僧であろう? そこまで庇うのは見上げたものだが……」

 おそるおそる目を開けて、木刀を静止させたままの羽島はしまを見上げる素子もとこ羽島はしまの表情は驚き呆れているようだった。


「私が手に持つ風呂敷包みたったひとつのために、命のやりとりなど馬鹿げているとはお思いになりませんか……このような風呂敷包みなら差し上げますから、木刀をお引き下さい」


 素子もとこは泣きながら、ゆっくりと風呂敷包みを地面に置く。


「安心しろ娘さん、既に勝負はついた」

 羽島はしまは木刀を引いて構えを解く。


「俺の負けだ、娘さん。

 未熟な腕の者なら、先ほどの一撃を寸時すんじに止めることはできぬ故、娘さんの命はなかったであろう……そこまで命を賭ける度胸は大したものだ。

 そして、物取り目的で剣の立ち会いなど馬鹿げているのも道理。無念流には『武はほこむるの義なれば、少しも争う心あるべからず』という教えがあるのを思い出させてくれた娘さんの勝ちだよ」


 ――声がしたのは、あっちのほうですよ。


 苦笑していた羽島はしまと、颯太そうたを庇ったまま離れようとしない素子もとこの耳には、男の声と地面を蹴る靴音が近づいてきていた。


「ちっ、小僧の叫び声を聞きつけて巡査が来たか……めんどくさいことになりそうだなおい」


 羽島はしまは心底うんざりした様子でぼやく。


「娘さん、俺が時間を稼いでいるうちに、早く小僧を連れて立ち去れ。小僧の腕の骨は折れてはいないはずだ……そして小僧、いや桑山颯太くわやまそうた。鞘の内を悟れぬ蛮勇が故に、娘さんを命の危機に遭わせたことを忘れるな。さらに修練に励め」


 木刀を両肩に担ぐようにして、羽島はしまは巡査の声の方へと歩を進めていった。

「警察だ……ってお前か羽島はしま。非番の日に呑んだくれるのは止めたらどうだ。また喧嘩沙汰起こすと今度こそ飛ばされちまうぞ」


 駆けつけた巡査の男は、羽島はしまの顔を見るとうんざりしたように文句を言う。どうやら羽島はしまも巡査であり、そして駆けつけた巡査も羽島はしまの同僚のひとりらしかった。


「おう、すまんすまん。あまりに暑いから冷酒ひやを引っかけすぎたらしい」

「ったく……そういえば、近くを巡回していたら男の悲鳴が聞こえたから来てみたんだが、その木刀、まさかまた喧嘩沙汰じゃないだろうな?」


 巡査の男は、羽島はしまの後ろを覗くように見るが、特に人影は見当たらない。


「さあ、俺もだいぶ酔ってたからな……日頃の愚痴というか奇声のひとつでも上げたかもしれんな」

 あさっての方角をチラリと見ながら涼しい顔で応える羽島はしまに、巡査の男はいよいよ呆れを通り越したような顔つきになる。


「愚痴のひとつでも言いたいのはこっちの方だ……まったく、やってられんほど暑いのに余計な手間かけさせるんじゃないよ」

「いやすまんすまん、今度1杯オゴるから勘弁しといていてくれよ、な」


 羽島はしまは巡査の男の肩を気安く叩きながら連れて、嵯峨さが家の邸宅から反対方向へと足を向けて歩いて行く。


 ――うまく逃げたようだな、娘さん。達者でな。


 後ろから2人の気配が消えたことを背中で感じながら、羽島はしまは心の内でつぶやいた。



 騒動から7日後。

 淡い青と深い蒼、白い雲が織りなす景色のもと、大型客船が出港を控えて慌ただしい様子を見せているのを遠目に、颯太そうた素子もとこは港近くの公園のベンチに並んで座っていた。


「もう亜米利加アメリカに帰るのか、あっという間だったな」

 嵯峨さが家へ風呂敷包みを届けた2人は、嵯峨家の家人かじんに送られて無事に帰宅することができた。颯太そうたの家へ、素子もとこが謝礼を持って挨拶に来たのはその翌日のことだった。

 結局、風呂敷包みの中身は分からずじまいに終わった。子どもが知っても益のないシロモノだったのだろう、と後になって素子もとこは親から聞かされ、諦めて深く詮索はしなかったのだ。


 颯太そうたの怪我は骨折こそしていなかったものの、重度の打撲傷のためしばらく稽古はお休み。その間に素子もとこや、娘の命の恩人扱いでやたら気に入られた素子もとこの両親に連れられるような形で、夏祭りや花火など連日あちこちに出かけて遊び倒していたが、楽しいひとときはすぐに過ぎ、素子もとこたちが亜米利加アメリカへ帰国する日がついにやってきた。


「ええ、本当に……」

 素子もとこは感慨深そうにつぶやくと、そのままうつむいて押し黙り……そして、声を立てて泣き始めてしまった。


「ソータさんが、あのときもし死んでしまったらどうしようと思うと、今でも怖くて」

 ハンカチを取り出して目元を拭いながら、素子もとこは涙声を絞り出す。

 颯太そうたは大泣きする素子もとこを見て、どのような声をかけるべきなのか分からなかった。しかし自分のことを案じて泣いてくれることに、心臓の芯が暖かくも痛くなるような、不思議な感覚に包まれていた。


「本当に出会えてよかったわ、ソータさん……亜米利加アメリカへ戻ったら手紙を書きますね」

 涙ながらに言葉を続ける素子もとこの手を、颯太そうたはそっと握ることしかできなかった。

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