蒼と雲の彼方で

悠川 白水

第1話 戦火の夏

 操縦桿そうじゅうかんとフットバーを操ることで生み出される、強烈な横方向の加速度に、颯太そうたは全身に力を込めて耐えていた。

 そして、つい一瞬まで自分のいた空間には、おびただしい数の12.7ミリ機銃弾きじゅうだんが降り注ぐ。


「しぶといジャップ、しかしケツについたぞ、どうだケツにつかれた気分は……思い知らせてやる!」

 闘志十分のマスタングの計器の横には、婚約者であろうか、若くて綺麗な白人女性の白黒写真が留められている。


「くっ……」


 そのようなことはつゆ程も知らない颯太そうたは、歯ぎしりしながら苦悶くもんの声を漏らす。手練てだれのマスタング2機に、後ろを取られてしまってからしばらく経つ。颯太そうたが操るのは、基礎性能ではマスタングとほぼ互角の四式戦よんしきせん。公認撃墜12機、航空隊の準エース格である颯太そうたのこと、普段なら容易に後ろを取られたりはしないのだが、いかんせん今日ばかりは相手の数が多すぎる。


 周囲を見る余裕はとてもないが、空襲を受けて雲量うんりょう2の澄んだ空に大慌てで駆け上がった友軍機は、優に5倍は超えると思われる数の米軍戦闘機隊と、激しい空戦を繰り広げているはずだった。至近距離での乱戦となっているため、お互いに編隊空戦ではなく格闘戦となっている。


 対米戦争が始まってから、4度目の真夏を迎えていた。上空からの日差しはどこまでも強い。四式戦よんしきせんを巧みに横滑りさせて、相手の機銃弾をかわしながら反撃の機会をうかがう。下手に機体を翻すとそのまま狙い撃ちされてしまうのだ。


「いざ尋常に勝負、いくぞ」

真珠湾パール・ハーバーの戦友の分だ、叩き落としてやる!」


 意を決した声が、聞こえるはずもない互いの操縦席にこだまする。

 ほんの一瞬、相手の動きの針の糸のような呼吸と集中の隙を見逃さなかった颯太そうたは、操縦桿をいっぱいに操り、最大戦速で機体を高速でひるがえして相手の後ろへと回り込もうとする。いわゆるひねり込み機動だ。


「ぐうぅぅ……」

 ひねり込みは、機体と身体にかかる負担が尋常ではない。しかも、この四式戦よんしきせんは操縦桿が異様に重く、ひねり込み機動が簡単にできないように設計されているため、ひねり込みを決めるのはほぼ神業といっていい。空の水色しか映っていないはずの景色が、ぐるりとかき混ぜるように激しく動いているような感覚が颯太そうたを襲う。


「ワッツ!?」

 マスタングの視界からは、一瞬で四式戦よんしきせんの姿はかき消えて。

 そしてひねり込み機動を辛うじて決めた颯太そうたの視界は、2機の銀翼ぎんよくきらめくマスタングを後ろ斜め上から見下ろす格好で捉えていた。

 好機は1秒が長すぎるほどの一瞬。翼内の20ミリ機銃弾を一気に叩き込むと、左の1機は右翼から、右の1機は左翼から火を噴く。同時に颯太そうた四式戦よんしきせんはその上を駆け抜けていった。


「よし!」


 翼から炎に包まれて墜落してゆくマスタングを見下ろしながら、気合いとともに颯太そうたはそのまま上へと機体を駆け上がらせる。


 颯太そうたは、幼少より古流こりゅう剣術を鍛錬してきた生粋の剣士だ。鍛えた剣技も戦闘機に乗ってはものの役に立たないと思いきや、空戦でも立ち会いのような絶妙な呼吸というか、研ぎ澄まされた剣客としての感覚的なものが、幾度となく颯太そうたを救ってきた。


 激しく呼吸をしながら、颯太そうたは次なる敵を求めようと大きく左右を向く。とにかく劣勢なので、一機でも多く敵機を打ち落とさなければいけない。

 度重なる空戦で既に高度は7,000メートルを超えていたが、しかしその動作で酸素吸入マスクが外れてしまった。


「……っ!?」

 颯太そうたが、酸素吸入マスクをつけていないことに気づいたときにはもう手遅れ。極度の酸欠で颯太そうたの意識は急激に薄れていき……そして、気を失った。


 ガクン、と四式戦よんしきせんは機首を下げたかと思うと、そのまま海面へと向けて落下を開始する。


 ――ソータさん……ソータさん!


 失われた意識の中。颯太そうたは操縦桿を固く握ったままの両手を揺さぶられるような、そして忘れかけていたような遠い記憶の、とても懐かしい声を聞いたような気がした。


「……素子もとこ?」

 目を開いた颯太そうたの眼前には、空の青とは似て非なる、濃厚な蒼が一面に広がっていた。


「なんっ……」

 何が起こっているのか瞬時には理解しかねた颯太そうただが、次の瞬間には眼前に広がっているのが海であることは理解できた。


「うおおぉっ」

 颯太そうたは操縦桿を力一杯に引き上げる。何としても機首を起こさなければ海面へと墜落してしまう。この速度で海に墜落すれば、まず助からない。


 ばしゅぅぅぅ……


 海水が翼を大きく叩く。


 辛うじて海面ギリギリで機首を起こした四式戦よんしきせんは、波飛沫なみしぶきに翼を洗われつつ海面から急激に上昇を開始した。



 まだ顔が青ざめているのが、自分でも分かる。

 九死に一生を得た颯太そうたは、航空隊の基地へと戻ってきた。まだ空戦は続いているが、機関砲弾を大きく消耗していたのと、度重なるひねり込み機動など全力運転を繰り返したため、燃料が心許なくなったためだ。

 緊急発進のため満タンで離陸する余裕はなかったこともあるが、エンジンオイルの質がとことん悪く、量が少なく貴重な燃料も、品質が落ちてオクタン価が低いため、燃料の減り方も激しい。上は節約しろとは言うが、燃料を節約した挙げ句に堕とされては本末転倒、無理な相談だった。


「燃料と弾の補給、頼むぞ」

「ハッ」


 若年じゃくねんの整備兵に命じると、颯太そうたは操縦席から降りた。四式戦よんしきせんの周囲では、慌ただしく燃料の給油と弾の補給、簡単な点検が行われようとしている。


 何せ四式戦よんしきせんのエンジンは、最新型でパワーがあるのはいいとしても、いつ動かなくなっても文句は言えないという実に不安定なシロモノなのである。終わるまで多少の時間はかかりそうな具合だった。

 最近は食料事情も悪くて食事も十分ではなく、さすがに全身ぐったりと疲労してしまっている颯太そうたは、滑走路脇の草むらに寝そべって、少しでも身体を休めることにした。

 風には潮の匂いがかすかにある。淡い青と深い蒼、白い雲が織りなす滑走路からの景色を、颯太そうたは妙に気に入っていた。


 ――海に墜落しそうになったあの時。


 小さい頃の、とても懐かしい声に助けられた。

 颯太そうたは思い出す。12年前のとある夏の1日も、今日みたいな暑く、そして蒼と雲がきれいな日だったと思いながら――

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