第2話 素子との夏
いつも通り朝の激しい稽古をこなしてくたくただったが、道場師範からその腕前の成長を褒められたからだった。物事は上手くなることほど楽しいことはない。14歳の
夏休みのど真ん中なので、外はとことん暑い。前の日の夜に激しい夕立があったせいか、綿菓子みたいな雲がやや出ているものの、この季節にしては空の青も透き通っていた。
「今日は何買って食おうかな……」
目の前の角を曲がると、駄菓子屋がある。稽古のことははや忘れ、
「カキ氷は昨日食ったばかりだしなー、ソフトチョコにしようかな」
ぼやいているうちに駄菓子屋の前へ到着。まだ何を買うかも決めていないうちに、すっかり顔見知りの駄菓子屋のおばちゃんに声をかけられた。
「
「あ、おばちゃんこんにちはー。今日は師範から褒められたんだぜ」
「あら、それはよかったねぇ……今日は何買うんだい?」
駄菓子屋のおばちゃんは、にこにこしながら聞いてくる。
「んー、じゃあ今日はソフトチョコに」
「ちょっと、何をするのですか!」
女子とおぼしき悲鳴が聞こえてきた。
「えぇ!?」
思わず左手のソフトチョコをまじまじ見つめる
「そんなわけないから
どうやら、角の向こうあたりかね。
「ちょっと見てくる。おばちゃん警察呼んで」
角を曲がると、この暑い季節に長袖などを着た男が、
「おいこら、何してんだよ! 警察呼ぶぞ!」
「た、助けてぇ!」
「ちっ、小僧。邪魔立てするようなら容赦はせんぞ。今なら何もなかったことにしてやるから、貴様も何も見なかったことにしておとなしく立ち去れ。あと、警察は呼んでも無駄だ」
男が、
「何だよ、物盗り風情が偉そうに! 叩きのめして警察に突き出してやる」
最後の方の台詞はハッタリと決めつけた
「ぐわっ」
一撃の後で間髪いれずに、相手に反応させる間もなく腕へ次の一撃を加える。
「
反撃を見せようとした男は、腰から短刀を抜くと、第三撃を加えようとした
「げっ、刃物かよ」
「このガキめ!」
組太刀で使う木刀なら一撃で致命傷を与えられるのだが、竹刀ではやはり一撃で行動不能の致命傷というわけにはいかない。男は痛みを堪えつつ短刀を構えながら、剣先を動かして隙を見計らっている
「このっ」
男が短刀を突き出す。しかし、
ばしんっ
「ぐわっ!」
ものの見事にカウンター同然で入っては、ひとたまりもない。男は短刀を取り落とし、頭を抱えもんどりを打って倒れる。
「ふうっ」
「は、早く逃げましょう」
女性の声に、
倒れている女性は何とか立ち上がり、反対の手で足元に落ちていた風呂敷包みを掴み上げた。
「とりあえず人目のつくところへ出よう」
大通りは暑いながらも、歩行者や道を走る自転車はそれなりに多く、黒煙を吐き出しながらバスやタクシーも走っている。暴漢が襲ってくる心配は少ないだろう。
2人は大通りを少し歩いたところにあるミルクホールへと入り、通りからはやや死角になる席を取り、安っぽい木の丸椅子にそれぞれ座る。
銀座などのミルクホールには、大人のカフェーのように
幸い他のお客はいなかった。とりあえず
「あ、危ないところをありがとうございました」
女性は
「こ、コホン。き、気にしないで結構っ。あんな暴漢、一刀流を稽古している俺の敵ではありませんっ」
やや顔を赤らめて、たどたどしい話し方の
「まぁ、変わったお菓子」
女性はシベリヤをまじまじと見て目を丸くする。その様子に
「え、まさかシベリヤ知らないの?」
「
女性はおそるおそるシベリヤを食し、満足げな表情を見せた。
「えーっと、まさか
「
「あ、あぁ、
「ソータさんね。じゃあそう呼ぶから、私はモトコでいいわ」
「ソータさん、助けていただいたお礼は、改めてご自宅へお伺いしてさせていただきますけど、とりあえず私はこの風呂敷包みを、
そう言いながら女将さんを呼んだ
「あ、シベリヤ代は自分で」
「いいのよ、迷惑かけてしまったのはこちらなのだから……そういえばソータさん、ご自宅はどちらかしら?」
「そんなにここから離れてはいないけど……それより、その
また来たら、俺が返り討ちにしてちゃんと
「まあ……」
淡い青と白い入道雲が広がった空のもと、蝉の声に包まれたいかにも真夏らしい路地を、しかし2人は一言もしゃべらずに並んで歩いていた。
「あの……」
「俺、何か失礼なことしました?」
問われて
「いえ、そいうわけでは……私、
風呂敷包みを両手で持ったまま、歩調を緩めずに、しかし
「
「へぇ、集落に男子がいないっていうのも珍しいですね。まぁ俺も中学は女子いませんし、尋常小のときも女子には人気なくてからっきしでしたからねー、不慣れなのはお互い様ということでしょうハッハッハッ」
最初は気に止める余裕もなかったのだが、ちらちらと横目で
着痩せしているせいかやや線は細いが、それでも身体の
「ソータさんは、小さい頃から剣道を?」
「はい、剣道というより古流剣術ですが、祖父に連れられて四歳からずっと。師範によると祖父はすごい使い手だったそうですけど、俺はまだまだ……」
「まあ、四歳から。それで、先ほどのお姿もかっこよかったわけですね」
「は、はあ……ありがとうございます」
「しかし仕方がないことだったとはいえ、剣士として試合以外で剣を人様相手に振るうのは本来恥ずべきことですから、かっこいいものではないと思います」
「いいえ、暴漢に剣を振るったことではありません。正しきことをしようとしたその行いがです。ソータさん、あなたはとても素敵な男の子だと思うわ」
大通りから幾つか角を曲がり、人通りもまばらな細い路地に入る。
「ほら、あの壁に囲まれた家がそうですよ。訪れるのは5年ぶりですけど」
「ソータさん」
「分かってる。
「小僧とその娘さんに怨みはないが、
男は進み出て冷たく言い放つ。昼から
「断る。いい大人が昼酒飲んで、さらりと強盗紛いのことして恥ずかしくないのかよ」
「フン、子どもの剣道形など話にもならぬ……ん?」
「小僧、遣うのは剣道形ではなく古流か、感心だな。なるほど、酔い覚ましには丁度良さそうだ」
男は手にした木刀を、やはり
「
「く、
「ほう、いい構えだ。
2人の剣士がじわりと慎重に間合いを詰めてゆくのを、
先に屋敷へ行って助けを求めた方がいいのは、
「たっ!」
パシィンッ!
先に
「てやっ」
――来たっ!
「ぬっ……!」
「驚いたな。一刀流の極意といわれる切り落としをその歳で……軟弱に竹刀をたしなむ連中とは違い、かなり真面目に修練を積んだようだな。大したものだ」
「しかし、鞘の
「てやっ!」
「うっ……」
ばぐっ!
鈍い打撲音が、
「うっ……ぐわあぁぁぁっ! いってえぇぇぇッ!」
竹刀を地面に取り落とし、
「も、もうやめてください!」
青ざめた表情で駆けてきた
木刀の空気を切り裂く音が、
ビュッ!
襲って来るであろう自らを死へと
「縁者でもない行きずりの小僧であろう? そこまで庇うのは見上げたものだが……」
おそるおそる目を開けて、木刀を静止させたままの
「私が手に持つ風呂敷包みたったひとつのために、命のやりとりなど馬鹿げているとはお思いになりませんか……このような風呂敷包みなら差し上げますから、木刀をお引き下さい」
「安心しろ娘さん、既に勝負はついた」
「俺の負けだ、娘さん。
未熟な腕の者なら、先ほどの一撃を
そして、物取り目的で剣の立ち会いなど馬鹿げているのも道理。無念流には『武は
――声がしたのは、あっちのほうですよ。
苦笑していた
「ちっ、小僧の叫び声を聞きつけて巡査が来たか……めんどくさいことになりそうだなおい」
「娘さん、俺が時間を稼いでいるうちに、早く小僧を連れて立ち去れ。小僧の腕の骨は折れてはいないはずだ……そして小僧、いや
木刀を両肩に担ぐようにして、
「警察だ……ってお前か
駆けつけた巡査の男は、
「おう、すまんすまん。あまりに暑いから
「ったく……そういえば、近くを巡回していたら男の悲鳴が聞こえたから来てみたんだが、その木刀、まさかまた喧嘩沙汰じゃないだろうな?」
巡査の男は、
「さあ、俺もだいぶ酔ってたからな……日頃の愚痴というか奇声のひとつでも上げたかもしれんな」
あさっての方角をチラリと見ながら涼しい顔で応える
「愚痴のひとつでも言いたいのはこっちの方だ……まったく、やってられんほど暑いのに余計な手間かけさせるんじゃないよ」
「いやすまんすまん、今度1杯オゴるから勘弁しといていてくれよ、な」
――うまく逃げたようだな、娘さん。達者でな。
後ろから2人の気配が消えたことを背中で感じながら、
騒動から7日後。
淡い青と深い蒼、白い雲が織りなす景色のもと、大型客船が出港を控えて慌ただしい様子を見せているのを遠目に、
「もう
結局、風呂敷包みの中身は分からずじまいに終わった。子どもが知っても益のないシロモノだったのだろう、と後になって
「ええ、本当に……」
「ソータさんが、あのときもし死んでしまったらどうしようと思うと、今でも怖くて」
ハンカチを取り出して目元を拭いながら、
「本当に出会えてよかったわ、ソータさん……
涙ながらに言葉を続ける
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